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沖縄に行って来ました。(2)

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私は沖縄の城跡が好きです。いずれも小高い丘の上にあり、建物が復元された首里城以外は石垣が残るだけですが、その石積みは美しく、城跡から望む海の風景は雄大です。
今回は首里城と中城城、勝連城、今帰仁城を訪ねましたが、座喜味城に行けなかったのが心残りです。

首里城公園
 首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。
 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
 周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。(Wikipediaより)

守礼門をくぐり正殿(せいでん)をめざしますが、途中には多くの門があり、守礼門から歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門を経て正殿に到ります。

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守礼門

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広福門

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正殿

中城城(なかぐすくじょう)跡
 中城城は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。
 中城城は当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。(Wikipediaより)

私がいちばん心惹かれるのが中城城です。石積みが美しく、アーチ形の門には技術力の高さを感じます。また、石垣の上から望む太平洋は雄大で、吹く風も心地よく感じます。

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勝連城(かつれんぐすく/かつれんじょう)跡
 勝連城は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として知られている。
城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。
 13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。
 城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろそうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。
 城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。(Wikipediaより)

今回、勝連城を初めて訪ねました。下から眺めると、どこか外国のお城のようで、とても興味が湧きました。
登るのはたいへんでした。かなりの急坂で、雨が降ったらすべって転びそうです。でも、城跡の頂上からの眺めはとても素晴らしいと思いました。

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今帰仁城(なきじんぐすく/なきじんじょう)跡
 今帰仁城(別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。
 城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。
 現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に今帰仁城跡として指定される。門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末-2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、桜の名所として知られている(日本トランスオーシャン航空作成の壁掛けカレンダーの1月は最近数年間この桜景色が写真を飾っている)。城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。(Wikipediaより)

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狆詛瓩任靴腓Δ、城内の休憩スペースにいました。ここにいれば客からエサがもらえるんでしょう。

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