3月24日(金)から4泊5日の日程で香川県と奈良県を旅行しました。最終日の28日(火)は京都観光を予定していましたが、急きょ滋賀県の渡岸寺観音堂(向源寺)に行くことにしました。
近鉄奈良駅を午前6時半過ぎに出発し、京都駅、米原駅を経て北陸本線高月駅に着いたのは8時半頃でした。コインロッカーに荷物を預け、歩いて渡岸寺観音堂に向かいました。10分ほどで着いたので、拝観時間の9時までは少し時間がありました。しかし、受付の方がもう一人の案内の方に声かけしてくれて、その方に十一面観音菩薩立像の安置されている部屋まで案内してもらいました。そこでは、案内の方がこの仏像について、とても丁寧に説明してくれました。
(注)渡岸寺は寺名ではなく、地名です。
近鉄奈良駅を午前6時半過ぎに出発し、京都駅、米原駅を経て北陸本線高月駅に着いたのは8時半頃でした。コインロッカーに荷物を預け、歩いて渡岸寺観音堂に向かいました。10分ほどで着いたので、拝観時間の9時までは少し時間がありました。しかし、受付の方がもう一人の案内の方に声かけしてくれて、その方に十一面観音菩薩立像の安置されている部屋まで案内してもらいました。そこでは、案内の方がこの仏像について、とても丁寧に説明してくれました。
(注)渡岸寺は寺名ではなく、地名です。
渡岸寺観音堂
十一面観音菩薩立像(写真集「渡岸寺観音堂」をコピー、以下同じ)
檜一木造 像高195センチ 頭上の小仏面のいくつかと左のお手は共木で作りはめ込んだものである。
寺伝では、天平8年(736)当時全国的に天然痘が大流行し多くの人々が亡くなられた。また中央では権力闘争が激しく世情が不安であった。そこで、時の天皇、聖武天皇は奈良の都で大仏の建立を、また、地方から高僧を招かれて国家安康病気平癒を祈られた。その高僧の中のお一人に越前福井のご出身で加賀の白山で修行しておられた泰澄大師が奈良へお上りになる途中で作られたのがこの観音像と伝えている。しかし、いろんなことから考えてみると、平安時代前期(860年頃)、天台宗の影響を色濃く表わして造られた像であることは事実であり、そう考えると作者未詳といわざるを得ない。
この像は頂上仏面が菩薩相で、五体の化仏のある他は、きわめて儀軌に忠実であり、左右それぞれの一面を耳の後ろに大きく表現するなど密教像特有のインド的な感じを誠によく伝えている。
頂上面をのぞく宝髻(ほうけい)より蓮肉にいたるまで一木彫成で、その刀法は上から下へ、下から上へいささかも渋滞することなく冴えた彫りの美しさを表わしている。
また、眉から鼻にかけての秀麗な線、固く結ばれた唇など、その豊かな顔容には崇高な森厳さが秘められている。そして、わずかに腰をひねるような豊麗な姿態に仏身ながら官能的な量感を感じる。これらのことは、平安初期の様式を代表する優れた遺例とされている。
なお、他の十一面観音像に余り見られない特徴として3つの際だった特徴が上げられる。
‘上にぐるりと宝冠のように6面の小仏面を巡らせ、両耳の後ろと後頭部に3面、頂上仏も他より2倍近く大きな菩薩面(慈悲面)とし、本面とあわせて11面としている。頂上面が菩薩像になったので五智如来を配している。
小面の大きさも本面の大きさの割には大変大きく作られている。大きな小面としてはインドのカンヘーリー第41窟の四臂十一面観音(ごく初期の十一面観世音像)も大きな小面を持たれている。
◆ー?戻(じとう)という大きな耳飾りをつけている。この形が鼓の胴のような感じなので「鼓胴式耳?戻」という。インドのヒンズー教の三神のシヴァ神の耳に着いているが、菩薩像にはつけられていないと言われる。
お腰をぐっと「く」の字に曲げられたお姿は単立像では余り見られないお姿である。お姿が真っ黒になっているのは、今からおよそ440年前、元亀1~3年(1570-72)に、この地方に勢力を持っていた浅井長政と織田信長が戦った合戦の間にしばしば焼かれる災害に遭い、その都度土中に埋めて難を避けたと言われる。その時に貼っていた金箔、着色されていただろう色彩がすべて剥落してしまったと言われる。(写真集「渡岸寺観音堂」より、一部改編)
寺伝では、天平8年(736)当時全国的に天然痘が大流行し多くの人々が亡くなられた。また中央では権力闘争が激しく世情が不安であった。そこで、時の天皇、聖武天皇は奈良の都で大仏の建立を、また、地方から高僧を招かれて国家安康病気平癒を祈られた。その高僧の中のお一人に越前福井のご出身で加賀の白山で修行しておられた泰澄大師が奈良へお上りになる途中で作られたのがこの観音像と伝えている。しかし、いろんなことから考えてみると、平安時代前期(860年頃)、天台宗の影響を色濃く表わして造られた像であることは事実であり、そう考えると作者未詳といわざるを得ない。
この像は頂上仏面が菩薩相で、五体の化仏のある他は、きわめて儀軌に忠実であり、左右それぞれの一面を耳の後ろに大きく表現するなど密教像特有のインド的な感じを誠によく伝えている。
頂上面をのぞく宝髻(ほうけい)より蓮肉にいたるまで一木彫成で、その刀法は上から下へ、下から上へいささかも渋滞することなく冴えた彫りの美しさを表わしている。
また、眉から鼻にかけての秀麗な線、固く結ばれた唇など、その豊かな顔容には崇高な森厳さが秘められている。そして、わずかに腰をひねるような豊麗な姿態に仏身ながら官能的な量感を感じる。これらのことは、平安初期の様式を代表する優れた遺例とされている。
なお、他の十一面観音像に余り見られない特徴として3つの際だった特徴が上げられる。
‘上にぐるりと宝冠のように6面の小仏面を巡らせ、両耳の後ろと後頭部に3面、頂上仏も他より2倍近く大きな菩薩面(慈悲面)とし、本面とあわせて11面としている。頂上面が菩薩像になったので五智如来を配している。
小面の大きさも本面の大きさの割には大変大きく作られている。大きな小面としてはインドのカンヘーリー第41窟の四臂十一面観音(ごく初期の十一面観世音像)も大きな小面を持たれている。
◆ー?戻(じとう)という大きな耳飾りをつけている。この形が鼓の胴のような感じなので「鼓胴式耳?戻」という。インドのヒンズー教の三神のシヴァ神の耳に着いているが、菩薩像にはつけられていないと言われる。
お腰をぐっと「く」の字に曲げられたお姿は単立像では余り見られないお姿である。お姿が真っ黒になっているのは、今からおよそ440年前、元亀1~3年(1570-72)に、この地方に勢力を持っていた浅井長政と織田信長が戦った合戦の間にしばしば焼かれる災害に遭い、その都度土中に埋めて難を避けたと言われる。その時に貼っていた金箔、着色されていただろう色彩がすべて剥落してしまったと言われる。(写真集「渡岸寺観音堂」より、一部改編)
※特徴,砲弔い
他の十一面観音像の頂上仏を見るとたいていは如来像になっていますが、こちらは菩薩像になっています。だからこの頂上仏には五智如来が配されているのですね。
他の十一面観音像の頂上仏を見るとたいていは如来像になっていますが、こちらは菩薩像になっています。だからこの頂上仏には五智如来が配されているのですね。
※特徴について
腰をひねった姿を見て、秋篠寺の伎芸天像を思い出しました。こちらの十一面観音は腰を左に曲げていますが、秋篠寺の伎芸天は腰を右に曲げています。
腰をひねった姿を見て、秋篠寺の伎芸天像を思い出しました。こちらの十一面観音は腰を左に曲げていますが、秋篠寺の伎芸天は腰を右に曲げています。
※一見した時、ずいぶん黒いな、あるいは煤けてるなと思いました。しかし、この仏像の歴史を知り、よく現在まで残ったなと思いました。そして、この仏像を守り続けてきた人々に心から敬意を抱きました。
※渡岸寺観音堂の十一面観音菩薩立像は、井上靖の小説『星と祭』(1971)に登場します。以下、主人公がこの仏像を初めて見たシーンです。「古代エジプトの女帝」とは思いませんでしたが、この仏像にまつわる様々なことを知れば知るほど、この仏像に心惹かれるようになりました。
架山は初め黒檀か何かで作られた観音さまではないかと思った。肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そしてまた、仏像というより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように見えた。もちろんこうしたことは、最初眼を当てた時の印象である。仏像といった抹香臭い感じはみじんもなく、新しい感覚で処理された近代彫刻がそこに置かれてあるような奇妙な思いに打たれたのである。
◆グッズ・土産
・写真集「渡岸寺観音堂」
・写真集「渡岸寺観音堂」