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織田作之助『六白金星・可能性の文学 他十一篇』を読みました。

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今日、織田作之助の短編集『六白金星・可能性の文学 他十一篇』を読み終えました。
たまたまこの短編集を読み、「髪」「競馬」といったお気に入りの作品ができました。この際、彼の代表作「夫婦善哉」をはじめ、他の作品も読んでみようと思います。

【収録作品】( )は初出
道なき道(「週間毎日」昭和20年10月28日)
 父・庄之助は9歳の娘・寿子のヴァイオリンの才能を確信し、「私の生活のすべてを犠牲にして、道なき道を歩みながら、寿子を日本一のヴァイオリン弾きに仕込みます」と生国魂(いくたま)神社に誓います。そして、自らの「津路式教授法」が厳しすぎるとして世間から疎まれたことへ抵抗でもあるかのように、寿子に厳しい稽古を課します。
 寿子が13歳の時、この厳しい稽古は東京日日新聞主催のコンクールで第一位になるという結果をもたらします。しかし、苛め抜くより外に愛情の注ぎようがない父と、決して勘弁してくれとは言わない娘の「道なき道」は続いて行くのです。

(「オール読物」昭和20年11月)
 著者の自伝的作品です。彼の長髪は社会や時代への彼なりの反骨の表現なのでしょうが、そんな思いは当時の社会や軍国化の波によって一蹴されてしまいます。でも、そんな時の彼の文章はユーモアや皮肉がたっぷりで、共感を覚えます。以下、おもしろいと思った文章をいくつか引用します。
 この阿呆をはじめとして、私の周囲には佃煮にするくらい阿呆が多かった。なかんずく、法科志望の点取虫の多いのには、げっそりさせられた。彼らは教師の洒落や冗談までノートに取り、しかもその洒落や冗談を記憶して置く必要があるかどうか、即ちそれが試験に出るかどうかと質問したりした。彼らの関心は試験に良い点を取ることであり、東京帝国大学の法科を良い成績で出ることであり、昭和何年組の秀才として有力者の女婿になることであった。そのため彼らはやがて高等文官試験に合格した日、下宿の娘の誘惑に陥らないような克己心を養うことに、不断の努力をはらっていた。もっとも手ぐらいは握っても、それ以上の振舞いに出なければ構わぬだろうという現金な考えを持っていたかも知れない。
 しかし、私は何も自分が彼らにくらべて利巧であると思っているわけではない。周囲に阿呆が大勢いてくれたおかげで、当時の私はいくらか自分が利巧であるように思い込んでいたことは事実だが、しかし果して私は利巧であったかどうか。
 私は生れつき特権というものを毛嫌いしていたので、私の学校が天下の秀才の集るところだという理由で、生徒たちは土地で一番もてる人種であり、それ故生徒たちは銭湯へ行くのにも制服制帽を着用しているのを滑稽だと思ったので、制服制帽は質に入れて、和服無帽で長髪を風に靡かせながら通学した。つまり私は充分風変りであったが、それ以上に利巧でなかったわけである。
 ところが、間もなく変なことになった。既に事変下で、新体制運動が行われていたある日の新聞を見ると、政府は国民の頭髪の型を新体制型と称する何種類かの型に限定しようとしているらしく、全国の理髪店はそれらの型に該当しない頭髪の客を断ることを申し合わせたというのである。
 私はことの意外に呆れてしまったが、果して間もなくあるビルディングの地下室にある理髪店へ行くと、金縁眼鏡をかけたそこの主人はあなたのような髪は時局柄不都合であると言って、あれよあれよと驚いている間に、私の頭を甲型か乙型か翼賛型か知らぬがとにかく呉服屋の番頭のような頭に刈り上げてしまった。私は憤慨して、何が時局的に不都合であるか、むしろ人間の頭を一定の型に限定してしまおうとする精神こそ不都合ではないか、しかし言っておくが、髪の型は変えることが出来ても、頭の型まで変えられぬぞと言ってやろうと思ったが、ふと鏡にうつった呉服屋の番頭のような自分の頭を見ると、何故か意気地がなくなってしまって、はあさよかと不景気な声で呟くよりほかに言葉も出なかった。
 事変が戦争に変ると、私の髪は急激に流行はずれになってしまった。町にも村にも丸刈りが氾濫して、猫も杓子も丸坊主、丸坊主でなければ人にあらずという風景が描き出された。
 このような時に依然として長髪を守って行くことは相当の覚悟を要した。が、私は義憤の髪の毛をかきむしるためにも、長髪でおらねばならないと思った。言いたいことが言えぬ世の中だから、髪の毛をかきむしるより外に手がなかったのである。「物言わねば腹ふくれる」どころではなかった。星と錨と闇と顔が「物を言わねば腹のへる」世の中であった。だから文学精神にも闇取引が行われ、心にもない作品が文学を僣称した。そして人々が漸くこのことの非を悟った時には、もう戦争は終りかけていた。

表彰(「文藝春秋」昭和20年12月)
 伊三郎・お島夫婦と養子の松太郎、それぞれがそれぞれに問題のある生き方をしていますが、ラストシーンにはホッとさせられました。

女の橋(「漫画日本」昭和21年4月)
船場の娘(「新生活」昭和21年1月)
大阪の女(「ロマンス」昭和21年6月)
 「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」はそれぞれ独立した作品として読めますが、連作として書かれており、通して読むと小鈴―雪子―葉子という女性三代の恋愛物語になっています。
 3作の中では「大阪の女」が最も小説らしい作品です。雪子は娘・葉子に自分のような人生を歩んでほしくないと思っていますが、最後はあなたはあなたの人生を生きなさいと娘を送り出します。ラストシーンがいいです。
 これら3作では《太左衛門橋》が重要な役割を果たしていますが、雪子はこの橋について「大阪の女」の中で次のように述べています。(「大阪の女」)
 空襲の夜、雪子が太左衛門橋を渡って逃げる気になったのは、その橋が生みの母の死骸を送って行った橋であり、初恋の男と再会した橋であったからだ。
 太左衛門橋は道頓堀と宗右衛門町をつなぐ橋であり、さまざまな人のさまざまな想い出がこもっている橋だったが、誰よりも雪子の想い出は強かった。
 なお、《太左衛門橋》について、大阪市HPからその紹介文を引用します。(太字は引用者)
 橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。
 太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。
 以降道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担で維持されてきた。織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作があるが、ストーリーの節目に太左衛門橋が、一場を構成する重要な役割を与えられている。
 太左衛門橋は昭和になっても狭い木橋のままであったが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧された。
 昭和33年に架け替えられた橋は、規模は江戸時代のものとほとんどかわらないが、3径間連続の合成桁という最新の技術が試された実験的な橋である。
 近年は、道頓堀川の水辺整備に合わせて、本橋の西側と東側に側道橋を整備したが、整備にあたっては、有識者から成る道頓堀川遊歩道・橋梁デザイン検討委員会において、橋のデザイン検討を行った。今回改修した橋は、その名前が、かつてこの地で歌舞伎の興行を行っていた興行師に由来することや、多くの芝居小屋があったことから、木を基調とする歴史的な意匠を取り入れた橋となった。

六白金星(「新生」昭和21年3月)
 次男の楢雄は「運勢早見書」を開き、自分の星「六白金星」の運気を確かめます。すると、そこには「この年生れの人は、表面は気永のように見えて、その実至って短気にて些細なことにも腹立ちやすく、何かと口小言多い故、交際上円満を欠くことがある。親兄弟との縁薄く、早くより他人の中にて苦労する者が多い。また因循の質にてテキパキ物言いの捗らぬ所があるが、生来忍耐力に富み、辛抱強く、一旦こうと思い込んだことはどこまでもやり通し、大器晩成するものなり……。」と書かれており、一字一句が思い当たるのでした。これにより、楢雄は自分の性格や行動の問題点を省みることなく、自らを全く肯定的にとらえるようになってしまいます。
 近所の神社でいただいた今年の「九星本暦」があったので、僕の星「八白土星」の今年の運勢について調べてみました。で、今年は全体として「停滞運」だそうです。「気を引き締めねば」なんて思ったりして、次男と同じになってしまいました。
 本年あなたの本命星は北(壬・子・癸)の坎宮(かんきゅう)に回座し、坎宮を定位とする一白水星とは「土剋水」と相剋する関係にあります。従って本年の運勢概要は、思いは通じてもなかなか意のままにならず、手慣れたことでも不注意ミスの暗示。タイミングがずれて試行錯誤の繰り返しも。意地を張って力量以上を狙えば亀裂が生じ、生活面へのしわ寄せも発生しがちです。案外苦しい時は楽な方向へ流れやすいので、うかつに行動すると思わぬ伏兵に遭遇したり厄介な問題に巻き込まれます。軽はずみな口約束や安請け合いにも注意。何事も人情に流されることの無いように理性的に立ち回ること。また、周囲との摩擦を避け和合を心掛けることで大事は小事に、小事は無難にやり過ごすことが出来ます。困難な時ほど人物の真価が問われるので軽薄な言動は禁物。足下の安全を第一として行動すること。半面、将来へ向けた取り組みや根回し、レベルアップの為の教育プログラムは好調です。苦手な世界や分野、不足する技術があるならこの一年は貴重な時間です。詐欺、遅延、忘れ物、健康管理に注意。建築建墓は凶。

アド・バルーン(「新文学」昭和21年3月)
 私が語る半生記。生まれてすぐに里子に出されたこと。継母に育てられたこと。丁稚奉公したこと。文子という女性に恋して、ほとんど無一文で大阪から東京まで歩いて会いに行ったこと。……。冗長に過ぎると思います。ただ、「今日も空には軽気球(アドバルン)……」という歌声が流れるラストシーンは良かった。

世相(「人間」昭和21年4月)
 終戦後の大阪。作家の私(オダサク)は小説の題材を求め、現在(昭和21年)と過去を行き来します。昭和16年のスタンド酒場(バー)「ダイス」、昭和11年のカフェ「美人座」、昭和18年のてんぷら屋「天辰」、……。

競馬(「改造」昭和21年4月)
 京都帝大を出て、京都の中学校で歴史の教師をしていた寺田は、真面目だけが取り柄のような男でした。ある夜、彼は同僚に無理矢理連れて行かれた酒場で、ナンバーワン女給の一代を見初めます。彼は通いつめて彼女との結婚にまで漕ぎつけますが、それもつかの間、一代を癌で失います。その後、彼はふとしたことから競馬にのめり込み、九州の小倉にまで遠征します。そして、「これを外してしまえば、もう帰りの旅費もない」という賭けに自らを追い込みます。最後の競馬シーンがたまらない、優れた作品です。

郷愁(「真日本」昭和21年6月)
 この作品は、「世相」を書き上げたあとの心境を書いたもの。
 新吉は思わず足を停めて、いつまでもその子供を眺めていた。その子供と同じきょとんとした眼で……。そして、あの女と同じきょとんとした眼で……。
 それはもう世相とか、暗いとか、絶望とかいうようなものではなかった。虚脱とか放心とかいうようなものでもなかった。
 それは、いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る得体の知れぬ異様な感覚であった。
 人間というものが生きている限り、何の理由も原因もなく持たねばならぬ憂愁の感覚ではないだろうか。その子供の坐りかたはもう人間が坐っているとは思えず、一個の鉛が置かれているという感じであったが、しかし新吉はこの子供を見た時ほど人間が坐っているという感じを受けたことはかつて一度もなかった。
 再び階段を登って行ったとき、新吉は人間への郷愁にしびれるようになっていた。そして、「世相」などという言葉は、人間が人間を忘れるために作られた便利な言葉に過ぎないと思った。なぜ人間を書こうとせずに、「世相」を書こうとしたのか、新吉ははげしい悔いを感じながら、しかしふと道が開けた明るい想いをゆすぶりながら、やがて帰りの電車に揺られていた。

二流文楽論(「改造」昭和21年10月)
可能性の文学(「改造」昭和21年12月)

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