昨夜、夏目漱石の『草枕』(1906)を読み終えました。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という冒頭の文章は知っていましたが、読んだのは初めてでした。
漱石はこの作品中で自らの芸術論や文明論を語っていますが、彼の漢籍の知識があまりにも凄いせいか、難しい漢語がたくさん出てきて閉口しました。しかし、作品に登場する絵画や書には共感を覚えるものもあったし、那美という女性にとても惹かれました。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という冒頭の文章は知っていましたが、読んだのは初めてでした。
漱石はこの作品中で自らの芸術論や文明論を語っていますが、彼の漢籍の知識があまりにも凄いせいか、難しい漢語がたくさん出てきて閉口しました。しかし、作品に登場する絵画や書には共感を覚えるものもあったし、那美という女性にとても惹かれました。
◆以下、主人公が小説の読み方について語った部分を引用します。この作品こそ、そんな読み方にピッタリなので、僕もこの作品をそんな風に繰り返し読み続けたいと思います。
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」(P115)
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」(P115)
◆この作品にはターナーや伊藤若冲、円山応挙らの絵が登場しますが、重要なのはミレーの「オフェリヤ」。シェークスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤが、死んで川を流れてゆく姿を描いた絵です。
不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、折角の図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で烟を払う様に、さっぱりしなかった。(P26)
長良の乙女が振袖を着て、青馬(あお)に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸をけて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。(P33)
余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がクラゲの様に浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす。(中略)余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮かんだまま、或は水に沈んだまま、或は沈んだり浮んだりしたまま、只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸に色々な草花をあしらって、水の色と流れていく人の顔の色と、衣服の色に、落ち着いた調和をとったなら、屹度、画になるに相違ない。然し流れて行く人の表情が、まるで平和では殆んど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶は固より、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かもしれないが、彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。然し思う様な顔はそう容易く心に浮かんで来そうもない。(P90-91)
「私(那美)が身を投げて浮いている所を――苦しんで浮いてる所じゃないんです――やすやすと往生して浮いている所を――奇麗な画にかいて下さい」(P123)
こんな所(鏡が池)へ美しい女の浮いている所をかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、又烟草を呑んで、ぼんやり考え込む。温泉場の御那美さんが昨日冗談に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪にのる一枚の板子のように揺れる。あの顔を種にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画でかけるだろうか。(中略)矢張御那美さんの顔が一番似合う様だ。然し何だか物足らない。物足らないとまでは気が付くが、どこが物足らないかが、吾ながら不明である。(中略)色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。(P128-129)
茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士(那美の元夫)が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(P178)
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(P178)
◆気に入った文章を引用しておきます。
喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝ねる間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。(P6-7)
喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝ねる間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。(P6-7)
ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)の「オフェーリア(『草枕』中ではオフェリヤ)」(1851-52)