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笠間日動美術館「藤田嗣治と陽気な仲間たち」

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 今日、笠間日動美術館「日仏友好160周年・没後50年 藤田嗣治と陽気な仲間たち」(10月6日~12月16日)を見に行ってきました。
 藤田嗣治(ふじたつぐはる)を最近まで「ふじたつぐじ」と読んでいたくらいですから、彼の画業については「乳白色の肌」の裸婦像と、とても個性的な自画像くらいしか印象にありませんでした。今回、彼の作品をまとめて見ることができ、彼の作品を理解するきっかけになったように思います。なお、「陽気な仲間たち」の作品では、黒田清輝「厨房」が印象に残りました。
 今週末、京都に行く予定なので、京都国立近代美術館で開催中の「没後50年 藤田嗣治展」(10/19~12/16)を見に行こうと思います。

◆開催趣旨(笠間日動美術館HPより)
 1913年に渡仏した藤田嗣治(1886-1968)は芸術の都パリで研鑽を重ね、乳白色の絵肌に日本の筆で線描する画風を確立します。藤田は、その芸術のみならず、独特の風貌と洒脱な言動で、社交界においても華々しく活躍しました。アトリエには日本人画家も多く訪れ、海老原喜之助、高野三三男らからは「オヤジ」と呼び慕われたと言われています。第二次大戦中は祖国で制作を行いましたが、戦後は渡仏し、パリ時代を彷彿とさせる女性像や可愛らしい子どもの肖像を明るい色彩で描きました。1955年には帰化し、カトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと改名しています
 本展では、藤田を中心にエコール・ド・パリの画家や日本人画家の作品を4つの章に分けて展示します。これらの作品から動乱の時代をともに生きた画家たちとの交流をたどり、日仏両国で名声を得た藤田嗣治の生涯を紐解くものです。

◆藤田嗣治(Wikipediaより)
 1886-1968。日本生まれの画家・彫刻家。第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ。


 以下、藤田嗣治の作品を紹介しようと思いましたが、この企画展の図録がなかったので、紹介可能なものをコピーしました。

藤田嗣治「夢」(1956、53.9×80.9cm、笠間日動美術館HPより)
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藤田嗣治「春の二人の乙女」(1954、63×49.2cm、展覧会リーフレットをコピー)
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 以下、常設展(フランス館)で印象に残った絵を紹介します。

ピエール=オーギュスト・ルノワール「泉のそばの少女」(1887、41×32.5cm、図録をコピー)
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 〈泉のそばの少女〉は印象派の画家ピエール・オーギュスト・ルノワールの、46歳の頃の油彩画です。
 その制作時からさかのぼること23年前、ルノワールは1874年の第1回印象派展に作品を出品しました。このときにはすでに印象派の画家クロード・モネやエドゥワール・マネたちと親交を結んでいました。30歳代のルノワールは、〈ブランコ〉や〈ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場〉など、印象派の絵画として有名な作品を、次々と発表していきます。
 ルノワールが印象派の技法に疑問を持ち始めたのは、1880年代前半からです。彼はルネサンスの古典主義的な作風を探求し、独自の技法を追求しました。そして1883年に、パリのデュラン・リュエル画廊で個展をひらいて名声を得、1886年にはアメリカで開催された展覧会でも好評を博しました。

 この時期、ルノワールは「母性」シリーズとしてたくさんの女性像や裸婦像を活発に描き続けています。そして1887年に、「大水浴図」として知られる裸婦群像の習作シリーズを完成させたのです。この代表作は現在、ルーブル美術館に収蔵されています。
 「大水浴図」の完成と同時期に描かれた〈泉のそばの少女〉は、ルノワールがその生涯で描いた2000点以上の女性像の中でも、最も充実した時期に描かれた1点だと言えます。
 ルノワールは次のように語っています。
「私が好きなのは皮膚だ。若い女性の、ピンク色で血のめぐりのいい皮膚なのだ。しかし何といっても好きなのは、健やかさなのだ」と。
 〈泉のそばの少女〉には、ルノワールが求めて止まなかった女性の肌の理想的な表現が、遺憾なく発揮されています。(笠間日動美術館HPより)



エドガー・ドガ「舞台の袖の踊り子」(1900-05頃、80×105cm、iPhone8で撮影)
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 ドガは「踊り子」の画家として広く知られています。彼がこの主題に真剣に取り組むようになるのは40歳の頃でした。劇場に足しげく通い、舞台、舞台の袖、楽屋踊り子たちの生き生きとした一瞬の姿をとらえて描き、巨匠としての地位を築いていったのです。
 ドガは、入念にデッサンを重ね、室内で作品を制作しました。写実的な描写や独特な構図は、写真や日本の浮世絵などの斬新な構図に影響を受けたためと考えられています。百点を越す浮世絵をコレクションし、寝室にも飾っていたと云われています。
 ドガはパリの裕福な家庭に生まれましたが、1874年、彼が40歳のときに、銀行家の父親が死去してからは莫大な借金をかかえました。この年は、ドガが第1回印象派展に作品を出品した年でもあります。ドガは、道行くパリジェンヌが振り返るようなハンサムでしたが、一度も結婚せずに毎日デッサン帖をかかえて、パリの街の様々な階層の人々の姿をスケッチしてまわりました。ですが、50歳頃になって、日に日に視力を失っていきます。
 〈舞台の袖の踊り子〉は、ドガが制作を断念する直前に描かれたパステル画です。この絵を描いたころのドガは、ほとんど目が見えなくなっていました。ドガはこう語っています。「目に見えるものを模写することは大いに結構だが、記憶のなかに依然として見えるものだけを描くのはいっそう好ましい。そこで、想像力が記憶と共同するのだ。それから感銘を受けたもの、いわば本質的なものだけを再現すればよい。そうすれば、記憶と空想は自然の圧制から自由になるのだ」と。
 かつて、踊り子たちを目の前にし、入念にデッサンをして、〈ダンス教室〉〈踊りの花形〉(オルセー美術館蔵)などの名作を描いたドガ。彼がその晩年に描いた〈舞台の袖の踊り子〉は、それらの名作以上に、「本質的なものだけを再現した」作品だとも言えましょう。(笠間日動美術館HPより)



フィンセント・ファン・ゴッホ「サン=レミの道」(1889-90、33.5×41.2cm、図録をコピー)
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 オランダの画家。1853~90年。
 牧師の子。初め画商の雇人として働き、やがて宗教的情熱に燃えて伝道師となりますが、1880年、画家への転向を決意。それからほとんど独学で絵の勉強が始まりました。
 オランダ時代は暗い色調で農夫や労働者や風景を描きました。この時期の代表作は〈馬鈴薯を食べる人びと〉。
 1886年、パリにでて印象派や日本の浮世絵の強い影響を受け、明るい色調に転じました。1888年、南仏アルルに移り、ここで独自な画風がうち立てられました。同年、パリから来たゴーギャンとの共同生活が始まりますが、二人の間にいざこざが生じ、悲惨な犲切り事件瓩起こりました。
 精神発作がつのり、1889年、サン=レミの精神病院に入院。〈サン=レミの道〉は、この時期の作品です。色彩は、まるで南仏の太陽の強さに伝染したかのように輝き、躍動的な筆致によって画家の精神の鼓動が感動的に伝わってきます。狂気のなかにあって、作品は明るく健康的です。
 90年、ピストル自殺。彼の残した多くの作品は、現代においてもなお非常に大きい影響力を持っています。(図録より、一部改編)



藤田嗣治「家族」(1923、146×114cm、図録をコピー)
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 日本で生まれフランスで活躍した画家。1886~1968年。
 1910年、東京美術学校を卒業後、13年、パリに渡り、ピカソやモディリアーニらと知り合い、画業に励みました。苦しい時期が続きましたが、やがて乳白色のすべすべした絵肌に線描する独自な画風をつくりだしました。19年にはサロン・ドートンヌの会員、2年後、審査員に推挙され、一躍エコール・ド・パリの寵児となりました。
 20年代から30年にかけて肖像画、裸婦画、静物画など制作しました。〈家族〉は、この時期の作品ですが、若き日の藤田の面影を知ることができます。繊細な線描と入念なシックな色調には、ヨーロッパ絵画と日本の伝統的な表現技法との高度な調和と総合がみられます。
 29年、一時、帰国しますが、ふたたびパリに渡ります。その間、国内の画壇では、34年、二科会会員、41年、帝国芸術院会員となりました。戦後、49年にアメリカを経てフランスに渡り、55年、フランスに帰化。晩年は、フランスのノートル=ダム・ド・ラ・ぺ礼拝堂の壁画制作に没頭しました。素描力にすぐれ、一貫して細い線描を特色としました。(図録より、一部改編)



マルク・シャガール「村の通り(赤い家並)」(1937-40頃、52.8×65.1cm、図録をコピー)
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 ロシア出身のフランスの画家。1887~1985年。
 ユダヤ人の家庭に育ち、少年期をユダヤ人社会の独特な宗教的環境に育ちました。
 1907年、ペテルスブルクの帝室美術学校に学び、10年、パリにでて、フォーヴィスムやキュビスムの芸術家たちと親交を結びました。この時期の作品には、郷里ヴィテブスクの思い出を描いたものが多く、〈わたしと村〉などが、その代表作です。
 第一次大戦中、ロシアに帰りましたが、22年には故国を離れ、翌年、ふたたびパリに移住。それ以後、パリを拠点として制作を続けました。
 第二次大戦には、戦禍を避けてアメリカに渡り、47年、パリに帰り、南仏ヴァンスに居をかまえて、石版画やステンドグラスの下絵にも、すぐれた制作を残しています。
 〈村の通り(赤い家並)〉は、ナチスのユダヤ人迫害と戦争の危機が迫った時期の作品です。それだけに、いっそうシャガールはロシアへの望郷の念をつのらせるのでした。豊かなイメージと華麗な色彩感覚に導かれる幻想的な世界には、ユダヤ人社会で培われた少年期の記憶と詩的体験があります。幻想世界も、彼にとっては目に見えない現実なのです。(図録より、一部改編)



アンディ・ウォーホル「H婦人像」(1975、107.5×107.5cm、図録をコピー)
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 アメリカの画家、版画家、映画作家。1928~87年。
 1945年から49年にかけて工業研究所で絵画デザインを学んだ後、ニューヨークで商業デザイナーとして活躍。52年、初個展。50年代を通じて独自なデザイン、ドローイングの作品をつくっていましたが、60年代の初め、ポップ・アートのもっとも独創的な作家として現れ、アメリカ内外でスター的な知名度を得るようになりました。
 彼は人気スターのグラビア写真、漫画、大衆消費財の広告の絵図といった大衆的な商業美術から主題をとり、それを芸術作品に変えてしまうのです。コカ・コーラの瓶、キャンベル・スープなどの連作は、シルクスクリーン、マルチメディアを駆使して、絵画の実験を試みたものです。さらに現実の出来事や映画やテレビのイメージ、たとえばマリリン・モンローの写真などを駆使した作品を制作しました。
 <H夫人像>もシルクスクリーンの技法に基づき、アクリルで彩色したものですが、ポップ・アートの没個性的な非人称性をよくあらわしています。
 60年代の中頃から、彼はアンダーグランドの映画も制作しました。(図録より、一部改編)



◆グッズ・土産
・図録『笠間日動美術館名作選』
・絵ハガキ

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