今日、上野の東京国立博物館に、特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」(3月26日~6月2日)を見に行ってきました。
「風信帖」や「両界曼荼羅図」、密教法具等々、東寺の貴重な宝物が展示されていましたが、僕は前半をスルーして仏像展示スペースへ向かいました。
最初に「兜跋毘沙門天立像」が迎えてくれました。そして、東寺講堂の立体曼荼羅を再現した展示スペースへ。東寺の講堂内は荘厳な雰囲気があり、そこで見る立体曼荼羅の仏像群は格別なものだと思います。しかし、薄暗いし、遠くからしか見えない仏像が多いのも残念なところです。トーハクの展示は360度から見ることが可能で、多くの気づきがありました。
なお「帝釈天騎象像」のみですが、撮影可能でした。一番見たかった仏像だったので、感激してiPhoneで撮りまくりました。次回はデジカメで撮影しようと思います。(実はデジカメを持って行ったのですが、入場前にコインロッカーに預けてしまいました。)
「風信帖」や「両界曼荼羅図」、密教法具等々、東寺の貴重な宝物が展示されていましたが、僕は前半をスルーして仏像展示スペースへ向かいました。
最初に「兜跋毘沙門天立像」が迎えてくれました。そして、東寺講堂の立体曼荼羅を再現した展示スペースへ。東寺の講堂内は荘厳な雰囲気があり、そこで見る立体曼荼羅の仏像群は格別なものだと思います。しかし、薄暗いし、遠くからしか見えない仏像が多いのも残念なところです。トーハクの展示は360度から見ることが可能で、多くの気づきがありました。
なお「帝釈天騎象像」のみですが、撮影可能でした。一番見たかった仏像だったので、感激してiPhoneで撮りまくりました。次回はデジカメで撮影しようと思います。(実はデジカメを持って行ったのですが、入場前にコインロッカーに預けてしまいました。)
◆展覧会概要(東京国立博物館HPより)
東寺(教王護国寺)は、平安京遷都に伴って、王城鎮護の官寺として西寺とともに建立されました。唐で新しい仏教である密教を学んで帰国した弘法大師空海は、823年に嵯峨天皇より東寺を賜り、真言密教の根本道場としました。2023年には、真言宗が立教開宗されて1200年の節目を迎えます。
空海のもたらした密教の造形物は、美術品としても極めて高い質を誇り、その多彩さや豊かさはわが国の仏教美術の中で群を抜いています。
本展は、空海にまつわる数々の名宝をはじめ、東寺に伝わる文化財の全貌を紹介するものです。空海が作り上げた曼荼羅の世界を体感できる講堂安置の21体の仏像からなる立体曼荼羅のうち、史上最多となる国宝11体、重文4体、合計15体が出品されるほか、彫刻、絵画、書跡、工芸など密教美術の最高峰が一堂に会します。東寺が1200年にわたり、空海の教えとともに守り伝えてきた至宝をご堪能ください。
空海のもたらした密教の造形物は、美術品としても極めて高い質を誇り、その多彩さや豊かさはわが国の仏教美術の中で群を抜いています。
本展は、空海にまつわる数々の名宝をはじめ、東寺に伝わる文化財の全貌を紹介するものです。空海が作り上げた曼荼羅の世界を体感できる講堂安置の21体の仏像からなる立体曼荼羅のうち、史上最多となる国宝11体、重文4体、合計15体が出品されるほか、彫刻、絵画、書跡、工芸など密教美術の最高峰が一堂に会します。東寺が1200年にわたり、空海の教えとともに守り伝えてきた至宝をご堪能ください。
◆展覧会のみどころ(東京国立博物館HPより)
1 空海と後七日御修法(ごしちにちみしほ)
空海は密教を求めて31歳で中国に渡り、約2年間の滞在でそのすべてを修めました。806年に帰国した後、823年に東寺を賜り、真言密教の根本道場としました。東寺には空海が中国から持ち帰った絵画や工芸品、空海の書の中でも最も格調高い「風信帖」が残っています。 空海は、正月に宮中で修される後七日御修法を始めました。現在は東寺で行われますが、真言宗で最も重要で、かたく秘された儀式です。本章では、後七日御修法の堂内の様子を再現して紹介します。
2 密教美術の至宝
真言密教では、造形や儀礼、荘厳(しょうごん)の仕方において、それまでの仏教教団とは大きく異なる形式をとります。造形の上では、大日如来を中心として多くの如来・菩薩・明王・天などを集合的に描いて密教の世界観を表した両界曼荼羅図や、如来・菩薩などの姿形や手で結ぶ印の形などの細かな規則を図示した図像を重要視します。また、儀礼の中で鳴り物の楽器を用いることも特徴です。
本章では、両界曼荼羅など東寺に伝わる密教独特の造形の名品をご覧いただきます。
3 東寺の信仰と歴史
平安京遷都にともなって建立された東寺には、1200年にわたり寄せられた篤い信仰とその歴史を物語るさまざまな宝物が伝わります。
本章では、羅城門伝説に彩られた毘沙門天立像にはじまり、空海ゆかりの舎利信仰や、八幡信仰を伝える遺品、東寺の歴史や宝物についてまとめられた『東宝記(とうぼうき)』に代表される書跡や古文書など、東寺の信仰と歴史を今日に伝える宝物の数々をご覧いただきます。
4 曼荼羅の世界
曼荼羅とは、仏の世界を表したもので、インドで成立しました。複雑な密教の世界観を視覚的に表すことから布教に適し、アジア各地に普及しました。空海は長安で師恵果(けいか)から両界曼荼羅を伝授されますが、「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らないものに開き示す」(『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』)と語るように、イメージの力を重視しました。その到達点ともいえるのが、講堂に安置された21体の仏像から構成される立体曼荼羅です。
空海は密教を求めて31歳で中国に渡り、約2年間の滞在でそのすべてを修めました。806年に帰国した後、823年に東寺を賜り、真言密教の根本道場としました。東寺には空海が中国から持ち帰った絵画や工芸品、空海の書の中でも最も格調高い「風信帖」が残っています。 空海は、正月に宮中で修される後七日御修法を始めました。現在は東寺で行われますが、真言宗で最も重要で、かたく秘された儀式です。本章では、後七日御修法の堂内の様子を再現して紹介します。
2 密教美術の至宝
真言密教では、造形や儀礼、荘厳(しょうごん)の仕方において、それまでの仏教教団とは大きく異なる形式をとります。造形の上では、大日如来を中心として多くの如来・菩薩・明王・天などを集合的に描いて密教の世界観を表した両界曼荼羅図や、如来・菩薩などの姿形や手で結ぶ印の形などの細かな規則を図示した図像を重要視します。また、儀礼の中で鳴り物の楽器を用いることも特徴です。
本章では、両界曼荼羅など東寺に伝わる密教独特の造形の名品をご覧いただきます。
3 東寺の信仰と歴史
平安京遷都にともなって建立された東寺には、1200年にわたり寄せられた篤い信仰とその歴史を物語るさまざまな宝物が伝わります。
本章では、羅城門伝説に彩られた毘沙門天立像にはじまり、空海ゆかりの舎利信仰や、八幡信仰を伝える遺品、東寺の歴史や宝物についてまとめられた『東宝記(とうぼうき)』に代表される書跡や古文書など、東寺の信仰と歴史を今日に伝える宝物の数々をご覧いただきます。
4 曼荼羅の世界
曼荼羅とは、仏の世界を表したもので、インドで成立しました。複雑な密教の世界観を視覚的に表すことから布教に適し、アジア各地に普及しました。空海は長安で師恵果(けいか)から両界曼荼羅を伝授されますが、「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らないものに開き示す」(『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』)と語るように、イメージの力を重視しました。その到達点ともいえるのが、講堂に安置された21体の仏像から構成される立体曼荼羅です。
◆空海(東京国立博物館HPより)
讃岐国(現在の香川県)の生まれ。中国に留学して密教を学び、帰国後、真言宗を開いて東寺や高野山を拠点に密教を広めました。密教の理解には造形物が不可欠という師の教えに従い、曼荼羅や彫刻などの制作を指導しました。弘法大師とも呼ばれ、空海自身が信仰の対象となっています。優れた書家としても知られています。
以下、印象に残った仏像を紹介します。(展示順。写真は図録をコピー。ただし、帝釈天立像はiPhone8で撮影)
◆兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像
木造・彩色 像高189.4cm 中国唐時代・8世紀
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木造・彩色 像高189.4cm 中国唐時代・8世紀
本像はもともと東寺に近い平安京の正門である羅城門の楼上に安置されていたが、門が倒壊して東寺に移されたという伝承が『東宝記(とうぼうき)』に載る。羅城門は何度か倒壊しているようで、はやくも弘仁7年(816)に倒壊した記録があり、天元3年(980)の倒壊以後は再建されることはなかった。
兜跋毘沙門天は、地天女(ちてんにょ)の両手の上に立つ毘沙門天で、地天女の左右にはそれぞれ尼藍婆(にらんば)と毘藍婆(びらんば)が従う。鳥を表した冠、鎖を編んだ裾の長い金鎖甲(きんさこう)、海老の甲のような海老籠手(えびごて)を着ける特異な姿で、瞳を左下に向ける点や、唇を少し開いて歯を見せる点も奇妙である。兜跋毘沙門天はインドではなく中国で生まれた尊像で、本像は8世紀末に中国でつくられ日本にもたらされた。中国では兜跋毘沙門天は城門の守り神とされ、平安京の羅城門に安置されたというのもそれに由来する。
承和6年開眼の東寺講堂の多聞天像は通常の甲冑を着けるが地天女の上に立つ兜跋毘沙門天で、空海も兜跋毘沙門天に関心をもっていたことが知られるのである。(図録より)
※四天王のうち、北方の護法神「多聞天」は、独尊では「毘沙門天」と呼ばれますが、このうち地天女の両手に支えられて立ち、二鬼を従える姿で表された特殊な像を「兜跋毘沙門天」といいます。兜跋毘沙門天は、地天女(ちてんにょ)の両手の上に立つ毘沙門天で、地天女の左右にはそれぞれ尼藍婆(にらんば)と毘藍婆(びらんば)が従う。鳥を表した冠、鎖を編んだ裾の長い金鎖甲(きんさこう)、海老の甲のような海老籠手(えびごて)を着ける特異な姿で、瞳を左下に向ける点や、唇を少し開いて歯を見せる点も奇妙である。兜跋毘沙門天はインドではなく中国で生まれた尊像で、本像は8世紀末に中国でつくられ日本にもたらされた。中国では兜跋毘沙門天は城門の守り神とされ、平安京の羅城門に安置されたというのもそれに由来する。
承和6年開眼の東寺講堂の多聞天像は通常の甲冑を着けるが地天女の上に立つ兜跋毘沙門天で、空海も兜跋毘沙門天に関心をもっていたことが知られるのである。(図録より)
地天女と、その左右に従う尼藍婆と毘藍婆の姿が漫画チックで不思議でしたが、毘沙門天の目つきも同じかなって思いました。東寺の宝物館で見たときよりも、ずっと親しみを感じました。
◆法界虚空蔵菩薩(ほっかいこくうぞうぼさつ)坐像(五大虚空蔵菩薩)
木造・彩色 像高73.5cm 中国唐時代・9世紀
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木造・彩色 像高73.5cm 中国唐時代・9世紀
五大虚空蔵菩薩
東寺の子院である観智院は、『東宝記』を編纂した学僧杲宝(ごうほう)が創建したと伝えられる。杲宝の弟子である賢宝(げんぽう)が山科の安祥寺から本尊として移したのが、五大虚空蔵菩薩坐像である。五大虚空蔵とは、五つの智慧をもつとされる虚空蔵菩薩を五方に配置したもので、金剛界の五仏を象徴するという。いずれも両手の構えで区別される菩薩の姿で表されるが、注目すべきは動物に坐す点である。金剛虚空蔵が獅子に、宝光虚空蔵が象に、法界(ほっかい)虚空蔵が馬に、蓮華虚空蔵が孔雀に、業用(ごうよう)虚空蔵が迦楼羅(かるら)に坐す。本体、動物ともクスノキに似た広葉樹材から彫り出され、現状は黒漆が塗られるが、本来は彩色仕上げとされていたようだ。(中略)
面長で平板な顔立ち、抑揚を抑えた体躯、硬く表わされた衣の襞(ひだ)といった表現や、装身具などに練物とみられる異材を貼りつける技法は日本では見出しにくく、時代を通じて中国製の仏像に認められる特徴といえる。近年は宋時代に江南地方で制作された木彫像との類似が注目されており、顔立ちなどに見る個性的な表現が江南地方の特色であった可能性がある。日本では広まらなかった表現だが、異国風を強く意識させる異色の霊像として尊ばれたのだろう。(図録より)
※彫刻として優れた作品だとは思いませんでしたが、その素朴さに心惹かれました。東寺の子院である観智院は、『東宝記』を編纂した学僧杲宝(ごうほう)が創建したと伝えられる。杲宝の弟子である賢宝(げんぽう)が山科の安祥寺から本尊として移したのが、五大虚空蔵菩薩坐像である。五大虚空蔵とは、五つの智慧をもつとされる虚空蔵菩薩を五方に配置したもので、金剛界の五仏を象徴するという。いずれも両手の構えで区別される菩薩の姿で表されるが、注目すべきは動物に坐す点である。金剛虚空蔵が獅子に、宝光虚空蔵が象に、法界(ほっかい)虚空蔵が馬に、蓮華虚空蔵が孔雀に、業用(ごうよう)虚空蔵が迦楼羅(かるら)に坐す。本体、動物ともクスノキに似た広葉樹材から彫り出され、現状は黒漆が塗られるが、本来は彩色仕上げとされていたようだ。(中略)
面長で平板な顔立ち、抑揚を抑えた体躯、硬く表わされた衣の襞(ひだ)といった表現や、装身具などに練物とみられる異材を貼りつける技法は日本では見出しにくく、時代を通じて中国製の仏像に認められる特徴といえる。近年は宋時代に江南地方で制作された木彫像との類似が注目されており、顔立ちなどに見る個性的な表現が江南地方の特色であった可能性がある。日本では広まらなかった表現だが、異国風を強く意識させる異色の霊像として尊ばれたのだろう。(図録より)
◆金剛宝菩薩(こんごうほうぼさつ)坐像(五菩薩)
木造・漆箔 像高93.4cm 平安時代・承和6年(839)
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木造・漆箔 像高93.4cm 平安時代・承和6年(839)
五菩薩
講堂須弥壇(しゅみだん)の東方に安置される五菩薩。中尊の金剛波羅蜜菩薩のみ土一揆で焼失したため、現在の像は安土桃山時代から江戸時代(16世紀末頃)に再興されたものだが、四菩薩はそれぞれ本体のみ創建当時のまま伝えられる。いずれも五仏の周囲に配される密教の仏でありながら、頭から台座蓮肉までヒノキの一材より彫り出し(金剛宝菩薩のみ台座は別材)、漆箔を施す。表面に薄く漆と麻などの繊維を混ぜた木屎漆(こくそうるし)をかける点は、奈良時代(8世紀)の技法に倣う。両膝を左右に張り、均整のとれた体躯や、写実的な衣の表現にも正統的な作風が示される。(図録より)
※東寺では、五菩薩は大抵スルーしていたので、少し勉強しました。講堂須弥壇(しゅみだん)の東方に安置される五菩薩。中尊の金剛波羅蜜菩薩のみ土一揆で焼失したため、現在の像は安土桃山時代から江戸時代(16世紀末頃)に再興されたものだが、四菩薩はそれぞれ本体のみ創建当時のまま伝えられる。いずれも五仏の周囲に配される密教の仏でありながら、頭から台座蓮肉までヒノキの一材より彫り出し(金剛宝菩薩のみ台座は別材)、漆箔を施す。表面に薄く漆と麻などの繊維を混ぜた木屎漆(こくそうるし)をかける点は、奈良時代(8世紀)の技法に倣う。両膝を左右に張り、均整のとれた体躯や、写実的な衣の表現にも正統的な作風が示される。(図録より)
◆大威徳明王(だいいとくみょうおう)騎牛像(五大明王)
木造・彩色 像高100.9cm 平安時代・承和6年(839)
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木造・彩色 像高100.9cm 平安時代・承和6年(839)
五大明王
須弥壇の西方に安置される五大明王。不動明王の四方に四明王が配される。インドで成立した密教では、ヒンドゥー教に対する優位を説くため、恐ろしい神々の姿を取り入れた明王が生み出された。例えば、降三世(ごうざんぜ)明王は異教の神を調伏し、仏教に帰依させると考えられ、足下にシヴァ神夫婦を踏みつけた姿はその象徴といえる。軍荼利(ぐんだり)明王も、顔こそ一面だが、腰には虎皮(こひ)をまとい、手足に蛇を巻きつけるなど、呪術性を醸した表現である。
大威徳明王は、インドではヤマーンタカと呼ばれ、その名のとおり冥界の王ヤマ神を調伏するため、文殊菩薩が変化した明王とされる。そのため、ヤマ神の乗り物である水牛に坐した姿で表される。金剛夜叉明王は、体の正面で左右の手に金剛鈴(れい)と金剛杵(しょ)を持ち、金剛薩?券(さった)菩薩を意識した形で表現される。顔が三面であるのに加え、正面の顔は五眼をもつ異形である。いずれも頭と体幹部がヒノキの一材より彫りだされる。いずれも深く内刳(うちぐ)りを施し、装身具などが漆と麻の繊維を混ぜた木屎漆で成形されるのは、奈良時代以来の技法を受け継いだものといえる。(図録より)
※大威徳明王は水牛に坐していますが、六面(顔が6つ)・六臂(腕が6本)・六足というのが大きな特徴です。東寺の講堂は暗いし、360度から見ることも出来ませんが、今日はじっくり見ることが出来ました。足(脚)が6本ということに、今日初めて気づきました。須弥壇の西方に安置される五大明王。不動明王の四方に四明王が配される。インドで成立した密教では、ヒンドゥー教に対する優位を説くため、恐ろしい神々の姿を取り入れた明王が生み出された。例えば、降三世(ごうざんぜ)明王は異教の神を調伏し、仏教に帰依させると考えられ、足下にシヴァ神夫婦を踏みつけた姿はその象徴といえる。軍荼利(ぐんだり)明王も、顔こそ一面だが、腰には虎皮(こひ)をまとい、手足に蛇を巻きつけるなど、呪術性を醸した表現である。
大威徳明王は、インドではヤマーンタカと呼ばれ、その名のとおり冥界の王ヤマ神を調伏するため、文殊菩薩が変化した明王とされる。そのため、ヤマ神の乗り物である水牛に坐した姿で表される。金剛夜叉明王は、体の正面で左右の手に金剛鈴(れい)と金剛杵(しょ)を持ち、金剛薩?券(さった)菩薩を意識した形で表現される。顔が三面であるのに加え、正面の顔は五眼をもつ異形である。いずれも頭と体幹部がヒノキの一材より彫りだされる。いずれも深く内刳(うちぐ)りを施し、装身具などが漆と麻の繊維を混ぜた木屎漆で成形されるのは、奈良時代以来の技法を受け継いだものといえる。(図録より)
◆持国天(じこくてん)立像(四天王)
木造・彩色 像高183cm 平安時代・承和6年(839)
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木造・彩色 像高183cm 平安時代・承和6年(839)
四天王
須弥壇の四隅を護る四天王のうち、東方と南方に配されるのが持国天と増長天である。持国天は、前傾した姿勢で拝する者に迫り、怒張した表情もあいまって、類を見ない迫力を示す。勢いのある体勢とともに、後方へなびく衣も躍動感に満ちている。増長天は見開いた眼と盛り上がった筋肉が凄まじい形相を表す。一方で、邪鬼に直立して動きも少なく、大胆に顔を左方へ向けたところは持国天と対称的で、計算された構成が見事である。二像ともに、邪鬼を含む全身をヒノキの一材より彫り出して彩色で仕上げる。内内刳りを施さず、一群のなかではとりわけ重量感にあふれる。また、深く刻まれた衣の襞(ひだ)や、緊密な甲(よろい)の彫刻など、卓越した木彫技術も見どころといえる。なお、瞳には鉱物状の異材を嵌め込み、生々しい質感とともに異様な迫力を醸す。(図録より)
※一昨年、運慶展で興福寺の四天王立像(南円堂→中金堂、鎌倉時代)を見て、素晴らしいと思いました。この持国天立像は平安時代の作ですが、こちらも興福寺のものと同様迫力があり、心惹かれました。須弥壇の四隅を護る四天王のうち、東方と南方に配されるのが持国天と増長天である。持国天は、前傾した姿勢で拝する者に迫り、怒張した表情もあいまって、類を見ない迫力を示す。勢いのある体勢とともに、後方へなびく衣も躍動感に満ちている。増長天は見開いた眼と盛り上がった筋肉が凄まじい形相を表す。一方で、邪鬼に直立して動きも少なく、大胆に顔を左方へ向けたところは持国天と対称的で、計算された構成が見事である。二像ともに、邪鬼を含む全身をヒノキの一材より彫り出して彩色で仕上げる。内内刳りを施さず、一群のなかではとりわけ重量感にあふれる。また、深く刻まれた衣の襞(ひだ)や、緊密な甲(よろい)の彫刻など、卓越した木彫技術も見どころといえる。なお、瞳には鉱物状の異材を嵌め込み、生々しい質感とともに異様な迫力を醸す。(図録より)
◆帝釈天(たいしゃくてん)騎象像
木造・彩色 坐高105.4cm 平安時代・承和6年(839)
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木造・彩色 坐高105.4cm 平安時代・承和6年(839)
梵天・帝釈天
須弥壇の東西には、インドを代表する神が配される。東方は梵天(ブラフマー神)、西方は帝釈天(インドラ神)である。ともにヒノキの一材から彫り出し、内刳りを施す。
帝釈天は着甲し、武器である金剛杵を手にする。梵天とともに仏教に取り入れられ、仏法の守護神として対で表わされることが多い。ゆったりと象に乗る姿はインド風で、奈良時代までの帝釈天の表現とは異なる。空海がもたらした新しい情報に基づいて造られたのだろう。今は蓮華座に代わるが、五仏や五菩薩も当初は鳥獣の台座に坐していた可能性がある。(図録より)
※興福寺の阿修羅とイケメン・ランキングの1、2位を争っていると誰かが言っていましたが、確かに美しい仏像です。このような素晴らしい仏像を千年以上も守り伝えてきた人々に敬意を表したいと思います。須弥壇の東西には、インドを代表する神が配される。東方は梵天(ブラフマー神)、西方は帝釈天(インドラ神)である。ともにヒノキの一材から彫り出し、内刳りを施す。
帝釈天は着甲し、武器である金剛杵を手にする。梵天とともに仏教に取り入れられ、仏法の守護神として対で表わされることが多い。ゆったりと象に乗る姿はインド風で、奈良時代までの帝釈天の表現とは異なる。空海がもたらした新しい情報に基づいて造られたのだろう。今は蓮華座に代わるが、五仏や五菩薩も当初は鳥獣の台座に坐していた可能性がある。(図録より)
◆グッズ・土産
・図録『特別展 国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅』
・絵ハガキ
・図録『特別展 国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅』
・絵ハガキ
【参考】
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56012664.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56161467.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56878588.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56012664.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56161467.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56878588.html
【参考】東京国立博物館の桜
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