今日、ジャック・ロンドンの『野性の呼び声』(深町眞理子訳、2007)を読み終えました。
この作品について、巻末の信岡朝子(日本学術振興会特別研究員)による「解説」の一部を引用します。
この作品について、巻末の信岡朝子(日本学術振興会特別研究員)による「解説」の一部を引用します。
「野性の呼び声」と「ホワイト・ファング」という2作品の人気が突出しているためにしばしば誤解されがちだが、ロンドンという作家を考えるにあたって改めて思い起こさなくてはならないのは、彼が単なる〈動物もの〉の作家ではないという点である。むろん、「野性の呼び声」がロンドンの出世作となった要因は、19世紀後半のアラスカ・ツーリズムの展開や自然回帰運動の興隆、それに伴う〈動物もの〉の流行といった、同時代アメリカの様々な文化的・社会的背景とつながりを抜きにしては語れない。しかしその一方で、そうした同時代的なニーズから切り離された現代においても、ロンドンの作品は、多くの人々を魅了し続けている。
その理由の一つとして考えられるのは、やはりロンドンの、豊富な実体験や科学的知識に裏打ちされた自然描写の緻密さ、あるいは、その人間描写の巧みさであろう。とくに「野性の呼び声」という作品は、批評家たちの間では動物の物語である以上に、人間に関する寓話であり、〈文明批判〉の物語であるという解釈が一般的である。
カリフォルニアのミラー判事邸で王者として君臨していた雑種犬バックは、私欲に目がくらんだ使用人に盗み出され、橇犬(そりいぬ)として買い取られた後に、蒸気船でダイエイに渡り、そこからゴールドラッシュの中心地であるドーソンまでの橇引きの仕事に従事する。厳しい自然環境に適応し、複数の所有者の手を渡る中で、バックは次第に野生的な本能に目覚めていくのだが、その遍歴の中でもっとも印象深く思い出されるのは、3度めのドーソン行きの際に登場するハルとチャールズ、マーセデスの3人組であろう。犬橇の素人である3人は、バックたちに散々な仕打ちを加えた末に、無知ゆえに自ら窮地に陥り、解けはじめた川の氷の上を無理に進もうとしてついに橇ごと沈んでしまう。この醜態に読者は呆れ返りながらも、ハルたちと同じく、文明化された生活に慣れきってしまった自らを省みて、いたたまれないような複雑な共感を覚えるのではないだろうか。
このように、滑稽なまでに生々しい人間の醜さと愚かさを、冷徹な観察眼で鋭く描き出す手法は、幼少期から社会の底辺を歩き尽くしたロンドンならではのものであり、作家としての彼の真骨頂であろう。その意味で「野性の呼び声」という作品を、ロンドンの他の作品、とくに人間を描いた作品と引き比べて読んでみるのも、また面白い試みであるかも知れない。
たとえばこの物語は、過酷な環境に耐えて主人公が自立を目指すというプロットから、しばしばロンドンの境涯とあわせて解釈されるが、〈自伝的〉要素を含む作品としては、「マーティン・イーデン」や「ジョン・バーリコーン」、「ジャック・ロンドン放浪記」などもある。また、焚き火のそばでバックが見た〈毛むくじゃらの〉原始人の幻に、人類の進化に関するSF的作品「アダム以前」とのつながりを見ることもできよう。
あるいは、類まれな〈スーパー・ドッグ〉として成長するバックの姿に、ロンドンの、ニーチェの〈超人思想〉への傾倒を読み取る解釈がある一方、1904年に書かれた小説「海の狼」は、ロンドンがその超人思想を疑うために書いたといわれている。また、ルポルタージュである「どん底の人々」のような社会批判的な論考と、「野性の呼び声」のような物語世界との関連を考えるのも興味深い。
このように多彩な作品群によって織り成される、一筋縄ではいかないロンドンの複雑な世界観のただ中に「野性の呼び声」を置いてみると、時に〈単純な筋書き〉と評されるこの物語の、また違った側面を見出せるかも知れない。そして、一つ一つの作品のそうした読みの奥深さこそが、ロンドン作品の最大の魅力であるように思えるのである。(P221-223)
その理由の一つとして考えられるのは、やはりロンドンの、豊富な実体験や科学的知識に裏打ちされた自然描写の緻密さ、あるいは、その人間描写の巧みさであろう。とくに「野性の呼び声」という作品は、批評家たちの間では動物の物語である以上に、人間に関する寓話であり、〈文明批判〉の物語であるという解釈が一般的である。
カリフォルニアのミラー判事邸で王者として君臨していた雑種犬バックは、私欲に目がくらんだ使用人に盗み出され、橇犬(そりいぬ)として買い取られた後に、蒸気船でダイエイに渡り、そこからゴールドラッシュの中心地であるドーソンまでの橇引きの仕事に従事する。厳しい自然環境に適応し、複数の所有者の手を渡る中で、バックは次第に野生的な本能に目覚めていくのだが、その遍歴の中でもっとも印象深く思い出されるのは、3度めのドーソン行きの際に登場するハルとチャールズ、マーセデスの3人組であろう。犬橇の素人である3人は、バックたちに散々な仕打ちを加えた末に、無知ゆえに自ら窮地に陥り、解けはじめた川の氷の上を無理に進もうとしてついに橇ごと沈んでしまう。この醜態に読者は呆れ返りながらも、ハルたちと同じく、文明化された生活に慣れきってしまった自らを省みて、いたたまれないような複雑な共感を覚えるのではないだろうか。
このように、滑稽なまでに生々しい人間の醜さと愚かさを、冷徹な観察眼で鋭く描き出す手法は、幼少期から社会の底辺を歩き尽くしたロンドンならではのものであり、作家としての彼の真骨頂であろう。その意味で「野性の呼び声」という作品を、ロンドンの他の作品、とくに人間を描いた作品と引き比べて読んでみるのも、また面白い試みであるかも知れない。
たとえばこの物語は、過酷な環境に耐えて主人公が自立を目指すというプロットから、しばしばロンドンの境涯とあわせて解釈されるが、〈自伝的〉要素を含む作品としては、「マーティン・イーデン」や「ジョン・バーリコーン」、「ジャック・ロンドン放浪記」などもある。また、焚き火のそばでバックが見た〈毛むくじゃらの〉原始人の幻に、人類の進化に関するSF的作品「アダム以前」とのつながりを見ることもできよう。
あるいは、類まれな〈スーパー・ドッグ〉として成長するバックの姿に、ロンドンの、ニーチェの〈超人思想〉への傾倒を読み取る解釈がある一方、1904年に書かれた小説「海の狼」は、ロンドンがその超人思想を疑うために書いたといわれている。また、ルポルタージュである「どん底の人々」のような社会批判的な論考と、「野性の呼び声」のような物語世界との関連を考えるのも興味深い。
このように多彩な作品群によって織り成される、一筋縄ではいかないロンドンの複雑な世界観のただ中に「野性の呼び声」を置いてみると、時に〈単純な筋書き〉と評されるこの物語の、また違った側面を見出せるかも知れない。そして、一つ一つの作品のそうした読みの奥深さこそが、ロンドン作品の最大の魅力であるように思えるのである。(P221-223)
【感想等】
◆先月、柴田元幸編訳『犬物語』収録の「野性の呼び声」を読みました。おもしろかったので、深町訳も読んでみようと思いました。
深町訳はとても読みやすく、物語の流れもよく分かりました。この本の巻頭にあるクロンダイク地方の地図が、作品を理解する上でとても役立ちました。
◆信岡朝子の「解説」にもありますが、バックの3度目のドーソン行きに登場するハルとチャールズ、マーセデスの3人組の、無知ゆえの橇犬への虐待と哀れな最期が心に引っかかります。
3人は夫婦と妻の弟という親族で、クロンダイクのゴールド・ラッシュで一攫千金を狙って北方の地にやって来ましたが、その地の自然の厳しさを甘く考えていました。それに、他者から学ぼうという謙虚さもありませんでした。彼等は自業自得かもしれませんが、道ずれにされた橇犬達がかわいそうです。
◆先月、柴田元幸編訳『犬物語』収録の「野性の呼び声」を読みました。おもしろかったので、深町訳も読んでみようと思いました。
深町訳はとても読みやすく、物語の流れもよく分かりました。この本の巻頭にあるクロンダイク地方の地図が、作品を理解する上でとても役立ちました。
◆信岡朝子の「解説」にもありますが、バックの3度目のドーソン行きに登場するハルとチャールズ、マーセデスの3人組の、無知ゆえの橇犬への虐待と哀れな最期が心に引っかかります。
3人は夫婦と妻の弟という親族で、クロンダイクのゴールド・ラッシュで一攫千金を狙って北方の地にやって来ましたが、その地の自然の厳しさを甘く考えていました。それに、他者から学ぼうという謙虚さもありませんでした。彼等は自業自得かもしれませんが、道ずれにされた橇犬達がかわいそうです。