籾山昌夫『レーピンとロシア近代絵画の煌めき』(2018)を購入しました。
先日、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」(2018.11.23~2019.1.27)を見ました。とても心惹かれ、今後もロシア絵画展があったら見に行こうと思いました。で、ロシア絵画について勉強しようと思い、この本を購入しました。
「ロマンティック・ロシア」展については、以下を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56918502.html
先日、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」(2018.11.23~2019.1.27)を見ました。とても心惹かれ、今後もロシア絵画展があったら見に行こうと思いました。で、ロシア絵画について勉強しようと思い、この本を購入しました。
「ロマンティック・ロシア」展については、以下を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56918502.html
以下、この本の要点を抜粋し、引用したいと思います。(一部改編。写真はWikipediaより。ただし、シーシキン「正午、モスクワ郊外」は「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」展特設サイトより。クラムスコイ「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」とレーピン「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー の肖像」はこの本をコピー)
イリヤ・レーピンとその時代
ロシア帝国の19世紀後半は、急激な近代化の時代であった。1861年の農奴解放令はロシアにおける産業革命を促し、中流階級が増えて都市が発展した。一方で、社会的な歪みが革命運動を生み、1881年には皇帝アレクサンドル2世(1818-1881)が暗殺された。
ロシアの意欲的な画家たちは、帝国美術アカデミーの独占的な支配から独立を試み、1863年にサンクト・ペテルブルク芸術家組合(アルテリ)、1870年に移動美術展覧会(移動展)組合を設立した。美術アカデミーが西欧の新古典主義に則っていたのに対して、移動展組合員たち(移動派)の作品は、1860年代の社会状況を描く批判的リアリズムから脱却し、心理描写や人々の感情を喚起するような風景描写を含む芸術性と民衆性を兼ね備えたリアリズムへと進み、とりわけ1870年代末から民族や祖国をテーマとする作品を多く生み出した。そして、移動展がもっとも輝かしい成果を上げた1870年代から1870年代に脚光を浴びたのが、ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レービン(1844-1930)である。
◼移動美術展覧会の誕生
サンクト・ペテルブルクの美術アカデミーは卒業生に対して芸術家の身分を保証し、帝室や教会からの公式の依頼を独占的に引き受け、また、地方の美術学校を監督することで、ロシアの美術界を支配していた。厳格で保守的な美術アカデミーにたいして、より自由なモスクワ絵画彫刻学校(1865年にモスクワ絵画彫刻建築学校に改組)を卒業した画家ワシーリー・ペローフ(1833-82)は、《村の説教》(1861)や《村の復活祭の十字架行進》(1861)といった聖職者や上流階級の堕落、貧困や女性蔑視などの社会の不公正を告発する作品を描き、1860年代の批判的リアリズムを先導した。1860年代はまだ、教訓的な絵画による社会の健全化が信じられた理想主義の時代であり、出来事や状況を描くことが重視され、個々の人物の個性や内面を描写することはまだ不十分であった。
ニコライ・ゲー(1831-94)は、美術アカデミーの給費生としてイタリア滞在中に描いた《最後の晩餐》を1863年9月に美術アカデミーの展覧会に出品した。アレクサンドル2世が買い上げたこの作品は、テーブルに着いた使徒たちにキリストが裏切りを予言するルネサンス以来の伝統的な図像を踏襲せず、リアリズムを追求して、寝そべって食べる古代ローマ式の会食の後にユダが部屋を出て行く場面を再現していた。そのため、この作品は、イワン・クラムスコイ (1837-87)、アレクサンドル・リトーフチェンコ(1835-90)、コンスタンチン・マコーフスキー(1839-1915)ら14人の学生が美術アカデミーの最終学年のコンクールに際して、自由な画題選択を求めたものの受け入れられず、同年11月に退学した「14人の反乱」のきっかけのひとつになった。
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ニコライ・ゲー「最後の晩餐」(1863、283×382cm)
クラムスコイらは画家として生活するために、内務省の許可を得てアルテリ(サンクト・ペテルブルク芸術家組合)を結成する。都市では、農奴解放後に領地を手放した中小貴族が流入し、市場経済が勃興して新しい中産階級が生まれていた。美術アカデミーを介した公式の美術品注文体系から外れていたアルテリの画家たちは、この新しい中流階級を主な顧客として自分たちの共同住居で展覧会を開き、1865年にはニージニー・ノーヴゴロトの商業見本市に合わせて巡回展を開催した。
1869年、ペローフ、アレクセイ・サヴラーソフ(1830-97)、グリゴーリー・ミャソエードフ(1834-1911)らモスクワの画家たちが、サンクト・ペテルブルクのアルテリに移動展組合の設立を提案した。規約案が記されたこの手紙には、ゲー、クラムスコイを始め、レーピン、風景画家のイワン・シーシキン(1832-98)とフョードル・ワシーリエフ(1850-73)を含む23名が署名している。移動展組合は1年後の1870年に15名で設立された(当時、美術アカデミーの学生であったレーピンは参加していない)。アルテリが共同受注、共同制作による生活の保証を目的とする共同体であったのに対して、移動展組合は展覧会での作品売却益の一部で運営される市場原理に基づく組織であり、その目的は移動展を通して、特に地方の人々に芸術を浸透させることにあった。それは当時盛んであった人民主義運動に通底していた。
第1回移動展は、1871年11月23日にサンクト・ペテルブルクの美術アカデミーで開幕し、ゲーの《ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル大帝》(1871)やサヴラーソフの《ミヤマガラスの飛来》(1871)などが出品された。その後、展覧会はモスクワに加え、ハリコフ(現ハルキウ)、キエフ(現キーウ)に巡回した。当初、美術アカデミーは移動展に好意的であったが、その独立性が明らかになると、美術アカデミーの学生の出品を禁じ、1876年の第5回展から会場の提供を中止した。移動展は科学アカデミーなどで開催されるようになり、また、創立メンバーのワレリー・ヤコービ(1833-1902)、アレクセイ・コルズーヒン(1835-94)は一度も出品せず、ペローフは1878年に脱退した。
このような移動展組合を支えたのは、次世代のが形である。1874年にコンスタンチン・サヴィーツキー(1844-1905)、1875年にアルヒープ・クイーンジ(1842-1910)、1876年にニコライ・ヤロシェンコ(1846-98)、1878年にレーピン、ワシーリー・ポレーノフ(1844-1927)、ヴィークトル・ワスネツォーフ(1848-1926)、1881年にワシーリー・スーリコフ(1848-1916)が加入した。
美術アカデミーは対抗する巡回展を組織したが、観覧者数も作品販売実績も移動展には及ばなかった。移動派は、サヴィーツキーの《イコンのお迎え》(1878、第6回展)やレーピンの《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(1885、第13回展)など、主としてロシアの主題を人々に解り易く写実的に描いたことから、民族的な美術を代表すると見なされ、収集家や批評家のみならず、一般大衆からも支持された。また、移動展は展示即売が行われて美術市場が生まれ、実業家パーヴェル・トレチャコフ(1832-98)など貴族階級でない収集家もコレクションを充実させた。移動展の最多観覧者数は1885年の第13回展で、サンクト・ペテルブルク会場だけで、44,689人、巡回会場合計で75,986人を記録した。最多販売実績は1889年の第17回展で、出品作品187点中123点が売却された。
移動展は美術アカデミーの展覧会に代わる唯一の展覧会であったが、1890年代になると、リアリズムから離れた若い画家たちが、サンクト・ペテルブルク美術家協会など新しい展覧会組織を設立した。一方、美術アカデミーは組織改革を行い、1894年にレーピン、シーシキン、クイーンジ、ウラジーミル・マコーフスキー(1846-1920)を教授陣に迎えた。その後も移動派は美術アカデミーの重要な地位を占め、移動展はロシア革命後の1923年まで存続した。
◼ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レーピン
1890年11月、作家アントン・チェーホフ(1860-1904)は、作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840-93)への手紙の中で、音楽のチャイコフスキー、文学のレフ・トルストイ(1828-1910)に並ぶ地位を美術で占めているのはイリヤ・レーピン(1844-1930)であると記している。
1863年、レーピンは美術アカデミーを目指してサンクト・ペテルブルクに上京し、「14人の反乱」が起きた11月に美術奨励協会の素描学校に通い始め、そこで指導していたイワン・クラムスコイ(1837-87)を知る。翌年、レーピンは美術アカデミーの学生になるが、一方で、クラムスコイの招待でアルテりの夕べの集いにも参加していた。
レーピンはまもなく美術アカデミーで頭角を表し、1869年には旧約聖書を課題にした作品《ヨブとその友》で小金メダルを獲得した。その後、ほぼ同時に描かれたふたつの作品、《ヤイロの娘の復活》(1871)と《ヴォルガの船曳き》(1870-73)によって、美術界の注目を集める。(引用者注:《ヤイロの娘の復活》は美術アカデミーの卒業制作であり、これによって大金メダルと6年間の給費留学の権利を得た。)
1873年、レーピンは美術アカデミーの給費留学生として、家族を伴ってイタリアを経由してフランスのパリに到着し、中世ロシアの英雄叙事詩ヴィリーナに基づく《水底の王国サトコ》に取り組んだ。翌年4月には、写真家ナダールのアトリエで開催された第1回印象派展を目撃し、その印象をスターソフとトレチャコフに手紙で伝えている。その夏にはノルマンディのヴールで過ごし、サヴィーツキーやポレーノフらと戸外で制作した。1875年のパリのサロンには、《パリのカフェ》(1875)に加えて《石を運ぶ馬、ヴール》(1874)が入選している。しかし、《水底の王国サトコ》を完成したものの、ロシアの主題を異国で描くことに困難を感じ、留学を切り上げてサンクト・ペテルブルクに帰還した。その後、1877年には古都モスクワに転居して、1878年に移動展組合に加入する。
19世紀後半のロシアでは歴史学が発達し、1872年にはアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ皇太子記念モスクワ歴史博物館が開館するなど、自国の歴史に対する関心が高まっていた。さらに、1877年から翌年にかけての露土戦争によって高揚した民族主義は、レーピンの作品にも反映されている。モスクワで描いた《ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき》(1879)は、ピョートル1世(1672-1725)が進めた西欧化に抵抗した異母姉ソフィヤ・アレクセエヴナ(1657-1704)を描いている。
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イリヤ・レーピン「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき」(1879、204.5×147.7cm)
モスクワでは実業家トレチャコフと親交を深め、文豪トルストイや歴史画家スーリコフと知り合い、モスクワ郊外の鉄道王サーワ・マーモントフ(1841-1918)の領地アブラムツェヴォで夏を過ごし、そこでポレーノフやワスネツォーフらと共に教会の壁画も手掛けた。トルストイが高く評価した《夕べの宴》(1881)を完成し、《作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキーの肖像》(1881)、《エリザヴェータを演じる女優ペラゲーヤ・アンチポヴナ・ストレーぺトワの肖像》(1881)、《休息》(1882)など肖像画の傑作を描き、《クールスク県の十字架行進》(1881-83)、《懺悔の前》(1879-85)、《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》(1880-91)、《宣伝家の逮捕》(1880-92)など、その後の代表作に着手したのもモスクワに住んでいた時期であった。
1882年にサンクト・ペテルブルクに戻ったレーピンは、翌年の第11回移動展に《クールスク県の十字架行進》、1884年の第12回展に《思いがけなく》(1884-88)、1885年の第13回展に《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(1885)とロシア美術史上の傑作を出品し、その名声は頂点を極めた。
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イリヤ・レーピン「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン」(1885、199.5×254cm)
レーピンは1891年から美術アカデミーの改革構想にに関わり、同年11月には《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》を含む約300点の作品を展示する個展を美術アカデミーで開催した。1894年から美術アカデミー絵画アトリエで指導し、1898年には美術アカデミーの校長を務めた。同時に、翌年には美術雑誌『芸術世界』主催の展覧会に参加するなど、象徴主義といった新しい芸術の傾向にも関心を持ち続けた。(引用者注:1907年、教壇から引退した。)
1903年には、それまでの膨大な経験を活かした《1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典》を完成させるなど精力的に創作を続け、移動展にもロシア革命直前1916年の第45回展まで出品を続けた。しかし、1903年にレーピンが移り住み、スターソフ、作家チェーホフやマキシム・ゴーリキー(1868-1936)、歌手フョードル・シャリャーピン(1873-1936)らが訪れたペナーチ荘のあるサンクト・ペテルブルク郊外のクオッカラ(現レーピノ)は1917年のフィンランド独立によってフィンランド領となり、翌年にはロシアとの国境も閉ざされた。それでも、1920年にフィンランド芸術協会の名誉会長に選出されたレーピンの展覧会が、ヘルシンキを始めとする北欧各地で開催され、また、1926年にはソヴィエト芸術家代表団がペナーチ荘を訪問するなど、レーピンの存在は生前忘れられることはなかった。
1930年9月29日、ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レーピンは、ペナーチ荘で家族に見守られて逝去した。
ロシアの意欲的な画家たちは、帝国美術アカデミーの独占的な支配から独立を試み、1863年にサンクト・ペテルブルク芸術家組合(アルテリ)、1870年に移動美術展覧会(移動展)組合を設立した。美術アカデミーが西欧の新古典主義に則っていたのに対して、移動展組合員たち(移動派)の作品は、1860年代の社会状況を描く批判的リアリズムから脱却し、心理描写や人々の感情を喚起するような風景描写を含む芸術性と民衆性を兼ね備えたリアリズムへと進み、とりわけ1870年代末から民族や祖国をテーマとする作品を多く生み出した。そして、移動展がもっとも輝かしい成果を上げた1870年代から1870年代に脚光を浴びたのが、ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レービン(1844-1930)である。
◼移動美術展覧会の誕生
サンクト・ペテルブルクの美術アカデミーは卒業生に対して芸術家の身分を保証し、帝室や教会からの公式の依頼を独占的に引き受け、また、地方の美術学校を監督することで、ロシアの美術界を支配していた。厳格で保守的な美術アカデミーにたいして、より自由なモスクワ絵画彫刻学校(1865年にモスクワ絵画彫刻建築学校に改組)を卒業した画家ワシーリー・ペローフ(1833-82)は、《村の説教》(1861)や《村の復活祭の十字架行進》(1861)といった聖職者や上流階級の堕落、貧困や女性蔑視などの社会の不公正を告発する作品を描き、1860年代の批判的リアリズムを先導した。1860年代はまだ、教訓的な絵画による社会の健全化が信じられた理想主義の時代であり、出来事や状況を描くことが重視され、個々の人物の個性や内面を描写することはまだ不十分であった。
ニコライ・ゲー(1831-94)は、美術アカデミーの給費生としてイタリア滞在中に描いた《最後の晩餐》を1863年9月に美術アカデミーの展覧会に出品した。アレクサンドル2世が買い上げたこの作品は、テーブルに着いた使徒たちにキリストが裏切りを予言するルネサンス以来の伝統的な図像を踏襲せず、リアリズムを追求して、寝そべって食べる古代ローマ式の会食の後にユダが部屋を出て行く場面を再現していた。そのため、この作品は、イワン・クラムスコイ (1837-87)、アレクサンドル・リトーフチェンコ(1835-90)、コンスタンチン・マコーフスキー(1839-1915)ら14人の学生が美術アカデミーの最終学年のコンクールに際して、自由な画題選択を求めたものの受け入れられず、同年11月に退学した「14人の反乱」のきっかけのひとつになった。
ニコライ・ゲー「最後の晩餐」(1863、283×382cm)
クラムスコイらは画家として生活するために、内務省の許可を得てアルテリ(サンクト・ペテルブルク芸術家組合)を結成する。都市では、農奴解放後に領地を手放した中小貴族が流入し、市場経済が勃興して新しい中産階級が生まれていた。美術アカデミーを介した公式の美術品注文体系から外れていたアルテリの画家たちは、この新しい中流階級を主な顧客として自分たちの共同住居で展覧会を開き、1865年にはニージニー・ノーヴゴロトの商業見本市に合わせて巡回展を開催した。
1869年、ペローフ、アレクセイ・サヴラーソフ(1830-97)、グリゴーリー・ミャソエードフ(1834-1911)らモスクワの画家たちが、サンクト・ペテルブルクのアルテリに移動展組合の設立を提案した。規約案が記されたこの手紙には、ゲー、クラムスコイを始め、レーピン、風景画家のイワン・シーシキン(1832-98)とフョードル・ワシーリエフ(1850-73)を含む23名が署名している。移動展組合は1年後の1870年に15名で設立された(当時、美術アカデミーの学生であったレーピンは参加していない)。アルテリが共同受注、共同制作による生活の保証を目的とする共同体であったのに対して、移動展組合は展覧会での作品売却益の一部で運営される市場原理に基づく組織であり、その目的は移動展を通して、特に地方の人々に芸術を浸透させることにあった。それは当時盛んであった人民主義運動に通底していた。
第1回移動展は、1871年11月23日にサンクト・ペテルブルクの美術アカデミーで開幕し、ゲーの《ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル大帝》(1871)やサヴラーソフの《ミヤマガラスの飛来》(1871)などが出品された。その後、展覧会はモスクワに加え、ハリコフ(現ハルキウ)、キエフ(現キーウ)に巡回した。当初、美術アカデミーは移動展に好意的であったが、その独立性が明らかになると、美術アカデミーの学生の出品を禁じ、1876年の第5回展から会場の提供を中止した。移動展は科学アカデミーなどで開催されるようになり、また、創立メンバーのワレリー・ヤコービ(1833-1902)、アレクセイ・コルズーヒン(1835-94)は一度も出品せず、ペローフは1878年に脱退した。
このような移動展組合を支えたのは、次世代のが形である。1874年にコンスタンチン・サヴィーツキー(1844-1905)、1875年にアルヒープ・クイーンジ(1842-1910)、1876年にニコライ・ヤロシェンコ(1846-98)、1878年にレーピン、ワシーリー・ポレーノフ(1844-1927)、ヴィークトル・ワスネツォーフ(1848-1926)、1881年にワシーリー・スーリコフ(1848-1916)が加入した。
美術アカデミーは対抗する巡回展を組織したが、観覧者数も作品販売実績も移動展には及ばなかった。移動派は、サヴィーツキーの《イコンのお迎え》(1878、第6回展)やレーピンの《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(1885、第13回展)など、主としてロシアの主題を人々に解り易く写実的に描いたことから、民族的な美術を代表すると見なされ、収集家や批評家のみならず、一般大衆からも支持された。また、移動展は展示即売が行われて美術市場が生まれ、実業家パーヴェル・トレチャコフ(1832-98)など貴族階級でない収集家もコレクションを充実させた。移動展の最多観覧者数は1885年の第13回展で、サンクト・ペテルブルク会場だけで、44,689人、巡回会場合計で75,986人を記録した。最多販売実績は1889年の第17回展で、出品作品187点中123点が売却された。
移動展は美術アカデミーの展覧会に代わる唯一の展覧会であったが、1890年代になると、リアリズムから離れた若い画家たちが、サンクト・ペテルブルク美術家協会など新しい展覧会組織を設立した。一方、美術アカデミーは組織改革を行い、1894年にレーピン、シーシキン、クイーンジ、ウラジーミル・マコーフスキー(1846-1920)を教授陣に迎えた。その後も移動派は美術アカデミーの重要な地位を占め、移動展はロシア革命後の1923年まで存続した。
◼ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レーピン
1890年11月、作家アントン・チェーホフ(1860-1904)は、作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840-93)への手紙の中で、音楽のチャイコフスキー、文学のレフ・トルストイ(1828-1910)に並ぶ地位を美術で占めているのはイリヤ・レーピン(1844-1930)であると記している。
1863年、レーピンは美術アカデミーを目指してサンクト・ペテルブルクに上京し、「14人の反乱」が起きた11月に美術奨励協会の素描学校に通い始め、そこで指導していたイワン・クラムスコイ(1837-87)を知る。翌年、レーピンは美術アカデミーの学生になるが、一方で、クラムスコイの招待でアルテりの夕べの集いにも参加していた。
レーピンはまもなく美術アカデミーで頭角を表し、1869年には旧約聖書を課題にした作品《ヨブとその友》で小金メダルを獲得した。その後、ほぼ同時に描かれたふたつの作品、《ヤイロの娘の復活》(1871)と《ヴォルガの船曳き》(1870-73)によって、美術界の注目を集める。(引用者注:《ヤイロの娘の復活》は美術アカデミーの卒業制作であり、これによって大金メダルと6年間の給費留学の権利を得た。)
1873年、レーピンは美術アカデミーの給費留学生として、家族を伴ってイタリアを経由してフランスのパリに到着し、中世ロシアの英雄叙事詩ヴィリーナに基づく《水底の王国サトコ》に取り組んだ。翌年4月には、写真家ナダールのアトリエで開催された第1回印象派展を目撃し、その印象をスターソフとトレチャコフに手紙で伝えている。その夏にはノルマンディのヴールで過ごし、サヴィーツキーやポレーノフらと戸外で制作した。1875年のパリのサロンには、《パリのカフェ》(1875)に加えて《石を運ぶ馬、ヴール》(1874)が入選している。しかし、《水底の王国サトコ》を完成したものの、ロシアの主題を異国で描くことに困難を感じ、留学を切り上げてサンクト・ペテルブルクに帰還した。その後、1877年には古都モスクワに転居して、1878年に移動展組合に加入する。
19世紀後半のロシアでは歴史学が発達し、1872年にはアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ皇太子記念モスクワ歴史博物館が開館するなど、自国の歴史に対する関心が高まっていた。さらに、1877年から翌年にかけての露土戦争によって高揚した民族主義は、レーピンの作品にも反映されている。モスクワで描いた《ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき》(1879)は、ピョートル1世(1672-1725)が進めた西欧化に抵抗した異母姉ソフィヤ・アレクセエヴナ(1657-1704)を描いている。
イリヤ・レーピン「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき」(1879、204.5×147.7cm)
モスクワでは実業家トレチャコフと親交を深め、文豪トルストイや歴史画家スーリコフと知り合い、モスクワ郊外の鉄道王サーワ・マーモントフ(1841-1918)の領地アブラムツェヴォで夏を過ごし、そこでポレーノフやワスネツォーフらと共に教会の壁画も手掛けた。トルストイが高く評価した《夕べの宴》(1881)を完成し、《作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキーの肖像》(1881)、《エリザヴェータを演じる女優ペラゲーヤ・アンチポヴナ・ストレーぺトワの肖像》(1881)、《休息》(1882)など肖像画の傑作を描き、《クールスク県の十字架行進》(1881-83)、《懺悔の前》(1879-85)、《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》(1880-91)、《宣伝家の逮捕》(1880-92)など、その後の代表作に着手したのもモスクワに住んでいた時期であった。
1882年にサンクト・ペテルブルクに戻ったレーピンは、翌年の第11回移動展に《クールスク県の十字架行進》、1884年の第12回展に《思いがけなく》(1884-88)、1885年の第13回展に《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(1885)とロシア美術史上の傑作を出品し、その名声は頂点を極めた。
イリヤ・レーピン「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン」(1885、199.5×254cm)
レーピンは1891年から美術アカデミーの改革構想にに関わり、同年11月には《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》を含む約300点の作品を展示する個展を美術アカデミーで開催した。1894年から美術アカデミー絵画アトリエで指導し、1898年には美術アカデミーの校長を務めた。同時に、翌年には美術雑誌『芸術世界』主催の展覧会に参加するなど、象徴主義といった新しい芸術の傾向にも関心を持ち続けた。(引用者注:1907年、教壇から引退した。)
1903年には、それまでの膨大な経験を活かした《1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典》を完成させるなど精力的に創作を続け、移動展にもロシア革命直前1916年の第45回展まで出品を続けた。しかし、1903年にレーピンが移り住み、スターソフ、作家チェーホフやマキシム・ゴーリキー(1868-1936)、歌手フョードル・シャリャーピン(1873-1936)らが訪れたペナーチ荘のあるサンクト・ペテルブルク郊外のクオッカラ(現レーピノ)は1917年のフィンランド独立によってフィンランド領となり、翌年にはロシアとの国境も閉ざされた。それでも、1920年にフィンランド芸術協会の名誉会長に選出されたレーピンの展覧会が、ヘルシンキを始めとする北欧各地で開催され、また、1926年にはソヴィエト芸術家代表団がペナーチ荘を訪問するなど、レーピンの存在は生前忘れられることはなかった。
1930年9月29日、ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レーピンは、ペナーチ荘で家族に見守られて逝去した。
1 ロシアの歴史と伝承、聖書
帝国美術アカデミーの歴史画が古典古代の出来事やギリシア・ローマ神話を題材として、普遍的な美を追求したのに対して、移動派はロシアの歴史や伝承を当時の社会状況と対照しながら、現実を描く風俗画の技法を用いて描いた。
【掲載画】
●ニコライ・ゲー
「最後の晩餐」(1863)
「カルヴァリ(ゴルゴタ)」(1892頃)
「ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル大帝」(1871)
●イワン・クラムスコイ
「荒野のキリスト」(1872)
●イリヤ・レーピン
「水底の王国サトコ」(1876)
「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき」(1879)
「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」(1880-91)
●ワシーリー・スーリコフ
「銃兵処刑の朝」(1881)
「大貴族婦人モローゾワ」(1887)
●ヴィークトル・ワスネツォーフ
「イーゴリ・スヴャトスラヴィチとポロヴェツ人との死闘の後」(1880)
「正しい者たちの主の喜び(楽園の敷居)」(1885-96)
●アレクサンドル・リトーフチェンコ
「モスクワ府主教奇蹟者フィリップの棺の前の皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチとノーヴゴロト大主教ニーコン」(1886)
【掲載画】
●ニコライ・ゲー
「最後の晩餐」(1863)
「カルヴァリ(ゴルゴタ)」(1892頃)
「ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル大帝」(1871)
●イワン・クラムスコイ
「荒野のキリスト」(1872)
●イリヤ・レーピン
「水底の王国サトコ」(1876)
「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき」(1879)
「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」(1880-91)
●ワシーリー・スーリコフ
「銃兵処刑の朝」(1881)
「大貴族婦人モローゾワ」(1887)
●ヴィークトル・ワスネツォーフ
「イーゴリ・スヴャトスラヴィチとポロヴェツ人との死闘の後」(1880)
「正しい者たちの主の喜び(楽園の敷居)」(1885-96)
●アレクサンドル・リトーフチェンコ
「モスクワ府主教奇蹟者フィリップの棺の前の皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチとノーヴゴロト大主教ニーコン」(1886)
イワン・クラムスコイ「荒野のキリスト」(1872、180×210cm)
新約聖書によると、洗礼を受けたイエス・キリストは聖霊によって荒野に送り出され、悪魔の誘惑を40日間受けた。しかし、クラムスコイは、自己犠牲について煩悶するキリストの人間的な内面を描出した。その心の葛藤は、固く組み合わされた手で明らかである。
作品の公開前にモスクワの実業家トレチャコフとコジマー・ソルダチョーンコフ(1818-1901)に加え、美術アカデミーが教授の称号授与を提示して購入を申し出たが、トレチャコフが入手し、1872年の第2回移動展サンクト・ペテルブルク会場と、《荒野の救世主》という題で1874年の第3回モスクワ会場で展示された。1878年のパリ万国博覧会にも出品された。
作品の公開前にモスクワの実業家トレチャコフとコジマー・ソルダチョーンコフ(1818-1901)に加え、美術アカデミーが教授の称号授与を提示して購入を申し出たが、トレチャコフが入手し、1872年の第2回移動展サンクト・ペテルブルク会場と、《荒野の救世主》という題で1874年の第3回モスクワ会場で展示された。1878年のパリ万国博覧会にも出品された。
イリヤ・レーピン「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」(1880-91、203×358cm)
ザポロージャのシーチ(ドニエプル河岸にあったウクライナ・コサックの砦)を治めるコサックが、降伏してトルコの臣民になるようにというトルコのスルタン、メフメト4世(1642-93)からの勧告に対して、極めて辛辣な嘲笑を込めた手紙で答えたという歴史的な伝説に基づく。
レーピンは、ザポロージャのコサックの歴史や風俗など、あらゆる資料を研究し、南ロシアとウクライナへ、ヴォルガ川とドニエプル川へ旅行し、風景、典型的な人物像、武器、衣装、食器などを描いた何冊かのスケッチブックを持ち帰った。1892年に皇帝アレクサンドル3世(1845-94)が35,000ルーブルでこの作品を購入し、その代金でレーピンはヴィテプスク県に領地ズドラヴニョーヴォを手に入れて、1890年代の夏の多くをそこで過ごした。
レーピンは、ザポロージャのコサックの歴史や風俗など、あらゆる資料を研究し、南ロシアとウクライナへ、ヴォルガ川とドニエプル川へ旅行し、風景、典型的な人物像、武器、衣装、食器などを描いた何冊かのスケッチブックを持ち帰った。1892年に皇帝アレクサンドル3世(1845-94)が35,000ルーブルでこの作品を購入し、その代金でレーピンはヴィテプスク県に領地ズドラヴニョーヴォを手に入れて、1890年代の夏の多くをそこで過ごした。
2 農村の生活
農村の生活を描いた風俗画には、1860年代の批判的リアリズム絵画と1870年代以降の作品との違いが明らかである。批判的リアリズムを先導したワシーリー・ペローフの《村の復活祭の十字架行進》(1861)といった作品は、地方の聖職者と上流階級の堕落や貧富の差のみならず、農民の無知や盲目的信仰なども描き出している。物語や状況を視覚化し、社会悪を告発して改善しようとする姿勢には、アレクサンドル2世の上からの改革にも通じるものがある。
これに対して、1870年代には、特定の出来事や現実の瞬間に迫ることが風俗画の目的となり、社会悪を非難するだけではなく、新しい主人公を求め、人間の肯定的な部分を認めるようになった。移動派の画家は、農民や大衆の知恵による問題解決を期待する知識人たちインテリゲンツィアと同調していた。地方貴族と農民の不平等を描いたグリゴーリー・ミャソエードフの《ゼームストヴォの昼食》(1872)でも、農民の表情には知性と精神性が与えられ、イワン・クラムスコイは農民の人格そのものを絵画の主題とした。
1870年代後半からは、多様な人々から構成される農民社会をそのまま写しとるような出来事や瞬間が描かれた。イリヤ・レーピンの《クールスク県の十字架行進》(1881-83)は、ひとりひとりの人物の個性を捉えて迫真性を追求すると同時に、ある農村社会のまさにパノラマとなっている。
一方、イラリオン・プリャーニシニコフの《北方の救世主の日》(1887)には、もはや社会問題も人間の多様性も描かれず、広大な風景の中に伝統的な儀式が執り行われる郷愁を誘うような美しい光景が展開され、新しい芸術の傾向を予感させる。
【掲載画】
●ワシーリー・ペローフ
「村の復活祭の十字架行進」(1861)
●グレゴーリー・ミャソエードフ
「ゼームストヴォの昼食」(1872)
●イワン・クラムスコイ
「養蜂場の番人」(1872)
「森番」(1874)
●ワシーリー・マクシーモフ
「農民の結婚式への魔術師の到着」(1875)
●コンスタンチン・サヴィーツキー
「イコンのお迎え」(1878)
●ニコライ・クズネツォーフ
「祝日」(1879)
●イリヤ・レーピン
「夕べの宴」(1881)
「クールスク県の十字架行進」(1881-83)
●イラリオン・プリャーニシニコフ
「北方の救世主の日」(1887)
これに対して、1870年代には、特定の出来事や現実の瞬間に迫ることが風俗画の目的となり、社会悪を非難するだけではなく、新しい主人公を求め、人間の肯定的な部分を認めるようになった。移動派の画家は、農民や大衆の知恵による問題解決を期待する知識人たちインテリゲンツィアと同調していた。地方貴族と農民の不平等を描いたグリゴーリー・ミャソエードフの《ゼームストヴォの昼食》(1872)でも、農民の表情には知性と精神性が与えられ、イワン・クラムスコイは農民の人格そのものを絵画の主題とした。
1870年代後半からは、多様な人々から構成される農民社会をそのまま写しとるような出来事や瞬間が描かれた。イリヤ・レーピンの《クールスク県の十字架行進》(1881-83)は、ひとりひとりの人物の個性を捉えて迫真性を追求すると同時に、ある農村社会のまさにパノラマとなっている。
一方、イラリオン・プリャーニシニコフの《北方の救世主の日》(1887)には、もはや社会問題も人間の多様性も描かれず、広大な風景の中に伝統的な儀式が執り行われる郷愁を誘うような美しい光景が展開され、新しい芸術の傾向を予感させる。
【掲載画】
●ワシーリー・ペローフ
「村の復活祭の十字架行進」(1861)
●グレゴーリー・ミャソエードフ
「ゼームストヴォの昼食」(1872)
●イワン・クラムスコイ
「養蜂場の番人」(1872)
「森番」(1874)
●ワシーリー・マクシーモフ
「農民の結婚式への魔術師の到着」(1875)
●コンスタンチン・サヴィーツキー
「イコンのお迎え」(1878)
●ニコライ・クズネツォーフ
「祝日」(1879)
●イリヤ・レーピン
「夕べの宴」(1881)
「クールスク県の十字架行進」(1881-83)
●イラリオン・プリャーニシニコフ
「北方の救世主の日」(1887)
イリヤ・レーピン 「夕べの宴」(1881、114.5×185.5cm)
1877年9月に転居したモスクワで制作された。翌年のパリ万国博覧会への出品作品を選定するためにレーピンのアトリエを訪れたアンドレイ・ソーモフ(1830-1909)とニコライ・ソプコ(1851-1906)は出品を勧めたが、期限までに完成しなかった。その後、1880年夏に《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》の資料収集のためウクライナに旅行した際、この作品の習作も描かれ、それらの区別ができないものもある。とりわけタルノーフスキー家の領地カチャノフカで多くの習作が描かれた。同年10月にトルストイがアトリエを訪れ、ふたりが初めて出会ったとき、文豪はこの作品を高く評価した。
イリヤ・レーピン「クールスク県の十字架行進」(1881-83、178×285.4cm)
正教国ロシアで、平民や貴族、文官や軍人、俗人や僧侶といったあらゆる身分や年齢の人々が集う十字架行進は珍しい光景ではなかった。煌びやかなランタン(ファナーリ)を誇らしげに担ぐ男たち、空のイコンの箱を大切に携えるふたりの女性、華やかな礼服に身を包み、額の汗を拭いながら香炉を振る司祭、イコンを胸の前に捧げ歩く地主の妻、行列から疎外される背の曲がった男や巡礼。色彩豊かな宗教行列の中に、人々の社会的立場と心理的差異を明確にしながら、ロシアの多様な人生のパノラマを展開している。
3 近代化するロシア帝国
ロシア帝国の19世紀後半は激動の時代であった。1853年から1856年のクリミア戦争での敗北によって、ロシアの後進性を認識したアレクサンドル2世(1818-1881)や開明的な貴族官僚は、1861年の農奴解放令など、上からの社会改革を進めた。
南下政策をとるロシア帝国は、1867年にトルキスタン総督府を設置し、1874年には徴兵制度を導入して、1877年から翌年にかけての露土戦争でオスマン帝国との戦いに勝利した。戦争画家ワシーリー・ヴェレシチャーギンはこれら一連の軍事行動に身を投じ、その記録画を西欧で公開した。
国内では、1860年代から1870年代、とりわけ1874年前後に、自ら農村共同体に入り、社会主義を広めて革命に結び付けようとした都市の知識人、人民主義者(ナロードニキ)による「人民の中へ」運動が盛んになった。しかし、多くの農村ではナロードニキは受け入れられず、政府からも弾圧されたため、急進的な一派が「人民の意志」を結成し、テロによる政権の解体を目指して、1881年にはアレクサンドル2世の暗殺に成功する。
跡を継いだアレクサンドル3世(1845-94)は、保守的なロシア正教会聖務会院長コンスタンチン・ポベドノースツェフ(1827-1907)を重用して、反動的な専制政治を強化した。また、帝国内のロシア化を進め、ナショナリズムが高揚した。1891年にはシベリア鉄道の建設が始まるなど、この時代、ロシア帝国の工業化が加速する一方、前近代的な社会体制との間に多くの矛盾が起き、社会不安は増大していった。
ニコライ2世(1868-1918)は東アジアへの進出によって国内問題の解消を試みたが、1904年に日露戦争が始まり、翌年の血の日曜日事件をへて、1906年に憲法(ロシア帝国国家基本法)が制定され、専制君主制から国家評議会を上院、新たに開設される国会(ドゥーマ)を下院とする立憲君主制に移行した。
【掲載画】
●グリゴーリー・ミャソエードフ
「1861年2月19日の法令を読む」(1873)
●イリヤ・レーピン
「ヴォルガの船曳き」(1870-73)
「新兵の見送り」(1879)
「宣伝家の逮捕」(1880-92)
「ニコライ2世の肖像」(1895)
「1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典」(1903)
●コンスタンチン・サヴィーツキー
「鉄道保線工事」(1874)
●ワシーリー・ヴェレシチャーギン
「戦争礼賛」(1871-72)
「敗北、奉神礼」(1878-79)
●コンスタンチン・マコーフスキー
「臨終の床のアレクサンドル2世」(1881)
南下政策をとるロシア帝国は、1867年にトルキスタン総督府を設置し、1874年には徴兵制度を導入して、1877年から翌年にかけての露土戦争でオスマン帝国との戦いに勝利した。戦争画家ワシーリー・ヴェレシチャーギンはこれら一連の軍事行動に身を投じ、その記録画を西欧で公開した。
国内では、1860年代から1870年代、とりわけ1874年前後に、自ら農村共同体に入り、社会主義を広めて革命に結び付けようとした都市の知識人、人民主義者(ナロードニキ)による「人民の中へ」運動が盛んになった。しかし、多くの農村ではナロードニキは受け入れられず、政府からも弾圧されたため、急進的な一派が「人民の意志」を結成し、テロによる政権の解体を目指して、1881年にはアレクサンドル2世の暗殺に成功する。
跡を継いだアレクサンドル3世(1845-94)は、保守的なロシア正教会聖務会院長コンスタンチン・ポベドノースツェフ(1827-1907)を重用して、反動的な専制政治を強化した。また、帝国内のロシア化を進め、ナショナリズムが高揚した。1891年にはシベリア鉄道の建設が始まるなど、この時代、ロシア帝国の工業化が加速する一方、前近代的な社会体制との間に多くの矛盾が起き、社会不安は増大していった。
ニコライ2世(1868-1918)は東アジアへの進出によって国内問題の解消を試みたが、1904年に日露戦争が始まり、翌年の血の日曜日事件をへて、1906年に憲法(ロシア帝国国家基本法)が制定され、専制君主制から国家評議会を上院、新たに開設される国会(ドゥーマ)を下院とする立憲君主制に移行した。
【掲載画】
●グリゴーリー・ミャソエードフ
「1861年2月19日の法令を読む」(1873)
●イリヤ・レーピン
「ヴォルガの船曳き」(1870-73)
「新兵の見送り」(1879)
「宣伝家の逮捕」(1880-92)
「ニコライ2世の肖像」(1895)
「1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典」(1903)
●コンスタンチン・サヴィーツキー
「鉄道保線工事」(1874)
●ワシーリー・ヴェレシチャーギン
「戦争礼賛」(1871-72)
「敗北、奉神礼」(1878-79)
●コンスタンチン・マコーフスキー
「臨終の床のアレクサンドル2世」(1881)
イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳き」(1870-73、131.5×281cm)
アカデミー副総裁ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の依頼で制作された《ヴォルガの船曳き》は、1871年初めには仕上げられて美術奨励協会の展覧会に出品されたが、レーピンは翌年夏にヴォルガ川流域を再び訪れて、その観察から描き直し、1873年3月に美術アカデミーで公開した。
レーピンの回想録『遠きこと近きこと』には、船曳きひとりひとりの物語が語られている。先導する善良なカーニン、憎悪に満ちた眼差しを投げる水夫のイーリカ、引き綱に抵抗する若いラーリカ。同時代の社会の底辺にある人物の個性を捉えたこの作品は、同年のウィーン万国博覧会で展示された際、批評家ポール・マンツ(1821-95)が、フランス人画家ギュスターヴ・クールベ(1819-77)のレアリスムを引合いに出して論じた。ロシアにおける近代絵画の確立を示す作品である。
レーピンの回想録『遠きこと近きこと』には、船曳きひとりひとりの物語が語られている。先導する善良なカーニン、憎悪に満ちた眼差しを投げる水夫のイーリカ、引き綱に抵抗する若いラーリカ。同時代の社会の底辺にある人物の個性を捉えたこの作品は、同年のウィーン万国博覧会で展示された際、批評家ポール・マンツ(1821-95)が、フランス人画家ギュスターヴ・クールベ(1819-77)のレアリスムを引合いに出して論じた。ロシアにおける近代絵画の確立を示す作品である。
イリヤ・レーピン「宣伝家の逮捕」(1880-92、34.8×54.6cm)
「人民の中へ」運動で農村に入ったナロードニキが逮捕される場面である。官憲の調べに対して、宣伝家は厳しい表情で顔をそむける一方、農民たちは遠巻きにそれを見ている。その構図は、レンブラント・ファン・レイン(1606-69)の銅版画《エッケ・ホモ(民衆に晒されるキリスト)》(1648頃)を参考にしているとも言われてきた。
1877年から翌年にサンクト・ペテルブルクで行われた193人の学生と政治犯――ロシア帝国に対する人民主義的騒乱とその宣伝の罪に問われた革命家――に対する一連の刑事裁判に触発されて描かれた作品である。
1877年から翌年にサンクト・ペテルブルクで行われた193人の学生と政治犯――ロシア帝国に対する人民主義的騒乱とその宣伝の罪に問われた革命家――に対する一連の刑事裁判に触発されて描かれた作品である。
イリヤ・レーピン「1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典」(1903、400×877cm)
ニコライ2世を始めとするロシア帝国の高官たちの集団肖像画であり、最高国家機関である国家評議会の百周年に寄せて、1901年に政府が公式に発注した作品である。80名ほどの高官たちの姿を収め、祝典の厳かな雰囲気や晴れやかな礼装を記録しながら、ひとつの空間を創り出している。
この準備制作として、70点以上の肖像画が制作され、レーピンは右手を痛め、左手で描くようになった。マリイーンスキー宮殿会議場の豪華さ、刺繍や勲章で飾られた議員の煌びやかな制服は、むしろ国家評議会の形式主義を露呈させている。
この準備制作として、70点以上の肖像画が制作され、レーピンは右手を痛め、左手で描くようになった。マリイーンスキー宮殿会議場の豪華さ、刺繍や勲章で飾られた議員の煌びやかな制服は、むしろ国家評議会の形式主義を露呈させている。
4 自然と風景
1870年代と1890年代に頂点を迎えた移動派の風景画は、祖国ロシアの大地の雄大さや季節の移り変わり、あるいは身近な自然を描き、多くの場合、時の経過や生命の営みといった物語的要素を織り込んでいる。
【掲載画】
●アレクセイ・サヴラーソフ
「ミヤマガラスの飛来」(1871)
●イワン・シーシキン
「正午、モスクワ郊外」(1869)
「冬」(1890)
「松林の朝」(1889)
「ライ麦畑」(1878)
「樫林の雨」(1891)
●フョードル・ワシーリエフ
「雪解け」(1871)
●ワシーリー・ポレーノフ
「モスクワの中庭」(1878)
●アルヒープ・クイーンジ
「ウクライナの夜」(1876)
「雨後」(1879)
「白樺林」(1879)
●イリヤ・オストロウーホフ
「新緑」(1887)
「錦秋」(1886)
●イサーク・レヴィターン
「雨後、プリョース」(1889)
「白樺林」(1889)
「静寂の修道院」(1890)
「ウラジミール街道」(1892)
「永久(とわ)の安らぎの上に」(1894)
「3月」(1895)
【掲載画】
●アレクセイ・サヴラーソフ
「ミヤマガラスの飛来」(1871)
●イワン・シーシキン
「正午、モスクワ郊外」(1869)
「冬」(1890)
「松林の朝」(1889)
「ライ麦畑」(1878)
「樫林の雨」(1891)
●フョードル・ワシーリエフ
「雪解け」(1871)
●ワシーリー・ポレーノフ
「モスクワの中庭」(1878)
●アルヒープ・クイーンジ
「ウクライナの夜」(1876)
「雨後」(1879)
「白樺林」(1879)
●イリヤ・オストロウーホフ
「新緑」(1887)
「錦秋」(1886)
●イサーク・レヴィターン
「雨後、プリョース」(1889)
「白樺林」(1889)
「静寂の修道院」(1890)
「ウラジミール街道」(1892)
「永久(とわ)の安らぎの上に」(1894)
「3月」(1895)
イワン・シーシキン「正午、モスクワ郊外」(1869、111.2×80.4cm)
朝、鍬を持って畑に向かう農民たち。背景には果てしなく平原が続く。自然の壮大さを示すように、積雲の湧く空が大きく描かれている。1869年の美術アカデミーの展覧会に出品され、トレチャコフが初めて購入したシーシキンの作品である。このとき、シーシキンは「私の絵があなたの手に、ロシアの芸術家の華麗なコレクションに入るのは、とても嬉しい」とトレチャコフに書いている。
イワン・シーシキン「松林の朝」(1889、139×213cm)
左下に「I.シーシキン 1889年」の署名があり、その下に不鮮明な「K.サヴィーツキー」という署名がある。森の中のクマという光景を思いついたのはサヴィーツキーで、シーシキンが作品を完成させ、トレチャコフが購入した。サヴィーツキーは「クマを仕留めて毛皮を分け合い」、絵の代金4,000ルーブルの内、4分の1を受け取ったと同年3月に親類へ手紙を書き、また、署名をすることになったと後に公表している。
イワン・シーシキン「樫林の雨」(1891、124×203cm)
この作品の解説がないので、以下、「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」展の図録の解説を引用します。
本作はシーシキンの才能のいわば満開の時期に描かれた。シーシキンは愛してやまない自然の中で、あらゆるものに身を委ねた。彼は数々の習作、小品を描き、素朴な森の花、細い草、多様な苔といった細部を丹念に描き込んでいる。また、技巧を駆使して大作を描くこともあった。そうした大作では、彼が愛した森の自然の力強さと美を表現した。シーシキンは太陽の輝かない日でさえ、ロシアの風景の美を見出し、曇りや雨の日の自然の状態にも心惹かれた。画家は本作で、おそらく何日かにわたって降り続いている雨がもたらす湿った空気の魅力を発見している。霧雨の中で、遠い木々や、ぬかるんだ雨道を行く人々の輪郭はかすんでいる。道往く人はもう水たまりに注意を向けず、その中を歩いていく。だがこのような状態でも、自然は独自の美しさ、魅力を具えている。シーシキンは本作で、人間のかすかに哀しげな詩的で物憂げな状態とそれに呼応するような自然の状態を表現している。
ロシアでは長雨の陰鬱な日が続くことが多い。こうした状況はロシア文学でも多くの詩に、またシーシキンの偉大な同時代人であるチャイコフスキーやラフマニノフの曲にも影響している。
本作はシーシキンの才能のいわば満開の時期に描かれた。シーシキンは愛してやまない自然の中で、あらゆるものに身を委ねた。彼は数々の習作、小品を描き、素朴な森の花、細い草、多様な苔といった細部を丹念に描き込んでいる。また、技巧を駆使して大作を描くこともあった。そうした大作では、彼が愛した森の自然の力強さと美を表現した。シーシキンは太陽の輝かない日でさえ、ロシアの風景の美を見出し、曇りや雨の日の自然の状態にも心惹かれた。画家は本作で、おそらく何日かにわたって降り続いている雨がもたらす湿った空気の魅力を発見している。霧雨の中で、遠い木々や、ぬかるんだ雨道を行く人々の輪郭はかすんでいる。道往く人はもう水たまりに注意を向けず、その中を歩いていく。だがこのような状態でも、自然は独自の美しさ、魅力を具えている。シーシキンは本作で、人間のかすかに哀しげな詩的で物憂げな状態とそれに呼応するような自然の状態を表現している。
ロシアでは長雨の陰鬱な日が続くことが多い。こうした状況はロシア文学でも多くの詩に、またシーシキンの偉大な同時代人であるチャイコフスキーやラフマニノフの曲にも影響している。
5 都市の人々
アレクサンドル2世の改革によって貴族の特権の多くが廃止され、その経済的基盤は著しく不安定になった。没落した一族の扶養は女子に託され、また、都市部の女性人口が過剰であったために、女子高等教育が必要とされた。1871年1月14日の勅令で女性の就労が制度化され、助産師、看護師、准医師、薬剤師などの医療職、初等学校や女子中等学校の教育職、電信、信号業務などの公的な事務職が認可された。農民を対象とした人民主義運動の終焉と共に、1880年代の移動美術展覧会(移動展)には、都市で生活する人々、とりわけ教養ある若い女性を描く作品が現れる。
1877年から翌年にかけてサンクト・ペテルブルクでは、人民主義運動に参加した193人の学生と政治犯が刑事裁判にかけられた。政府の弾圧に対して、1879年に過激な一派が「人民の意志」を結成し、1881年3月1日には名門貴族の娘で、女子高等教育過程を修了したソフィヤ・ペローフスカヤ(1853-81)の指導の下、アレクサンドル2世を爆弾テロで暗殺する。
ニコライ・ヤロシェンコが《火夫》や《女子課程学生》といった都市の新しい人間そのものを洞察しているのに対して、ウラジーミル・マコーフスキーは彼らの状況を描写している。
そして、イリヤ・レーピンは、こうした状況と人物の心理描写とを融合し、さらに、美術の伝統をも巧みに織り交ぜた。13人の人物が描かれた《集会》は、光と影の扱い方を含めて、ニコライ・ゲーの《最後の晩餐》を想起させ、《思いがけなく》はアレクサンドル・イワーノフの《民衆の前に現れたキリスト》(1837-57)や冬宮殿(現エルミタージュ美術館)にあったレンブラント・ファン・レインの《放蕩息子の帰還》(1663-65)といった歴史上の名画を踏まえている。
【掲載画】
●ニコライ・ヤロシェンコ
「女子課程学生」(1883)
「火夫」(1878)
「学生」(1881)
●イワン・クラムスコイ
「見知らぬ女」(1883)
「皇后マリヤ・フョードロヴナの肖像」(1881)
●イリヤ・レーピン
「ワルワーラ・イワノヴナ・イクスクル・フォン・ヒルデンバント男爵夫人の肖像」(1889)
「集会」(1883)
「懺悔の前」(1879-85)
「思いがけなく」(1884-88)
●ウラジーミル・マコーフスキー
「並木道で」(1886-87)
「銀行破綻」(1881)
「夕べの集い」(1875-97)
1877年から翌年にかけてサンクト・ペテルブルクでは、人民主義運動に参加した193人の学生と政治犯が刑事裁判にかけられた。政府の弾圧に対して、1879年に過激な一派が「人民の意志」を結成し、1881年3月1日には名門貴族の娘で、女子高等教育過程を修了したソフィヤ・ペローフスカヤ(1853-81)の指導の下、アレクサンドル2世を爆弾テロで暗殺する。
ニコライ・ヤロシェンコが《火夫》や《女子課程学生》といった都市の新しい人間そのものを洞察しているのに対して、ウラジーミル・マコーフスキーは彼らの状況を描写している。
そして、イリヤ・レーピンは、こうした状況と人物の心理描写とを融合し、さらに、美術の伝統をも巧みに織り交ぜた。13人の人物が描かれた《集会》は、光と影の扱い方を含めて、ニコライ・ゲーの《最後の晩餐》を想起させ、《思いがけなく》はアレクサンドル・イワーノフの《民衆の前に現れたキリスト》(1837-57)や冬宮殿(現エルミタージュ美術館)にあったレンブラント・ファン・レインの《放蕩息子の帰還》(1663-65)といった歴史上の名画を踏まえている。
【掲載画】
●ニコライ・ヤロシェンコ
「女子課程学生」(1883)
「火夫」(1878)
「学生」(1881)
●イワン・クラムスコイ
「見知らぬ女」(1883)
「皇后マリヤ・フョードロヴナの肖像」(1881)
●イリヤ・レーピン
「ワルワーラ・イワノヴナ・イクスクル・フォン・ヒルデンバント男爵夫人の肖像」(1889)
「集会」(1883)
「懺悔の前」(1879-85)
「思いがけなく」(1884-88)
●ウラジーミル・マコーフスキー
「並木道で」(1886-87)
「銀行破綻」(1881)
「夕べの集い」(1875-97)
イワン・クラムスコイ「見知らぬ女」(1883、75.5×99cm)
羽飾りのついたベルベットの帽子とリボンのついた毛皮のコートを身を包み、サンクト・ペテルブルクのネフスキー大通りを進む豪華な馬車の上から見下ろす美しい女性。当時、高級娼婦の肖像と見なされたこの作品をトレチャコフは購入しなかった。プラハにある個人蔵の習作が、当時のその見方を裏付ける。
クラムスコイはこの作品に「見知らぬ女」という題名を与えることで、ある特定の人物の肖像画ではなく普遍化された女性像、あるいは名前を捨てた女性の姿であることを示している。
クラムスコイはこの作品に「見知らぬ女」という題名を与えることで、ある特定の人物の肖像画ではなく普遍化された女性像、あるいは名前を捨てた女性の姿であることを示している。
イワン・クラムスコイ「皇后マリヤ・フョードロヴナの肖像」(1881、109×74cm)
アレクサンドル3世の后マリヤ・フョードロヴナ(1847-1928)は、デンマーク王クリスチャン9世の次女。1864年にロシア皇太子ニコライと婚約したが、ニコライが病死し、弟のアレクサンドルと結婚した。この肖像画は、1881年、アレクサンドル3世が即位後に依頼し、セルゲイ・レヴィーツキーがスタジオで撮影した写真を基に描かれ、同年7月にペテルゴフで完成された。
1894年にアレクサンドル3世が崩御、長男のニコライ2世が即位して、マリア・フョードロヴナは皇太后となった。1917年のロシア革命では、甥のイギリス王ジョージ5世が派遣した戦艦でヤルタから救出され、デンマークに亡命した。
この作品は、革命までサンクト・ペテルブルクのアニーチコフ宮殿にあり、1918年にエルミタージュ美術館に移された。その後忘れられていたが、修復を経て2004年に公開された。
1894年にアレクサンドル3世が崩御、長男のニコライ2世が即位して、マリア・フョードロヴナは皇太后となった。1917年のロシア革命では、甥のイギリス王ジョージ5世が派遣した戦艦でヤルタから救出され、デンマークに亡命した。
この作品は、革命までサンクト・ペテルブルクのアニーチコフ宮殿にあり、1918年にエルミタージュ美術館に移された。その後忘れられていたが、修復を経て2004年に公開された。
6 ロシア帝国の著名人たち
モスクワの実業家で美術収集家のパーヴェル・トレチャコフは、祖国ロシアの同時代の作家、作曲家、画家、俳優、学者の肖像画をワシーリー・ペローフ、イワン・クラムスコイ、イリヤ・レーピンらに注文し、あるいは購入して、優れた肖像画のコレクションを形成した。画家たちもまた、ある人物の単なる模写ではなく、民族を代表するような意味のある人物像を求め、その特徴を描写する新しい方法を見出した。
移動派の多くの画家が、優れた人物像の典型としてレフ・トルストイ(1828-1910)を描いた。トルストイその人も偉大な人間観察者であり、若い頃に写真修正師の仕事をしていたクラムスコイは、鋭敏な観察力と精緻な描写力によって、それを画面に記録した。クラムスコイ の《レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像》(1873)は、この文豪を描いた数多くの肖像画の中でも、文豪の深い洞察力、眼力を捉えた、もっとも優れた作品である。
【掲載画】
●イワン・クラムスコイ
「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1873)
「イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャローフの肖像」(1874)
●ニコライ・ゲー
「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1884)
●イリヤ・レーピン
「裸足のレフ・ニコラエヴィチ・トルストイ」(1901)
「アレクセイ・フェオフィラクトヴィチ・ピーセムスキーの肖像」(1880)
「アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテインの肖像」(1881)
「エリザヴェータを演じる女優ペラゲーヤ・アンチポヴナ・ストレーぺトワの肖像」(1881)
●ワシーリー・ペローフ
「アレクサンドル・ニコラエヴィチ・オストローフスキーの肖像」(1871)
「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの肖像」(1872)
移動派の多くの画家が、優れた人物像の典型としてレフ・トルストイ(1828-1910)を描いた。トルストイその人も偉大な人間観察者であり、若い頃に写真修正師の仕事をしていたクラムスコイは、鋭敏な観察力と精緻な描写力によって、それを画面に記録した。クラムスコイ の《レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像》(1873)は、この文豪を描いた数多くの肖像画の中でも、文豪の深い洞察力、眼力を捉えた、もっとも優れた作品である。
【掲載画】
●イワン・クラムスコイ
「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1873)
「イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャローフの肖像」(1874)
●ニコライ・ゲー
「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1884)
●イリヤ・レーピン
「裸足のレフ・ニコラエヴィチ・トルストイ」(1901)
「アレクセイ・フェオフィラクトヴィチ・ピーセムスキーの肖像」(1880)
「アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテインの肖像」(1881)
「エリザヴェータを演じる女優ペラゲーヤ・アンチポヴナ・ストレーぺトワの肖像」(1881)
●ワシーリー・ペローフ
「アレクサンドル・ニコラエヴィチ・オストローフスキーの肖像」(1871)
「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの肖像」(1872)
イワン・クラムスコイ「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1873、98×79.5cm)
この作品はトルストイ伯爵の領地トゥーラ県ヤースナヤ・ポリャーナで、彼が『アンナ・カレーニナ』を執筆しているときに描かれた。クラムスコイはトルストイの個性を捉えるだけでなく、高い道徳心、深い精神性と知性を備えた人物の典型として描いた。
文豪の家族は、この作品を展覧会に出品しないことを条件としたが、1878年のパリ万国博覧会のためにスターソフがトルストイを説得して、その条件を撤回させた。
小説に登場する画家ミハイロフの言葉は、クラムスコイの芸術観を反映している。
文豪の家族は、この作品を展覧会に出品しないことを条件としたが、1878年のパリ万国博覧会のためにスターソフがトルストイを説得して、その条件を撤回させた。
小説に登場する画家ミハイロフの言葉は、クラムスコイの芸術観を反映している。
[特集]身近な人々(家族の肖像・芸術家仲間)
【掲載画】
●イリヤ・レーピン
「休息」(1882)
「あぜ道にて、あぜ道を歩くヴェーラ・アレクセエヴナ・レーピナと子どもたち」(1879)
「少年ユーリー・イリイチ・レーピンの肖像」(1882)
「秋の花束」(1892)
「日向で」(1900)
「ワシーリー・イワノヴィチ・スーリコフの肖像」(1877)
「ワシーリー・ドミトリエヴィチ・ポレーノフの肖像」(1877)
「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー の肖像」(1881)
「画家イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイの肖像」(1882)
●イワン・クラムスコイ
「読書、ソフィヤ・ニコラエヴナ・クラムスカヤの肖像」(1866以降)
「画家の娘ソフィヤ・イワノヴナ・クラムスカヤの肖像」(1882)
「イワン・イワノヴィチ・シーシキンの肖像」(1873)
「イリヤ・エフィモヴィチ・レーピンの肖像」(1876)
「アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・リトーフチェンコの肖像」(1878)
●イリヤ・レーピン
「休息」(1882)
「あぜ道にて、あぜ道を歩くヴェーラ・アレクセエヴナ・レーピナと子どもたち」(1879)
「少年ユーリー・イリイチ・レーピンの肖像」(1882)
「秋の花束」(1892)
「日向で」(1900)
「ワシーリー・イワノヴィチ・スーリコフの肖像」(1877)
「ワシーリー・ドミトリエヴィチ・ポレーノフの肖像」(1877)
「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー の肖像」(1881)
「画家イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイの肖像」(1882)
●イワン・クラムスコイ
「読書、ソフィヤ・ニコラエヴナ・クラムスカヤの肖像」(1866以降)
「画家の娘ソフィヤ・イワノヴナ・クラムスカヤの肖像」(1882)
「イワン・イワノヴィチ・シーシキンの肖像」(1873)
「イリヤ・エフィモヴィチ・レーピンの肖像」(1876)
「アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・リトーフチェンコの肖像」(1878)
イリヤ・レーピン「休息」(1882、143×94cm)
画家の妻ヴェーラ・レーピナは、レーピンが美術アカデミーの学生であったときの下宿先、建築家アレクセイ・ツェフツォーク(1815頃-没年不明)の娘で、ふたりは1872年に結婚した。
この作品は、肘掛椅子でまどろむ妻を正面から描いているが、《休息》という題名に加えて、習作と比べて衣装が華やかになっているなど、展覧会向けの作品として描かれた。喪章であろうか、右腕には黒いリボンが巻かれている。この作品は、1883年のミュンヘン国際美術展にも出品された。
この作品は、肘掛椅子でまどろむ妻を正面から描いているが、《休息》という題名に加えて、習作と比べて衣装が華やかになっているなど、展覧会向けの作品として描かれた。喪章であろうか、右腕には黒いリボンが巻かれている。この作品は、1883年のミュンヘン国際美術展にも出品された。
イリヤ・レーピン「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキーの肖像」(71.8、58.5× cm)
この肖像画は、アレクサンドル2世が暗殺された翌日、1881年3月2日から5日にかけてニコラーエフスキー陸軍病院の病室で描かれた。レーピンがムソルグスキーを知ったのは、1870年代はじめのことで、それ以来、この作曲家の肖像画を描くことを考えていたが、ようやく実現したのである。しかし、11日後の3月16日にムソルグスキー は亡くなった。
この作品は3月1日からサンクト・ペテルブルクのユースポフ邸で開催されていた第9回移動展に途中から出品され、3月26日の『声(ゴーロス)』紙第85号にスターソフの記事「ムソルグスキー の肖像」が掲載されると、1日に2,500人以上の観客が押し寄せたという。レーピンはトレチャコフから受け取ったこの作品の代金400ルーブルをムソルグスキー の墓碑のために寄付した。
この作品は3月1日からサンクト・ペテルブルクのユースポフ邸で開催されていた第9回移動展に途中から出品され、3月26日の『声(ゴーロス)』紙第85号にスターソフの記事「ムソルグスキー の肖像」が掲載されると、1日に2,500人以上の観客が押し寄せたという。レーピンはトレチャコフから受け取ったこの作品の代金400ルーブルをムソルグスキー の墓碑のために寄付した。