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my 見仏記56~京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ

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 今日、上野の東京国立博物館に特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」(10月2日~12月9日)を見に行って来ました。
 2016年5月に大報恩寺(千本釈迦堂)を訪れ、霊宝殿(宝物館)に安置された六観音菩薩像や十大弟子立像を間近に見ることができました。しかし、仏像の素晴らしさに比して展示スペースに少なからず物足りなさを感じていました。
 今回の展示はとても素晴らしいと思います。「釈迦如来坐像」を中心に「十大弟子立像」を配した第2室。「六観音菩薩像」を横一列に配した第3室。いずれも広々とした空間で、仏像を360度から見ることが出来ます。また、「六観音菩薩像」のうち、聖観音菩薩立像だけですが、写真撮影が許されるのもよかったです。

 今日は早めに行ったので、この展覧会の開会と同時に入場することが出来ました。会場の平成館に入り、エスカレーターで2階に行くと、そこでは大報恩寺のお坊さんと、なんと! 2人の舞妓さんが出迎えてくれました。テンションが上がりました。
 10月30日からは「六観音菩薩像」の光背が外されます。大報恩寺では後方からは見られませんし、ましてや光背を外した姿など見られません。10月30日以降、再度見に行こうと思います。

◆開催趣旨(展覧会リーフレットより)
鎌倉彫刻の宝庫・大報恩寺から珠玉の「慶派」がそろい踏み!
 千本釈迦堂の名で親しまれる京都の大報恩寺は、鎌倉時代の1220年(承久2年)に、義空上人が開創した古刹です。人々の協力を得ながら、次第に寺観が整えられ、その後は天皇からお墨付きを得た御願寺(ごがんじ)として認定され、高い格式を誇りました。
 本尊は、快慶の一番弟子、行快(ぎょうかい)が制作した釈迦如来坐像で、行快の代表作の一つです。釈迦如来坐像に侍り立つのは、あまたの釈迦の弟子から選りすぐられた10人の僧侶の像。この十大弟子立像は、快慶の最晩年の作として知られています。またこのほかに、運慶晩年の弟子・肥後定慶による六観音菩薩菩薩像がそろって残されているのも、稀有なことといえるでしょう。
 本展覧会では、これら大報恩寺に伝わる「慶派」の名品の数々を紹介いたします。運慶同世代の快慶、そして運慶次世代の名匠による鎌倉彫刻の競演をお楽しみください。(太字は引用者)

◆大報恩寺(展覧会リーフレットより)
 鎌倉時代の1220年に義空上人によって発願された真言宗智山派の寺院で、2020年に開創800年を迎えます。京都では「千本釈迦堂」の名で親しまれており、その名の由来は、秘仏本尊「釈迦如来坐像」が祀られる本堂が、貴族から庶民まで幅広い信仰を集めた釈迦信仰の中心地であり、近くに京都を南北に縦断する千本通りがあることにもとづくようです。本堂は、応仁の乱をはじめとする幾多の戦火を免れ、洛中(京都市内)最古の木造建築物として国宝に指定されています。境内中央にある大きな枝垂桜(しだれざくら)京の春に彩りを添え、2月の「おかめ福節分」、3月の「釈迦念仏」、12月の「大根だき」などの年中行事は、地元だけでなく多くの観光客にも親しまれる風物詩となっています。「おかめ」発祥の地としても知られており、大報恩寺にお参りすると、縁結び、夫婦円満、子授けにご利益があると言われています。

◆慶派(『角川 新版日本史辞典』より)
 平安後期から江戸時代にかけて活躍した仏師の一派。康慶・運慶父子や快慶・定慶(じょうけい)など草創期に名手が輩出し、慶の字がつく名が多かったことから「慶派」とよばれる。平安中期以来の定朝様から離脱し、奈良時代への復古と同時に新しい宋朝風も摂取して、斬新な写実的作風を生みだした。運慶の後も湛慶(たんけい)・康弁・康円らが続き、南都(奈良)では興福寺大仏師職(しき)、京都では東寺大仏師職を相承し、七条仏所を形成して造仏界の主流をなした。


 以下、印象に残った仏像を紹介します。写真は図録及び絵ハガキをコピーしました。ただし、聖観音菩薩立像は撮影可能だったので、iPhone8で撮りました。

釈迦如来坐像
 行快作 木造・金泥塗り・漆箔 像高89.3cm 鎌倉時代・13世紀 大報恩寺

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 大報恩寺の秘仏本尊、釈迦如来坐像は、本堂内陣須弥壇(しゅみだん)上の厨子内に安置されている。台座は蓮華九重座、光背は透かし彫りの周縁部をともなう二重円相光で、また厨子の天井中央には天蓋が吊るされているが、これらはすべて造像当初のものがのこされている。
 本像は、像高が89.3cm(約3尺)の等身坐像である。像内には全面的に黒漆が塗られており、背面下端には「巧匠/法眼行快」と朱書銘がある。鎌倉時代を代表する仏師、快慶(?~1227年以前)の一番弟子、行快(生没年不明)の自筆署名の可能性が高く、行快が法眼(ほうげん)という僧位にあったときに造られたものである。京都・極楽寺の阿弥陀如来立像納入品から、少なくとも嘉禄3年(1227)8月頃には行快は法橋(ほっきょう)位にあったことが知られており、本像はこれ以降に造られたことになる。師匠快慶の死後のことであった。

 本像は、横に張り出す丸みの強い面部、強く目尻が上がった目など、行快らしさが随所にあらわれており、快慶の作風を踏襲していた、法橋時代のおとなしい作風とは大きく変化している。むしろ、文暦2年(1235)頃の滋賀・阿弥陀寺の阿弥陀如来立像の顔立ちに近い。この阿弥陀寺像の納入品のうち、膨大な人数の結縁(けちえん)者の名前を記した結縁交名(きょうみょう)には、大報恩寺の開祖義空(1171~1241)やその師澄憲(1126~1203)の名が見えている。また、これらの結縁交名の執筆者は義空の没後に大報恩寺を継いだ澄空(生没年不明)であった。行快が阿弥陀寺像の造立にたずさわったのは、大報恩寺の造像に従事していた縁によるものであろう。

 力強い印象を受ける本像の表情には、行快がみずからの作風を模索し始めたことを感じさせる。足のふくらはぎは衣の下の肉体の存在をあまり感じさせず、快慶の坐像の脚部とよく似ている。一方、左足首付近に重ねられるV字形の特徴的な衣文は、運慶の長男、湛慶(1173~1256)周辺の作との見方が強い、元仁2年(1224)に供養された京都・西園寺の阿弥陀如来座像の脚部に見られるものと類似する。行快と湛慶はほぼ同世代に属しており、晩年の快慶と湛慶はともに仕事をすることが多かったため、快慶の右腕だった行快がこうした目新しい表現を取り入れたとしても不思議ではない。(『図録』作品解説より)

※快慶の弟子・行快作の「釈迦如来坐像」は大報恩寺の本尊で、秘仏のため、なかなか見ることはできません。今回、寺外初公開ということで初めて見ることができました。鎌倉時代(13世紀)の制作なのに、金泥塗りが褪せておらず、その美しさを保っていました。切れ長で、目尻が上がった目が印象的で、とても心惹かれます。


十大弟子立像
快慶作 木造・彩色・截金(きりかね)・玉眼 像高94~99.8cm 鎌倉時代・13世紀 大報恩寺

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 数多くいた釈迦の弟子のなかでも、とりわけ優れた人物を10人とりあげて、十大弟子と呼ぶ。ところが、その姿に決まりはなく、それぞれの名前を特定するのはむずかしい。大報恩寺像も名前は寺伝に頼るほかないが、10躯が完存する十大弟子の遺品として貴重である。本堂の棟木(むなぎ)(安貞元年[1227]の銘あり)に残された義空の願文によれば、「等身釈迦如来、弥勒、文殊、十大弟子形像」として安置されたようだ。

 老若が巧みに表わされ、表情も個性的で迫真的な表現に秀でている。それぞれ頭体幹部を一材から彫り出したのち、前後に割り放して内刳(うちぐ)りをほどこす割矧造(わりはぎづくり)の技法が用いられる。作風には違いもあるが、入念な彩色も統一がとれており、ひと揃いの作であることはまちがいない。作者については像に記された銘文から推測できる。目?墓連(もくけんれん)は、右足ほぞの外側に「巧匠/法眼快慶」と、優婆離(うばり)は像内の額裏に「法眼/快慶/兵◻◻/行快/法橋◻」と墨書されており、快慶工房の作とみてよい。快慶は行快などの弟子とともに制作にあたったのだろう。製作時期については、発願された承久元年(1219)から、仮堂が建った同2~3年頃が想定できる。これは、快慶が高位の仏師に与えられる「法眼」の称号を使っている時期や、目?墓連の台座に残る藤原朝臣忠行という貴族の肩書ともおおむね一致する。快慶は嘉禄3年(1227)には亡くなっていることがわかるため、その最晩年の作といえる。(『図録』作品解説より)

※快慶の弟子・行快作の「釈迦如来坐像」を中心に、快慶の「十大弟子立像」が周囲に配されていました。この展示方法がよかったのだと思います。大報恩寺の霊宝殿で見た時はあまり心を動かされなかった「十大弟子立像」に興味が湧いてきました。次回の見仏記にはこの十大弟子について書こうともいます。


六観音菩薩像
 肥後定慶作 木造・素地・玉眼 鎌倉時代・貞応3年(1224) 大報恩寺

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聖観音菩薩立像 像高178cm

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千手観音菩薩立像 像高179.5cm

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馬頭観音菩薩立像 像高175.2cm

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十一面観音菩薩立像 像高181.6cm

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准胝(じゅんてい/じゅんでい)観音菩薩立像 像高175.6cm

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如意輪観音菩薩立像 像高96.5cm

 現在、霊宝殿に安置される六観音菩薩像は、寛文10年(1670)に、京都・北野天満宮大鳥居の南にあった願成就寺経王堂から、地蔵菩薩立像とともに大報恩寺に移された。応永8年(1401)に建てられた経王堂に安置される以前の伝来は不明である。
 本像には合計8巻の経巻が納められており、馬頭観音と如意輪観音の納入経の奥書に、貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久(もちひさ)と妻の藤氏の名が見出された。また、准胝観音の像内背面に記された墨書銘には、同年紀と「肥後別当定慶」の署名があり、本像が貞応3年に「肥後別当定慶」あるいは「肥後法橋定慶」と呼ばれた仏師によって造られたことが判明した。鎌倉時代前期に定慶という名の仏師は少なくとも4人いることが知られるが、この定慶は、運慶の長男湛慶よりも10歳ほど若い運慶一門の仏師である。

 各像における着衣の形式や彫法はそれぞれに違った個性をもつものだが、いずれも定慶風を志向しており、定慶が全体の統率者だったと考えられる。なかでも定慶作の准胝観音は抜群の出来栄えを示しており、運慶の造形を基調としながら、平安時代に遡る古像の諸形式を取り入れ、また同時代の中国作品を意識するなど、独自の作風をもつものである。束ねた髪束の毛先が冠の台にからみつくような複雑な動きを見せる点や、衣がはらむ空気を感じさせる、ダイナミックな翻転のある衣文表現などに、定慶の彫技の真骨頂がうかがえる。定慶の作風は、この後、さかんに踏襲されるようになっていく。

 六観音はいずれも針葉樹のカヤを用いた一木造、ないしは一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)である。木肌を表わした素地(きじ)仕上げとし、目には玉眼を入れている。カヤという用材の選択や一木造(その一種の一木割矧造)という技法を用いていることから、本来白檀(びゃくだん)で造られる檀像を強く意識して造られたものと考えられる。鎌倉時代において檀像は、仏教発祥の地であるインドに由緒をもつ霊験仏と認識されており、定慶は、檀像やカヤによる代用檀像の造形や技法を採用することによって、実在感を感じさせる霊験あらたかな仏像を生み出そうとしたのである。(『図録』作品解説より)

※大報恩寺では、本尊「釈迦如来坐像」以外の重要文化財の仏像を霊宝殿に安置しています。さまざまな事情や理由はあると思いますが、東寺の立体曼荼羅や三十三間堂の千体千手観音立像が素晴らしいのはそこにあるからだと思います。
 大報恩寺の展示をトーハクのそれと比べるのは酷ですが、トーハクの展示によって「六観音菩薩像」も「十大弟子立像」も何倍も素晴らしく見えました。
 解説文に「各像における着衣の形式や彫法はそれぞれに違った個性をもつものだが、いずれも定慶風を志向しており、定慶が全体の統率者だったと考えられる」とあります。つまり、観音像6体すべてを定慶が一人で造ったのではなく、彼と弟子たちが共同制作したものだということです。ただ、解説文に「なかでも定慶作の准胝観音は抜群の出来栄え」とあるので、次回は准胝観音立像と他の5体の違いを見てみようと思います。


◆グッズ・土産
・図録『特別展 京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』
・絵ハガキ
※図録のカバー写真がとてもいいです。

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