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my 見仏記21~西大寺

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 3月26日(日)、この日最後に訪ねたのは西大寺でした。法華寺からタクシーに乗り、「西大寺まで」と言ったら、近鉄の大和西大寺駅で降ろされそうになりましたが、西大寺は駅のすぐ近くでした。
 西大寺には見るべき仏像がたくさんありました。本堂の釈迦如来立像・文殊菩薩騎獅像及び四侍者像・弥勒菩薩坐像、愛染堂の愛染明王坐像(秘仏のため拝観不可)・興正(こうしょう)菩薩叡尊上人坐像、四王堂の十一面観音立像などです。
 なお、今年は「特別展 創建1250年記念 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」が東京と大阪、山口で開催されます。東京会場は三井記念美術館で、期間は4月15日(土)~6月11日(日)です。愛染堂の秘仏・愛染明王坐像が出展されますが、展示期間は4月15日~5月14日に限定されています。

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本堂
 現在の西大寺の中心堂舎。もともと東塔跡北方に中世に建てられた光明真言堂の後身で、江戸中期の寛政年間に完成。桁行七間、梁間五間、一重の寄棟造で本瓦葺。前後面に向拝三間を付す。堂内は東西南の三方の外陣と内陣を仕切り、内陣北の中央に須弥壇、東西に脇壇を設ける。10月には本堂を荘厳して光明真言会が行われる。江戸中期の土壁を用いない独特の建築技法による奈良市屈指の巨大な近世仏堂で、重要文化財にも指定されている。(西大寺HPより)
【主な仏像】
・本尊釈迦如来立像
・文殊菩薩騎獅像及び四侍者像
・弥勒菩薩坐像

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文殊菩薩騎獅像及び四侍者像(奈良西大寺展HPより)
 この形式の五尊像は、中国五台山の文殊信仰に基づくもので、渡海文殊として鎌倉時代に多く制作されました。叡尊は文殊信仰に基づき多くの民衆救済の事業を行っており、文殊菩薩像も造像しています。この像は叡尊の没後弟子たちが発願して造像されたもので、叡尊の十三回忌に完成し、文殊堂の本尊とされました。現在は本堂西脇間に安置されています。
※東京展は「文殊菩薩坐像」「善財童子立像」「最勝老人立像」を展示します。(奈良西大寺展HPより)

※獅子に乗った文殊菩薩を囲む四侍者の一人に善財童子がいます。善財童子は文殊菩薩を先導する役目を持っており、小柄な体型と幼い顔つき、ふっくらとした指を合わせ、うるんだような優しい瞳で空を見上げる姿が印象的です。この仏像は、灰谷健次郎の小説『兎の眼』に登場していることでも有名になりました。(以上、JR東海キャンペーン「うましうるわし奈良」西大寺篇の解説を引用、要約しました。)
 『兎の眼』、読んでみようかな。
※本堂に入るとそれまでの緩んだ気分が改まり、自ずと厳粛な気持ちになりました。仏像はこういう厳かな雰囲気の中で見るべきだと改めて思いました。弥勒菩薩坐像は丈六の大像です。この像の目に惹きつけられ、なかなかその前を離れられませんでした。


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愛染堂
 秘仏愛染明王をまつる堂舎。江戸時代の明和4年(1767)に京都近衛家邸宅の御殿の寄進を受けて移築建立。桁行24.7メートル、梁間17.1メートル、一重の入母屋造で桟瓦葺。前面に向拝一間を付す。内部を桁行方向に三列に区画し、北側を客殿(狩野派の襖絵あり)、中央を内陣、南側を御霊屋(歴代先師尊霊の位牌をまつる)とする。寝殿造風の外観の公家邸宅建築を仏堂としたユニークな建物で、昭和61年に奈良県指定文化財に指定されている。(西大寺HPより)
【主な仏像】
・興正菩薩叡尊上人坐像
・秘仏・愛染明王坐像(秘仏→4/15~6/11三井記念美術館)
・愛染明王坐像(御前立像)

※愛染堂では受付の方に声をかけられ、いろいろ説明していただきました。で、4月からの「奈良西大寺展」のことをうかがい、この日見られなかった秘仏・愛染明王坐像が東京で見られることを知りました。

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興正菩薩叡尊上人坐像(奈良西大寺展HPより)

※昨年5月、東京国立博物館で見ました。国宝指定を記念しての展示だったと思います。その時はその像から叡尊の人となりが感じられ、鎌倉期の肖像彫刻の素晴らしさを感じたように記憶しています。
 で、今回です。とても大きな厨子に納められ、西大寺における叡尊とその仏像の重要さがわかりました。しかし、暗かったし、あまり近づけなかったので、その表情まで見ることはできませんでした。


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四王堂
 西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王像をまつるお堂。たびたびの火災で焼失し、現在の堂舎は江戸前期の延宝2年(1674)の再建で、桁行3間、梁間2間、寄棟造の身舎の四周にもこしを廻らし二重風の建築となっている。堂舎周囲の版築基壇は創建当初の規模を伝えている。鎌倉時代の正安2年(1289)亀山上皇院宣で鳥羽上皇の御願寺であった京都白河十一面堂院の本尊・十一面観音立像(仏師圓信作)が客仏本尊として当堂に移されてまつられることとなり、それ以来、観音堂とも称する。現在の四天王像も鎌倉期以降の再造であるが、その足下に踏まれた邪鬼が奈良時代創建当初の姿を伝えている。(西大寺HPより)
【主な仏像】
・十一面観音立像

※十一面観音立像について、四王堂でいただいた解説文を引用します。
 「丈六以上にも及ぶ大像であり、右手に錫杖を執り、左手に華瓶を捧げた姿で長谷寺の本尊に倣ったもので、長谷寺式と称される形相である。元々は鳥羽院御願の法勝寺十一面堂の本尊であったが、法勝寺十一面堂が?莖倒し、像も顔面を除き破損したのを叡尊によって修復が行われ、正応2年(1289年)亀山上皇の院宣によって、西大寺四王堂に移安された。」


【参考】西大寺とは(西大寺HPより)
◆奈良朝創建とその後
 天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。それを皮切りに、父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建されたのに対し、その娘に当る称徳女帝の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創されたのです。
 宝亀11年(780)勘録の『西大寺資財流記帳』によれば、創建当初の当寺は、平城京右京1条3・4坊に位置し、東西11町・南北7町、総計31町歩(約48ヘクタール)という広大な境域に、薬師・弥勒の両金堂をはじめ、東西両塔、四王院、十一面堂院などの百十数宇もの堂舎が甍を列ねた、いわゆる南都七大寺にふさわしい壮麗な大伽藍として聳えたっていました。
 しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また災害にも再三みまわれ、急速に衰頽し、平安中期以降はかつての繁栄も見る影もなく一旦さびれてしまうことになりました。

◆鎌倉復興とその法燈
 このように荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、興正菩薩叡尊上人(1201~1290)です。叡尊上人は文暦2年(1235)に当寺に入住して、「興法利生」をスローガンに戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進し、当寺はその拠点として繁栄しました。西大寺は叡尊上人の復興によって密・律研修の根本道場という全く面目新たな中世寺院として再生することになったのです。
 その後、室町時代には文亀2年(1502)の兵火により多くの堂塔を失うことになりましたが、江戸時代になって幕府から寄進された300石の寺領の下で諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となりました。また近代に入ると明治28年(1895)6月に当寺は内務省から「真言律宗」として独立認可を得て、更に大戦後は新たな宗教法人法の下で全国九十数ケ寺の末寺を統括する総本山となり、叡尊上人の創始した密律不二の「真言律」の法灯・由緒を今日に伝えています。

my 見仏記27~奈良西大寺展

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 今日、「特別展 創建1250年記念 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」(4月15日~6月11日、三井記念美術館)に行ってきました。3月に訪ねたけれど秘仏のため見られなかった西大寺愛染堂の愛染明王坐像を見るのが目的でした。以下、気になった仏像をいくつか紹介したいと思います。

興正菩薩(叡尊上人)坐像(西大寺愛染堂)(奈良西大寺展HPより)
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西大寺とは(奈良西大寺展HPより)
 西大寺は、奈良時代に創建された官大寺を総称する「南都七大寺」の一つに数えられ、2015年に創建1250年を迎えました。奈良時代、聖武天皇・光明皇后の後を継いだ娘帝の称徳天皇が「鎮護国家」の思いを込めて開創し、東大寺などと並び称される寺格を誇りました。中世・鎌倉時代には、稀代の高僧・叡尊(えいそん)が出て、密教において戒律を重視した教え(後の”真言律“)を広め、「興法利生(こうぼうりしょう) 」をスローガンに独自の宗教活動を推進しました。その弟子の忍性(にんしょう)は東国に赴き貧者・病人の救済にあたり、また後世には、江戸時代に大和生駒山・宝山寺を開いた湛海(たんかい)らの活躍などによって発展し、数多くの仏教美術の名品をいまに伝えています。
叡尊上人とは(奈良西大寺展HPより)
 荒廃した西大寺を鎌倉期に再興する中興の祖・叡尊上人(1201~1290)は、若くして真言密教を学び、同寺に入住します。
 精力的な活動の傍らで、京都・清凉寺の釈迦如来立像の模刻、愛染明王坐像や大黒天像などを発願し弟子や仏師と共に彫り上げ、現代も続く「光明真言会」や「大茶盛」を始めるなど、西大寺独特の文化をつくり上げました。
 没後、正安2年(1300)興正菩薩の号を賜りました。

※昨年5月、東京国立博物館でこの像を初めて見ました。国宝指定を記念した展示だったと思います。そして今年3月、この像と西大寺愛染堂で再会しました。しかし、像が納められた厨子は暗く、あまり近づけなかったので、少し残念な思いが残っていました。今日はガラス越しでしたが、間近に見ることができてよかったと思います。ただ、この像は本来は信仰の対象ですから、よく見えない方がありがたみが増すのかもしれませんね。


愛染明王坐像(西大寺愛染堂)(奈良西大寺展HPより)
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愛染明王とは
 煩悩は悟りを妨げるものではなく、悟りの縁となるという密教の考え方が「煩悩即菩提」であり、愛欲を悟りへと浄化させるのが愛染明王である。敬愛(きょうあい、恋愛・人間関係など)や降伏(ごうぶく、敵を従わせる)の秘法「愛染明王法」の本尊である。
 身色は愛欲の強さを表す赤色で、一面三眼六臂である。頭上に獅子の顔のついた獅子冠をかぶる。獅子冠の上には五鈷鉤(ごここう)をのせる。六本の手には、愛欲を断ち切るための弓と矢の他に、金剛杵(こんごうしょ)や金剛鈴(こんごうれい)などをもつ。蓮華座の下に宝物を吐き出す宝瓶(ほうびょう)が置かれる場合もある。(薬師寺君子『写真・図解 日本の仏像 この一冊ですべてがわかる!』より)

※像高31.8cmという小さな像ですが、表情に迫力があり、見る者に強く迫ってくるように思います。実際に見た感じでは、この写真ほど赤くはなかったと思います。


文殊菩薩騎獅像及び四侍者像のうち、文殊菩薩坐像・善財童子立像・最勝老人立像(西大寺本堂)(奈良西大寺展HPより、この写真は5体揃っています。)
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文殊菩薩とは
 中国の唐代に、五台山が文殊菩薩の住む清涼山であるとされ、五台山で説法をする姿を表現した「五台山文殊」が造られるようになった。
 天台宗の僧、円仁(えんにん)によって中国から五台山文殊がもたらされ、獅子に乗る文殊菩薩像を中心に、文殊の説法を聞く眷属(従者)が定められ、「文殊五尊」となった。獅子の手綱をもつ優填王(うてんおう、于?羝王)、僧形の仏陀波利三蔵、善財童子、頭巾をかぶる最勝老人(婆藪・大聖老人)である。四眷属を伴い、文殊菩薩が獅子に乗って我が国へやってくる様子を表現した「渡海文殊」形式の文殊五尊像もある。(薬師寺君子『写真・図解 日本の仏像 この一冊ですべてがわかる!』より)

※3月に西大寺本堂で5体そろったのを見ました。今日は文殊菩薩+侍者2でしたが、より間近で見ることができてよかったと思います。文殊菩薩+侍者4という渡海文殊の形式では安倍文殊院のものが有名ですが、それぞれに対応する像を比較してみるのもおもしろいと思います。


表情がいいなと思った仏像たち
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聖徳太子立像(南無仏太子像)(奈良・元興寺)(図録をコピー)
 聖徳太子が二歳の時に、東に向かい合掌して「南無仏」と唱えたという『聖徳太子伝暦』の記事に基づいた、いわゆる南無仏太子像の一例である。剃髪で上半身は裸形とし、裾の長い緋袴をはいて、胸前で合掌する童子形で表される。腕や腹に丸みをもたせた幼児体型であるが、目尻をつり上げ、唇をきつく結んだ表情は厳しく理知的である。(図録より)
※少しつり上がった目がずっと心に残りました。

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普賢菩薩騎象像(京都・岩船寺)(図録をコピー)
※普賢菩薩ではなく、象の表情がおもしろい。

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忍性菩薩坐像(神奈川・極楽寺)(図録をコピー)
 関東における真言律宗の拠点である極楽寺を開山した、良観房忍性の肖像彫刻。忍性は建保5年(1217)大和国に生まれ、建長4年(1252)に関東に下向して、常陸国筑波山麓の三村寺を拠点として活動した後、弘長2年(1262)叡尊の鎌倉下向にともなって鎌倉入りし、文永4年(1267)極楽寺に入って律院として整備した。鎌倉幕府と結びつくことにより、慈善救済事業や道路修築、港湾整備などを大規模に行って、真言律宗を全国へ拡張した。
 本像は現在、極楽寺本堂内の後陣に嘉元4年(1306)に造立された師叡尊の坐像とともに併置される。肖像画にもみられる大きな鼻や突き出た頭頂部などの特徴を示し、その風貌をよく写し取っているが、やや理想化された趣も観取され、開山祖師像として没後間もない嘉元元年頃(1303)に制作されたものと思われる。(図録より)
※こちらの像も目がとても印象的で、心に残りました。

◆グッズ・土産
・図録
・絵ハガキ

my 見仏記24~東大寺(再)

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 3月27日(月)、室生寺と長谷寺、聖林寺を訪ねたのち、談山神社の十三重塔などを見て、午後2時過ぎに奈良市内に戻りました。この日の残り時間は、東大寺法華堂・二月堂・戒壇堂と興福寺をまわりました。大仏殿にも行こうと思いましたが、あまりの人出のためやめました。

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法華堂(三月堂)

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二月堂

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二月堂より大仏殿を望む。

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法華堂と二月堂を拝観したのち、大仏殿の西にある戒壇堂へ向かいました。大仏殿を東側から見るこの風景が好きです。

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戒壇堂

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四天王(JR東海「うましうるわし奈良」キャンペーンポスターより)。左から、広目天・増長天・持国天・多聞天。彼らの表情がいいですね。

my 見仏記25~興福寺(再)

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 興福寺国宝館は耐震補強工事のため、1年間の休館となります。そのため、興福寺では仮講堂において「阿修羅 天平乾漆群像展」を開催しています。前期が3月15日~6月18日、後期が9月15日~11月19日です。
 阿弥陀如来像を中心に、八部衆像と十大弟子像、金剛力士像、梵天・帝釈天像、天燈鬼・龍燈鬼像、四天王像などが仮講堂のワンフロアに配置されています。仏像は博物館などの鑑賞目的の施設に展示するより、寺院の金堂など信仰目的の施設に安置すべきだと思います。ですから、阿修羅が仮講堂に安置されるのは良いことだと思います。しかし、阿修羅は国宝館での展示が完璧だったし、仮講堂での配置がイマイチなので、少し残念な気持ちになりました。

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仮講堂

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東金堂と五重塔

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等金堂

my 見仏記26~渡岸寺観音堂(向源寺)

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 3月24日(金)から4泊5日の日程で香川県と奈良県を旅行しました。最終日の28日(火)は京都観光を予定していましたが、急きょ滋賀県の渡岸寺観音堂(向源寺)に行くことにしました。
 近鉄奈良駅を午前6時半過ぎに出発し、京都駅、米原駅を経て北陸本線高月駅に着いたのは8時半頃でした。コインロッカーに荷物を預け、歩いて渡岸寺観音堂に向かいました。10分ほどで着いたので、拝観時間の9時までは少し時間がありました。しかし、受付の方がもう一人の案内の方に声かけしてくれて、その方に十一面観音菩薩立像の安置されている部屋まで案内してもらいました。そこでは、案内の方がこの仏像について、とても丁寧に説明してくれました。
(注)渡岸寺は寺名ではなく、地名です。

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渡岸寺観音堂

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十一面観音菩薩立像(写真集「渡岸寺観音堂」をコピー、以下同じ)

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 檜一木造 像高195センチ 頭上の小仏面のいくつかと左のお手は共木で作りはめ込んだものである。
 寺伝では、天平8年(736)当時全国的に天然痘が大流行し多くの人々が亡くなられた。また中央では権力闘争が激しく世情が不安であった。そこで、時の天皇、聖武天皇は奈良の都で大仏の建立を、また、地方から高僧を招かれて国家安康病気平癒を祈られた。その高僧の中のお一人に越前福井のご出身で加賀の白山で修行しておられた泰澄大師が奈良へお上りになる途中で作られたのがこの観音像と伝えている。しかし、いろんなことから考えてみると、平安時代前期(860年頃)、天台宗の影響を色濃く表わして造られた像であることは事実であり、そう考えると作者未詳といわざるを得ない。
 この像は頂上仏面が菩薩相で、五体の化仏のある他は、きわめて儀軌に忠実であり、左右それぞれの一面を耳の後ろに大きく表現するなど密教像特有のインド的な感じを誠によく伝えている。
 頂上面をのぞく宝髻(ほうけい)より蓮肉にいたるまで一木彫成で、その刀法は上から下へ、下から上へいささかも渋滞することなく冴えた彫りの美しさを表わしている。
 また、眉から鼻にかけての秀麗な線、固く結ばれた唇など、その豊かな顔容には崇高な森厳さが秘められている。そして、わずかに腰をひねるような豊麗な姿態に仏身ながら官能的な量感を感じる。これらのことは、平安初期の様式を代表する優れた遺例とされている。
 なお、他の十一面観音像に余り見られない特徴として3つの際だった特徴が上げられる。
 ‘上にぐるりと宝冠のように6面の小仏面を巡らせ、両耳の後ろと後頭部に3面、頂上仏も他より2倍近く大きな菩薩面(慈悲面)とし、本面とあわせて11面としている。頂上面が菩薩像になったので五智如来を配している。
 小面の大きさも本面の大きさの割には大変大きく作られている。大きな小面としてはインドのカンヘーリー第41窟の四臂十一面観音(ごく初期の十一面観世音像)も大きな小面を持たれている。
◆ー?戻(じとう)という大きな耳飾りをつけている。この形が鼓の胴のような感じなので「鼓胴式耳?戻」という。インドのヒンズー教の三神のシヴァ神の耳に着いているが、菩薩像にはつけられていないと言われる。
 お腰をぐっと「く」の字に曲げられたお姿は単立像では余り見られないお姿である。お姿が真っ黒になっているのは、今からおよそ440年前、元亀1~3年(1570-72)に、この地方に勢力を持っていた浅井長政と織田信長が戦った合戦の間にしばしば焼かれる災害に遭い、その都度土中に埋めて難を避けたと言われる。その時に貼っていた金箔、着色されていただろう色彩がすべて剥落してしまったと言われる。(写真集「渡岸寺観音堂」より、一部改編)

※特徴,砲弔い
 他の十一面観音像の頂上仏を見るとたいていは如来像になっていますが、こちらは菩薩像になっています。だからこの頂上仏には五智如来が配されているのですね。

※特徴について
 腰をひねった姿を見て、秋篠寺の伎芸天像を思い出しました。こちらの十一面観音は腰を左に曲げていますが、秋篠寺の伎芸天は腰を右に曲げています。

※一見した時、ずいぶん黒いな、あるいは煤けてるなと思いました。しかし、この仏像の歴史を知り、よく現在まで残ったなと思いました。そして、この仏像を守り続けてきた人々に心から敬意を抱きました。

※渡岸寺観音堂の十一面観音菩薩立像は、井上靖の小説『星と祭』(1971)に登場します。以下、主人公がこの仏像を初めて見たシーンです。「古代エジプトの女帝」とは思いませんでしたが、この仏像にまつわる様々なことを知れば知るほど、この仏像に心惹かれるようになりました。
 架山は初め黒檀か何かで作られた観音さまではないかと思った。肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そしてまた、仏像というより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように見えた。もちろんこうしたことは、最初眼を当てた時の印象である。仏像といった抹香臭い感じはみじんもなく、新しい感覚で処理された近代彫刻がそこに置かれてあるような奇妙な思いに打たれたのである。


◆グッズ・土産
・写真集「渡岸寺観音堂」

今年もキジがやってきました。

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「ケーン、ケーン」という鳴き声が聞こえてくるようになりました。今年も自宅の裏の雑木林にキジが営巣しているようです。
キジのつがいがうちの敷地にやってきて、エサをあさっています。姿を見ようと近づくと、キジは早足で雑木林へ逃げて行きました。メスが先に逃げ、オスはそれを見とどけてから逃げているように見えました。

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手前にオス、後方にメスがいます。

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水泳の記録

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 今月から病気のリハビリと体力の向上をめざし、水泳を始めました。
 2年くらい泳いでなかったので、あまり無理をせず、少しずつ距離をのばせればと考えています。
 以下、時々の記録を残していこうと思います。

2017.4.20(木)9日目
◆クロール1,100m(200m×1、100m×6、50m×6)
※最終的な目標は、クロールで1,000mを続けて泳ぐこと。まずは〈100mクロール~50m水中ウォーキング〉のインターバル・トレーニングを続け、持久力をつけることをめざします。 

  


  

《308SW》で秋田に行って来ました。

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 4月23(日)から25日(火)までの3日間、《308SW》で東北に行って来ました。主な目的は角館の武家屋敷通りを見ることでしたが、当初予定になかった中尊寺に行ったのは良い選択でした。

【訪ねた所】
・角館武家屋敷通り(秋田県仙北市角館町)
・中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)~こちらについては、見仏記28を参照してください。

【308SWデータ】
・走行距離 1198.2km
・消費ガソリン 76.38ℓ
・燃費 15.7km/ℓ

【感想等】
・ほとんど高速道路走行でしたが、リッター15キロオーバー! これまで乗ってきた車でイチバンの燃費の良さです。 
・スピード違反で捕まりたくなかったので、あまりアクセルを踏み込みませんでしたが、高速道路での追い越しはスムーズでした。ただし、《308CC》の1.6ℓターボの加速感と比べると、《308SW》の1.2ℓターボのそれは少し落ちるなって感じました。

【写真】
 秋田藩の支藩として栄えた城下町「角館」。今なお深い木立と重厚な屋敷構えの武家屋敷が藩政時代の面影を残し、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。(仙北市観光ガイドマップより)
※寒いかなと思いフリースなどを用意しましたが、よく晴れた日でそれらは全く不要でした。ただ、武家屋敷通りのシダレザクラはまだ満開になっておらず、ちょっと残念でした。一部満開の所もありましたが、それは武家屋敷の所ではありませんでした。
※秋田自動車道大曲ICを降り、角館をめざして走ると、遠くに雪をいただいた山々が見えました。藤沢周平の小説に登場する架空の藩〈海坂藩〉もこんな感じかなと思いました。角館の武家屋敷通りに着くと、そういった思いがいっそう強くなりました。Wikipediaによると、海坂藩のモデルは藤沢の出身地を治めた庄内藩(現在の山形県)と考えられているそうですが。

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※景色のいい所で《308SW》の写真を撮ろうと思っていましたが、いつの間にかチャンスを逃してしまいました。この写真は、東北自動車道のどこかSAです。

my 見仏記28~中尊寺

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 4/23(日)~25(火)、3日間の日程で秋田県の角館を訪れました。帰路、当初の予定にはありませんでしたが、せっかく近くまで来たのだからと思い、岩手県の中尊寺を訪ねました。
 以前に何度か中尊寺を訪ねましたが、その頃は仏像にあまり興味がありませんでしたし、知識もありませんでした。今回は金色堂をはじめ、境内諸堂の仏像をゆっくり見ることができました。金色堂内には3基の須弥壇があり、それぞれに阿弥陀如来を中心とする諸仏が配置されていますが、3基とも同じ種類の仏像が配置されていることを初めて知りました。

中尊寺
 天台宗東北大本山。850年、慈覚大師円仁(えんにん)の開山。12世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するため大伽藍を造営しました。惜しくも14世紀に堂塔の多くは焼失しましたが、金色堂始め三千余点の国宝・重要文化財を伝える平安仏教美術の宝庫です。
 「平泉–仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群–」としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。(「世界遺産 中尊寺」パンフレットより)

本堂
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 中尊寺の根本道場で、ご本尊は丈六の釈迦如来。藤原四衡公の御月忌(ごがっき)、天台宗の祖師忌、法華経一日頓写経会を始めとする法要儀式が行われます。内陣には伝教大師最澄以来1200年の間受け継がれる「不滅の法灯」が灯されています。各家先祖代々の回向、坐禅・写経の道場もあります。(「世界遺産 中尊寺」パンフレットより)

讃衡蔵(さんこうぞう)(中尊寺HPより)
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 3000点をこえる国宝・重要文化財を収蔵し、展示室では仏像・仏具、経典・書画や藤原氏の副葬品などを拝観いただけます。(「世界遺産 中尊寺」パンフレットより)
※こちらには3体の丈六仏が展示されていました。阿弥陀如来坐像と2体の薬師如来坐像です。3体は1丈6尺(約485cm)の身長に因んで丈六仏と呼ばれていますが、坐像のため像高はおよそ270cmです。
 他に、千手観音菩薩立像や騎師文殊菩薩及び四眷属像が印象に残りました。

金色堂

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新覆堂(しんおおいどう)
 この新覆堂は、旧来の木造の覆堂に替って金色堂を新たに保護すべく、昭和43年(1968)に竣工したものである。(図録『世界遺産 中尊寺』より)
 五月雨の降り残してや光堂
 芭蕉は、元禄2年(1689)5月13日、門人の曾良とともに平泉を訪れた。その年は、源義経が衣河館で自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる年だった。(図録『世界遺産 中尊寺』より)

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金色堂(中尊寺HPより)
 天治元年(1124)の造立で、現存する唯一の創建遺構です。ご本尊は阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至菩薩、さらに6体の地蔵菩薩と持国天・増長天が本尊を取り巻いています。堂全体を金箔で覆い、皆金色(かいこんじき)の極楽浄土を現世に表しています。
 内陣は螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や精緻な彫金で荘厳(しょうごん)され、平安仏教美術の最高峰をなしています。
 中央の須弥壇(しゅみだん)の内に初代清衡公、向かって左の壇に二代基衡公、右の壇に三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級が納められています。(「世界遺産 中尊寺」パンフレットより)
※堂内には3基の須弥壇があり、それぞれ阿弥陀如来坐像を本尊とし、脇侍の観音菩薩立像・勢至菩薩立像、さらに6体の地蔵菩薩立像と持国天立像・増長天立像がその周りに配されています。つまり、それぞれの須弥壇に11体ずつ、金色堂全体では33体の仏像が安置されています。

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須弥壇(中央壇)(中尊寺HPより)
 上下の框(かまち)や束(つか)には黒漆地に金と銀で鍍金し、宝相華(ほうそうげ)唐草文様を表わす。格狭間(こうざま)には魚々子地(ななこじ)に宝相華や蝶を打ち出し、鏡地(かがみじ)にはそれぞれ自由な動きを見せる金銅の孔雀と宝相華の花枝を鋲止めしている。
 壇上には阿弥陀如来を中心に11体の仏像を安置している。(図録『世界遺産 中尊寺』より)

◆グッズ・土産
・図録『世界遺産 中尊寺』
・お守り

ポール・マッカートニーの東京ドーム公演に行って来ました。

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僕の座席は3塁側内野席で、ステージは外野(センター)に設置されていました。(フラッシュ撮影は禁止ですが、撮影は可能でした。)

 今夜、ポール・マッカートニーの東京ドーム公演〈ワン・オン・ワン ジャパン・ツアー2017〉に行ってきました。
◆午後7時から約2時間半、アンコールを含め全39曲! 楽しい気分、そして明日も頑張ろうって気持ちになりました。ポール・マッカートニーは74歳ですが、そんなことを考えること自体がナンセンスなくらい、力強く歌っていました。最近、僕は自分の年齢のことを気にし過ぎていました。歳をとれば体力が衰えるのは仕方のないことだけど、節制とトレーニングで健康を保ち、自分らしく生きることを考えようと思いました。

◆ライブは‘A Hard Day’s Night’から始まり、ウイングスやソロの曲も間に入れつつ、ザ・ビートルズの曲を中心に構成されていたように思います。

◆ステージは遠く、ステージ横のスクリーンに映し出される映像ばかり見ていたように思います。でも普段CDを聴きながら口ずさんでいた曲を、ポールと一緒に歌えるんですから、とても貴重な経験でした。

◆ポールがウクレレを弾きながら‘Something’を歌い始めると、涙が止まらなくなりました。この曲はジョージ・ハリスンの代表曲で、彼の追悼コンサートでもポールがウクレレを弾きながら歌っていました。追悼コンサートの録音盤“Concert For George”(03)を聴くたびに心を動かされた曲が目の前で演奏されたわけですから、泣けてしまうのは当然ですね。

◆ポールとギター(2人)、ドラムス、キーボードの一体感がいいです。ポールを含め、5人がひと組のバンドって感じです。

【セットリスト(4/27)】(NME JAPANのHPより)
  1 A Hard Day’s Night
  2 Junior’s Farm
  3 Can’t Buy Me Love
  4 Letting Go
  5 Temporary Secretary
  6 Let Me Roll It
  7 I’ve Got a Feeling
  8 My Valentine
  9 1985
 10 Maybe I’m Amazed
 11 We Can Work It Out
 12 In Spite of All the Danger
 13 You Won’t See Me
 14 Love Me Do
 15 And I Love Her
 16 Blackbird
 17 Here Today
 18 Queenie Eye
 19 New
 20 The Fool on the Hill
 21 Lady Madonna
 22 FourFiveSeconds
 23 Eleanor Rigby
 24 I Wanna Be Your Man
 25 Being for the Benefit of Mr. Kite!
 26 Something
 27 Ob-La-Di, Ob-La-Da
 28 Band on the Run
 29 Back In The U.S.S.R.
 30 Let It Be
 31 Live And Let Die
 32 Hey Jude

《encore》
 33 Yesterday
 34 Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band(Reprise)
 35 Hi, Hi, Hi
 36 Birthday
 37 Golden Slumbers
 38 Carry That Weight
 39 The End

村上春樹『女のいない男たち』を読みました。(再)

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今日、村上春樹の短編集『女のいない男たち』(2014)を読み終えました。
以下、文庫本ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
 舞台俳優・家福を苛み続ける亡き妻の記憶。彼女はなぜあの男と関係したのかを追う「ドライブ・マイ・カー」。妻に去られた男は会社を辞めバーを始めたが、ある時を境に店を怪しい気配が包み謎に追いかけられる「木野」。封印されていた記憶の数々を解くには今しかない。見慣れらはずのこの世界に潜む秘密を探る6つの物語。

【収録作品】( )は初出
ドライブ・マイ・カー(『文藝春秋』2013年12月号)
 登場人物は、俳優の家福(かふく)と彼の専属運転手・渡利みさき、彼の亡くなった妻の4人目の浮気相手・高槻です。この作品では家福とみさき、家福と高槻とのそれぞれのエピソードが描かれます。しかし興味をひかれるのは、家福は妻の浮気を知りながら(4人も!)なぜ生前の妻に問いただすことができなかったのか、さらに妻が亡くなった後になぜ妻の浮気相手に近づき復讐めいたことをしようとしたのか、ということです。
 男って、いや人間って、優しかったり物わかりが良かったりだけではダメってことでしょうか?

イエスタデイ(『文藝春秋』2014年1月号)
 大学2年の僕(語り手)は、田園調布に生まれ育ったのに完璧な関西弁を話す木樽と知り合います。木樽には小学校の時から付き合っているガールフレンドがいますが、二人の関係はなかなか進展しないようです。
 僕と木樽、その彼女という登場人物の設定は、『ノルウェイの森』の「僕」とキヅキ、直子を思い起こさせますが、あまり深刻な展開にならなくてホッとしました。
 自分が20歳だった頃のことを考えるなんてほとんどありませんでしたが、以下の文章を読み、とても共感を覚えました。
 でも自分が二十歳だった頃を振り返ってみると、思い出せるのは、僕がどこまでもひとりぼっちで孤独だったということだけだ。僕には身体や心を温めてくれる恋人もいなかったし、心を割って話せる友だちもいなかった。日々何をすればいいのかもわからず、思い描ける将来のビジョンもなかった。だいたいにおいて自分の内に深く閉じこもっていた。一週間ほとんど誰ともしゃべらないこともあった。そういう生活が一年ばかり続いた。長い一年間だった。その時期が厳しい冬となって、僕という人間の内側に貴重な年輪を残してくれたのかどうか、そこまでは自分でもよくわからないけれど。(P123)

独立器官(『文藝春秋』2014年3月号)
 この作品の語り手は「イエスタデイ」と同じ人物のようです。彼が語るこの作品の登場人物もかなりユニークです。
 52歳の整形外科医の渡会(とかい)は結婚はしない主義で、結婚を前提とした男性との交際を求めている女性とは一切交際しません。結果、彼がガールフレンドとして選ぶ相手は概ね人妻か、他に「本命」の恋人のいる女性です。要領よく、責任を負わない、気ままな人生を楽しんでいるといった風です。
 ところが、ある時彼は16歳年下の人妻に心から恋してしまいます。そのため、彼は「自分とはいったいなにものなのだろう」と自問したり、権中納言敦忠の「逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」という歌に心を動かされるようになります。10代や20代で経験すべきことを52歳になって初めて経験したわけですから、相当つらいと思います。しかも、その人妻には別に恋人がいて、さんざんお金を貢いだ挙句裏切られたのですから。
 渡会医師の秘書が「僕」に言った言葉が心に残りました。昨年亡くなった僕の弟のことを決して忘れないと思いました。
 そして僕は思うのですが、僕らが死んだ人に対してできることといえば、少しでも長くその人のことを記憶しておくくらいです。でもそれは口で言うほど簡単ではありません。(P174)

シェエラザード(『MONKEY』vol.2 SPRING 2014)
 羽原(はばら)は北関東の地方都市の「ハウス」に身を隠しています。彼を支援する役目を負った女性シェエラザード(「千夜一夜物語」の王妃の名にちなんだ名前)が定期的に彼の部屋を訪れ、食品の補充等をしています。そして、彼と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い不思議な話をします。
 羽原がなぜ身を隠しているのか? 疑問は解消されませんが、それよりもシェエラザードが語る話にドキドキさせられました。
シェエラザードについて
 昔々、サーサーン朝(ササン朝ペルシャ)にシャフリヤールという王がいた(物語上の架空人物)。王はインドと中国も治めていた。ある時、王は、妻の不貞を知り、妻と相手の奴隷たちの首をはねて殺した。
 女性不信となった王は、街の生娘を宮殿に呼び一夜を過ごしては、翌朝にはその首をはねた。こうして街から次々と若い女性がいなくなっていった。王の側近の大臣は困り果てたが、その大臣の娘シェヘラザード(シャハラザード)が名乗り出て、これを止めるため、王の元に嫁ぎ妻となった。
 明日をも知れぬ中、シェヘラザードは命がけで、毎夜、王に興味深い物語を語る。話が佳境に入った所で「続きは、また明日」そして「明日はもっと面白い」と話を打ち切る。王は、話の続きが聞きたくてシェヘラザードを殺さずに生かし続けて、ついにシェヘラザードは王の悪習を止めさせる。(Wikipediaより)

木野(『文藝春秋』2014年2月号)
 木野は、妻と会社の親しい同僚との浮気現場を目撃すると、すぐさま家を出、会社も辞めます。そして、伯母から引き継いだ喫茶店を作り替え、バー「木野」を始めます。「木野」には神田(かみた)や不思議なカップルなど、徐々に客がつき始めますが、ある日猫がいなくなり、店の周辺に蛇が現れるようになります。すると、神田から「多くのものが欠けてしまったから」店を閉めて、遠くに長い旅に出るように言われます。それは、木野が「正しくないことをしたからではなく、正しいことをしなかったから」とも言われます。
 やがて、木野は正しいことをしなかったことに気づきます。妻の「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」という問いに「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく。少しかたくさんか、程度まではわからないけど」と答えましたが、本当はもっと前に強く傷つくべきだったのです。
 木野は家を出てバーを始める準備やその経営に忙殺され(あるいは、忙殺されようとして)、自分の心ときちんと向き合いませんでした。旅に出て、彼は「おれは傷ついている、それもとても深く」ということに気づきます。

女のいない男たち(単行本書き下ろし)
 

ペリカン万年筆《スーベレーンM405》

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ペリカン《スーベレーンM405》(ペリカン社HPより)

先日、ペリカン万年筆《スーベレーンM405》の極細字(EF)を購入しました。
収納時の長さが12.7cm(筆記時14.9cm)、重さが15gと少し小振りですが、その分手のひらによく馴染みます。
黒と青縞、シルバーという配色が好きですが、このペンを購入した一番の決め手はクリップのデザインです。このペンのクリップはペリカンの顔とくちばしになっています。これは僕の好きなヘラサギの顔とくちばしに似ていて、とても愛着を感じます。
※ヘラサギについては、このブログの「菅生沼のヘラサギ」の書庫をご参照ください。

藤沢周平『獄医立花登手控え』(一)(二)を読みました。

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 今日、藤沢周平の『獄医立花登手控え』シリーズの(一)『春秋の檻』(1980)と(二)『風雪の檻』(81)を読み終えました。
 僕は日曜のNHK大河ドラマを午後8時からではなく、夕方6時からBSプレミアムで見ています。大河が終わると続いてBS時代劇が放送され、そちらも何となく見るようになりました。
 現在、大河ドラマ『おんな城主 直虎』に続いてBS時代劇『立花登 青春手控え2』が放送されています。このドラマがおもしろかったし、原作が藤沢周平だったので読んでみようと思いました。文庫本で全4冊ですが、まず2冊を読みました。

【内容】(文庫本ブックカバー裏表紙の解説より)
春秋の檻
 江戸小伝馬町の牢獄に勤める青年医師・立花登。居候先の叔父の家で口うるさい叔母と驕慢な娘にこき使われている登は、島送りの船を待つ囚人からの頼みに耳を貸したことから、思わぬ危機に陥った――。起倒流柔術の妙技とあざやかな推理で、獄舎に持ちこまれるさまざまな事件を解く。著者の代表的時代連作集。
◆雨上がり ◆善人長屋 ◆女牢 ◆返り花 ◆風の道 ◆落葉降る ◆牢破り

風雪の檻
 登の柔術仲間、新谷弥助が姿を消した。道場に行くと言って家を出たまま、その後、深川の遊所でよからぬ男たちと歩いているところを目撃されたという。行方を追う登の前に立ちはだかる悪の背後に、意外や弥助の影があった。何が彼を変えたのか――。熱血青年獄医が難事件の数々に挑む。大好評シリーズ第二弾。
◆老賊 ◆幻の女 ◆押し込み ◆化粧する女 ◆処刑の日

【感想等】
◆主人公の立花登(22)は羽後亀田藩の微禄の下士の次男。藩の医学所・上池館(こうちかん)で医学を修め、3年前に江戸にやってきました。町医者を営む叔父(母の弟)の小牧玄庵を頼ったのですが、あまり頼りにならず、叔父に代わって小伝馬町牢獄の牢医を務めることになります。登は囚人達と関わることで、さまざまな事件に首をつっこむことになります。
◆登は叔父の家に居候しているため、叔母や従妹にこき使われても文句が言えません。しかし、いざ悪者と対峙すると、その柔術の技で相手をバッタバッタと投げ飛ばします。そんな痛快娯楽時代劇的なところがいいです。病院の待ち時間などに読むのにちょうどいいって感じです。

バイクの練習

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 昨年8月25日、ホンダ《CRF250L》が納車されましたが、以来一度も路上を走りませんでした。病気治療中で、バイクに乗る体力も自信もなかったからです。だったらもっと良くなってから買えばよかったのに、なんて言われそうですが、《CRF250L》に乗ることが病気治療のモチベーションだったので、早めに買ってしまいました。
 今日、初めて《CRF250L》で路上を走りました。最初、モトクロスブーツを履いてのシフトレバー操作(ギアチェンジ)がスムーズに出来ませんでしたが、帰宅する頃にはだいぶ慣れたように思います。また、ヘルメットを被っての長時間運転には不安がありましたが、特に問題はありませんでした。
 ※本日の走行距離:101.9km(3時間)

 田舎暮らしなので、家を出れば練習コースはいくらでもあります。今日は、水田地帯の農道と川の堤防上を走りました。田植え後の水田と収穫間近の麦畑がとてもきれいでした。

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筑波実験植物園に行ってきました。

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今日、母を連れて、つくば市にある《国立科学博物館 筑波実験植物園》に行ってきました。
「クレマチス展」(4/29~6/4)が開催されており、素敵なクレマチスを見ることができました。今回は会期末だったので、すでに咲き終えた花も多く、来年はもっと早く来ようと思いました。
 
クレマチス展について、《筑波実験植物園》のHPから引用します。
 クレマチス - 驚くべきその多様性 - 
 「クレマチス」(キンポウゲ科センニンソウ属)には約300 の野生種と数千にもおよぶ園芸品種が存在し、その花は色や形が変化に富み、さらに香りのする種類もあり、とても多様化しています。本公開では、クレマチスの多彩な花々を通じて、植物の多様性に触れていただきます。また、日本のカザグルマは、産地によって花の色や形に変化がみられ、種内でも多様化したクレマチスです。ヨーロッパに渡り多くの大輪系品種の親となりましたが、現在その自生地は減少し、絶滅の危機に瀕しています。このカザグルマについてもパネルやセミナーなどで紹介いたします。

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クレマチス ‘ジャックマニー・アルバ’

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クレマチス ‘カスム’

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クレマチス ‘ビクトリア’

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クレマチス ‘トゥルー・ブルー’

※以上、品種名がわかるものは記しました。それぞれの品種名が書かれたプレートがあったのに、メモ的に撮っておけばよかったと思います。

筑波実験植物園に行ってきました。(続き)

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《国立科学博物館 筑波実験植物園》を訪れたのは2回目でした。前回は2014年の4月末で、シャクナゲが真っ盛りでした。植物園を訪れる時は、事前に見たい花の情報をチェックすることが大事だと、今日はつくづく思いました。クレマチスはまあまでしたが、バラは盛りを過ぎて、醜い姿を陽に晒していました。

植物園に着いたのは午後1時過ぎ。雨が残っていた午前中とは打って変わり、強い日差しが照りつけていました。クレマチスを見たあと、園内を散策しました。中央に池があり、その近くの木陰のベンチに座っていると、カルガモや鯉の姿が見られました。吹く風が心地よく、思わず居眠りしてしまいそうでした。

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ヤマボウシ(山法師)の白い花が咲いていました。

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熱帯資源植物温室には大きなレモンの実がなっていました。

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オオベニウチワ(アンスリウム)

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藤沢周平『獄医立花登手控え』(三)(四)を読みました。

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 今日、藤沢周平の『獄医立花登手控え』シリーズの(三)『愛憎の檻』(1982)と(四)『人間の檻』(83)を読み終えました。

【内容】(文庫本ブックカバー裏表紙の解説より)
愛憎の檻
 娘の病を治したお礼にと、登に未解決事件の情報を教えてくれた男が牢の中で殺された。大胆な殺しの後、ゆうゆうと出獄した犯人を追い、登は江戸の町を駆ける――。家では肩身の狭い居候だが、悪事には敢然と立ち向かう若き牢医師・立花登が、得意の柔術と推理で事件を解き明かす。大人気時代連作第三弾。
◆秋風の女 ◆白い骨 ◆みな殺し ◆片割れ ◆奈落のおあき ◆影法師

人間の檻
 子供をさらって手にかける老人の秘密。裁きを終えた事件の裏に匂い立つ女の性(さが)。小伝馬町の牢内に沈殿する暗く悲しい浮世の難事を、人情味あふれる青年獄医が爽やかに解決する。だがある日、かつての捕物の恨みから、登の命をもらうと脅す男が現れた――。著者が5年にわたって書き継いだ傑作シリーズ完結編。
◆戻って来た罪 ◆見張り ◆待ち伏せ ◆影の男 ◆女の部屋 ◆別れゆく季節

【感想等】
◆『愛憎の檻』の巻末に「中井貴一インタビュー」が掲載されています。1982年、NHKで放映された連続ドラマ「立花登青春手控え」で主役の立花登を演じた中井貴一に当時の思い出を語ってもらったものです。このインタビュー記事に引用された当時の写真を見て、少し笑ってしまいました。今回登の叔母・松江を演じている宮崎美子が、82年には登の従妹ちえを演じていたからです。つまり、宮崎美子はこの作品で時代を超えて母と娘の両方を演じていたのです。
◆後味すっきりの、気軽に読める作品でした。

my 見仏記29~奈良西大寺展(再)

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 今日、三井記念美術館に「奈良西大寺展」(4月15日~6月11日)を見に行ってきました。会期末だし、今日から京都・浄瑠璃寺の吉祥天立像が展示されるからでしょう、前回よりも多くの観客であふれていました。
 今日は吉祥天立像だけが目当てでしたが、同じ浄瑠璃寺の地蔵菩薩立像にも目が止まりました。これまで地蔵菩薩にはほとんど関心が持てませんでしたが、今日は違いました。その穏やかで優しげな表情に心が惹かれたのかもしれません。

 「奈良西大寺展」は東京を皮切りに、大阪、山口と続けて開催されます。なお、出品される仏像等は西大寺のものだけではなく、西大寺を総本山とする真言律宗一門の寺院からも数多く出品されています。昨年東京国立博物館で見て以来、もう一度お寺で見たいと思っていた宝山寺の矜羯羅(こんがら)童子立像と制迦(せいたか)童子立像もこの展覧会に出品されます。ただし大阪会場のみということで、宝山寺に行きたい気持ちが一層強まったように思います。
 西大寺と宝山寺をはじめとする多くの一門寺院との関係がわかったので、今後はその辺を手がかりに見仏したいと思います。

吉祥天立像(京都・浄瑠璃寺)(奈良西大寺展HPより)
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吉祥天(きちじょうてん)
 インドの幸運と美の女神ラクシュミーを仏教が取り入れ、新たに生み出されたのが吉祥天。吉祥天女、吉祥功徳天、功徳天ともよばれます。「金光明最勝王経」に説かれる吉祥天は、日本では天下泰平、五穀豊穣、財宝充足を祈願する「吉祥悔過会(けかえ)」の本尊として、奈良時代以降から国家的に信仰されていました。その一方で個人的に祀った例も見られ、古くから人気の高い神だったことがわかります。
 日本の吉祥天像は、唐風の貴婦人の服装をし、宝冠や瓔珞(ようらく)(ネックレス)などで身を飾った天女形で表される場合がほとんどで、たいへん人間に近い姿をしています。右手を与願印(よがんいん)にし、左手には何でもかなえてくれるという如意宝珠(にょいほうじゅ)を持って、蓮華座に立つ像が多く見られます。独尊だけでなく、夫といわれる毘沙門天と対に、あるいは善 師(ぜんにし)童子とともに毘沙門天の左脇侍となり、三尊形式をとる例もあります。(石井亜矢子『仏像の見方ハンドブック』より)

吉祥天立像(京都・浄瑠璃寺)
 木造 像高90cm 鎌倉時代 重文
 王朝の美女そのままの、彩色も装飾も華麗な像。膨らんだ袖、ひるがえる裾などの執拗な表現に、中国・宋代の影響がうかがえる。開扉は1月1日~15日、3月21日~5月20日、10月1日~11月30日。(同)

※当時の様式で、当時の理想の美人像を描いたものですから、現代の私たちからしたら違和感を覚えるのは仕方ないと思います。しかし、この像の表情や姿からは気品や厳かさを感じますし、やはり美しい仏像だと思います。

地蔵菩薩立像(延命地蔵)(京都・浄瑠璃寺)(図録をコピー)
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地蔵菩薩
 釈迦が入滅し、弥勒菩薩がこの世に生まれるまでの無仏世界に現れ、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道を輪廻して苦しむ人々を救済するという菩薩。
 浄土信仰が高まり、地獄の思想が定着した平安時代以降は、地獄に堕ちることを恐れた人々に盛んに信仰された
こともあり、日本では主に独尊として祀られます。道端の石仏にも、地蔵菩薩像は多く見られます。
 髪がない剃髪、袈裟を身に着ける僧形で、立像、坐像のほか半跏像もあります。左手に宝珠を持つ像と、左手に宝珠、右手に錫杖をとる2タイプが多く、まったく持物を持たない例もあります。高僧像と似ていますが、老人に造られることが少ないのが地蔵菩薩像の特徴です。
 阿弥陀如来像の脇侍として、虚空蔵菩薩とともに祀られたり、観音像と対で薬師如来像の脇侍となる例もあります。(石井亜矢子『仏像の見方ハンドブック』より)

◆グッズ・土産
・絵ハガキ

庭でキジが鳴いています。

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 4月以来、裏の雑木林にキジが営巣しています。最近は朝早くうちの庭にやってきて、「ケーン、ケーン」と鳴いています。

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バイクの練習(2)

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 今日は利根川の河川敷でダート走行と堤防の上り下りの練習しました。
 ダートも堤防も気持ちよく走れましたが、今日は大失態を演じてしまいました。《CRF250L》での初転倒です。幸い、バイクの損傷や身体のけがはありませんでしたが、「初めてだったり、よくわからない道は、バイクから降りて歩いて確認する」という大原則をないがしろにした結果です。(4枚目の写真参照)
 走っていて注意力が散漫だって思いました。これじゃ、いつか事故を起こす! もっと集中してハンドルを握ることが大事だって痛感しました。

※本日の走行距離:67km(2時間半)
※給油データ:150.9km/5.02ℓ→30.1km/ℓ。《CRF250L》のタンク容量は7.7ℓなので、30.1km×7.7ℓ=231.77kmとなり、給油の目安は200kmくらいか。今後もデータをとり、途中でガス欠なんてことにならないように注意です。

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利根川河川敷の長いダート。デコボコが少ないので走りやすい。油断すると砂利にタイヤが持ってかれそうなので、スピードの出し過ぎに注意。

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こちらも利根川河川敷のダート。道幅が狭く、所々にデコボコがあるのでちょっと楽しい。

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利根川堤防には結構草が生い茂っているが、上り下りの練習には問題なし。《CRF250L》は力があるので、こんな坂楽勝。

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調子に乗っていたら、《CRF250L》で初転倒! よく確かめないで堤防を下ったら、なんと段差がありました! バイクも転倒、僕も一回転! 幸いバイクも僕も無事でした。でも、こんなことしてたらダメ!

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こちらは鬼怒川堤防。後方に見える橋は、圏央道(首都圏中央連絡自動車道)。
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