今日、東京都美術館に「クリムト展 ウィーンと日本 1900」(4月23日~7月10日)を見に行って来ました。
この展覧会はクリムトの没後100年を記念し、「初期の自然主義的な作品から、分離派結成後の黄金様式の時代の代表作、甘美な女性像や数多く手掛けた風景画まで」、日本では過去最多となる25点以上の油彩画を紹介しています。つまり、この展覧会を見れば、クリムトの画業のおおよその流れがわかるというものです。
クリムトと言えば、金地を使った華やかで装飾的な絵画(=黄金様式の時代)しか印象になかったので、この展覧会では彼の画業の幅広さを知ることができました。しかし、会場をあとにしながら、何かしら物足りなさを感じていました。で、ミュージアムショップでクリムトの解説書を買いました。僕は『接吻』や『アデーレ・ブロッホー=バウアーの肖像機戮里茲Δ紛皀團で装飾的な作品をもっと見たかったんだと思いました。
連休が明けたら、国立新美術館で開催中の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」(4月24日~8月5日)を見に行こうと思います。
この展覧会はクリムトの没後100年を記念し、「初期の自然主義的な作品から、分離派結成後の黄金様式の時代の代表作、甘美な女性像や数多く手掛けた風景画まで」、日本では過去最多となる25点以上の油彩画を紹介しています。つまり、この展覧会を見れば、クリムトの画業のおおよその流れがわかるというものです。
クリムトと言えば、金地を使った華やかで装飾的な絵画(=黄金様式の時代)しか印象になかったので、この展覧会では彼の画業の幅広さを知ることができました。しかし、会場をあとにしながら、何かしら物足りなさを感じていました。で、ミュージアムショップでクリムトの解説書を買いました。僕は『接吻』や『アデーレ・ブロッホー=バウアーの肖像機戮里茲Δ紛皀團で装飾的な作品をもっと見たかったんだと思いました。
連休が明けたら、国立新美術館で開催中の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」(4月24日~8月5日)を見に行こうと思います。
◆みどころ(東京都美術館HPより、一部改編)
19世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862-1918)。華やかな装飾性と世紀末的な官能性をあわせもつその作品は、いまなお圧倒的な人気を誇ります。没後100年を記念する本展覧会では、初期の自然主義的な作品から、分離派結成後の黄金様式の時代の代表作、甘美な女性像や数多く手掛けた風景画まで、日本では過去最多となる25点以上の油彩画を紹介します。ウィーンの分離派会館を飾る壁画の精巧な複製による再現展示のほか、同時代のウィーンで活動した画家たちの作品や、クリムトが影響を受けた日本の美術品などもあわせ、ウィーン世紀末美術の精華をご覧ください。
〈章構成〉
1 クリムトとその家族
2 修業時代と劇場装飾
3 私生活
4 ウィーンと日本 1900
5 ウィーン分離派
6 風景画
7 肖像画
8 生命の円環
〈章構成〉
1 クリムトとその家族
2 修業時代と劇場装飾
3 私生活
4 ウィーンと日本 1900
5 ウィーン分離派
6 風景画
7 肖像画
8 生命の円環
1. 過去最大級のクリムト展
初期の自然主義的な作品から、「黄金様式」の時代の代表作、甘美な女性像や清々しい風景画まで、日本では過去最多となるクリムトの油彩画25点以上を通して、その芸術の全容に迫ります。
2. 《女の三世代》、初来日
円熟期のクリムトが手がけた《女の三世代》(ローマ国立近代美術館所蔵)が初来日します。銀などの素材が用いられたクリムトならではの繊細な技法と装飾的な表現を、この機会にご堪能ください。
3. 世紀末ウィーンと日本
19世紀後半のヨーロッパでの流行を受け、ウィーンでも日本美術が人気を博し、その表現やモティーフが美術に取り入れられました。日本美術に影響を受けたクリムトや同時代画家たちの作品とともに、彼らに影響を与えた日本の美術品を展示し、美術におけるウィーンと日本とのつながりを明らかにします。
初期の自然主義的な作品から、「黄金様式」の時代の代表作、甘美な女性像や清々しい風景画まで、日本では過去最多となるクリムトの油彩画25点以上を通して、その芸術の全容に迫ります。
2. 《女の三世代》、初来日
円熟期のクリムトが手がけた《女の三世代》(ローマ国立近代美術館所蔵)が初来日します。銀などの素材が用いられたクリムトならではの繊細な技法と装飾的な表現を、この機会にご堪能ください。
3. 世紀末ウィーンと日本
19世紀後半のヨーロッパでの流行を受け、ウィーンでも日本美術が人気を博し、その表現やモティーフが美術に取り入れられました。日本美術に影響を受けたクリムトや同時代画家たちの作品とともに、彼らに影響を与えた日本の美術品を展示し、美術におけるウィーンと日本とのつながりを明らかにします。
◆グスタフ・クリムト(1862-1918)
グスタフ・クリムトは1862年にウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーン出身であり、クリムトは7人兄弟の第2子であった。1876年に博物館付属工芸学校に入学した。後に弟のエルンスト・クリムトとゲオルク・クリムトもこの学校に学び、それぞれ彫刻師、彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっている。工芸学校でクリムトは石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。
1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチュと共に共同で美術やデザインの請負を始めた。ハンス・マカルトの影響を受け、1884年にマカルトが死去すると、クリムトは彼の継承者と見なされた。
卒業後に3人は芸術家商会を設立した。劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメ、ブカレストなどへも派遣されるようになった。1886年から1888年まではウィーンのリングシュトラーセ(リンク大通り)沿いに建てられたブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。ウィーン市からの依頼を受け1888年に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。同じくリングシュトラーセ沿いの美術史美術館でも装飾の仕事を行っている。ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にクンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入した。1893年に早くもウィーン美術アカデミー教授への推薦をうけたが、結局任命されることはなかった。1892年には父と弟のエルンストが死去している。
装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』、『医学』、『法学』の『学部の絵』3点を担当することになった。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3作は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により、没収された他の作品と共に焼失している(白黒写真および『医学』の習作が現存)。
この間、1897年に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
クリムトは1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。
翌1903年の第18回分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903、愛知県美術館蔵)である。
1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎(スペインかぜの症状悪化により発病)により死去した。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている。
クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。著名な愛人はエミーリエ・フレーゲであり、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であった。エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙をほとんど処分し生涯独身を貫いている。
生誕から150年がたった2012年9月30日、晩年に創作活動を行ったアトリエが再現された。
〈作風〉
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。
クリムトは、同時代の多くの芸術家同様、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている。日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかで、1900年分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントであった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れる。
クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。(Wikipediaより)
1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチュと共に共同で美術やデザインの請負を始めた。ハンス・マカルトの影響を受け、1884年にマカルトが死去すると、クリムトは彼の継承者と見なされた。
卒業後に3人は芸術家商会を設立した。劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメ、ブカレストなどへも派遣されるようになった。1886年から1888年まではウィーンのリングシュトラーセ(リンク大通り)沿いに建てられたブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。ウィーン市からの依頼を受け1888年に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。同じくリングシュトラーセ沿いの美術史美術館でも装飾の仕事を行っている。ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にクンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入した。1893年に早くもウィーン美術アカデミー教授への推薦をうけたが、結局任命されることはなかった。1892年には父と弟のエルンストが死去している。
装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』、『医学』、『法学』の『学部の絵』3点を担当することになった。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3作は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により、没収された他の作品と共に焼失している(白黒写真および『医学』の習作が現存)。
この間、1897年に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
クリムトは1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。
翌1903年の第18回分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903、愛知県美術館蔵)である。
1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎(スペインかぜの症状悪化により発病)により死去した。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている。
クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。著名な愛人はエミーリエ・フレーゲであり、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であった。エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙をほとんど処分し生涯独身を貫いている。
生誕から150年がたった2012年9月30日、晩年に創作活動を行ったアトリエが再現された。
〈作風〉
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。
クリムトは、同時代の多くの芸術家同様、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている。日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかで、1900年分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントであった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れる。
クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。(Wikipediaより)
◆分離派とアール・ヌーヴォー(19世紀末~20世紀初頭)
分離派が目指した総合芸術
19世紀末、ドイツ語圏の諸都市で、アカデミーや官展(サロン)など古い権威から離れ、自由に活動する芸術家集団が、相次いで誕生。彼らは分離独立を意味するラテン語「セセッション」(ドイツ語ではゼツェッション)と名乗ったため、日本では分離派と呼ばれます。
1892年、象徴主義の画家シュトゥックらが、ミュンヘン分離派を結成したのが最初です。97年には画家クリムトや建築家ホフマンがウィーン分離派、98年には画家リーバーマンらがベルリン分離派を立ち上げました。
絵画に限っていえば、分離派の画風は同時代の象徴主義や、続く表現主義などに含まれます。違うのは、分離派には画家以外に建築家やデザイナーも参加し、美術から工芸まであらゆる視覚表現を含む総合芸術を目指したこと。
とくにウィーン分離派は1903年に、建築やインテリア、グラフィック・デザインなどをより重視したウィーン工房を設立。彼らが確立した曲線的で平面的な装飾様式は、ユーゲントシュティル(若者様式)ともよばれます。
「美術工芸運動(アーツ・アンド・クラフツ)」と「新芸術(アール・ヌーヴォー)」
こうした総合芸術運動の草分けは、イギリスでラファエル前派の後継者モリスらが展開した、アーツ・アンド・クラフツ運動でした。モリスらは、工芸を美術より下に見る古典的アカデミズムを否定すると同時に、昔ながらの手仕事を奪う近代的工業化をも拒絶。中世の写本を思わせる挿絵本を自分たちの手で印刷し、家具や壁紙のデザインにも取り組みました。
少し遅れてフランスとベルギーで開花したのが、アール・ヌーヴォーと呼ばれる装飾芸術です。絵画ではシェレやロートレックを先駆けとして、チェコ出身のミュシャらが、カラーリトグラフによるポスター芸術を大成します。
絵画やポスターの分野で、分離派とアーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーヴォーに共通していた特徴は、ゞ弊で平面的な装飾性。建築や工芸ではさらに⊃∧や昆虫など自然モチーフを単純化した図柄、E瓦筌ラスなど当時の新素材を多用したことも挙げられます。
,鉢△防修錣譴討い襪茲Δ法△海海任眛榿僂留洞舛論簑隋1895年にパリで「アール・ヌーヴォー館」を開いてブームを支えた画商ビングも、かつては浮世絵を扱い、月刊誌『芸術の日本』を出版していた人物です。(山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画史入門』より)
19世紀末、ドイツ語圏の諸都市で、アカデミーや官展(サロン)など古い権威から離れ、自由に活動する芸術家集団が、相次いで誕生。彼らは分離独立を意味するラテン語「セセッション」(ドイツ語ではゼツェッション)と名乗ったため、日本では分離派と呼ばれます。
1892年、象徴主義の画家シュトゥックらが、ミュンヘン分離派を結成したのが最初です。97年には画家クリムトや建築家ホフマンがウィーン分離派、98年には画家リーバーマンらがベルリン分離派を立ち上げました。
絵画に限っていえば、分離派の画風は同時代の象徴主義や、続く表現主義などに含まれます。違うのは、分離派には画家以外に建築家やデザイナーも参加し、美術から工芸まであらゆる視覚表現を含む総合芸術を目指したこと。
とくにウィーン分離派は1903年に、建築やインテリア、グラフィック・デザインなどをより重視したウィーン工房を設立。彼らが確立した曲線的で平面的な装飾様式は、ユーゲントシュティル(若者様式)ともよばれます。
「美術工芸運動(アーツ・アンド・クラフツ)」と「新芸術(アール・ヌーヴォー)」
こうした総合芸術運動の草分けは、イギリスでラファエル前派の後継者モリスらが展開した、アーツ・アンド・クラフツ運動でした。モリスらは、工芸を美術より下に見る古典的アカデミズムを否定すると同時に、昔ながらの手仕事を奪う近代的工業化をも拒絶。中世の写本を思わせる挿絵本を自分たちの手で印刷し、家具や壁紙のデザインにも取り組みました。
少し遅れてフランスとベルギーで開花したのが、アール・ヌーヴォーと呼ばれる装飾芸術です。絵画ではシェレやロートレックを先駆けとして、チェコ出身のミュシャらが、カラーリトグラフによるポスター芸術を大成します。
絵画やポスターの分野で、分離派とアーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーヴォーに共通していた特徴は、ゞ弊で平面的な装飾性。建築や工芸ではさらに⊃∧や昆虫など自然モチーフを単純化した図柄、E瓦筌ラスなど当時の新素材を多用したことも挙げられます。
,鉢△防修錣譴討い襪茲Δ法△海海任眛榿僂留洞舛論簑隋1895年にパリで「アール・ヌーヴォー館」を開いてブームを支えた画商ビングも、かつては浮世絵を扱い、月刊誌『芸術の日本』を出版していた人物です。(山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画史入門』より)
以下、印象に残った絵を紹介します。(展示順。写真は特設WEBサイトより。一部、図録をコピー)
◆へレーネ・クリムトの肖像(1898、59.7×49.9cm)
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クリムトの弟エルンストの娘ヘレーネが6歳のときに描かれた肖像画である。姿勢を正して前方を見つめる幼い少女は、年齢のわりに大人びて見える。
正確に横顔を捉えた表現は、1898年の第1回ウィーン分離派展で評判を得たフェルナン・クノップフの肖像画に影響を受けたものとされる。襞(ひだ)のたっぷりほどこされた白いドレスが、流れるような筆致で絵画的に描かれているのとは対照的に、当時としては珍しいおかっぱ頭の横顔は、はっきりとした輪郭を作り出している。(特設WEBサイトより)
※正確に横顔を捉えた表現は、1898年の第1回ウィーン分離派展で評判を得たフェルナン・クノップフの肖像画に影響を受けたものとされる。襞(ひだ)のたっぷりほどこされた白いドレスが、流れるような筆致で絵画的に描かれているのとは対照的に、当時としては珍しいおかっぱ頭の横顔は、はっきりとした輪郭を作り出している。(特設WEBサイトより)
◆女ともだち(1907、125×42cm)
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クリムトは、幅の狭い縦長の変則的な寸法で、毛皮のコートを着た二人の女性を表現しようとした。二人は相前後する位置に並べられている。向かって前方に顔を向ける女性は、横顔を見せる女性の背後に立っている。前景の女性は、傾げた頭部からわかるように、わずかに体をひねっている。布の物質的な存在感を中心とする静的な構図に、女性たちの視線によって動きがもたらされている。
本作品では大部分を占める暗い色調が効果的な素地となり、装飾部分の形と色彩を際立たせている。それはつまり、画面左下に見える、左側の女性が纏う衣装の市松模様と、画面右上部の端に見える、コートの高い襟の後ろに施された色彩豊かな装飾パターンである。細長い画面に収められた要素の密度と、構造的な多様さによって、いかにクリムトが細部にこだわり、均質な画面を作り上げたかがわかる。毛皮を表す黒の色面は、構図における視覚的効果を減ずるものではなく、身体の輪郭を強調しつつ包み隠すクリムト流のやり方で、女性の優雅さを表現したものだ。女性たちの顔は遊び心をもって描写され、顔は周囲の暗い布地からことさら浮き上がっていながら、互いの視線が交わることはない。?茲や唇の柔らかい朱の色調と青白い肌の組み合わせは、女性の顔の官能性をいっそう鮮明にする。この魅力的な女性たちは額の外で起こっている何かに気をとられ、まぶたをふせて口を半ば開けて、なまめかしい姿勢で鑑賞者から視線を逸らしている。このような暗示的な描写によって、一見すると同じに見える冬服を着た二人の「女ともだち」の間に、官能的な心理的緊張を伝える雰囲気をほのめかすことにも成功している。
こうした着想を、彼は浮世絵から得たのかもしれない。人物の姿勢や配置は、いわゆる美人画を構成する二人の人物像にあてはまる。18世紀末に、たとえば鳥居清長による芸者や遊女の浮世絵が人気を得たが、こうした縦長の判型の浮世絵もまた、本作品と同じような姿勢で描かれる。興味深いのは着物の柄で、およそ100年後のヨーロッパに見られる流行とよく似た市松模様と幾何学的な装飾パターンが好んで用いられている。だが本作において、内容を伝える役割を果たしているのは、身ぶりではなく明らかに表情である。一方で、女性の顔を型通りに様式化し、中立的に描く日本の伝統では、身体と動きの象徴的な表現が感情を伝える役割を果たす。(図録より)
※本作品では大部分を占める暗い色調が効果的な素地となり、装飾部分の形と色彩を際立たせている。それはつまり、画面左下に見える、左側の女性が纏う衣装の市松模様と、画面右上部の端に見える、コートの高い襟の後ろに施された色彩豊かな装飾パターンである。細長い画面に収められた要素の密度と、構造的な多様さによって、いかにクリムトが細部にこだわり、均質な画面を作り上げたかがわかる。毛皮を表す黒の色面は、構図における視覚的効果を減ずるものではなく、身体の輪郭を強調しつつ包み隠すクリムト流のやり方で、女性の優雅さを表現したものだ。女性たちの顔は遊び心をもって描写され、顔は周囲の暗い布地からことさら浮き上がっていながら、互いの視線が交わることはない。?茲や唇の柔らかい朱の色調と青白い肌の組み合わせは、女性の顔の官能性をいっそう鮮明にする。この魅力的な女性たちは額の外で起こっている何かに気をとられ、まぶたをふせて口を半ば開けて、なまめかしい姿勢で鑑賞者から視線を逸らしている。このような暗示的な描写によって、一見すると同じに見える冬服を着た二人の「女ともだち」の間に、官能的な心理的緊張を伝える雰囲気をほのめかすことにも成功している。
こうした着想を、彼は浮世絵から得たのかもしれない。人物の姿勢や配置は、いわゆる美人画を構成する二人の人物像にあてはまる。18世紀末に、たとえば鳥居清長による芸者や遊女の浮世絵が人気を得たが、こうした縦長の判型の浮世絵もまた、本作品と同じような姿勢で描かれる。興味深いのは着物の柄で、およそ100年後のヨーロッパに見られる流行とよく似た市松模様と幾何学的な装飾パターンが好んで用いられている。だが本作において、内容を伝える役割を果たしているのは、身ぶりではなく明らかに表情である。一方で、女性の顔を型通りに様式化し、中立的に描く日本の伝統では、身体と動きの象徴的な表現が感情を伝える役割を果たす。(図録より)
◆17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像(1891、67×41.5cm、パステル)
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エミーリエ・フレーゲは、クリムトの弟エルンストが結婚したへレーネの妹。
エミーリエは、クリムトの生涯を通じて、彼の最も重要な、心から頼れる人物であり続けた。彼らは生涯のパートナーだったが、結婚に至ることはなかった。すでに生前から友人たちは、なぜこの二人が結婚しないのかを憶測したが、彼らの関係に性的要素があったのかどうかについては、いまだにわからない。1895年から1897年にかけてクリムトがエミーリエ宛に出した手紙が近年になって公開され、少なくともクリムトが彼女に激しく求愛していた証拠となっている。しかし、遅くとも1899年、クリムトが他の女性との間にできた非嫡出の息子二人の父親になると、彼らの間柄はより純粋な友情という性質をおびるようになったと思われる。
本作品は、クリムトの日本文化の受容を示す最も早い例の一つでもある。それは肖像の部分よりもむしろ、クリムト自身によって描かれた額の部分に認められる。花模様の装飾は、右側の梅花の枝、左側の様々な植物や花々で構成される。これらについては、1888年から1891年に刊行された雑誌『芸術の日本』に見いされる表現が手本として用いられた可能性がある。とくに各誌の表紙内側にいつも描かれたモティーフは、クリムトの額を想起させる。彼は日本のモティーフに刺激を求めただけでなく、しだいに日本の形態表現の独自性へと関心を広げ、次なる展開へ向かって行った。(図録より)
※エミーリエが28歳の時の有名な肖像《エミーリエ・フレーゲの肖像》(1902)に対し、このパステルは1891年、彼女が17歳の時の肖像である。モデルのまつげ、瞳にいたるまで細部描写にこだわった、この頃のクリムトのアカデミックな画風をよく伝える作品であり、このほぼ10年後の、やり手のブティック経営者としての自身に満ちた肖像とは対照的な、清楚な爐嬢様瓮織ぅ廚両啻任△襦3蠅蕕なグラデーションや明るい褐色調の色彩も、後のクリムトとは好対照をなしている。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)エミーリエは、クリムトの生涯を通じて、彼の最も重要な、心から頼れる人物であり続けた。彼らは生涯のパートナーだったが、結婚に至ることはなかった。すでに生前から友人たちは、なぜこの二人が結婚しないのかを憶測したが、彼らの関係に性的要素があったのかどうかについては、いまだにわからない。1895年から1897年にかけてクリムトがエミーリエ宛に出した手紙が近年になって公開され、少なくともクリムトが彼女に激しく求愛していた証拠となっている。しかし、遅くとも1899年、クリムトが他の女性との間にできた非嫡出の息子二人の父親になると、彼らの間柄はより純粋な友情という性質をおびるようになったと思われる。
本作品は、クリムトの日本文化の受容を示す最も早い例の一つでもある。それは肖像の部分よりもむしろ、クリムト自身によって描かれた額の部分に認められる。花模様の装飾は、右側の梅花の枝、左側の様々な植物や花々で構成される。これらについては、1888年から1891年に刊行された雑誌『芸術の日本』に見いされる表現が手本として用いられた可能性がある。とくに各誌の表紙内側にいつも描かれたモティーフは、クリムトの額を想起させる。彼は日本のモティーフに刺激を求めただけでなく、しだいに日本の形態表現の独自性へと関心を広げ、次なる展開へ向かって行った。(図録より)
◆ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)(1899、244×56.5cm)
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足元に蛇を巻き付かせた豊かなブロンドの女性が、生まれたままの姿で右手に持った鏡を鑑賞者に向けている。すべてを映し出す鏡は、古来より「真実」のシンボルとされてきた。伝統的な表現方法を用いながらも、クリムトはここで、妥協せずに真実を志向し、大衆の批判には迎合しない反骨の芸術への支持を表明している。
1897年のウィーン分離派結成の直前に構想された本作品は、クリムトたちが掲げた新たな芸術運動の理想をはっきりと示している。(特設WEBサイトより)
※この絵の上部にはシラーの警句が引用されている。「君の行為と芸術で万人を喜ばすことができないなら、わずかな人を喜ばすことだ。多くの人を喜ばすのははしたないことだ」。この言葉は、クリムト自身、あるいは分離派の芸術が大衆的な人気を狙ったものではなく、真の芸術愛好家のためのものであったことを代弁している。裸婦の鏡に映る狄深足瓩肋錣頬佑僕鬚気譟気に入られるとは限らない彼らの芸術的狄深足瓩任△襦(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)1897年のウィーン分離派結成の直前に構想された本作品は、クリムトたちが掲げた新たな芸術運動の理想をはっきりと示している。(特設WEBサイトより)
◆ユディト(1901、84×42cm)
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クリムトの「黄金様式」の時代の代表作の一つ。油彩画に初めて本物の金箔を用いた作品とされ、額縁はクリムト自身のデザインによる。
旧約聖書外典の「ユディト記」によれば、美しい未亡人ユディトは、祖国を救うために敵将ホロフェルネスの首を切り落とした。この主題は、どんな困難にも屈せぬ女性の強さを誇示するものとして絵画や彫刻に取り上げられてきた。一方で、女性がもたらす危険な誘惑に対する警告として解釈される場合もある。恍惚とした表情を浮かべ、裸身をさらすユディトは、匂いたつような官能性をまとい、抗しがたい魅力を放つ女性として表現されている。(特設WEBサイトより)
※ユーディットはユダヤの町べトゥリアの若く美しい未亡人だった。この町がアッシリア軍に包囲され、陥落も時間の問題となったとき、彼女は意を決して敵の総司令官ホロフェルネスの陣屋におもむき、いわゆる狄Щ迭櫃鵜瓩波爐鯏タ貍屬砲掘△修侶笋鉾爐凌下鵑鬚いて、祖国の危機を救った。つまりユーディットは本来は救国のヒロインであったが、いつしか、特に19世紀末にはこのようなファム・ファタルの一典型として描かれるようになった。血のしたたる敵将の首を手に、胸をはだけたユーディットは正面を見つめているが、半開きの口、いまだ恍惚の境にあるかのような焦点の定まらない目(左右アンバランスであることに注意)には、官能のうずきはあっても、体を張って国を救った聖書の女性の面影はない。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)旧約聖書外典の「ユディト記」によれば、美しい未亡人ユディトは、祖国を救うために敵将ホロフェルネスの首を切り落とした。この主題は、どんな困難にも屈せぬ女性の強さを誇示するものとして絵画や彫刻に取り上げられてきた。一方で、女性がもたらす危険な誘惑に対する警告として解釈される場合もある。恍惚とした表情を浮かべ、裸身をさらすユディトは、匂いたつような官能性をまとい、抗しがたい魅力を放つ女性として表現されている。(特設WEBサイトより)
黄金様式の時代(1900-10)
牴金時代瓩箸いΩ斥佞郎農拘箸いΠ嫐でしばしば使われるが、画家としてのクリムトの黄金時代は文字どおり牴金様式瓩了紊任△辰燭噺世┐襦
クリムトの黄金様式の頂点を印すのは《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞任△蝓◆埓槓》である。いずれも1905~07年頃の作品であるが、金が画面に占める比率、重要性を別にすれば、金に対するクリムトのこだわりは初期の作品にもすでに現れている。《愛》、《パラス・アテナ》、《金魚》、《ベートーベン・フリーズ》、《人生は戦いなり(黄金の騎士)》などがある。
金地が最も目立つのは中世のキリスト教絵画で、その背景はしばしば金地でおおわれている。モザイクでも金は多用されるが、ここでは金地は2つの機能を発揮している。ひとつは豪華な装飾性であり、もうひとつは輝きを失わない金を使うことで、時と場所を超えた絶対的、抽象的な空間を現出するという効果である。キリストや聖人たちは金地の世界に置かれることで、我々の生きている現世から超越した、永遠化された荘厳な異次元に生きていることが暗示されるのである。
クリムトは1903年にビザンティン美術で有名なラヴェンナを訪れ、そこのモザイクに強い感銘を受けたが、クリムトと親しかった同時代の画家によると、これらのモザイクはクリムトに「圧倒的かつ決定的な影響を与えた。彼の芸術における豪華絢爛と、凝固したかのような、同時に華麗な効果はここに由来する」。
これはまさに彼の黄金様式をいったものである。《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機奸◆埓槓》などにおける金は、キリスト教絵画におけるような聖なるものの表現には向かわなかったにしても、画面に工芸品に通じる装飾的な美しさを生み出し、同時に対象(モデル)を中世絵画におけるように非日常的、絶対的、抽象的な空間に閉じ込めるという役割を担っているといえよう。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)
牴金時代瓩箸いΩ斥佞郎農拘箸いΠ嫐でしばしば使われるが、画家としてのクリムトの黄金時代は文字どおり牴金様式瓩了紊任△辰燭噺世┐襦
クリムトの黄金様式の頂点を印すのは《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機佞任△蝓◆埓槓》である。いずれも1905~07年頃の作品であるが、金が画面に占める比率、重要性を別にすれば、金に対するクリムトのこだわりは初期の作品にもすでに現れている。《愛》、《パラス・アテナ》、《金魚》、《ベートーベン・フリーズ》、《人生は戦いなり(黄金の騎士)》などがある。
金地が最も目立つのは中世のキリスト教絵画で、その背景はしばしば金地でおおわれている。モザイクでも金は多用されるが、ここでは金地は2つの機能を発揮している。ひとつは豪華な装飾性であり、もうひとつは輝きを失わない金を使うことで、時と場所を超えた絶対的、抽象的な空間を現出するという効果である。キリストや聖人たちは金地の世界に置かれることで、我々の生きている現世から超越した、永遠化された荘厳な異次元に生きていることが暗示されるのである。
クリムトは1903年にビザンティン美術で有名なラヴェンナを訪れ、そこのモザイクに強い感銘を受けたが、クリムトと親しかった同時代の画家によると、これらのモザイクはクリムトに「圧倒的かつ決定的な影響を与えた。彼の芸術における豪華絢爛と、凝固したかのような、同時に華麗な効果はここに由来する」。
これはまさに彼の黄金様式をいったものである。《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像機奸◆埓槓》などにおける金は、キリスト教絵画におけるような聖なるものの表現には向かわなかったにしても、画面に工芸品に通じる装飾的な美しさを生み出し、同時に対象(モデル)を中世絵画におけるように非日常的、絶対的、抽象的な空間に閉じ込めるという役割を担っているといえよう。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)
ファム・ファタル
フランス語のファム・ファタルとは直訳すれば、牘震薪、宿命的な女瓠△△襪い廊犹燹破滅にいたらしめる、命取りの女瓩任△襦しかし、単なる姦婦、性悪女ではなく、女としての妖しい魅力で男を虜にし、意図する、しないにかかわらず結果的に男を破滅に導く女をいう。
ファム・ファタルの第一条件は美女であることより、抵抗しがたい性的な吸引力をそなえていることで、女としての本能、衝動は必要であるが、母性本能はむしろファム・ファタルの邪魔となる。
ファム・ファタルには歴史上の実在の人物もいれば、神話、伝説、あるいは文学作品の登場人物など、架空の、または現実と空想の境にあるものもある。イヴ、サロメ、ユーディット、クレオパトラ、マッサリーナからゾラ、メリメの小説のヒロインのナナ、カルメンに至るまで枚挙にいとまがない。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)
フランス語のファム・ファタルとは直訳すれば、牘震薪、宿命的な女瓠△△襪い廊犹燹破滅にいたらしめる、命取りの女瓩任△襦しかし、単なる姦婦、性悪女ではなく、女としての妖しい魅力で男を虜にし、意図する、しないにかかわらず結果的に男を破滅に導く女をいう。
ファム・ファタルの第一条件は美女であることより、抵抗しがたい性的な吸引力をそなえていることで、女としての本能、衝動は必要であるが、母性本能はむしろファム・ファタルの邪魔となる。
ファム・ファタルには歴史上の実在の人物もいれば、神話、伝説、あるいは文学作品の登場人物など、架空の、または現実と空想の境にあるものもある。イヴ、サロメ、ユーディット、クレオパトラ、マッサリーナからゾラ、メリメの小説のヒロインのナナ、カルメンに至るまで枚挙にいとまがない。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)
◆ベートーヴェン・フリーズ(原寸大複製)(1984〈オリジナルは1901-02〉、216×3438cm、クレヨン・サンギーヌ・パステル・カゼイン絵具・金・銀・漆喰・モルタル・その他)(一部)
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全長34メートルを超える壁画《ベートーヴェン・フリーズ》は、クリムトが40歳の頃に手掛けた大作。黄金の甲冑で武装した騎士が幸福を求めて敵に向かい、楽園にたどり着くまでの旅路が絵巻物のように展開する。ベートーヴェンの交響曲第9番に着想を得たこの壁画は、天使たちによる合唱と、男女の接吻で締めくくられる。
金やガラス、真珠層などの素材を用い、輝きのなかに歓喜を表現したフリーズは、まさにクリムトの「黄金様式」の時代を代表する傑作である。
本展では、1984年に制作された精巧な原寸大複製を通じて、その壮麗さと迫力を体感していただきたい。(特設WEBサイトより)
※フリーズというのは神殿などの列柱の上の帯状の部分をさし、しばしば絵や浮き彫りで飾られた。ノルウェーの画家ムンクの《生のフリーズ(生命のフリーズ)》は愛、死といったテーマによる個性的な、しかし相互に関連する作品群をさしているが、クリムトのこの絵は形式的には本来のフリーズに近い。分離派館の壁を飾ったワイドな画面はコの字型に3面より成る。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)金やガラス、真珠層などの素材を用い、輝きのなかに歓喜を表現したフリーズは、まさにクリムトの「黄金様式」の時代を代表する傑作である。
本展では、1984年に制作された精巧な原寸大複製を通じて、その壮麗さと迫力を体感していただきたい。(特設WEBサイトより)
(参考)ムンク「生命のフリーズ」
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56885983.html
◆丘の見える庭の風景(1916頃、100×100cm)
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本作品においてもクリムトは前景の花畑と後景の森に覆われた山の斜面からなる構図を選んでいる。この構図を用いることで、距離の異なる面を階層化することができた。
水平方向の層に対し、垂直の木々や灌木が配置されることで、水平と垂直の要素が調和した構図が生み出されている。この時期の風景画には、おもにフィンセント・ファン・ゴッホの影響が考えられる。ゴッホの作品に見られるように、クリムトはまず各部分の輪郭を筆でカンヴァスに描き、後から色彩で埋めていった。このきわめてグラフィック的な手法によって一つ一つの形態が区別され、対比がより強調される。(図録より)
※水平方向の層に対し、垂直の木々や灌木が配置されることで、水平と垂直の要素が調和した構図が生み出されている。この時期の風景画には、おもにフィンセント・ファン・ゴッホの影響が考えられる。ゴッホの作品に見られるように、クリムトはまず各部分の輪郭を筆でカンヴァスに描き、後から色彩で埋めていった。このきわめてグラフィック的な手法によって一つ一つの形態が区別され、対比がより強調される。(図録より)
◆オイゲニア・プリマフェージの肖像(1913/14、140×85cm)
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モデルはウィーン工房の主要なパトロンの一人、銀行家オットー・プリマフェージの妻。
東洋風のモチーフを伴う抽象的な背景に、華やかな衣装の女性が配された本作品は、クリムトの後期肖像画の特徴を示す重要な一点である。
1910年代、色彩豊かな女性像を大胆な筆さばきで描いていたクリムトは、国内外の展覧会で作品を発表。また1911年のローマ国際美術展では大賞を得るなど成功を収め、画家として名実ともに確固たる地位を築いていた。(特設WEBサイトより)
※肖像画ということで、ここでもモデルの顔の部分は写実性がまさっているが、それ以外の部分、つまり背景は細部に拘泥しない印象派的なタッチによる装飾的な花模様で閉められている。「黄金様式」から印象派風の彩り豊かで自由なタッチに移行した頃の作品である。(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』より)東洋風のモチーフを伴う抽象的な背景に、華やかな衣装の女性が配された本作品は、クリムトの後期肖像画の特徴を示す重要な一点である。
1910年代、色彩豊かな女性像を大胆な筆さばきで描いていたクリムトは、国内外の展覧会で作品を発表。また1911年のローマ国際美術展では大賞を得るなど成功を収め、画家として名実ともに確固たる地位を築いていた。(特設WEBサイトより)
◆女の三世代(1905、171×171cm)
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1911年から1913年の間にローマで本作品を観た日本の画家・太田喜二郎は、「小児を抱いた若い女と婆さんとが立って居て、顔や手脚などの主要な部分だけが、裸のまま見え、他は日本画の霞の変形した趣向の者で、被はれて居ます、其の霞は匹田の鹿子、又は友禅の模様に似たもので染めて有ります」と記している。さらに、クリムトの作品には、構図、色の組み合わせ、そして模様に日本の独自性が多く見られると続けている。
本作品は、《医学》や《哲学》と同じく、「生命の円環」をテーマとする。いずれの作品も裸体で表された年齢や性別の異なる人間が、誕生から死に至るまでのあらゆる段階を示している。
人生の三段階という主題は、中世以来、頻繁に取り上げられてきた。これまで、クリムトの着想源としては、とくにウィーン美術史美術館所蔵のハンス・バルドゥング・グリーンによる16世紀の作品が挙げられている。グリーンの作品では赤ん坊、若い女性、老女、そして死が描かれている。鏡に映る自分の美しい姿を眺める若い女性の広報で、死が砂時計を彼女の頭の上に掲げる図像は、無常を表す古典的な寓意である。クリムトは、本作品において伝統的な比喩を明快に表現したとき、すでに成熟した芸術家だった。作品の意図は、人物の身体的特徴によってのみ伝わる。そのため、同種の作品に描き込まれる死が、本作品には含まれていない。近づいてくる死は、すでに老女の姿に見て取ることができる。
彼女たちの背後を彩る装飾は、それぞれの人物の象徴性をほのめかす。若い女性の背後には、三角、円、渦巻などの色とりどりの文様があしらわれている。彼女にはヴェールと、様式化された蔦が絡まり、髪には小さな花びらが見える。黄色、茶色、赤の色調で描かれた老女のシルエットと、生命の成長の象徴が対比をなす。楕円形と円形の装飾の大部分は、クリムトが友人の解剖学者エミール・ツッカーカンドルの講義で見た組織学的標本から取ったもので、老いにおける生物学的要素がさらに強調されている。(図録より)
※ムンクの《生命のダンス》(1925)も同じテーマで描かれています。本作品は、《医学》や《哲学》と同じく、「生命の円環」をテーマとする。いずれの作品も裸体で表された年齢や性別の異なる人間が、誕生から死に至るまでのあらゆる段階を示している。
人生の三段階という主題は、中世以来、頻繁に取り上げられてきた。これまで、クリムトの着想源としては、とくにウィーン美術史美術館所蔵のハンス・バルドゥング・グリーンによる16世紀の作品が挙げられている。グリーンの作品では赤ん坊、若い女性、老女、そして死が描かれている。鏡に映る自分の美しい姿を眺める若い女性の広報で、死が砂時計を彼女の頭の上に掲げる図像は、無常を表す古典的な寓意である。クリムトは、本作品において伝統的な比喩を明快に表現したとき、すでに成熟した芸術家だった。作品の意図は、人物の身体的特徴によってのみ伝わる。そのため、同種の作品に描き込まれる死が、本作品には含まれていない。近づいてくる死は、すでに老女の姿に見て取ることができる。
彼女たちの背後を彩る装飾は、それぞれの人物の象徴性をほのめかす。若い女性の背後には、三角、円、渦巻などの色とりどりの文様があしらわれている。彼女にはヴェールと、様式化された蔦が絡まり、髪には小さな花びらが見える。黄色、茶色、赤の色調で描かれた老女のシルエットと、生命の成長の象徴が対比をなす。楕円形と円形の装飾の大部分は、クリムトが友人の解剖学者エミール・ツッカーカンドルの講義で見た組織学的標本から取ったもので、老いにおける生物学的要素がさらに強調されている。(図録より)
(参考)
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56885983.html?type=folderlist
◆家族(1909/10、90×90cm)
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1909年は、クリムトの様式の重要な転機となった年である。ウィーンで開催された国際クンストシャウ(国際美術展)においてフランスのモダンな芸術作品が数多く展示された。中にはフィンセント・ファン・ゴッホやポール・ゴーガン、ナビ派、フォーヴィスムの代表作が含まれ、アンリ・マティスの作品2点も紹介された。さらに、オーストリアの若い表現主義者、オスカー・ココシュカとエゴン・シーレの作品が物議を醸していた。クリムトは夏の終わりにパリとスペインを訪れた後「黄金様式」に終止符を打ち、色彩豊かで、絵画的な構図の作品を描くようになる。しかし同時に、死と絶望を扱う一連の作品も制作していた。
このような流れで制作されたのが、クリムトの作品で最も重苦しいものに数えられる本作品である。黒い布に覆われて眠る幼い子供と母親の青白い顔だけが、暗闇の中に浮かび上がっている。これらの暗い作品を描くことで、クリムトは再び1896年頃の様式に戻った。当時は暗がりの中に人物を描く小品を数多く制作していた。そうした作品では、まるで暗闇の中に閉じ込められているかのように顔、手そして衣装が、抽象的な背景から浮かび上がっていることが多い。(図録より)
※このような流れで制作されたのが、クリムトの作品で最も重苦しいものに数えられる本作品である。黒い布に覆われて眠る幼い子供と母親の青白い顔だけが、暗闇の中に浮かび上がっている。これらの暗い作品を描くことで、クリムトは再び1896年頃の様式に戻った。当時は暗がりの中に人物を描く小品を数多く制作していた。そうした作品では、まるで暗闇の中に閉じ込められているかのように顔、手そして衣装が、抽象的な背景から浮かび上がっていることが多い。(図録より)
◆グッズ・土産
・図録『クリムト展 ウィーンと日本 1900』
・千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』改訂版
・額絵
・絵ハガキ
・図録『クリムト展 ウィーンと日本 1900』
・千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』改訂版
・額絵
・絵ハガキ
【参考】
◆接吻(1907-08、180×180cm、Wikipediaより)
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◆接吻(1907-08、180×180cm、Wikipediaより)
◆アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像(1907、138×138cm、Wikipediaより)
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◆エミーリエ・フレーゲの肖像(1902、178×80cm)
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