明治27年(1894)、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計の「三菱一号館」が竣工しました。全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられていました。昭和43年(1968)、三菱一号館は老朽化のために解体されましたが、平成21年(2009)、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地によみがえりました。平成22年春、三菱一号館は「三菱一号館美術館」として生まれ変わりました。(三菱一号館美術館HPより、一部改編)
今日、東京・丸の内にある三菱一号館美術館に「フィリップス・コレクション展」(10月17日~2019年2月11日)を見に行ってきました。
「全員巨匠!」がこの展覧会のキャッチフレーズです。確かに有名な画家たちの作品ばかりのようです。でも、それらの画家の代表作があるかっていうと、そうでもないようです。(これはこの展覧会に限ったことではないと思います。)ただし、フィリップス・コレクションの優れたところは、一目でその画家の作品とわかる、その画家の典型的な作品を集めているところだと思います。
で、しばらく躊躇しましたが、この展覧会の特設サイトの作品紹介を見て、実際に見てみることにしました。
三菱一号館美術館が「19世紀後半から20世紀前半の近代美術」を展示する美術館だということを知りませんでした。これは僕の絵画の嗜好とピッタリですし、今日フィリップス・コレクション展を見て、抽象絵画は苦手ってことも自覚しました。
今日一番の収穫は、ドガの「稽古する踊り子」に出会えたことです。古風で、こじんまりした展示室でこの絵を見たとき、その色彩と構図に惹きつけられました。また、ボナールの作品を4点も見られたし、ゴッホの2作品もいいなと思いました。
この展覧会は2月までやっているので、1月にまた行こうと思います。
「全員巨匠!」がこの展覧会のキャッチフレーズです。確かに有名な画家たちの作品ばかりのようです。でも、それらの画家の代表作があるかっていうと、そうでもないようです。(これはこの展覧会に限ったことではないと思います。)ただし、フィリップス・コレクションの優れたところは、一目でその画家の作品とわかる、その画家の典型的な作品を集めているところだと思います。
で、しばらく躊躇しましたが、この展覧会の特設サイトの作品紹介を見て、実際に見てみることにしました。
三菱一号館美術館が「19世紀後半から20世紀前半の近代美術」を展示する美術館だということを知りませんでした。これは僕の絵画の嗜好とピッタリですし、今日フィリップス・コレクション展を見て、抽象絵画は苦手ってことも自覚しました。
今日一番の収穫は、ドガの「稽古する踊り子」に出会えたことです。古風で、こじんまりした展示室でこの絵を見たとき、その色彩と構図に惹きつけられました。また、ボナールの作品を4点も見られたし、ゴッホの2作品もいいなと思いました。
この展覧会は2月までやっているので、1月にまた行こうと思います。
◆見どころ(展覧会特設サイトより)
米国で最も優れた私立美術館の一つとして知られるワシントンのフィリップス・コレクションは、裕福な実業家の家庭に生まれ、高い見識を持つコレクターであったダンカン・フィリップス(1886-1966)の旧私邸であった場所に位置しています。2018年には創立100周年を迎えます。1921年にはニューヨーク近代美術館よりも早く、アメリカでは近代美術を扱う最初の美術館として開館しました。
フィリップスの常に鋭い取捨選択によって、コレクションの中核をなす作品群はいずれも質の高いものばかりです。本展では、この世界有数の近代美術コレクションの中から、アングル、コロー、ドラクロワ等19世紀の巨匠から、クールベ、近代絵画の父マネ、印象派のドガ、モネ、印象派以降の絵画を牽引したセザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点を展覧します。
フィリップスの常に鋭い取捨選択によって、コレクションの中核をなす作品群はいずれも質の高いものばかりです。本展では、この世界有数の近代美術コレクションの中から、アングル、コロー、ドラクロワ等19世紀の巨匠から、クールベ、近代絵画の父マネ、印象派のドガ、モネ、印象派以降の絵画を牽引したセザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点を展覧します。
◆フィリップス・コレクションについて(展覧会特設サイトより)
ダンカン・フィリップスは、米国ペンシルベニア州の鉄鋼王を祖父に持ち、類いまれなフィリップス・コレクションを築いた。1921年、首都ワシントンにある19世紀建築の私邸に増築した大きな天窓のある一室で、亡き父と兄を称える美術館、フィリップス・メモリアル・アート・ギャラリーを開館。
妻で画家のマージョリー・アッカーと共に、印象派の絵画や存命の芸術家たちの作品をくつろいだ雰囲気の中で鑑賞できる場を作り上げた。本展では19世紀以降の作品を展示し、フィリップスの蒐集へのアプローチやモダニズムに対する見方に焦点を当てる。フィリップスは1966年に亡くなったが、その精神はフィリップス・コレクションに受け継がれており、現在、同コレクションは4,000点以上の作品を所蔵している。
妻で画家のマージョリー・アッカーと共に、印象派の絵画や存命の芸術家たちの作品をくつろいだ雰囲気の中で鑑賞できる場を作り上げた。本展では19世紀以降の作品を展示し、フィリップスの蒐集へのアプローチやモダニズムに対する見方に焦点を当てる。フィリップスは1966年に亡くなったが、その精神はフィリップス・コレクションに受け継がれており、現在、同コレクションは4,000点以上の作品を所蔵している。
◆三菱一号館美術館について(公式HPより、一部改編)
平成22年(2010)春、東京・丸の内に開館。JR東京駅丸の内南口改札から徒歩5分。
19世紀後半から20世紀前半の近代美術を主題とする企画展を年3回開催。
赤煉瓦の建物は、三菱が明治27年(1894)に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したもの。
コレクションは、建物と同時代の19世紀末西洋美術を中心に、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、オディロン・ルドン、フェリックス・ヴァロットン作品等を収蔵。
19世紀後半から20世紀前半の近代美術を主題とする企画展を年3回開催。
赤煉瓦の建物は、三菱が明治27年(1894)に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したもの。
コレクションは、建物と同時代の19世紀末西洋美術を中心に、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、オディロン・ルドン、フェリックス・ヴァロットン作品等を収蔵。
以下、印象に残った絵をいくつか紹介します。(図録「カタログ」順、写真は展覧会特設サイトより、解説は図録「作品解説」より)
◆オノレ・ドーミエ(1808-79)「蜂起」(1848以降、87.6×113cm)
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ダンカン・フィリップスが自ら所蔵するドーミエのなかでもっとも優れた作品と考えたのが本作《蜂起》であった。長い間忘れられていたこの作品が市場に出た際、フィリップスはこの機に乗じてこれを入手したが、彼はその時のことを、「ルーヴル美術館が慎重に検討を重ねているあいだに、この作品を発送するよう電報を打ったのだ」と満足げに回想している。彼が本作を「コレクションのなかでもっとも優れた作品」と評したのは1度ではなかった。
ドーミエが制作した比較的数の少ない大型作品である本作は、おそらくルイ=フィリップの王政が崩壊した1848年の二月革命から着想を得た。フィリップスは画面中央の人物を「名もなき無数の戦いを支えた名もなき平凡な担い手」と呼び、「前進する群衆があらわすのは、波のように高まる民主主義への機運・・・・自由の歴史における叙事詩的運動だ」と説明している。
様式的観点から、本作は1850年代後半にドーミエによって描かれ、その後別の画家によって手が加えられたと考える研究者たちもいる。フィリップスは、このような後の加筆があったにせよ、この絵画の本質はドーミエの精神を明らかにしていると考え、次のように述べた。「偉大な芸術家の情熱や精神や手腕が絵画の本質的な部分に遺憾なく発揮され、それが感情を伝えているならば、たとえ未完成であっても、その傑作は過小評価されるべきではない」。この絵画は、そこに描かれた時代を越えて、1940年代という戦争の時代を生きたフィリップスにとって特別な意味をもつ作品であった。フィリップス・コレクションは現在、ドーミエによる7点の油彩画と数点のリトグラフ、水彩画、素描を所蔵している。
ドーミエが制作した比較的数の少ない大型作品である本作は、おそらくルイ=フィリップの王政が崩壊した1848年の二月革命から着想を得た。フィリップスは画面中央の人物を「名もなき無数の戦いを支えた名もなき平凡な担い手」と呼び、「前進する群衆があらわすのは、波のように高まる民主主義への機運・・・・自由の歴史における叙事詩的運動だ」と説明している。
様式的観点から、本作は1850年代後半にドーミエによって描かれ、その後別の画家によって手が加えられたと考える研究者たちもいる。フィリップスは、このような後の加筆があったにせよ、この絵画の本質はドーミエの精神を明らかにしていると考え、次のように述べた。「偉大な芸術家の情熱や精神や手腕が絵画の本質的な部分に遺憾なく発揮され、それが感情を伝えているならば、たとえ未完成であっても、その傑作は過小評価されるべきではない」。この絵画は、そこに描かれた時代を越えて、1940年代という戦争の時代を生きたフィリップスにとって特別な意味をもつ作品であった。フィリップス・コレクションは現在、ドーミエによる7点の油彩画と数点のリトグラフ、水彩画、素描を所蔵している。
◆フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)「アルルの公園の入り口」(1888、72.4×90.8cm)
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ファン・ゴッホは2年間をパリで過ごして印象派の画家たちと交流したのち、1888年の2月、アルルに向けて出発した。彼はより平穏な生活を求めながら、ポール・ゴーガンを指導者として彼のもとに集う芸術家たちの共同体を結成することを夢見てもいた。アルルで数ヶ月が過ぎた頃、ファン・ゴッホはこの新たな共同体の拠点として、ラマルティーヌ広場に小さな黄色い家を借りる。本作《アルルの公園の入り口》は1888年の8月から10月のあいだに描かれたが、この頃ファン・ゴッホはゴーガンとの創作活動を開始すべく、彼の到着を心待ちにしていた。ファン・ゴッホはその拠点となる家を飾るために複数の絵画を制作し、それゆえこの時期は彼にとって非常に活動的な時期となった。本作は彼の家の向かいにあった公園の入り口を描いたものである。麦わら帽子をかぶった人物はこの時期に制作された多数の絵画に繰り返し登場しており、画家自身の自画像なのかもしれない。
ダンカン・フィリップスは1926年に「欲しい作品一覧(ウィッシュ・リスト)」を公開したが、そこには「ファン・ゴッホの独創的才能を示す作例」が含まれていた。1920年代末までに、彼はファン・ゴッホ作品を2度購入している。1930年9月、彼はニューヨークのウィルデンシュタイン画廊から、気に入らなければ返品可能という条件で本作を受け取り、ただちに購入へと踏み切った。フィリップスは本作を「魂の叫び」と表現している。
※ダンカン・フィリップスは1926年に「欲しい作品一覧(ウィッシュ・リスト)」を公開したが、そこには「ファン・ゴッホの独創的才能を示す作例」が含まれていた。1920年代末までに、彼はファン・ゴッホ作品を2度購入している。1930年9月、彼はニューヨークのウィルデンシュタイン画廊から、気に入らなければ返品可能という条件で本作を受け取り、ただちに購入へと踏み切った。フィリップスは本作を「魂の叫び」と表現している。
◆フィンセント・ファン・ゴッホ「道路工夫」(1889、73.7×92.7cm)
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1888年10月にゴーガンがアルルの「黄色い家」に到着して以降、ゴッホとゴーガンは暮らしと制作をともにした。しかし彼らの気質の違いのために、共同での創作活動は失敗へと至ることになる。ゴーガンが去る2日前、ファン・ゴッホは自分の耳の一部を切り落とし、これにより彼はサン=レミの精神病院への入院を余儀なくされた。1889年から90年にかけての秋冬に病院から外出した際、サン=レミにあるミラボー大通りの補修工事を目にしたファン・ゴッホは、この主題から着想を得て、《道路工夫》のふたつのヴァージョンを生み出した。1889年12月7日、ゴッホは弟のテオに次のように書き送っている。「私が完成させた最新の習作は村の光景を描いたもので、人々は巨大なプラタナスの木の下で道路の舗装を修繕している。そこには砂の山や石や巨大な気の幹があり、木葉は黄色く色づきつつある」。それから約1ヶ月後、彼はこの場面を描いたふたつのヴァージョンを制作したことを書き残している。より早い時期の作例である《大きなプラタナスの木々》(クリーヴランド美術館)は実際の風景を写生した習作と考えられており、一方フィリップス・コレクションが所蔵するより完成度の高いヴァージョンである本作は1889年の12月にアトリエで描かれ、ゴッホ本人によって「模写 repetition」と呼ばれた。本作はアルルにいた頃よりも淡い色合いで制作されており、そこには「より単純な色彩にふたたび取り組みたい」というゴッホの願望があらわれている。
ダンカン・フィリップスは、ファン・ゴッホをモダン・アートの発明者のひとりとみなし、彼の作品を「信仰の告白であり愛の行為」であると考えた。フィリップスは本作《道路工夫》を「ファン・ゴッホによる最高水準の作品」とみなした。
※ダンカン・フィリップスは、ファン・ゴッホをモダン・アートの発明者のひとりとみなし、彼の作品を「信仰の告白であり愛の行為」であると考えた。フィリップスは本作《道路工夫》を「ファン・ゴッホによる最高水準の作品」とみなした。
◆ポール・セザンヌ(1839-1906)「ベルヴュの野」(1892-95、36.2×50.2cm)
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本作はセザンヌの義弟が所有していたプロヴァンスの土地を描いた作品である。この土地はエクスとサント=ヴィクトワール山に近いアルク渓谷が見渡せる位置にあり、セザンヌが1899年まで生活し制作をおこなったジャズ・ド・ブッファンにある一家の敷地からもさほど遠くはなかった。セザンヌは同じベルヴュの野の景観を異なる距離から3度描いたが、本作はそのうちの最後に制作された1点と考えられる。厳格に切り取られ、幾何学的に様式化された形態によって構成された色鮮やかな風景は、絵画の構成要素に安定感を与えるとともに、観る者にこの土地を思い起こさせることに焦点をおいて制作されている。フィリップスはニューヨークのマリー・ハリマン画廊で開催されたセザンヌ生誕100周年を記念する展覧会の会期終了後間も無く、同展に出品されていた本作を14,000ドルで購入した。
※◆ポール・セザンヌ「自画像」(1878-80、60.3×47cm)
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セザンヌは30点以上の自画像を制作したが、その多くが中年に差しかかった自身の姿を四分の三面観の姿勢で描いたものであった。ダンカン・フィリップスは1928年に本作をポール・ローザンベール画廊から45,000ドルで購入したが、その時点で本作はアメリカの美術館のコレクションに加わった最初のセザンヌの自画像であった。本作は美術業界でもよく知られていた。セザンヌが亡くなった2年後の1908年、本作はニューヨークのメトロポリタン美術館の目にとまることとなったが、そこで美術館の理事たちから「モダン過ぎる」と評されたのである。フィリップスは当初、セザンヌの作品に批判的だったが、後にセザンヌの《自画像》に匹敵しうるのはニューヨークのフリック・コレクションが持つレンブラントの《自画像》だけだと記している。フィリップス曰く、セザンヌのまなざしの静かな覚悟は「知の孤高の中で挑戦するこの芸術家の魂を物語っている」。
※◆エドガー・ドガ(1834-1917)「稽古する踊り子」(1880年代はじめ~1900頃、130.2×97.8cm)
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ドガは晩年、線の使い方がより表現的になり鮮やかな色彩をもちいるようになっていった。ここでは彼が頻繁に素描したル・ペルティエ通りのスタジオでの踊り子たちの舞台裏が捉えられている。本作は練習用のバーに片脚を乗せた踊り子を描いたドガの最後の作品群のうちのひとつ。フィリップスは本作を「アラベスクとバレエ・ダンサー特有の身体を讃える彼の装飾的作品のなかでも、特異な記念碑的存在」と断言している。
ドガはふたりの踊り子を組み合わせて描いた原寸大の習作だけでなく、それぞれの踊り子を別々に着衣とヌードで描いた習作も制作していたことが、近年の調査によって判明した。これによって彼の制作方法に関する理解が深まるとともに、自身の作品を調整するという彼の終生変わらぬ傾向が明らかになった。彼は無数の修正とさまざまな技法や指も含めた道具によって、運動の感覚を見事に捉えた考え抜かれた構図を実現していったのである。彼が試したパステルやリトグラフ、モノタイプ、彫刻といったさまざまな技法はすべて、彼の制作方法に影響を与えている。絵を近くからよく見てみると、練習用のバーとふたりの踊り子の伸ばした脚が下方へと移動させられていることがわかる。また身体を支えている脚と両腕にも幾度か位置を修正した跡がうかがえる。ふたりの踊り子の茶色い髪は、オレンジの絵具の薄塗りの層によって覆われている。当初、踊り子はそれぞれ、カンヴァスのより下方とより左側に描かれていたのである。スカートも1度は今より短く書かれていた。ドガはそうした修正をほとんど隠そうとはせず、観者にわかるように残した。
ドガはふたりの踊り子を組み合わせて描いた原寸大の習作だけでなく、それぞれの踊り子を別々に着衣とヌードで描いた習作も制作していたことが、近年の調査によって判明した。これによって彼の制作方法に関する理解が深まるとともに、自身の作品を調整するという彼の終生変わらぬ傾向が明らかになった。彼は無数の修正とさまざまな技法や指も含めた道具によって、運動の感覚を見事に捉えた考え抜かれた構図を実現していったのである。彼が試したパステルやリトグラフ、モノタイプ、彫刻といったさまざまな技法はすべて、彼の制作方法に影響を与えている。絵を近くからよく見てみると、練習用のバーとふたりの踊り子の伸ばした脚が下方へと移動させられていることがわかる。また身体を支えている脚と両腕にも幾度か位置を修正した跡がうかがえる。ふたりの踊り子の茶色い髪は、オレンジの絵具の薄塗りの層によって覆われている。当初、踊り子はそれぞれ、カンヴァスのより下方とより左側に描かれていたのである。スカートも1度は今より短く書かれていた。ドガはそうした修正をほとんど隠そうとはせず、観者にわかるように残した。
◆ピエール・ボナール(1867-1947)「犬を抱く女」(1922、69.2×39cm)
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1925年のカーネギー国際美術展で、ボナールの描いた本作を目にしたダンカン・フィリップスは、たちまちこれに魅了された。描かれているのは愛犬を抱くボナールのパートナー、マルト・ド・メリニーであり、フィリップスによれば、「家庭の喜びと親密さ」が表現されているという。本作を見出して以降、フィリップスはこの画家の熱心な崇拝者となり、彼をルノワールの後継者とみなした。本作《犬を抱く女》は、アメリカの美術館に収蔵された最初のボナールの絵画である。フィリップスはその後、アメリカの美術館における最初のボナールの展覧会を1930年に開催、後にアメリカ国内でもっとも大規模かつ多様性に富んだボナール作品コレクションのひとつを築くこととなった。彼はボナールをお気に入りの芸術家と公言し、まぎれもない色彩の天才と呼んでいる。1926年、ボナールはフィリップス・コレクションを訪れ、フィリップスとその妻マージョリーと面会した。それからおおよそ20年後、ボナールはフィリップスに、「私はしばしば、ワシントンであなたと過ごしたあの喜ばしい時間を思い出します」と書き送っている。
※◆ピエール・ボナール「開かれた窓」(1921、118.1×95.9cm)
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画家として活動を開始した当初、ボナールと友人エドゥアール・ヴュイヤールはナビ派に属していた。これは、ポール・ゴーガンの象徴主義理論や日本美術、ステファヌ・マラルメの詩を信奉する画家たちの集団であった。ボナールは1909年から10年にかけて南仏の強烈な光を発見したのち、明るく表現力に富んだ色彩を特徴とする室内画や風景画へと移行する。本作はジヴェルニーの西側数キロに位置するヴェルノンのセーヌの渓谷にあるボナールの家を描いたものである。構図全体に渡って、塗られていない白の下地で表現された光の当たる部分が、鮮やかに塗り重ねられたさまざまな色相と調和している。ボナールはこの室内の穏やかな秩序と、窓から見える自然のよりロマン主義的な世界とを隣り合わせに描いた。ボナールのヴェルノンの庭園には野草や灌木、高木が」生い茂っており、彼はセーヌ渓谷に青々と茂る植物をしばしば自身の絵画に描きこんでいる。フィリップスは、この絵画は「あらゆるセザンヌの追随者やマティスの信奉者を満足させるだろう。しかしここにはまた、絶えざる自己更新という若々しい精神が存在する」と考えていた。ゆったりと横たわる女性はマルト・ド・メリニーであろう。彼女は1893年にボナールの愛人に、1925年に妻となり、彼女が亡くなる1942年までともに過ごした。ダンカン・フィリップスは本作を、ニューヨークのジャック・セリグマン商会から11,000ドルで購入した。
※◆ピエール・ボナール「棕櫚の木」(1926、114.3×147cm)
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1922年までのほぼ毎年、ボナールはコート・ダジュールのカンヌの北にあるル・カネで一時を過ごし、そこで制作をおこなっていた。当初、この地域の強烈な光に触発されたボナールは、彼をとりまく光や色彩、濃厚な影の効果を表現することのできる場所として、自邸からの類まれな眺望を選んだ。彼は次のように説明している。「私は毎日違う眼で物事を見ている。空やさまざまな物体、あらゆるものは絶え間なく変化し続け、そのなかで溺れることもあるだろう。しかし、それこそが生をもたらすものなのだ」。コレクションが所有するボナールの記念碑的風景画4点のうち最初に入手された本作は、フィリップスにとってもっとも重要な作品のひとつであった。彼は1928年に本作《棕櫚の木》について次のように記している。「もっとも贅沢な雰囲気のボナール 作品・・・光の熱狂的賛歌・・・家から飛び出し、太陽のまばゆい光へと飛び込む際の視覚的・感情的スリル」。前景では、太陽の影になった女性、おそらくはボナールの妻マルトがリンゴを差し出し、光と色彩に満ちた楽園へと観者を招き入れている。フィリップスはこの輝きあふれる作品を、ニューヨークのデ・ハウケ商会から12,400ドルで購入した。
※◆ピエール・ボナール「リヴィエラ」(1923頃、79.1×77.2cm)
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ここでボナールは、曇り空の下に広がるル・カネの町と港のパノラマ、そしてエステレル山脈を描き出している。南フランス特有の濃い葉の茂みが構図の下部を覆っており、そこから町を見下ろす展望が開けている。後景には水、空、沈む夕日、そして遠くの山々がのぞく。ボナールの制作方法にとって、第一印象は重要な意味を持っていた。彼はアトリエの壁に複数のカンヴァスを固定すると、おそらく無作為に、あの絵画やこの絵画のあちらやこちらに少しだけ加筆し、その後はリラックスするため散歩に出かけて英気を養うというやり方で制作をおこなった。ボナールは、色彩には「形の論理と同じくらい厳格な論理が存在する」と説明している。フィリップスは本作を、ニューヨークのデ・ハウケ商会から10,000ドルで購入した。
※◆ラウル・デュフィ(1877-1953)「画家のアトリエ」(1935、119.4×149.5cm)
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1877年、ル・アーヴルに生まれたデュフィは、素描家としての訓練を積んだのち、エコール・デ・バザールへの奨学金を勝ち取る。1920年代に地中海を訪れモロッコを旅した経験が、彼の色づかいに新たな光をもたらした。1930年代、デュフィは芸術家のアトリエを題材としたいくつかの絵画を製作。本作はモンマルトルのゲルマ袋小路に位置するデュフィのアトリエを描いた作品であり、彼は1911年から亡くなるまでここを仕事場とした。左の壁には彼がビアンシーニ・フェリエのためにデザインした花柄のテキスタイルが確認でき、アトリエ全体には彼自身の絵画が散りばめられ、それらは同定することができる。こうした描写によって本作は、装飾家・デザイナー・画家としての彼の活動を深く理解するのに役立つ。カリグラフィを思わせる線描と大胆な色彩は、彼が仕事場で感じる喜びの反映であり、彼が屋内と外光と窓から見える空間との相互作用に関心をもっていたことを示している。このような無理のない自然さの感覚は、フィリップスが芸術においてもっとも愛した要素であった。本作が描かれた2年後、フィリップス家はデュフィを自宅へと招待している。マージョリー・フィリップスは、ユーモアに溢れた魅力的なデュフィの姿を回想している。
※◆アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)「エレナ・パヴォロスキー」(1917、64.8×48.6cm)
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モディリアーニは1906年にパリに移り住んだのち、友人や芸術家の肖像を複数制作し、物思いに耽る人物像の探求で名声を得た。そうした作品の多くは三次元的形態や彫刻への彼の関心を反映しており、それはモデルとなった人物の目鼻をかたどる輪郭線にあらわれている。エレナ・パヴォロスキーは芸術の道を志すためパリに出て、そこで戦前のモンパルナスで急増しつつあった外国人居住者のグループやモディリアーニ、ピカソ、シャイム・スーティンといった芸術家たちと知り合った。彼女は1911年にロシア移民で画廊主であった男性と結婚。夫婦で積極的に展覧会を開催し、多くの前衛芸術家を支援した。パヴォロスキーはモディリアーニに金銭と食事を提供し、その返礼としてモディリアーニはこの肖像画を贈った。
※◆オスカー・ココシュカ(1886-1980)「クールマイヨールとダン・デュ・ジェアン」(1927、90.2×132.1cm)
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1927年、ココシュカはヨーロッパの景勝地を描くための旅へと出発する。彼はそうした旅を幾度もも繰り返していた。彼の手紙によれば本作は北イタリアへの旅行中に描かれた3番目の作品であり、制作時期は10月16日から22日の間のどこかと考えられる。モンブラン山脈のイタリア側に寄り添うように建てられたホテルで、ココシュカは昼間は周囲を探索し、午後はホテルに戻って自室のバルコニーで絵を描いた。彼は母に宛てて、モンブランが「手が届きそうなほど近くに」見えると書き送っている。油彩絵具を水彩絵具のように薄め、その流動性をいかした技法を実現したココシュカは、観者の前に立ちはだかる山々が緊密に詰め込まれた絵画的構図を生み出した。重く暗い色は、明るい色彩の部分を引き立てモティーフの輪郭を示しているが、単なる記述的な役割から自由であるようでいて、しかしやはり構図を形成する一要素となっている。本作を含むココシュカの風景画がもつダイナミックな視点には、彼がドレスデン美術大学で教鞭を執っていた時期(1919-23)に触れることのできた日本の浮世絵の構図から得た教えが反映されている。
フィリップスはココシュカに会う前に、すでに次のように書き送っている。「あなたは史上もっとも優れた風景画家であると同時に、人の心理を描くことにもっとも長けた肖像画家のひとりであると考えています・・・・。この国(アメリカ)にはあなたの訪問を心待ちにするファンがいるのです」。1年後、ここシュカは1947年のバーゼルのクンストハレの自身の個展のカタログに、次のように記した。「こちらで開催中の私の展覧会は大成功です。観に来られますでしょうか? 愛をこめて。あなたのココシュカより」。
※フィリップスはココシュカに会う前に、すでに次のように書き送っている。「あなたは史上もっとも優れた風景画家であると同時に、人の心理を描くことにもっとも長けた肖像画家のひとりであると考えています・・・・。この国(アメリカ)にはあなたの訪問を心待ちにするファンがいるのです」。1年後、ここシュカは1947年のバーゼルのクンストハレの自身の個展のカタログに、次のように記した。「こちらで開催中の私の展覧会は大成功です。観に来られますでしょうか? 愛をこめて。あなたのココシュカより」。
◆パブロ・ピカソ(1881-1973)「緑の帽子をかぶった女」(1939、65.1×50.2cm)
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1935年、ピカソはシュルレアリスムの若手写真家ドラ・マールと出会った。当時、彼は妻オルガ・コクローヴァと別れ、愛人マリー=テレーズ・ウォルターは娘マヤを出産、そしてピカソは自身の芸術的な関心に熱中していた。マールは戦前から戦中にかけて、友人としてモデルとして、また愛人としてピカソの人生に積極的に関わった。マールは1937年5月から6月にかけてピカソの絵画《ゲルニカ》を撮影し、完成に至るまでの各段階を記録に残している。ピカソが1938年から39年初頭にかけて制作した複数のマールの肖像は、悲痛に歪んだ顔をもち、涙を流していることも多いが、それは彼らが共に生きた激動の時代を反映したものだろう。本作《緑の帽子をかぶった女》はそうした不安や緊張を打破する作品である。頭部の彫刻的形態は非西欧文化圏の芸術へのピカソの関心を想起させ、その両眼は物悲しい表情をたたえる一方で、灰色がかった青やピンクといった肌の色彩はバラ色の時代(1904-06)を思わせる。
※◆グッズ・土産
・図録『フィリップス・コレクション展 A MODERN VISION』
・額絵
・絵ハガキ
・図録『フィリップス・コレクション展 A MODERN VISION』
・額絵
・絵ハガキ