今日、大岡信編『窪田空穂』を読み終えました。
ソ連によるシベリア抑留で亡くなった次男・茂二郎を悼んで詠んだ長歌「捕虜の死」(歌集「冬木原」収録)がとても印象的です。その後も次男を偲んだ歌を詠んでいますが、子どもを失った親の気持ちが切々と伝わってきます。また、自らの老いや死について詠んだ歌はとてもリアルな感じを受けます。
以下、気になった歌(長歌は除く)を引用します。
ソ連によるシベリア抑留で亡くなった次男・茂二郎を悼んで詠んだ長歌「捕虜の死」(歌集「冬木原」収録)がとても印象的です。その後も次男を偲んだ歌を詠んでいますが、子どもを失った親の気持ちが切々と伝わってきます。また、自らの老いや死について詠んだ歌はとてもリアルな感じを受けます。
以下、気になった歌(長歌は除く)を引用します。
「まひる野」(明治38年)
来ては倚る若葉の蔭や鳥啼きて鳥啼きやみて静寂(しゞま)にかへる
緑揺する風や洩り来る日の影や林は見する夢遠き国
冴ゆる笛や聴きつゝ立てば青海(あをうみ)の彼方(あなた)の島に君とあるごと
さまよひて黎明(しのゝめ)行けば木下闇なほわが路のあるにも似たる
摘みし草に誰が名負はせむ佐久のゆふべ千曲の川の北に流るゝ
君を宿せ時には君を追ひやりてわれと寂しむ胸にもあるかな
「明暗」(明治39年)
大海(おほうみ)の底に沈みて静かにも耳澄ましゐる貝のあるべし
「空穂歌集」(明治45年)
ふる里を棄てて出でけるかの夏の、青くふるへししののめの空。
投げやりになるにまかして置くものの一つとなりしわがこの心。
朽葉の香ただよひ来たる木のもとに、ほのに嗅ぎたる君が髪の香。
「濁れる川」(大正4年)
麦のくき口にふくみて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ
わが眼よりとはに消えゆく人として胸にうかべつ友がおもかげ
啄木の歌よみつぎつほほ笑みてあればいつしか悲しくなりぬ
わが父の言ひけることを子の我も時の来ぬればまた然(しか)思ふ
この路をわれ行くべしと思ひ入ればさみしくもはた心強きかな
新しき生活をわれ始むべしかくも思ひき君によりてぞ
子の顔を見つつしをればかはゆともかなしとも見ゆわが顔に似て
生くらくは物棄つることぞそを措(お)きて更にはわれよ何をし能ふ
野に棄てん棄てて烏につつかせん尊くもあらぬわれの心ぞ
怠けろと怠けろと空に小鳥啼く怠くればたのしげに怠けうぞ
ははははと独り机によりてゐて笑ひて見たり春の日うらら
人形のきもの程なる襦袢など干してある見ればわが子いとほし
かつとして物言はずをるわが顔にひやひやと夜の風の触れつつ
くちびるに浮ばんとする冷笑を噛みころしぬればわが胸熱し
何をさは苦しみてわれのありけるぞ立ちて歩めば事なきものを
「鳥声集」(大正5年)
いやいやといふことをのみ知れる子のいやいやといひて泣きてやまずも
一人して声立ててこそ笑ひけれ為事(しごと)することはかくもたのしき
痛む歯をおさへつつ来れば小石川きたなき町にわが住めるかな
独をりてさみしくなりぬ然れども誰に逢ひては何語るべき
呻(うめ)けるはこの子なれかも子が上にのしかかりをるわが身なれかも
はなたじと子が手は握れ父母の手の中(うち)にして冷えゆくものを
こころよき笑顔つくりて汝が母によくぞ見せける別れといふに
その部屋の襖あけてはのぞきこみ驚くものかわが子が居ぬに
「泉のほとり」(大正6年)
死にませるわが父ながら天地(あめつち)の中(うち)にし坐(ま)すとおもふ恋しさ
古(ふ)りにしを語りつづけつ声立ててふと笑ふ妻が眼に涙みゆ
離れなば見失なはむといましむる友が声きこゆ闇のうちより
「土を眺めて」(大正7年)
俄にも睦み合ふ子を憐みて見つつし居(を)るや母あらぬ子を
手枕(たまくら)の我れに寄り来て幼きが頭(つむり)や病むとませて問ふかも
我が瞳直(ひた)に見入りつ其瞳やがて眩(まぶし)げに閉ぢし人はも
我が心嘆きに尖り子を打つに駈け来て其子隔てし人はも
其子等に捕へられむと母が魂(たま)蛍と成りて夜を来たるらし
教会の尖塔の上に月出でて屋根は照らせど心悲しき
縁(えにし)ありて親とはなれり然れどもかかはり難し子が持つ心
貧しさに堪へつつ生きて久しけど我が心いまだ痩せしと思(も)はなく
「朴の葉」(大正9年)
その兄がすくひ来(こ)し泥鰌めづらしみのぞき見つつも指触りぬ妹
白埴(しらはに)の瓶(かめ)にわが飼ふ鈴虫は暗き廊下に啼き出でにけり
まごころを持ちては居しが悔ゆることなしと思はずわがなき妻に
母が上いはぬ日とてはなかりける子らも漸くいはずなりにけり
われは行き日とは行かざるこの道に行き進みつつ饑ゑむとすなり
「青水沫」(大正10年)
わが家は貧しかるぞとわがいへば怪しむ如き目する子らかも
おもちや買ふ銭のありやと問ひし子の問はずなりけり無しと思ふらし
親の顔見ぬ日はあれど大空を見ぬ日はなかりし青空はもよ
国なまり妻がいふ聞けば信濃なるふる里の平(たひら)思ほゆらくも
うつし身の生き悩むからに休み所(ど)を我はもとめき善けくも悪しくも
おそろしと思ふもの見ば力あつめ突きあたり見よおそれは消えむに
家主のいでよといふに腹立てど家なし我の出づる方のなき
「鏡葉」(大正15年)
これの世に我家(わぎへ)の父にまさるもの多しと知りきやわが女(め)の童(わらは)
その母に生き写しなる女の童今は忘れて母を知らずとふ
かたはらの人さへ知らぬよろこびを生きがひとして我が疑はず
弟の破(や)りし障子をその兄の手つきつたなく切りばりはする
見るものは巌(いはほ)あるのみ夜の露に濡れし巌の朝日に光る
焼け残り赤き火燃ゆる神保町三崎町ゆけど人ひとり見ず
路のべの戸板の上に寝たる子の寝顔ほのじろし提灯の灯に
大雨にしとどに濡れて夜警よりわが子帰りぬしらしら明けを
妻も子も死ねり死ねりとひとりごち火を吐く橋板踏みて男ゆく
東京に地平線を見ぬここにして思ひかけねば見つつ驚く
川岸にただよひよれる死骸(しかばね)を手もてかき分け水を飲むひと
憤り胸におこれば鳥屋(とや)にゆき憎む雌鶏(めとり)をただ追ひまはす
貧しさに今は馴れたり苦しさのあらざる我ぞ貧しとはいはじ
働きて猶し餓ゑむとする我によきこころ持てといふは誰ぞも
「青朽葉」(昭和4年)
今日はわれ関はりぬべき何もあらず眼にうつるものなほざりに見む
「さざれ水」(昭和9年)
潮(しほ)しみて痛むわが眼をこすりつつ見おくる波の磯に真白き
老いそめて初めて見ゆる我が道や歩み行くべき程の遙けき
「郷愁」(昭和12年)
広き世に狭き心を持ちて生き生きの嘆きをしにけり我は
吾亦香(われもかう)の苗を植うなり秋日さし寂びたる花の咲かむ描きて
相逢ふも顔見せ合ふに過ぎざれど心安からず逢はで過せば
物の芽のありやと指をさし入れてほぐす花壇の土あたたかし
「冬日ざし」(昭和16年)
岡の家に菎蒻つくり八人の口すごす弥一兵に召されぬ
おほらかに病養ふ人を見てうれへ忘れし如く別れぬ
追憶は人をまじへずただひとり静かにこそは味ふべきなれ
興福寺五重の塔をあふぎたり全き物はもの思はせぬ
産院を出でてわが家(や)に来りたる孫を迎へて子より抱き取る
秋の来て庭の白萩咲き出でぬ衰へぬれどわれ命あり
「明闇」(昭和20年)
大き木にただ二つ生(な)る赤き柿落ちむ一つを惜しみつつ捩(も)ぐ
空襲のサイレン鳴るに白菊のかがよひ奇(く)しく深まりきたる
動かではあられぬ学徒おのづから列組みて向ふ靖国の宮
まさしくも敵機なりけり星じるし黒く光りぬと人路にいふ
盆栽をいたはり過す老びとのそのさかしさを今うべなはむ
学終ふるすなはち兵となる人ら今宵をつどひその師ねぎらふ
夜の海ほのほとなれる艦橋に見えて手を振る艦長提督
つく杖をたのむ心の深み来て坂のぼる我の翁さびぬる
耳とほくなりぬ我はといふべくは半(なかば)は聞ゆやや高くいへ
心はやるわが若人に落ちつけよしばしといひて涙ぐましも
この日頃電車のうちに見る人の表情すべてけはしくなりぬ
白き米かをれる野菜にはとりの卵もありてここの豊けさ
甥の子の昼を家にしある時は山羊豚兎蜜蜂がこと
むだ花はあらざる茄子の皆みのり大き小さきが葉ごもりてあまた
わが母を親しみ恋ふは我のみと思ふ子さへや余る命なし
この村の墓どころ来れば近きころ戦ひ死ねる四つの新墓(にひばか)
教室に集ひ満てるは命(めい)ありてにはかに兵とならむ学徒ら
金沢の鏡花の跡の見まほしと心残すか兵とならむ子
生みの子の幼きあまた持てる母おのれ食はずとあはれに痩せぬ
子の三たり人となれるに離れゆきわが身はもとの一人となりぬ
「茜雲」(昭和21年)
大君の兵なるわが子幾月をたよりあらねばいづこと知らず
「冬木原」(昭和26年)
ここに逢ふ人のすべては口結びものにこらふる面持(おももち)をせり
いささかの残る学徒と老いし師と書に目を凝らし戦(いくさ)に触れず
寝入りしを抱きうつされし孫どもの壕のうちにて泣く声のあはれ
咽ばむとする声張りておれも行く後からと云はれ行きし学徒ら
大君の将校として死にけむも親には子なり泣かずあらめや
海渡る風のすずしく船にして煮る物の香のうまげに匂ふ
老いてわれこの世に最(もと)も深くあるは親と子がもつ心とぞ知る
わたくしの今はあらざる時なれば逢ふ人人にたやすく睦ぶ
ここに見る初老の人の大方は兵の親かとおもへど問はぬ
唐黍(もろこし)にまさりたりよと丸麦のぼろぼろ飯(いひ)をうまらに食らふ
うるはしさ極まる物を口にすとゑめる柘榴(ざくろ)を二つに裂きつ
生(いき)と死(しに)の境に立てばあやしくも消え去りゆけりその生と死
一とせを越ゆる幾つき生死(しやうじ)すら分かざりし子が便(びん)の来りぬ
警報の鳴り出でぬ夜の静けさをいぶかしみてはふと耳澄ます
生(しやう)あれば死ありと観(くわん)じ身辺を清めつつありと友の告げ来ぬ
事は終へ家のこるなり東京へいざ帰りてはわが家(や)に住まむ
冬空のもとにひろごる焼野はら一すぢの路細りてうねる
七十(しちじふ)のわが生涯を決せるはわかかりし日のいささ事なりき
うしなへる何のあらむや我が経にし事のすべては今に続ける
この露地の東の果ての曲りかど茂二郎きてあらはれ来ぬか
わが写真乞ひ来しからに送りにき身に添へもちて葬(はふ)られにけむ
「卓上の灯」(昭和30年)
皺のみの姉が手わが手さし並べ似たる形をわらひつつ見る
「丘陵地」(昭和32年)
酒飲めば酔ひてたのしくなる友にひとり飲ましめ我は飯食ふ
自己是認はなはだ高きこの人や神と悪魔の境よろめく
現在のこころの為のものなりと久しかりける過去を思はむ
性格は択(えら)びて得たるものならねそのもつ苦悩は負はねばならぬ
若き日の恋にも似るか解(げ)しえざるいささか事の胸を離れぬ
鬼怒川の淀の砂(まさご)に卵生むと春の雌鮭(めざけ)の海よりのぼる
生まれ更(かは)る身ならば何をせむとすと問ふ人ありき答えず我は
忘れにしことのごとくに年は経れ子は愛(かな)しかり親は忘れず
湯げかをる柚子湯にしづみ萎びたる体撫づれば母のおもほゆ
「老槻の下」(昭和35年)
平安のをとこをんなの詠める歌をんなはやさしきものにあらず
平安のをんなが見たる夢の跡散り敷くさくら積もりて深き
宇宙より己れを観よといにしへの釈迦、キリストもあはれみ教へき
生来(しやうらい)の孤独に徹しえたるとき大き己れの脈うちきたる
わが心しづかに張りて思ひなしこのよき時を何に謝すべき
老の身のなほもわがもつ欲望よ追ふにたのしく果たすにさみし
わが愛はわれのものなり身もて生める我みづからと一つなる物
「木草と共に」(昭和40年)
下駄はけば動きたくなり吹く風の冷たきに向かひ歩みを移す
空青く晴れて風なし好き日今日いづこにもあれ旅にて寝(いね)ん
わびしきは旅の常かもこころざす興津の町に泊る旅舎得ず
想はざる病を獲たり旅にして病むは侘びしとしみじみ思ふ
うまき物食べたしとおもふ素直なる願ひをもちて粥のみすする
しきりにも苞(はう)脱ぎすてて花となる紫の藤うつくしく忙(せは)し
生きの力つくしたりけん花過ぎし椿、梅、桃みな静かなり
物の味よろこぶ齢(よはひ)となりけるがたやすく足りて箸をさし置く
営むは十六回忌ぞいや細る老の胸をば涙ぐますな
もの言はぬ木草(きぐさ)と居(を)ればこころ足り老い痴(し)れし身を忘れし如き
死期(しご)来なば先づ第一に親に謝し我はこの世を立ち去りぬべき
真紅なる夕焼あらはれたちまちに消えて真暗き夜とはなりぬ
君が葬儀われこそせめと常言ひし前田先行き我を泣かしむ
知りたしと思ふ本能老の身に残りて失せずこころたのしき
しきり散る軒のしら梅うつくしきものの終りは目を逸(そ)らさせぬ
生命(いのち)とは我にかかはりなきものぞわが物にして我が物ならぬ
かたはらに母いましける日のごとく心向くれば面かげのあり
子が遺骨その国の土と化しゆくをソ連にいだく怒りは解けず
死にし子の年を数ふる愚かさをしばしばもしぬ愚かなり親は
子がためにわが建てし家古りて朽ち子は建て直すその子らのため
老いて知る老のはかなさ自身(みづから)を省(かへりみ)ることも忘れたるらし
「去年の雪」(昭和42年)
老いぬれば心のどかにあり得むと思ひたりけり誤りなりき
オリンピック我が国にする開会式老の眼そぞろに濡るるものあり
歌詠みて老の侘びしさ紛らすに紛れて長きわが命かも
独語(ひとりごと)いふこころもて歌を詠む老いて友なし歌は友かも
この病つひに我をば死なしむや気管支のなやみ四十年なる
追憶をたのしむ時も過ぎ去りて老の進みにもの皆忘る
漂泊(さすらひ)の信濃びとわれ東京のこの地に生きて世を終へむとす
人口の過密は人を孤独とす独言(ひとりごと)めく年頭の賀詞
老二人ひそかに生きて笑ふこと少かれども涙はあらず
子を生まぬ妻にしあれば世の狭く他人(ひと)の上いふことを好まぬ
人生は愛なりといふは言(こと)足らず愛あるによりて人類は在れ
かりそめの感と思はず今日を在る我の命の頂点なるを
老ふたり日々をひそかにする食事食べよ食べよと妻の勧むる
二十年子に後(おく)れたる逆(さか)しまの長き嘆きも終りなむとす
疾(はや)く寝るに如かずとおもふ老となり心冴えゆく深夜を忘る
口と後(しり)世の常ならば何事もなからむものを小事にあらず
寒つばき深紅に咲ける小(ち)さき花冬木の庭の瞳のごとき
「清明の節」(昭和41年)
わが腰を支ふる老妻力尽き倒るるにつれてわが身も倒る
かくて終るわれならずやとおもへども憎み難しもわが足腰は
過去は忘れ未来は知らず永久の一瞬一瞬生きて息づく
永久の我と宇宙と相対し二にして一の境にし生く
命あるままに齢(よはひ)つもり凡愚われ九十を一つ超す身となりぬ
生を厭ふ身となりたりと呟けば哀しき顔して妻もの言はず
最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり
たのしきもはた苦しきも過ぎぬれば夢にことならず無思惟に生きよ
顔を刺すひかりを感じて目覚むれば枕元の梅みなひらきたり
「初期拾遺」
とみ坂を南にをれて一本の古き榎や君が住む家
しろ百合の花さく里を尋ね来て小木曾の谷にわらぢ埋めぬ
さみしくもいとすがすがしき一つの言葉わが口を今はしり出づ「さらばなり君」
あやまちて海に落としし珠にかも似て、美しき幻となる君が瞳は
煩悩のこの醜さのにくむべきかな、あらずこの美しさをばたたふべきかな
われらみな忘れ去るべしよし忘れずもいかにせんまた逢ふをりのありやあらずや
明け暗(あけぐれ)の園に咲きたるしら百合に似て春の夜を、寝息しづかに妻は眠れり
逃げ行かずや。またしてもかかる疑ひをもて、小さき鳥、かあゆき鳥よ、汝(な)れを見まもる
?i>'死よ、胸にひそむなる死よ、おそろしき死よ。孕(はら)'みては、うたはぬ歌と汝れは見え来る。
窪田空穂(くぼたうつぼ) 明治10年(1877)和田村(現・松本市)生まれ。本名・通治。太田水穂に刺激を受け短歌を作り始めました。空穂の歌の特徴は内省的な心情の機微を捉えた作風にあります。早稲田大学の教授になって、歌人・国文学者として後輩の指導にもあたりました。昭和33年(1958)文化功労賞を受賞。昭和42年(1967)東京で数え年91歳の生涯を終えました。(松本市公式ホームページより)