表紙の写真は、聖林寺の十一面観音立像です。
先日、白洲正子(1910-1998)のエッセイ『十一面観音巡礼 愛蔵版』(2010)を購入しました。
8月末に奈良の聖林寺を訪れ、十一面観音立像を拝観しました。この仏像について書かれた本を探し、この本に出会いました。この本は1975年刊行の初版を底本として、写真版を再製版し、当時取材撮影された別の写真版や新たに製作した地図を加えて、再編集した新装版です。著者の生誕100年を記念して編集しています。
8月末に奈良の聖林寺を訪れ、十一面観音立像を拝観しました。この仏像について書かれた本を探し、この本に出会いました。この本は1975年刊行の初版を底本として、写真版を再製版し、当時取材撮影された別の写真版や新たに製作した地図を加えて、再編集した新装版です。著者の生誕100年を記念して編集しています。
この本の章立ては以下のようになっています。今回は聖林寺の十一面観音立像について書かれた章についてだけ、言及したいと思います。
◆聖林寺から観音寺へ
◆こもりく 泊瀬
◆幻の寺
◆木津川にそって
◆若狭のお水送り
◆奈良のお水取
◆水神の里
◆秋篠のあたり
◆登美の小河
◆竜田の川上
◆姨捨山の月
◆市の聖
◆清水の流れ
◆白山比の幻像
◆湖北の旅
◆熊野詣
◆あとがき
◆聖林寺から観音寺へ
◆こもりく 泊瀬
◆幻の寺
◆木津川にそって
◆若狭のお水送り
◆奈良のお水取
◆水神の里
◆秋篠のあたり
◆登美の小河
◆竜田の川上
◆姨捨山の月
◆市の聖
◆清水の流れ
◆白山比の幻像
◆湖北の旅
◆熊野詣
◆あとがき
◆◆聖林寺から観音寺へ
この章で著者は、奈良県の聖林寺と京都府の観音寺を訪れ、それぞれの十一面観音立像を拝観しました。僕も8月末に二つの寺を訪問したので、とても身近に感じながら読むことができました。以下、気になった文章を引用し、感想などを書きたいと思います。
この章で著者は、奈良県の聖林寺と京都府の観音寺を訪れ、それぞれの十一面観音立像を拝観しました。僕も8月末に二つの寺を訪問したので、とても身近に感じながら読むことができました。以下、気になった文章を引用し、感想などを書きたいと思います。
案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが座っていた。「これが本尊だから、お参り下さい」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけて下さった。さしこんで来るほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後、何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。(P7-9)
※聖林寺の本尊は元禄時代に造られた丈六の大石仏「子安延命地蔵菩薩」です。本堂に入った時、十一面観音立像ばかりが気になって殆ど拝観しませんでした。本堂に安置されていると思っていた十一面観音立像が見当たらなくて焦っていたからですが、申し訳ありませんでした。次回はちゃんと拝観させていただきます。
十一面観音立像は本堂を出て、コンクリートの階段を登った先の観音堂に安置されていました。他に誰もいなかったので、ゆっくり拝観させていただきました。美しく、気高いその姿を見て出会えたことに心から感謝しました。
十一面観音立像は本堂を出て、コンクリートの階段を登った先の観音堂に安置されていました。他に誰もいなかったので、ゆっくり拝観させていただきました。美しく、気高いその姿を見て出会えたことに心から感謝しました。
新築のお堂の中で眺める十一面観音は、いくらか以前とは違って見えた。明るい自然光のもとで、全身が拝める利点はあったが、裸にされて、面映ゆそうな感じがする。前には気がつかなかった落剥が目立つのも、あながち年月のせいではないだろう。いくら鑑賞が先に立つ現代でも、信仰の対象として造られたものは、やはりそういう環境において見るべきである。またそうでなくては、正しい意味の鑑賞も出来ないのではないか。(P13)
※「信仰の対象として作られたものは、やはりそういう環境において見るべきである。」という文章に共感しました。
東寺の立体曼荼羅や三十三間堂の多数の千手観音、東大寺の諸仏等は、古びた堂宇にあるからこそ、その美しさや歴史が見る者にストレートに伝わってくるように思います。
ただ、著者が上の引用文に続く文章で「だが、そういう利点だか欠点だかを超越して、なおこの十一面観音は気高く、美しい。」と述べていることにも共感しました。その仏像に一対一で向き合うことが大切なんだと思います。
東寺の立体曼荼羅や三十三間堂の多数の千手観音、東大寺の諸仏等は、古びた堂宇にあるからこそ、その美しさや歴史が見る者にストレートに伝わってくるように思います。
ただ、著者が上の引用文に続く文章で「だが、そういう利点だか欠点だかを超越して、なおこの十一面観音は気高く、美しい。」と述べていることにも共感しました。その仏像に一対一で向き合うことが大切なんだと思います。
二度目にお目にかかる観音様は、聖林寺を見てすぐなのに美しかった。似ていると思うから、比較したくなるので、まったく別の彫刻として見れば、やはり天平のすぐれた特徴をそなえている。後補が大分あるので、損をしていられるが、仏像ばかりでなく、絵画でも陶器でも、虫眼鏡で観察するようなことに、私はあきあきしている。そういうことは専門家に任せて、ただ全体が美しければそれでいい。その望みを観音様は充分に叶えて下さった。そして、私は幸福であった。しいていうなら、それがこの度の巡礼の目的といえるかも知れない。(P21)
※「似ていると思うから、比較したくなるので、まったく別の彫刻として見れば、やはり天平のすぐれた特徴をそなえている。」という部分にハッとしました。
観音寺の十一面観音立像を見せていただいた時、前日に見た聖林寺の十一面観音立像と比べ、批評家然とした自分がいました。この文章を読み、そんな自分をとても恥ずかしく思いました。これからの見仏は、比べるのではなく、それぞれの仏像と一対一で向き合うことを第一に考えたいと思います。
観音寺の十一面観音立像を見せていただいた時、前日に見た聖林寺の十一面観音立像と比べ、批評家然とした自分がいました。この文章を読み、そんな自分をとても恥ずかしく思いました。これからの見仏は、比べるのではなく、それぞれの仏像と一対一で向き合うことを第一に考えたいと思います。
※※今月末、法隆寺と室生寺、長谷寺、海龍王寺、法華寺に行く予定です。法隆寺以外は有名な十一面観音が安置されています。この本を読んだからではありませんが、偶然こうなりました。
【参考】
◇聖林寺 my 見仏記
http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56161428.html
◇観音寺 my 見仏記
http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56161457.html
◇聖林寺 my 見仏記
http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56161428.html
◇観音寺 my 見仏記
http://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56161457.html
【参考】
白洲正子(しらす・まさこ)
1910年東京生まれ。幼い頃より能を学ぶ。14歳で米国留学し、28年帰国、女性として初めて能舞台に立つ。29年白洲次郎(1902-85)と結婚。43年、初の著書『お能』を刊行。以降、古典文学、工芸、骨董、自然などについて随筆を執筆。『能面』『かくれ里』(ともに読売文学賞受賞)『近江山河抄』『十一面観音巡礼』『西行』など著書多数。1998年没。(ブックカバーより)
1910年東京生まれ。幼い頃より能を学ぶ。14歳で米国留学し、28年帰国、女性として初めて能舞台に立つ。29年白洲次郎(1902-85)と結婚。43年、初の著書『お能』を刊行。以降、古典文学、工芸、骨董、自然などについて随筆を執筆。『能面』『かくれ里』(ともに読売文学賞受賞)『近江山河抄』『十一面観音巡礼』『西行』など著書多数。1998年没。(ブックカバーより)