今日、『続 尾崎左永子歌集』(06)が自宅に届きました。先日、小高賢編著『現代短歌の鑑賞101』(99)で彼女の作品に触れ、彼女の歌をもっと知りたいと思い、すぐに注文しました。
この歌集のコンテンツは以下の通りです。
◆「春雪ふたたび」(全篇)
◆「夕霧峠」(抄)
◆「星座空間」(全篇)
◆歌論・エッセイ
◆解説
◆尾崎左永子略年譜
この歌集のコンテンツは以下の通りです。
◆「春雪ふたたび」(全篇)
◆「夕霧峠」(抄)
◆「星座空間」(全篇)
◆歌論・エッセイ
◆解説
◆尾崎左永子略年譜
以下、一読して気になった歌を引用します。
◆第五歌集「春雪ふたたび」(全篇)より
生きるとはすなはち愁ひ夕光(ゆふかげ)の鬱金(うこん)桜をわれは見て佇つ
たまきはる内の光を明かすごとひらく椿の花のしろたへ
雨のなきこの幾日ゆゑ土乾く路上に散りしさくら吹かるる
失楽の経緯はわれにたよりなき渦のごときを残して終る
嘲笑ふものの気配を怖れたる母の記憶を継ぐなかれ子よ
やうやくに晴れて八月の風吹けば憂ひといへどたちまち浄し
眉あげてかの虹をみよつかのまの浄気折ふし記憶に顕(た)たん
悲しみの余韻のごとくつばひろき帽子が白く遠ざかりゆく
日の果ての荒浜に来てわれは聴く不揃ひに渚打つ波の音
魚の背に裂かるる池面かすかなる渦をのこしてしづまりゆけり
短かかる月下美人の華麗見守(も)るわれにも時分の花ありや危(あや)ふ
湧きあがるばかり地上に若葉充ちて風の鎌倉耳もさわだつ
伽羅すこし焚きて香りを立つるとき若葉侵して雨のふりいづ
夜のふけの無音は秋の気にみちて洗ひたる髪いくばく寒し
守護神の智の力など虔しく思ふ日石蕗の黄の花寂(しづ)か
ラピスラズリの紺の指輪をはづすときとけゆくは緊張の塊ならん
曳くごとき眠りに入らんに遠く見し四照花の浄き白を忘れず
横浜の港湾遠く烟りたり冬の雨今日はあたたかくして
文学館前の煉瓦路人ゐねばきさらぎの雨光りつつ降る
空よりも海が明かれる夕ぐれの埠頭に立てば冬の髪冷ゆ
月光に冬枝(ふゆえ)影おとすいしだたみ踏みゆきしのち遠く訣れき
立春の日を浴みゐたり目に見えぬ花を心に蕾ふるごと
泥濘をみることいつかなくなりて雨靴さへも色の華やぐ
捨て難き想ひ出などといふさへや若さの記憶ゆゑの粉飾
わが好む陶器の薔薇の文様(もんやう)にやや倦みしころ冬は終らん
夕光の鋪道動きゆくわが影が壁に当りていま立ちあがる
いままさに開き切りたる牡丹白く心なじまぬまでに明るし
涙なき葬りの果てて午後の日に群れつつわれも寂しきひとり
音立てず雪積む夜は識らざりし心の隙間見え来たるらし
水もはやぬるみて魚のひるがへるさま伝へつつ萍(うきくさ)うごく
人の心量りてものをいはんとしその屈折に気づきて黙す
赫灼(かくやく)たる牡丹の紅も来ん老いもなべてもろともに今生のもの
地下街の横浜倶楽部に珈琲の濃きを味はひて夏の日終る
かの痛恨思へど過去ははるかはるか夜来香闇に匂ひ鋭く
平なる貌と思へり心理的拒絶を示す沈黙のまへ
別離の後確かなる明日吾にありと傷ましきまで信じゐたりき
屈辱ははるかといへどわが記憶思ひのほかに執念ぶかし
髪長くとき放ちたるかの時ぞ短きわれの花季なりしかな
言ひ難きこと告げしあと冬凪の海の反照に部屋があかるむ
栗の毬(いが)割れたるを足に踏みしかば光る実は出づよろこびの如
凍りゆく街帰り来て夜の部屋にわが表情をゆるめかねゐつ
夏炉冬扇といへどやさしき音(ね)に立つは蔵ひ忘れし冬の風鈴
未来とは希望なるべしトルストイ最晩年の家出といへど
卑怯なる彼奴(きゃつ)ぬくぬくと生き残る世の清濁をいへどそれのみ
ふりかへりたる一瞬の眼差の昏きをみたり心衝かるる
傷つけば相手も傷を負ひたらん同志のごとく時に親しむ
招かれざる客となりたる経過など苦き思ひは若かりしゆゑ
足早に駈け抜けしわが三十代聖橋(ひじりばし)散る枯葉ボブ・ディランなど
曼珠沙華唐突に咲くと思ひしが唐突にしてその花終る
終戦の日の虚脱などもろもろの過去きれぎれに風鈴響く
砂灼くる匂ひをはこぶ風のなか海鳥は夏の鋭き声放つ
一日のみの花浄く咲け夏椿避けがたく来んわが死ののちも
たそがれに蕊伏せて散る夏椿散りてなほ浄し夏至の土の上
遭遇といふ感じにて交叉路の短き会話夕かぜのなか
夜の雑踏にまぎれゆく背か無頼なる眠りといへど寂しからんを
頒ち持つ過去ありていま沈黙の間にみちきたるものをやさしむ
異教徒といへど祈りを知らずして来しにはあらずここの聖堂(みだう)に
遊雲の形崩れゆくまひるまのなぎさ晩夏は孤独が似合ふ
実行の勇気なけれど思ひきりもの言ひしのちは爽快ならん
おのづからもの乾きゆく季(とき)となり茅原(ちはら)の風に光は遊ぶ
この蒼き天の光に吸はれ行きいづれどこかへ消えねばならぬ
禁慾を美徳とするは慾強きゆゑならん男の短歌史を読む
気紛れのやうに過ぎゆく時雨にて丈高き紫苑の花が揺れ合ふ
わが過去は苦しかりしかされど街にサルビア咲けばあはれ恋ほしむ
鎌倉は夕ぐれはやし柳小路しぐれて遠き黄の灯あかるむ
夕街に河明りあり死ぬまでは生きねばならぬ現し身(うつしみ)あゆむ
無思想と人言はば言へわが生はかぎろひの中に透きて果つべき
夕ぐれはただ藍いろとなる刻(とき)のありぬ晩夏の海に向く窓
空を背に臘梅咲けり目に見えぬ標(しめ)あるごとき花の空間
涼やかに生くるは難しマスカット・オブ・アレキサンドリアの種子を掌(て)い吐く
虞美人草といふ名思へどなよやかに勁(つよ)きその朱の花を好まず
シースルーエレベーターが灯しつつ降りくる夜(よ)の街雪となる
父が逝き母が逝きやがてわれも逝く地上に今年のさくら耀ふ
誰もゐぬ無音のまひるのびのびと居しがいくばく心が寂し
浴槽にみたす深夜の湯に溶けて形失ふごとくゐたりき
華やぎてものいふ時も紛れざる孤独はつねに内なるものか
閉ざされし地下珈琲店の空間に孤りしをればかくもくつろぐ
流れ去る時のまにまに今年逢ふ雨夜のさくら月夜のさくら
◆第六歌集「夕霧峠」(抄)より
無造作に髪束ねゐるしぐささへ若さのゆゑの傲りにも見ゆ
濡るるといふ程もなき雨の街角に薔薇の模様の傘を買ひたり
生きてあることの不思議を思ふまで散りやまぬ落花の下に佇ちゐき
春雷のとどろに耐へゐつ瀆(けが)されし誇りは人間存在の悲哀
鎌倉に秋立ちぬらし白芙蓉越えくる風は海の香持たず
暑き夜の果ての薄明に花閉づる月見草は淡き光を帯びつ
熟れ重きメロンの香りとどこほる雨の昼銀座千疋屋前
海よかく生き来しわれに萌し来る涙のごときもの何ならん
氷ることなき湘南の冬の海いま落日の朱を畳みをり
目覚むれば夜の多摩川を渡りゆく電車にをりて夜の灯が浄し
薪を焚く匂ひのゆゑに立ち返る記憶あり深く疼くごときもの
訣れたるかの日は驟雨寒かりきその街角の夕もや曲る
昼靄のまま雨となる街上に買ひしばかりの春の傘ひく
うそ鳥は桜のつぼみ喰むといふわれは菜の花の色若き喰む
光差すといふにもあらぬ道の果明るき靄にさくら咲き満つ
雨けむる高層ビルの空間を黒き鳥過ぐ凶兆のごと
ただ一夜星夜の山にいねしのみ記憶はいつか浄化ともなふ
来ん年の莟をすでに垂れて立つ馬酔木が昼の日を浴びゐたり
春光はいはれなく心和ましむ黄のクロッカス咲きたることも
終(つひ)の日の平安はあれ今われはぬきさしならぬ日々渉(わた)りをり
坂の街来てふりむけば海があり海は春昼の光る靄のなか
紅薔薇の追憶に似て老い母が折々言ひしチャリネ曲馬団
怠惰なる習慣ひとつ夜更けてトランプの札ひたひたと切る
切り抜けて来し歳月をつばらかに労(いた)はりて思ふ夕昏れのあり
春の潮退きゆく浜に若布干す人動く午後の逆光のなか
黙々と夜の電車に運ばるるこの単純の時間を愛す
幸ひはかく過ぎ易しいま見えし松虫草は霧にまぎれつ
秋草の花みな濡れて霧になびく夕霧峠といふ道をこゆ
穏やかにもの言ふすべを得しことも経験ゆゑと思(も)へば傷(いた)まし
◆第七歌集「星座空間」(全篇)より
諸手にて顔覆へれば指つめたし心賭くべき機(とき)到りたり
単調に過ぎたる夕べ三日月は形するどくわれをつらぬく
わさび田の凍るあかつき東よりのぼりくる星たちまちに消ゆ
やはらかくいたはる如く心集めゐたり茹卵の殻むくのみに
ビルの壁吹きおろしくる港かぜ吹きさらされて冬の耳いたし
炎のごときことば愁ひをもつことばこもごも湧きて風の街ゆく
籐椅子の似合はぬ冬のロビーにて恋の経緯を聞かされてゐる
よみさしの本伏せてしばし窓外の海の春靄に心がたゆし
集中ののちの怠惰を肯(うべな)はん何もせぬ午後雨のふりいづ
沈丁花の香のとどこほる曇り日の坂下(お)りて街に何を見に来し
単調に過ぎゆく時をよろこびてゐたりしがひと日何か物足らぬ
とどろきて風過ぎしかば一呼吸おきてさくらのゆるやかに散る
花ふぶくなか歩みをりおろそかにこの世に在りとわれは思ふな
いつせいに蚕豆(そらまめ)の花がわれを視る感じに山畑の上の夕風
熟れてゆく野麦の香など六月の山原に来て心はひらく
古き代の星座空間思ふなど風に仰げば夜の闇濃し
みづからの髪に觸れつつ思ふこと髪の量(かさ)減り歳月積もる
わが未来寡(すく)なかれども幻想のやうなる願望(ねがひ)いだくを許せ
夕映ののこる空気をうごかして沙羅落花する一瞬の音
菊姫の大吟醸を酌(く)むしばし香にこそ匂へ遠きわが過去
夕月はいま落ちんとし高層の窓に酔余の孤りの時間
獨りのむ五勺の酒にありありと花ある過去に還りなんいま
秋ふけて炎のごとき花カンナ咲きたれば一日炎のこころ
眼を病みて過ぎしひと夏徒労とも余裕ともなく宙吊りの日々
乾きゆく赤唐辛子吊されて辛辣の過去日に照るごとし
目を閉ぢてわが思ひ継ぐかの訣(わか)れ明るき雨の街上たりし
珈琲の苦さすなはちその肩に寂寥のせてものいふ三鬼
旅に死することまたよけれ雪柳白くあふるる坂の道行く
心ひしぐまで押し迫る感じにて老木(おいき)のさくら花溢れゐる
睡蓮の黄花終りて忘らるる沼の面暗く夕雨さわぐ
乾きゆく夏草に風渡るとき耐へ難きまで戦時の記憶
八月の死者の記憶のひしめくを語らず言はず耐へし歳月
夕焼の美しさなど何の足しになるかと言ひし人も逝きたり
激(たぎ)つ心恋ふにもあらず八月のかの日の涙咽喉(のみど)に熱し
心鋭(と)くなりゆく梅雨の明けにして鋪道の反射棘あるごとし
比企が谷(ひきがやつ)ここより路地となるところ韮の花咲く傍ら通る
騒音をうとみて街を脱け来しが人語なき風はさらに寂しゑ
とどこほる想ひ捨てながら時すぎて枇杷の花淡く香る霜月
おのづから冬の光を集めゐし石蕗の黄も終らん季か
いくたびも所かへつつ鳴きゐたる鵯(ひよ)去りて冬芝にふる昼の雨
砥石にて刃(やいば)研ぎをりいつよりかわが鬱屈を研ぐごとく研ぐ
窮極のわれの希求(ねがひ)は何ならん冬梢尽きて天空ひらく
空気うごく気配のこりてしろたへの椿音なく揺れゐたりけり
心よりわれは信じて幾たびも語る修司の罠にはまりき
口重く生きたる祖霊近付かん花芯濃厚に肥後椿咲く
ゆるみゆく午後の空気に白椿咲ききはまりぬ光たたへて
予定またふえゆく二月人生は誰にも未完のまま終るらし
侘助とふ名の椿ゆゑ花片を延ぶることなく散りゆかんとす
雪に沈む小間(こま)に椿の紅(くれなゐ)あり利休ゆかりのこの小宇宙
袖かくしといふ椿ありて葉がくれにほのぼのと紅淡く咲きたり
冬の夜の浜の焚火に集ふ人みな顔火照り心火照りてゐたり
◆第五歌集「春雪ふたたび」(全篇)より
生きるとはすなはち愁ひ夕光(ゆふかげ)の鬱金(うこん)桜をわれは見て佇つ
たまきはる内の光を明かすごとひらく椿の花のしろたへ
雨のなきこの幾日ゆゑ土乾く路上に散りしさくら吹かるる
失楽の経緯はわれにたよりなき渦のごときを残して終る
嘲笑ふものの気配を怖れたる母の記憶を継ぐなかれ子よ
やうやくに晴れて八月の風吹けば憂ひといへどたちまち浄し
眉あげてかの虹をみよつかのまの浄気折ふし記憶に顕(た)たん
悲しみの余韻のごとくつばひろき帽子が白く遠ざかりゆく
日の果ての荒浜に来てわれは聴く不揃ひに渚打つ波の音
魚の背に裂かるる池面かすかなる渦をのこしてしづまりゆけり
短かかる月下美人の華麗見守(も)るわれにも時分の花ありや危(あや)ふ
湧きあがるばかり地上に若葉充ちて風の鎌倉耳もさわだつ
伽羅すこし焚きて香りを立つるとき若葉侵して雨のふりいづ
夜のふけの無音は秋の気にみちて洗ひたる髪いくばく寒し
守護神の智の力など虔しく思ふ日石蕗の黄の花寂(しづ)か
ラピスラズリの紺の指輪をはづすときとけゆくは緊張の塊ならん
曳くごとき眠りに入らんに遠く見し四照花の浄き白を忘れず
横浜の港湾遠く烟りたり冬の雨今日はあたたかくして
文学館前の煉瓦路人ゐねばきさらぎの雨光りつつ降る
空よりも海が明かれる夕ぐれの埠頭に立てば冬の髪冷ゆ
月光に冬枝(ふゆえ)影おとすいしだたみ踏みゆきしのち遠く訣れき
立春の日を浴みゐたり目に見えぬ花を心に蕾ふるごと
泥濘をみることいつかなくなりて雨靴さへも色の華やぐ
捨て難き想ひ出などといふさへや若さの記憶ゆゑの粉飾
わが好む陶器の薔薇の文様(もんやう)にやや倦みしころ冬は終らん
夕光の鋪道動きゆくわが影が壁に当りていま立ちあがる
いままさに開き切りたる牡丹白く心なじまぬまでに明るし
涙なき葬りの果てて午後の日に群れつつわれも寂しきひとり
音立てず雪積む夜は識らざりし心の隙間見え来たるらし
水もはやぬるみて魚のひるがへるさま伝へつつ萍(うきくさ)うごく
人の心量りてものをいはんとしその屈折に気づきて黙す
赫灼(かくやく)たる牡丹の紅も来ん老いもなべてもろともに今生のもの
地下街の横浜倶楽部に珈琲の濃きを味はひて夏の日終る
かの痛恨思へど過去ははるかはるか夜来香闇に匂ひ鋭く
平なる貌と思へり心理的拒絶を示す沈黙のまへ
別離の後確かなる明日吾にありと傷ましきまで信じゐたりき
屈辱ははるかといへどわが記憶思ひのほかに執念ぶかし
髪長くとき放ちたるかの時ぞ短きわれの花季なりしかな
言ひ難きこと告げしあと冬凪の海の反照に部屋があかるむ
栗の毬(いが)割れたるを足に踏みしかば光る実は出づよろこびの如
凍りゆく街帰り来て夜の部屋にわが表情をゆるめかねゐつ
夏炉冬扇といへどやさしき音(ね)に立つは蔵ひ忘れし冬の風鈴
未来とは希望なるべしトルストイ最晩年の家出といへど
卑怯なる彼奴(きゃつ)ぬくぬくと生き残る世の清濁をいへどそれのみ
ふりかへりたる一瞬の眼差の昏きをみたり心衝かるる
傷つけば相手も傷を負ひたらん同志のごとく時に親しむ
招かれざる客となりたる経過など苦き思ひは若かりしゆゑ
足早に駈け抜けしわが三十代聖橋(ひじりばし)散る枯葉ボブ・ディランなど
曼珠沙華唐突に咲くと思ひしが唐突にしてその花終る
終戦の日の虚脱などもろもろの過去きれぎれに風鈴響く
砂灼くる匂ひをはこぶ風のなか海鳥は夏の鋭き声放つ
一日のみの花浄く咲け夏椿避けがたく来んわが死ののちも
たそがれに蕊伏せて散る夏椿散りてなほ浄し夏至の土の上
遭遇といふ感じにて交叉路の短き会話夕かぜのなか
夜の雑踏にまぎれゆく背か無頼なる眠りといへど寂しからんを
頒ち持つ過去ありていま沈黙の間にみちきたるものをやさしむ
異教徒といへど祈りを知らずして来しにはあらずここの聖堂(みだう)に
遊雲の形崩れゆくまひるまのなぎさ晩夏は孤独が似合ふ
実行の勇気なけれど思ひきりもの言ひしのちは爽快ならん
おのづからもの乾きゆく季(とき)となり茅原(ちはら)の風に光は遊ぶ
この蒼き天の光に吸はれ行きいづれどこかへ消えねばならぬ
禁慾を美徳とするは慾強きゆゑならん男の短歌史を読む
気紛れのやうに過ぎゆく時雨にて丈高き紫苑の花が揺れ合ふ
わが過去は苦しかりしかされど街にサルビア咲けばあはれ恋ほしむ
鎌倉は夕ぐれはやし柳小路しぐれて遠き黄の灯あかるむ
夕街に河明りあり死ぬまでは生きねばならぬ現し身(うつしみ)あゆむ
無思想と人言はば言へわが生はかぎろひの中に透きて果つべき
夕ぐれはただ藍いろとなる刻(とき)のありぬ晩夏の海に向く窓
空を背に臘梅咲けり目に見えぬ標(しめ)あるごとき花の空間
涼やかに生くるは難しマスカット・オブ・アレキサンドリアの種子を掌(て)い吐く
虞美人草といふ名思へどなよやかに勁(つよ)きその朱の花を好まず
シースルーエレベーターが灯しつつ降りくる夜(よ)の街雪となる
父が逝き母が逝きやがてわれも逝く地上に今年のさくら耀ふ
誰もゐぬ無音のまひるのびのびと居しがいくばく心が寂し
浴槽にみたす深夜の湯に溶けて形失ふごとくゐたりき
華やぎてものいふ時も紛れざる孤独はつねに内なるものか
閉ざされし地下珈琲店の空間に孤りしをればかくもくつろぐ
流れ去る時のまにまに今年逢ふ雨夜のさくら月夜のさくら
◆第六歌集「夕霧峠」(抄)より
無造作に髪束ねゐるしぐささへ若さのゆゑの傲りにも見ゆ
濡るるといふ程もなき雨の街角に薔薇の模様の傘を買ひたり
生きてあることの不思議を思ふまで散りやまぬ落花の下に佇ちゐき
春雷のとどろに耐へゐつ瀆(けが)されし誇りは人間存在の悲哀
鎌倉に秋立ちぬらし白芙蓉越えくる風は海の香持たず
暑き夜の果ての薄明に花閉づる月見草は淡き光を帯びつ
熟れ重きメロンの香りとどこほる雨の昼銀座千疋屋前
海よかく生き来しわれに萌し来る涙のごときもの何ならん
氷ることなき湘南の冬の海いま落日の朱を畳みをり
目覚むれば夜の多摩川を渡りゆく電車にをりて夜の灯が浄し
薪を焚く匂ひのゆゑに立ち返る記憶あり深く疼くごときもの
訣れたるかの日は驟雨寒かりきその街角の夕もや曲る
昼靄のまま雨となる街上に買ひしばかりの春の傘ひく
うそ鳥は桜のつぼみ喰むといふわれは菜の花の色若き喰む
光差すといふにもあらぬ道の果明るき靄にさくら咲き満つ
雨けむる高層ビルの空間を黒き鳥過ぐ凶兆のごと
ただ一夜星夜の山にいねしのみ記憶はいつか浄化ともなふ
来ん年の莟をすでに垂れて立つ馬酔木が昼の日を浴びゐたり
春光はいはれなく心和ましむ黄のクロッカス咲きたることも
終(つひ)の日の平安はあれ今われはぬきさしならぬ日々渉(わた)りをり
坂の街来てふりむけば海があり海は春昼の光る靄のなか
紅薔薇の追憶に似て老い母が折々言ひしチャリネ曲馬団
怠惰なる習慣ひとつ夜更けてトランプの札ひたひたと切る
切り抜けて来し歳月をつばらかに労(いた)はりて思ふ夕昏れのあり
春の潮退きゆく浜に若布干す人動く午後の逆光のなか
黙々と夜の電車に運ばるるこの単純の時間を愛す
幸ひはかく過ぎ易しいま見えし松虫草は霧にまぎれつ
秋草の花みな濡れて霧になびく夕霧峠といふ道をこゆ
穏やかにもの言ふすべを得しことも経験ゆゑと思(も)へば傷(いた)まし
◆第七歌集「星座空間」(全篇)より
諸手にて顔覆へれば指つめたし心賭くべき機(とき)到りたり
単調に過ぎたる夕べ三日月は形するどくわれをつらぬく
わさび田の凍るあかつき東よりのぼりくる星たちまちに消ゆ
やはらかくいたはる如く心集めゐたり茹卵の殻むくのみに
ビルの壁吹きおろしくる港かぜ吹きさらされて冬の耳いたし
炎のごときことば愁ひをもつことばこもごも湧きて風の街ゆく
籐椅子の似合はぬ冬のロビーにて恋の経緯を聞かされてゐる
よみさしの本伏せてしばし窓外の海の春靄に心がたゆし
集中ののちの怠惰を肯(うべな)はん何もせぬ午後雨のふりいづ
沈丁花の香のとどこほる曇り日の坂下(お)りて街に何を見に来し
単調に過ぎゆく時をよろこびてゐたりしがひと日何か物足らぬ
とどろきて風過ぎしかば一呼吸おきてさくらのゆるやかに散る
花ふぶくなか歩みをりおろそかにこの世に在りとわれは思ふな
いつせいに蚕豆(そらまめ)の花がわれを視る感じに山畑の上の夕風
熟れてゆく野麦の香など六月の山原に来て心はひらく
古き代の星座空間思ふなど風に仰げば夜の闇濃し
みづからの髪に觸れつつ思ふこと髪の量(かさ)減り歳月積もる
わが未来寡(すく)なかれども幻想のやうなる願望(ねがひ)いだくを許せ
夕映ののこる空気をうごかして沙羅落花する一瞬の音
菊姫の大吟醸を酌(く)むしばし香にこそ匂へ遠きわが過去
夕月はいま落ちんとし高層の窓に酔余の孤りの時間
獨りのむ五勺の酒にありありと花ある過去に還りなんいま
秋ふけて炎のごとき花カンナ咲きたれば一日炎のこころ
眼を病みて過ぎしひと夏徒労とも余裕ともなく宙吊りの日々
乾きゆく赤唐辛子吊されて辛辣の過去日に照るごとし
目を閉ぢてわが思ひ継ぐかの訣(わか)れ明るき雨の街上たりし
珈琲の苦さすなはちその肩に寂寥のせてものいふ三鬼
旅に死することまたよけれ雪柳白くあふるる坂の道行く
心ひしぐまで押し迫る感じにて老木(おいき)のさくら花溢れゐる
睡蓮の黄花終りて忘らるる沼の面暗く夕雨さわぐ
乾きゆく夏草に風渡るとき耐へ難きまで戦時の記憶
八月の死者の記憶のひしめくを語らず言はず耐へし歳月
夕焼の美しさなど何の足しになるかと言ひし人も逝きたり
激(たぎ)つ心恋ふにもあらず八月のかの日の涙咽喉(のみど)に熱し
心鋭(と)くなりゆく梅雨の明けにして鋪道の反射棘あるごとし
比企が谷(ひきがやつ)ここより路地となるところ韮の花咲く傍ら通る
騒音をうとみて街を脱け来しが人語なき風はさらに寂しゑ
とどこほる想ひ捨てながら時すぎて枇杷の花淡く香る霜月
おのづから冬の光を集めゐし石蕗の黄も終らん季か
いくたびも所かへつつ鳴きゐたる鵯(ひよ)去りて冬芝にふる昼の雨
砥石にて刃(やいば)研ぎをりいつよりかわが鬱屈を研ぐごとく研ぐ
窮極のわれの希求(ねがひ)は何ならん冬梢尽きて天空ひらく
空気うごく気配のこりてしろたへの椿音なく揺れゐたりけり
心よりわれは信じて幾たびも語る修司の罠にはまりき
口重く生きたる祖霊近付かん花芯濃厚に肥後椿咲く
ゆるみゆく午後の空気に白椿咲ききはまりぬ光たたへて
予定またふえゆく二月人生は誰にも未完のまま終るらし
侘助とふ名の椿ゆゑ花片を延ぶることなく散りゆかんとす
雪に沈む小間(こま)に椿の紅(くれなゐ)あり利休ゆかりのこの小宇宙
袖かくしといふ椿ありて葉がくれにほのぼのと紅淡く咲きたり
冬の夜の浜の焚火に集ふ人みな顔火照り心火照りてゐたり
【参考】(Wikipediaより、一部改編)
尾崎左永子(おざきさえこ、1927年11月5日-)
歌人、随筆家。歌誌「星座」主筆。本名は尾崎磋瑛子(読みは同じ)。
東京府巣鴨生まれ。東京女子大学国語科卒業。17歳で歌誌『歩道』に入会し、佐藤佐太郎に師事する。1955年、「夕雲」で第1回角川短歌賞最終候補となる。1957年、30歳のとき、松田さえこの名で第一歌集『さるびあ街』を上梓、第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現在の日本歌人クラブ賞)を受賞する。1999年、「夕霧峠」で第33回迢空賞を受賞する。2001年、歌とことばの雑誌『星座』(かまくら春秋社)を創刊する。また2010年には短歌雑誌『星座α』を創刊し、「佐藤佐太郎の心を継ぐ」のを掲げている。2015年、『佐太郎秀歌私見』で第6回日本歌人クラブ大賞受賞。2016年、『薔薇断章』で第31回詩歌文学館賞短歌部門受賞。
一時、短歌を離れて放送作家をメインに活動していたこともある。短歌雑誌編集者であった中井英夫とは長年の交友があり、『虚無への供物』に登場する女探偵・奈々村久生のモデルである。歌集多数のほか、『源氏物語』に関するエッセイなどでも知られ、1985年、『源氏の恋文』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。現在、エッセイスト・クラブ常務理事。
歌人、随筆家。歌誌「星座」主筆。本名は尾崎磋瑛子(読みは同じ)。
東京府巣鴨生まれ。東京女子大学国語科卒業。17歳で歌誌『歩道』に入会し、佐藤佐太郎に師事する。1955年、「夕雲」で第1回角川短歌賞最終候補となる。1957年、30歳のとき、松田さえこの名で第一歌集『さるびあ街』を上梓、第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現在の日本歌人クラブ賞)を受賞する。1999年、「夕霧峠」で第33回迢空賞を受賞する。2001年、歌とことばの雑誌『星座』(かまくら春秋社)を創刊する。また2010年には短歌雑誌『星座α』を創刊し、「佐藤佐太郎の心を継ぐ」のを掲げている。2015年、『佐太郎秀歌私見』で第6回日本歌人クラブ大賞受賞。2016年、『薔薇断章』で第31回詩歌文学館賞短歌部門受賞。
一時、短歌を離れて放送作家をメインに活動していたこともある。短歌雑誌編集者であった中井英夫とは長年の交友があり、『虚無への供物』に登場する女探偵・奈々村久生のモデルである。歌集多数のほか、『源氏物語』に関するエッセイなどでも知られ、1985年、『源氏の恋文』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。現在、エッセイスト・クラブ常務理事。