6月22日(木)は旅行最終日。
京都駅8:32発・ひかり512号で米原へ。8:52米原駅着、トヨタレンタカー米原駅前店へ。ヴィッツをレンタルし、琵琶湖畔を北上、西野薬師堂へと向かいました。こちらの拝観は「要予約」なので、1週間ほど前に連絡しておきました。予定時間より早く着いたので、電話をして来ていただきました。(連絡先:090-8938-6369)
この日は西野薬師堂と石道寺(しゃくどうじ)、己高閣(ここうかく)、渡岸寺(どうがんじ)観音堂のそれぞれの十一面観音を見せていただきました。それぞれの施設に共通することは、その運営が地区の住民の方々によって行われているということです。仏像を守り続ける住民の方々に感謝しつつ、拝観させていただきました。
京都駅8:32発・ひかり512号で米原へ。8:52米原駅着、トヨタレンタカー米原駅前店へ。ヴィッツをレンタルし、琵琶湖畔を北上、西野薬師堂へと向かいました。こちらの拝観は「要予約」なので、1週間ほど前に連絡しておきました。予定時間より早く着いたので、電話をして来ていただきました。(連絡先:090-8938-6369)
この日は西野薬師堂と石道寺(しゃくどうじ)、己高閣(ここうかく)、渡岸寺(どうがんじ)観音堂のそれぞれの十一面観音を見せていただきました。それぞれの施設に共通することは、その運営が地区の住民の方々によって行われているということです。仏像を守り続ける住民の方々に感謝しつつ、拝観させていただきました。
正面奥が西野薬師堂、右が正妙寺(旧薬師堂)
西野薬師堂。薬師如来立像と十一面観音立像を安置。
かつて西野の小字寺山に天台宗の泉明寺(せんみょうじ)と称する寺があり、大友皇子の末裔・西野丹波守家澄が菩提寺として庇護したといわれます。その後度重なる戦乱により荒廃しましたが、村人によって守られてきました。堂内には、ふっくらとして穏やかな表情で肉付き豊かな十一面観音像とふくよかで目鼻立ちの整った相好の薬師如来像が安置されています。(「長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト」より)
十一面観音立像(購入した写真をコピー)
平安時代前期の本格的な造像、「西野薬師堂」に安置
高さ173.2cm、平安時代
ヒノキ材の一木造。丸い顔、量感豊かな胸や腹、太い衣文のひだや渦文(かもん)などの表現に、10世紀ころ制作された仏像の特徴がよくあらわれている。戦国時代、戦火によって堂宇を焼失、以後は地域の仏として「西野薬師堂」で薬師如来とともにまもられてきた。(『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』より)
高さ173.2cm、平安時代
ヒノキ材の一木造。丸い顔、量感豊かな胸や腹、太い衣文のひだや渦文(かもん)などの表現に、10世紀ころ制作された仏像の特徴がよくあらわれている。戦国時代、戦火によって堂宇を焼失、以後は地域の仏として「西野薬師堂」で薬師如来とともにまもられてきた。(『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』より)
正妙寺(旧薬師堂)。千手千足観音を安置(平成29年2月から)。
阿曽津伝説:琵琶湖岸の阿曽津とよばれる地に、かつて「阿曽津千軒」と呼ばれる大きな集落があった。いつの時代にか琵琶湖に大津波が起こって、この村は荒廃しついには湖中に沈んだ。このため阿曽津の村人たちは、山を越え、西野、松野(松尾)、熊野、東柳野、柳野中、西柳野、磯野の7カ村に移り住んだという。
湖東山正妙寺:阿曽津の土豪の子孫、阿曽津秀道の内室の守護仏である千手千足観音菩薩を安置するため、寛弘年間(1004-12)に観音堂は建設され、湖東山正妙寺と号したと伝えられる。建保年間(1213-19)この堂は、西野の西北部の字寺山の泉明寺の境内に移され、さらに天正年間(1573-91)には、西野丹波守家澄の子、秀方が「宮ヶ谷」へ移した。その後明治4年(1871)村人の願いにより、お堂を建て。奉安された。さらに平成29年(2017)現在地に移る。(正妙寺リーフレットより)
湖東山正妙寺:阿曽津の土豪の子孫、阿曽津秀道の内室の守護仏である千手千足観音菩薩を安置するため、寛弘年間(1004-12)に観音堂は建設され、湖東山正妙寺と号したと伝えられる。建保年間(1213-19)この堂は、西野の西北部の字寺山の泉明寺の境内に移され、さらに天正年間(1573-91)には、西野丹波守家澄の子、秀方が「宮ヶ谷」へ移した。その後明治4年(1871)村人の願いにより、お堂を建て。奉安された。さらに平成29年(2017)現在地に移る。(正妙寺リーフレットより)
十一面千手千足観音像(購入した写真をコピー)
像高42.1cm、構造は、寄木造り、玉眼がはめられ、三道彫出。像全体に漆箔が施され、髪は青色、口は朱色、歯は白色に彩色、憤怒相で眉目をいからせ、口を開き額には、縦に第三眼を刻む。頭上には、十一面観音のように、天冠台上に九面の菩薩面が横に並び、中央には、仏面が一段高く載る。
上半身は裸形で腰布を着し両脚は膝頭を出して直立する。本手は腰前に構えて、肘を張り、錫杖、左手に を執る。本像のような形相の像は他に全く例をみない。いかなる儀軌、根拠を反映しているのか詳らかではない。千足観音についての関係資料では、承澄撰の「阿裟縛(あさば)抄」(1205)に「千頭千手千足観音有之云々」とある。また、澄円撰「白宝抄」(1218)に千手千足観音像之在とある。また千足観音は、大津三井寺の経蔵に秘蔵されていたという。
しかし、いずれの史料にもその図像は掲載されていないため、本来の千足観音の形相は明らかでないが、千足観音が天台系密教に関係するものであることと想像に難しくない。
また、現本像は江戸時代の作であるが、本像のようなきわめて特殊な像が伝在するということは、よほどゆかりがあってのことと伺い知れる。(正妙寺リーフレットより)
上半身は裸形で腰布を着し両脚は膝頭を出して直立する。本手は腰前に構えて、肘を張り、錫杖、左手に を執る。本像のような形相の像は他に全く例をみない。いかなる儀軌、根拠を反映しているのか詳らかではない。千足観音についての関係資料では、承澄撰の「阿裟縛(あさば)抄」(1205)に「千頭千手千足観音有之云々」とある。また、澄円撰「白宝抄」(1218)に千手千足観音像之在とある。また千足観音は、大津三井寺の経蔵に秘蔵されていたという。
しかし、いずれの史料にもその図像は掲載されていないため、本来の千足観音の形相は明らかでないが、千足観音が天台系密教に関係するものであることと想像に難しくない。
また、現本像は江戸時代の作であるが、本像のようなきわめて特殊な像が伝在するということは、よほどゆかりがあってのことと伺い知れる。(正妙寺リーフレットより)
◆グッズ・土産
・写真3葉(薬師如来立像・十一面観音立像・十一面千手千足観音像)
・長寿開運桑樹箸
・写真3葉(薬師如来立像・十一面観音立像・十一面千手千足観音像)
・長寿開運桑樹箸