3月26日(日)、この日最後に訪ねたのは西大寺でした。法華寺からタクシーに乗り、「西大寺まで」と言ったら、近鉄の大和西大寺駅で降ろされそうになりましたが、西大寺は駅のすぐ近くでした。
西大寺には見るべき仏像がたくさんありました。本堂の釈迦如来立像・文殊菩薩騎獅像及び四侍者像・弥勒菩薩坐像、愛染堂の愛染明王坐像(秘仏のため拝観不可)・興正(こうしょう)菩薩叡尊上人坐像、四王堂の十一面観音立像などです。
なお、今年は「特別展 創建1250年記念 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」が東京と大阪、山口で開催されます。東京会場は三井記念美術館で、期間は4月15日(土)~6月11日(日)です。愛染堂の秘仏・愛染明王坐像が出展されますが、展示期間は4月15日~5月14日に限定されています。
西大寺には見るべき仏像がたくさんありました。本堂の釈迦如来立像・文殊菩薩騎獅像及び四侍者像・弥勒菩薩坐像、愛染堂の愛染明王坐像(秘仏のため拝観不可)・興正(こうしょう)菩薩叡尊上人坐像、四王堂の十一面観音立像などです。
なお、今年は「特別展 創建1250年記念 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」が東京と大阪、山口で開催されます。東京会場は三井記念美術館で、期間は4月15日(土)~6月11日(日)です。愛染堂の秘仏・愛染明王坐像が出展されますが、展示期間は4月15日~5月14日に限定されています。
本堂
現在の西大寺の中心堂舎。もともと東塔跡北方に中世に建てられた光明真言堂の後身で、江戸中期の寛政年間に完成。桁行七間、梁間五間、一重の寄棟造で本瓦葺。前後面に向拝三間を付す。堂内は東西南の三方の外陣と内陣を仕切り、内陣北の中央に須弥壇、東西に脇壇を設ける。10月には本堂を荘厳して光明真言会が行われる。江戸中期の土壁を用いない独特の建築技法による奈良市屈指の巨大な近世仏堂で、重要文化財にも指定されている。(西大寺HPより)
【主な仏像】
・本尊釈迦如来立像
・文殊菩薩騎獅像及び四侍者像
・弥勒菩薩坐像
【主な仏像】
・本尊釈迦如来立像
・文殊菩薩騎獅像及び四侍者像
・弥勒菩薩坐像
文殊菩薩騎獅像及び四侍者像(奈良西大寺展HPより)
この形式の五尊像は、中国五台山の文殊信仰に基づくもので、渡海文殊として鎌倉時代に多く制作されました。叡尊は文殊信仰に基づき多くの民衆救済の事業を行っており、文殊菩薩像も造像しています。この像は叡尊の没後弟子たちが発願して造像されたもので、叡尊の十三回忌に完成し、文殊堂の本尊とされました。現在は本堂西脇間に安置されています。
※東京展は「文殊菩薩坐像」「善財童子立像」「最勝老人立像」を展示します。(奈良西大寺展HPより)
※東京展は「文殊菩薩坐像」「善財童子立像」「最勝老人立像」を展示します。(奈良西大寺展HPより)
※獅子に乗った文殊菩薩を囲む四侍者の一人に善財童子がいます。善財童子は文殊菩薩を先導する役目を持っており、小柄な体型と幼い顔つき、ふっくらとした指を合わせ、うるんだような優しい瞳で空を見上げる姿が印象的です。この仏像は、灰谷健次郎の小説『兎の眼』に登場していることでも有名になりました。(以上、JR東海キャンペーン「うましうるわし奈良」西大寺篇の解説を引用、要約しました。)
『兎の眼』、読んでみようかな。
※本堂に入るとそれまでの緩んだ気分が改まり、自ずと厳粛な気持ちになりました。仏像はこういう厳かな雰囲気の中で見るべきだと改めて思いました。弥勒菩薩坐像は丈六の大像です。この像の目に惹きつけられ、なかなかその前を離れられませんでした。
『兎の眼』、読んでみようかな。
※本堂に入るとそれまでの緩んだ気分が改まり、自ずと厳粛な気持ちになりました。仏像はこういう厳かな雰囲気の中で見るべきだと改めて思いました。弥勒菩薩坐像は丈六の大像です。この像の目に惹きつけられ、なかなかその前を離れられませんでした。
愛染堂
秘仏愛染明王をまつる堂舎。江戸時代の明和4年(1767)に京都近衛家邸宅の御殿の寄進を受けて移築建立。桁行24.7メートル、梁間17.1メートル、一重の入母屋造で桟瓦葺。前面に向拝一間を付す。内部を桁行方向に三列に区画し、北側を客殿(狩野派の襖絵あり)、中央を内陣、南側を御霊屋(歴代先師尊霊の位牌をまつる)とする。寝殿造風の外観の公家邸宅建築を仏堂としたユニークな建物で、昭和61年に奈良県指定文化財に指定されている。(西大寺HPより)
【主な仏像】
・興正菩薩叡尊上人坐像
・秘仏・愛染明王坐像(秘仏→4/15~6/11三井記念美術館)
・愛染明王坐像(御前立像)
【主な仏像】
・興正菩薩叡尊上人坐像
・秘仏・愛染明王坐像(秘仏→4/15~6/11三井記念美術館)
・愛染明王坐像(御前立像)
※愛染堂では受付の方に声をかけられ、いろいろ説明していただきました。で、4月からの「奈良西大寺展」のことをうかがい、この日見られなかった秘仏・愛染明王坐像が東京で見られることを知りました。
興正菩薩叡尊上人坐像(奈良西大寺展HPより)
※昨年5月、東京国立博物館で見ました。国宝指定を記念しての展示だったと思います。その時はその像から叡尊の人となりが感じられ、鎌倉期の肖像彫刻の素晴らしさを感じたように記憶しています。
で、今回です。とても大きな厨子に納められ、西大寺における叡尊とその仏像の重要さがわかりました。しかし、暗かったし、あまり近づけなかったので、その表情まで見ることはできませんでした。
で、今回です。とても大きな厨子に納められ、西大寺における叡尊とその仏像の重要さがわかりました。しかし、暗かったし、あまり近づけなかったので、その表情まで見ることはできませんでした。
四王堂
西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王像をまつるお堂。たびたびの火災で焼失し、現在の堂舎は江戸前期の延宝2年(1674)の再建で、桁行3間、梁間2間、寄棟造の身舎の四周にもこしを廻らし二重風の建築となっている。堂舎周囲の版築基壇は創建当初の規模を伝えている。鎌倉時代の正安2年(1289)亀山上皇院宣で鳥羽上皇の御願寺であった京都白河十一面堂院の本尊・十一面観音立像(仏師圓信作)が客仏本尊として当堂に移されてまつられることとなり、それ以来、観音堂とも称する。現在の四天王像も鎌倉期以降の再造であるが、その足下に踏まれた邪鬼が奈良時代創建当初の姿を伝えている。(西大寺HPより)
【主な仏像】
・十一面観音立像
【主な仏像】
・十一面観音立像
※十一面観音立像について、四王堂でいただいた解説文を引用します。
「丈六以上にも及ぶ大像であり、右手に錫杖を執り、左手に華瓶を捧げた姿で長谷寺の本尊に倣ったもので、長谷寺式と称される形相である。元々は鳥羽院御願の法勝寺十一面堂の本尊であったが、法勝寺十一面堂が?莖倒し、像も顔面を除き破損したのを叡尊によって修復が行われ、正応2年(1289年)亀山上皇の院宣によって、西大寺四王堂に移安された。」
「丈六以上にも及ぶ大像であり、右手に錫杖を執り、左手に華瓶を捧げた姿で長谷寺の本尊に倣ったもので、長谷寺式と称される形相である。元々は鳥羽院御願の法勝寺十一面堂の本尊であったが、法勝寺十一面堂が?莖倒し、像も顔面を除き破損したのを叡尊によって修復が行われ、正応2年(1289年)亀山上皇の院宣によって、西大寺四王堂に移安された。」
【参考】西大寺とは(西大寺HPより)
◆奈良朝創建とその後
天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。
宝亀11年(780)勘録の『西大寺資財流記帳』によれば、創建当初の当寺は、平城京右京1条3・4坊に位置し、東西11町・南北7町、総計31町歩(約48ヘクタール)という広大な境域に、薬師・弥勒の両金堂をはじめ、東西両塔、四王院、十一面堂院などの百十数宇もの堂舎が甍を列ねた、いわゆる南都七大寺にふさわしい壮麗な大伽藍として聳えたっていました。
しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また災害にも再三みまわれ、急速に衰頽し、平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく一旦さびれてしまうことになりました。
◆鎌倉復興とその法燈
このように荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。叡尊上人は文暦2年(1235)に当寺に入住して、「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺は叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。
その後、室町時代には文亀2年(1502)の兵火により多くの堂塔を失うことになりましたが、江戸時代になって幕府から寄進された300石の寺領の下で諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となりました。また近代に入ると明治28年(1895)6月に当寺は内務省から「真言律宗」として独立認可を得て、更に大戦後は新たな宗教法人法の下で全国九十数ケ寺の末寺を統括する総本山となり、叡尊上人の創始した密律不二の「真言律」の法灯・由緒を今日に伝えています。
天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。
宝亀11年(780)勘録の『西大寺資財流記帳』によれば、創建当初の当寺は、平城京右京1条3・4坊に位置し、東西11町・南北7町、総計31町歩(約48ヘクタール)という広大な境域に、薬師・弥勒の両金堂をはじめ、東西両塔、四王院、十一面堂院などの百十数宇もの堂舎が甍を列ねた、いわゆる南都七大寺にふさわしい壮麗な大伽藍として聳えたっていました。
しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また災害にも再三みまわれ、急速に衰頽し、平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく一旦さびれてしまうことになりました。
◆鎌倉復興とその法燈
このように荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。叡尊上人は文暦2年(1235)に当寺に入住して、「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺は叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。
その後、室町時代には文亀2年(1502)の兵火により多くの堂塔を失うことになりましたが、江戸時代になって幕府から寄進された300石の寺領の下で諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となりました。また近代に入ると明治28年(1895)6月に当寺は内務省から「真言律宗」として独立認可を得て、更に大戦後は新たな宗教法人法の下で全国九十数ケ寺の末寺を統括する総本山となり、叡尊上人の創始した密律不二の「真言律」の法灯・由緒を今日に伝えています。