Quantcast
Channel: my photo diary
Viewing all 681 articles
Browse latest View live

村上護編『山頭火句集』(ちくま文庫)を読みました。(再)

$
0
0
イメージ 1

 今日、村上護編・小川侃画『山頭火句集』(96)を読み終えました。(再)
 種田山頭火の経歴について、文庫本ブックカバー掲載のものを引用します。
種田山頭火(たねだ・さんとうか、1882-1940)
 山口県防府市(現在)生まれ。本名、正一。少年期に母が自殺。早大文学科中退。帰郷して酒造業を営むが、破産、流転。熊本市報恩寺で出家得度し、味取観音堂守となる。1926(大正15)年から行乞流転の旅に出る。1932(昭和7)年、山口県小郡町の其中庵に住し、さらに各地を転々漂白する。1940(昭和15)年、松山市の一草庵で泥酔頓死。

 この句集について、文庫本ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
 「最初の不幸は母の自殺。第二の不幸は酒癖。第三の不幸は結婚、そして父になった事」――家を捨て、妻子とも別れ、俗世の一切から放たれて、「行乞流転の旅」の日々を、一行の俳句に託すしかなかった山頭火。うしろすがたのしぐれる放浪の俳人の全容を伝える一巻選集! 自選句集「草木塔」を中心に、作者の境涯を象徴する随筆も精選収録する。

 この句集の構成は、以下のようになっています。
◇『草木塔』
◇『草木塔』以後
◇出家以前
◇随筆
 私を語る/『鉢の子』から『其中庵』まで/私の生活/寝床/漬物の味/水/歩々到着/故郷/独慎/道/草木塔/片隅の幸福/白い花/草と虫とそして・・・/述懐
◇山頭火年譜
◇さくいん
◇解説「山頭火の境涯と俳句」(村上護)

 以下、一読して気になった句を引用します。

◆『草木塔』
分け入つても分け入つても青い山
鴉啼いてわたしも一人
この旅、果もない旅のつくつくぼうし
笠にとんぼをとまらせてあるく
歩きつづける彼岸花咲きつづける

まつすぐな道でさみしい
しぐるるや死なないでゐる
水に影ある旅人である
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
すべつてころんで山がひつそり

雨の山茶花の散るでもなく
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
まつたく雲がない笠をぬぎ
酔うてこほろぎと寝てゐたよ

また逢へた山茶花も咲いてゐる
うしろすがたのしぐれてゆくか
鉄鉢の中へも霰
寒い雲がいそぐ
笠へぽつり椿だつた

いただいて足りて一人の箸をおく
しぐるる土をふみしめてゆく
今日の道のたんぽぽ咲いた
うつりきてお彼岸花の花ざかり
朝焼雨ふる大根まかう

月が昇つて何を待つでもなく
あれこれ食べるものはあつて風の一日
水音しんじつおちつきました
いちりん挿の椿いちりん
ぬいてもぬいても草の執着をぬく

けふは蕗をつみ蕗をたべ
もう明けさうな窓あけて青葉
やつぱり一人がよろしい雑草
けふもいちにち風をあるいてきた
いそいでもどるかなかなかなかな

わがままきままな旅の雨にはぬれてゆく
ほととぎすあすはあの山こえて行かう
夕立が洗つていつた茄子をもぐ
なんといふ空がなごやかな柚子の二つ三つ
椿のおちる水のながれる

誰か来さうな雪がちらほら
ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない
ひよいと穴からとかげかよ
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
いつでも死ねる草が咲いたり実つたり

みんなたつしやでかぼちやの花も
ここで寝るとする草の実のこぼれる
木の葉ふるふる鉢の子へも ※鉢の子=鉄鉢
春寒のをなごやのをなごが一銭持つて出てくれた
さて、どちらへ行かう風がふく

樹が倒れてゐる腰をかける
もう逢へますまい木の芽のくもり
飲みたい水が音たててゐた
あすはかへらうさくらちるちつてくる
なんぼう考へてもおんなじことの落葉ふみあるく

ほつかり覚めてまうへの月を感じてゐる
悔いるこころに日が照り小鳥来て啼くか
枯れゆく草のうつくしさにすわる
住みなれて藪椿いつまでも咲き
あるがまま雑草として芽をふく

ぬくうてあるけば椿ぽたぽた
ほろにがさもふるさとの蕗のとう
ひつそり咲いて散ります
ころり寝ころべば青空
何を求める風の中ゆく

青葉の奥へなほ径があつて墓
それもよかろう草が咲いてゐる
月がいつしかあかるくなればきりぎりす
木かげは風がある旅人どうし
風鈴の鳴るさへ死のしのびよる

おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら
春の雪ふる女はまことにうつくしい
たたずめば風わたる空のとほくとほく
うららかな鐘を撞かうよ
伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も

また一枚ぬぎすてる旅から旅
ほつと月がある東京に来てゐる
行き暮れてなんとここらの水のうまさは
あるけばかつこういそげばかつこう
浅間をまともにおべんたうは草の上にて

砂丘にうづくまりけふも佐渡は見えない
荒海へ脚投げだして旅のあとさき
法堂(ハツトウ)あけはなつ明けはなれてゐる
更けると涼しい月がビルの間から
鴉啼いたとて誰も来てはくれない

こころおちつけば水の音
山ふところの、ことしもここにりんだうの花
いつまで生きる曼珠沙華咲きだした
歩くほかない草の実つけてもどるほかない
やつと咲いて白い花だつた

悔いるこころの曼珠沙華燃ゆる
月からひらり柿の葉
何を待つ日に日に落葉ふかうなる
やつぱり一人はさみしい枯草
ぼろ着て着ぶくれておめでたい顔で

いつも出てくる蕗のとう出てきてゐる
ひらくよりしづくする椿まつかな
一つあれば事足る鍋の米をとぐ
ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く
しぐれて雲のちぎれゆく支那をおもふ

ぽろぽろしたたる汗がましろな凾に
その一片はふるさとの土となる秋
みんな出て征く山の青さのいよいよ青く
風の中おのれを責めつつ歩く
 がちやがちやがちやがちや鳴くよりほかない

誰を待つとてゆふべは萩のしきりにこぼれ
雨ふればふるほどに石蕗の花
そこはかとなくそこら木の葉のちるやうに
死のしづけさは晴れて葉のない木
一つあると蕗のとう二つ三つ

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
つるりとむげて葱の白さよ
おのれにこもる藪椿咲いては落ち
咳がやまない脊中をたたく手がない
窓あけて窓いつぱいの春

朝焼夕焼食べるものがない
げんのしようこのおのれひそかな花と咲く
草にすわり飯ばかりの飯
葦の穂風の行きたい方へ行く
飯のうまさが青い青い空

ごろりと草に、ふんどしかわいた
秋風、行きたい方へ行けるところまで
ビルとビルとのすきまから見えて山の青さよ
ひつそり蕗のとうここで休まう
このみちをたどるほかない草のふかくも

たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて
うまれた家はあとかたもないほうたる
寝床まで月を入れ寝るとする
へそが汗ためてゐる
焼いてしまへばこれだけの灰を風吹く

握りしめる手に手のあかぎれ


◆『草木塔』以後(昭和14年9月~15年10月)
ひよいと四国へ晴れきつてゐる
石を枕に雲のゆくへを
あすはおまつりのだんじり組みあげて、雲
南無観世音おん手したたる水の一すぢ
秋風ただよふ雲の一人となる

庵主はお留守の木魚をたたく
暮れると寝て明けるよりあるく山また山
泊めてくれない折からの月が行手に
まどろめばふるさとの夢の葦の葉ずれ
ふたたびはわたらない橋のながいながい風

しぐれてぬれて旅ごろもしぼつてはゆく
泊るところがないどかりと暮れた
ついてくる犬よおまへも宿なしか
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
夜の長さ夜どほし犬にほえられて

遠ざかるうしろ姿の夕焼けて
目刺あぶればあたまもしつぽもなつかしや
だんだん似てくる癖の、父はもうゐない
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと
今日のをはりのうつくしや落日

名もない草のいちはやく咲いてむらさき
ずんぶり温泉(ユ)のなかの顔と顔笑ふ
夕焼雲のうつくしければ人の恋しき
朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし
おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて


◆出家以前(明治44年~大正11年)
気まぐれの旅暮れて桜月夜なる
ひとりとなれば仰がるゝ空の青さかな
暑さきはまる土に喰ひいるわが影ぞ
闇の奥には火が燃えて凸凹の道
酔ひざめのこころに触れて散る葉なり

またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく
雪ふる中をかへりきて妻へ手紙かく
月澄むほどにわれとわが影踏みしめる


 以下、随筆の中から、気になった文章を引用します。







夏石番矢編『山頭火俳句集』を読みました。

$
0
0
イメージ 1

 夏石番矢編『山頭火俳句集』(18)を読みました。
 この俳句集について、編者による「解説―水になりたかった前衛詩人」の冒頭部分を引用します。
 種田山頭火という俳人はいったいどういう男なのだろうか。自由律俳人、放浪の俳人、酒乱の俳人、自堕落な俳人などと言われている。はたしてそうなのだろうか。
 この一見単純で、ほんとうは難しい問いへの答えを考えながら、ここに山頭火29歳の明治44(1911)年から没年の昭和15(1940)年にいたるちょうど30年にわたる山頭火の俳句1,000句を選んでみた。この30年間、山頭火はいったい何をしたのだろうか。
 山頭火は大量の日記を残している。山頭火自身による焼却をのがれた日記は、山頭火が友人たちに預けて後の世に残そうとして残ったのであり、日記には数多くの未発表俳句も記されている。実はここに選ばれた俳句1,000句の大半は、句集や雑誌に発表されたものではなく、日記に眠っていた作品。『山頭火全集』(全11巻、春陽堂書店、昭和61-63年)ではまだ不十分だった資料収集をより豊かに進め、句集、雑誌、新聞、日記、書簡などに残された山頭火の俳句を、初めて一冊にまとめたのが、『山頭火全句集』(春陽堂書店、平成14年)。山頭火俳句の全貌は、21世紀になってようやくこの本によって姿を現した。
 『山頭火全句集』に年代順に収録されたすべての俳句から、山頭火俳句1,000句は選び出され、この文庫本でも年ごとに区分けして収録されている。各年ごとの山頭火の俳句は『山頭火全句集』が句集、雑誌、新聞、日記、書簡などという記録媒体の種類ごとに並べられているのと違って、山頭火による句作の順序を私が推理して配列した。
 この1,000句を読むと、山頭火が実際に生きた時間の流れが伝わり、彼の実際の人生体験をベースにしながらもそこに制約されない、彼の思いの流れも味わうことができるだろう。そこで初めて種田山頭火という俳人の実体をつかめるのではないか。
※引用文の半ばに「ここに選ばれた俳句1,000句の大半は、句集や雑誌に発表されたものではなく、日記に眠っていた作品」とあるように、これまでに読んだ2種類の山頭火句集にはなかった句に多く出会えたのはとても新鮮でした。

 なお、この俳句集は、以下のような構成になっています。
【俳句】
・明治44年~昭和15年(年代順)
【日記】
・昭和5年~昭和15年(年代順)
【随筆】
 ツルゲーネフ墓前におけるルナンの演説/夜長ノート/生の断片/底から/十字架上より/俳句における象徴的表現/象徴詩論/燃ゆる心/最近の感想/白い路/手記より/私を語る/水/故郷/鉄鉢の句について/再び鉄鉢の句について/無題/履歴書
【解説・略年譜・俳句索引】

 以下、一読して気になった句を引用します。(※巻末略年譜より)

【明治44年(1911)】(29歳)
サイダーの泡立ちて消ゆ夏の月
放鳥の嘆くか森に谺(こだま)あり
忘れえぬ面影や秋晴れの宿

【明治45年・大正元年(1912)】(30歳)
酒も絶たん身は凩(こがらし)の吹くままに

【大正2年(1913)】(31歳)
※荻原井泉水に師事。「層雲」3月号に俳句が初入選する。
明日の行程地図に見る夏野草敷いて

【大正3年(1914)】(32歳)
酔へば物皆なつかし街の落花踏む
友や待つらんその島は晴々と横はれり

【大正4年(1915)】(33歳)
沈み行く夜の底へ底へ時雨落つ
濃き煙残して汽車は凩の果てへ吸はれぬ
闇の奥に火が燃えて凸凹(デコボコ)の道を来ぬ
一日物いはず海にむかへば潮満ちて来ぬ
叫ぶ男あり夜潮ゆらめくのみの暗さ

【大正5年(1916)】(34歳)
※種田家の酒造経営が破綻、父は行方不明となる。熊本市に移住。古書店を開業する。
鉄柵の中コスモス咲きみちて揺る
夢深き女に猫が背伸びせり
凩に吹かれつゝ光る星なりし
浪の音聞きつゝ遠く別れ来し

【大正6年(1917)】(35歳)
海よ海よふるさとの海の青さよ

【大正7年(1918)】(36歳)
※弟の二郎が自殺する。
たまさかに飲む酒の音さびしかり

【大正8年(1919)】(37歳)
※単身上京、セメント試験場で働く。
星空の冬木ひそかにならびゐし

【大正9年(1920)】(38歳)
※サキノと離婚。東京市一橋図書館に勤務。
陽ぞ昇る空を支ふる建物の窓窓

【大正10年(1921)】(39歳)
※父竹治郎死去。
ほころび縫う身に沁みて夜の雨

【大正11年(1922)】(40歳)
※一橋図書館を神経衰弱のため退職。
ま夜なかひとり飯あたゝめつ涙をこぼす

※大正12年(1923)9月、関東大震災に遭い避難中、憲兵に拘束され巣鴨刑務所に留置される。熊本に帰る。
※大正13年(1924)12月、泥酔して市電を止める。曹洞宗・報恩寺の望月義庵和尚に預けられる。

【大正14年(1925)】(43歳)
※報恩寺で出家得度。熊本県植木町の観音堂の堂守となる。
松はみな枝垂れて南無観世音
松風に明け暮れの鐘撞いて

【大正15年(1926)】(44歳)
※行乞放浪の旅に出る。
分け入つても分け入つても青い山
炎天をいただいて乞ひ歩く
鴉啼いてわたしも一人
生死の中の雪ふりしきる

【昭和2・3年(1927・28)】(45歳)
※山陽・山陰・四国各地を漂泊する。
この旅、果もない旅のつくつくぼうし
まつすぐな道でさみしい
しぐるるや死なないでゐる

【昭和3年(1928)】(46歳)
※四国八十八箇所を巡礼。小豆島の尾崎放哉の墓参。
墓のしたしさの雨となつた

【昭和4年(1929)】(47歳)
※山陽・九州を廻る。
また見ることもない山が遠ざかる
どうしようもないわたしが歩いてゐる
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
あんなに降つてまだ降つてやがる

【昭和5年(1930)】(48歳)
※九州各地を行乞する。熊本市春竹琴平町に三八九居を得る。
こゝで泊らうつくつくほうし
旅はさみしい新聞の匂ひかいでも
吠えつゝ犬が村はづれまで送つてくれた
これが別れのライスカレーです
酔うてこほろぎと寝てゐたよ

このまゝ死んでしまふかも知れない土に寝る
ふりかへらない道をいそぐ
日記焼き捨てる火であたゝまる
風の中声はりあげて南無観世音菩薩
火が何よりの御馳走の旅となつた

憂鬱を湯にとかさう
乞ふことをやめて山を観る
ボタ山のたゞしぐれてゐる
今夜のカルモチンが動く
飛行機飛んで行つた虹が見える

水のんでこの憂鬱のやりどころなし
寝るところが見つからないふるさとの空

【昭和6年(1931)】(49歳)
※個人雑誌「三八九」を創刊。
すさんだ皮膚を雨にうたせる
闇をつらぬいて自動車自動車
星があつて男と女
重荷おもくて唄うたふ
ひとりにはなりきれない空を見あげる

うしろ姿のしぐれてゆくか

【昭和7年(1932)】(50歳)
※第1句集『鉢の子』上梓。山口県小郡町の其中庵(ごちゅうあん)に入る。
鉄鉢の中へも霰(あられ)
父によう似た声が出てくる旅はかなしい
酒やめておだやかな雨
骨(コツ)となつてかへつたかサクラさく
旅もをはりの、酒もにがくなつた

忘れようとするその顔の泣いてゐる
腹底のしくしくいたむ大声で歩く
春へ窓をひらく
風のトンネルぬけてすぐ乞ひはじめる
ひさしぶり話してをります無花果(いちじく)の芽

別れてきて橋を渡るのである
なつかしい頭が禿げてゐた
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
うつむいて石ころばかり
星も見えない旅をつゞけてゐる

岩へふんどし干してをいて
ふるさとの夢から覚めてふるさとの雨
ふるさとの言葉のなかにすわる
ふるさとはみかんのはなのにほふとき
暗さ匂へば蛍

さみしうて夜のハガキかく
いつまで生きよう庵を結んで
山ふかくきてみだらな話がはづむ
とりきれない虱の旅をかさねてゐる
山の仏には山の花

炎天のポストへ無心状である
ひさびさ雨ふりふるさとの女と寝る
ほうたるこいこいふるさとにきた
ちんぽこにも陽があたる夏草
こばまれて去る石ころみちの暑いこと

三日月よ逢ひたい人がある
わたしがはいればてふてふもはいる庵の昼
ひとりで酔へばこうろぎこうろぎ
酔へばやたらに人のこひしい星がまたゝいてゐる
郵便やさん、手紙と熟柿と代へていつた

ゆふ空から柚子の一つをもぎとる
月も林をさまよふてゐた
おとはしぐれか
こゝにかうしてみほとけのかげわたしのかげ
誰も来ない茶の花がちります

【昭和8年(1933)】(51歳)
※其中庵にいながら、近辺を行乞する。第2句集『草木塔』上梓。
誰かきさうな空がくもつてゐる枇杷の花
お正月のからすかあかあ
雪、雪、雪の一人
けふいちにちはものいふこともなかつたみぞれ
霜をふんでくる音のふとそれた

やつとふきのとう
灯火管制の月夜をさまよふ
南無地蔵尊、こどもらがあげる藪椿
どうすることもできない矛盾を風が吹く
何だか物足らない別れで、どこかの鐘が鳴る

春さむく針の目へ糸がとほらない
ぬいてもぬいても草の執着をぬく
水をへだてゝをなごやの灯がまたゝきだした
橋の下のすゞしさやいつかねむつてゐた
遠雷すふるさとのこひしく

をのれにひそむや藪蚊にくんだりあはれんだりして
風のなかおとしたものをさがしてゐる
子のことは忘れられない雲の峰
ふるさとの水をのみ水をあび
逢ひたいが逢へない伯母の家が青葉がくれ

山頭火には其中庵がよい雑草の花
風がさわがしく蝉はいそがしく
どうやら道をまちがへたらしい牛の糞
こうろぎよあすの米だけはある
何もかも捨てゝしまはう酒杯の酒がこぼれる

鮮人長屋も秋暑い子供がおほぜい
葱も褌も波で洗ふ
晩の極楽飯、朝の地獄飯を食べて立つ
性慾もなくなつた雑草の月かげで
雪に覚めたが食べるものはない

ふと子のことを百舌鳥が啼く

【昭和9年(1934)】(52歳)
※広島・神戸・京都・名古屋を経て信州飯田で発熱、入院。
捨てきれないものが枯れてゆく草のなか
氷くだいて今日の米をとぐ
どうにかなるだらう雪のふりしきる
ウソをいはないあんたと冬空のした
ひとりへひとりがきていつしよにぬくうねる

夢の女の手を握つたりなどして夢
かうしてこのまゝ死ぬることの、日がさしてきた
壁にかげぼうしの寒いわたくしとして
ふくらうはふくらうでわたしはわたしでねむれない
風をあるいてきて新酒いつぱい

これでも住める橋下の小屋の火が燃える
げそりと暮れて年とつた
遠山の雪のひかるや旅立つとする
ぽかんと山が、おならがすうつと
病んで寝てゐてまこと信濃は山ばかり

死にそこなつたが雑草の真実
けふも雨ふる病みほうけたる爪をきらう
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
死ねる薬はふところにある日向ぼつこ
柿の若葉のかがやく空を死なずにゐる

死なうとおもふに、なんとてふてふひらひらする
生きたくもない雑草すずしくそよぐや
炎天、否定したり肯定したり
彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり
ともかくも生かされてはゐる雑草の中

冬夜むきあへるをとことをんなの存在
けふから時計を持たないゆふべがしぐれる
このみちまつすぐな、逢へるよろこびをいそぐ
煤煙、騒音、坑口(マブ)からあがる姿を待つてゐる
あひびきまでは時間があるコリントゲーム

ほつかり覚めてまうへの月を感じてゐる
寒さ、質受けしておのが香をかぐ
うとうとすれば健が見舞うてくれた夢
生きてゐることがうれしい水をくむ
考へるともなく考へてゐたしぐれてゐた

【昭和10年(1935)】(53歳)
※第3句集『山行水行』上梓。自殺を図るが未遂。
おわかれの顔も山もカメラにおさめてしまつた
窓が人がみんなうごいてさようなら
わかれて遠いおもかげが冴えかへる月あかり
雪をたべつつしづかなものが身ぬちをめぐり
雪あかりわれとわが死相をゑがく

水へ石を投げては鮮人のこども一人
若葉に月が、をんなはまことうつくしい
酔ひざめの闇にして蛍さまよふ
木かげは風がある旅人どうし
アルコールがユウウツがわたしがさまよふ

死ねる薬を掌にかゞやく青葉
死のすがたのまざまざ見えて天の川
考へつづけてゐる大きな鳥が下りてきた
風がわたしを竹の葉をやすませない
竹の葉のすなほにそよぐこゝろを見つめる

おのれにこもればまへもうしろもまんぢゆさげ
をさない瞳がぢつと見てゐる虫のうごかない

【昭和11年(1936)】(54歳)
※第4句集『雑草風景』上梓。広島から北九州・門司・東海道を経て、東京・山形・仙台・越後を廻る。
ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
春の雪ふる女はまことうつくしい
また一枚ぬぎすてる旅から旅
ほつと月がある東京に来てゐる
花が葉になる東京よさようなら

どうにもならない生きものが夜の底に
あるけばかつこういそげばかつこう
おべんたうをひらくどこから散つてくる花びら
とかく言葉が通じにくい旅路になつた
砂丘にうづくまりけふも佐渡は見えない

ここまで来しを水飲んで去る
こゝろむなしくあらうみのよせてはかへす
さみだるる旅もをはりの足を洗ふ
水をわたる誰にともなくさようなら
私と生れて秋ふかうなる私

けふは凩のはがき一枚

【昭和12年(1937)】(55歳)
※第5句集『柿の葉』上梓。
ぼろ着て着ぶくれておめでたい顔で
てふてふひらひらよいつれあつた
草の青さよはだしでもどる
風の中おのれを責めつつ歩く
がちやがちやがちやがちやなくよりほかない

【昭和13年(1938)】(56歳)
※山口市湯田温泉の風来居へ移る。
焼場水たまり雲をうつして寒く
其中一人いつも一人の草萌ゆる
かなしい旅だ何といふバスのゆれざまだ
みんな出て征く山の青さのいよいよ青く
うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

咳がやまない脊中をたたく手がない
秋風、行きたい方へ行けるところまで
人に逢はなくなりてより山のてふてふ
ふつとふるさとのことが山椒の芽
焼いてしまへばこれだけの灰を風吹く

【昭和14年(1939)】(57歳)
※第6句集『孤寒』上梓。山陽・近畿・東海道・信州を廻る。四国遍路、松山市の一草庵に留まる。
涙ながれて春の夜のかなしくはないけれど
旅もいつしかおたまじやくしが泳いでゐる
ならんでぬかづいて二千五百九十九年の春
ほろりと最後の歯もぬけてうらゝか
やつと一人となり私が旅人らしく

春の夜の寝言ながなが聞かされてゐる
石段のぼりつくしてほつと水をいたゞく
まつたく雲がないピントをあはせる
山はしづけく鳥もうたへば人もうたふ
月あかりして山が山がどつしり

寝ころべば信濃の空のふかいかな
電線はまつすぐにわたしはうねうね峠が長い
ぽろり歯がぬけてくれて大阪の月あかり
ひよいと四国へ晴れきつてゐる
秋晴れの島をばらまいておだやかな

水音しだいにねむれない夜となり
からだぽりぽり掻いて旅人
水をよばれるすこし塩気あるうまし
しぐれて山をまた山を知らない山
南無観世音おん手したたる水の一すぢ

病みて旅人いつもニンニクたべてゐる
いちにち物いはず波音
すすき原まつぱだかになつて虱をとる
海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ
ほろほろほろびゆくわたくしの秋

わが手わが足われにあたたかく寝る
霧の中から霧の中へ人かげ

【昭和15年(1940)】(58歳)
※これまでの折本句集を集成した一代句集『草木塔』を刊行。第7句集『鴉』上梓(『草木塔』に既収)。10月10日、一草庵で句会。酩酊する。参加者が帰った後、11日午前4時(推定)、逝去。
しくしく腹のいたみに堪へて風の夜どほし
をなごまちのどかなつきあたりは山門
ふりかへる枯野ぼうぼううごくものなく
だんだん似てくる癖の、父はもうゐない
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと

おちついて死ねさうな草萌ゆる
つくつくぼうし、わたしをわたしが裁く
あらしのあとのさらに悔いざるこころ
野良猫が来て失望していつた
天の川ま夜中の酔ひどれは踊る

蝿を打ち蚊を打ち我を打つ
ひなたぼこ傷おのづから癒えてくる
かなしいことがある耳掻いてもらう
夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ
大地へおのれをたたきつけたる夜のふかさぞ

足音は野良猫がふいとのぞいて去る
もりもり盛りあがる雲へあゆむ
ぼろ売つて酒買うてさみしくもあるか
夕焼うつくし今日一日はつつましく
大根二葉わがまま気ままの旅をおもふ

秋の夜の虫とんできて生きてかへらず



 以下、日記や随筆の中から、気になった文章を引用します。





スチュアート・ウッズ『ニューヨーク・デッド』を読みました。

$
0
0
イメージ 1

 今日、スチュアート・ウッズ『ニューヨーク・デッド』(91、棚橋志行訳)を読み終えました。
 今年、ウッズ作品は『警察署長』(84)と『湖底の家』(87)、『草の根』(94)を読みました。『警察署長』の主人公の子や孫、関係者が後続の作品に登場するので、それらの登場人物にシンパシーを感じながら読むことができました。

 この作品について、文庫本ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
 マンハッタン、深夜。酔いざましに歩いていた刑事の前に、高層マンションから女性が落ちてきた。テレビの人気キャスターだ。奇跡的に一命をとりとめたが、衝突事故を起こした救急車から彼女は消えてしまった。誰がつきおとしたのか。まだ生きているのか。では、どこに? 彼女の意外な素顔が明らかになるにつれ謎は深まる――。

【感想等】
◆ニューヨーク市警殺人課刑事ストーン・バリントンが主人公。彼は偶然、テレビの人気キャスター・サーシャ・ニジンスキーが高層アパートの12階から転落するのを目撃します。彼は彼女の部屋に駆けつけますが、以前の事件で左膝を負傷していたため、犯人らしき人物を逃がしてしまいます。さらに、救急車で運ばれたはずの彼女も行方不明になっていました。
 その後、ストーンは相棒ディーノ・バチェッティとともにサーシャの行方と、彼女を転落させた人物を追いますが、成果を出すことができませんでした。やがて、ストーンは捜査手法をめぐる対立から警察を追われることになります。

◆サーシャの事件はうやむやのまま、警察の手を離れ、FBIが捜査することになります。一方、警察を追われたストーンは弁護士に転身しますが、サーシャ事件の捜査で知り合ったケアリー・ヒリヤードとのセックスに溺れてしまいます。彼女はストーンにとって、まさに「魔性の女」でした。

◆サーシャの事件は、事故現場から彼女を連れ去った人物が、ストーンを殺そうとしたことから解決へと向かいます。

◆警察が冤罪を生む過程がリアルに描かれ、そのために登場人物の一人が自殺します。そんな社会派的な部分もありますが、そこはアメリカン・エンターテイメント! 映像にしたら凄いだろうなっていうシーン満載です。セックス、カーチェイス、銃撃戦、猟奇的な・・・。そして、意外なストーリー展開。

◆あと何冊か、スチュアート・ウッズの作品を読みたいと思います。

ケヤキの落ち葉を集めました。

$
0
0
 今日、ケヤキの落ち葉を集めました。11月からくり返し行ってきた作業ですが、やっと終わりになりそうです。
 うちには大きなケヤキが6本あるので、これらが一斉に落葉するこの時期はその処理に苦労しています。また、東風が吹くと落ち葉が周辺の家に飛んでいってしまうので、大変申し訳なく思っています。
 集めた落ち葉の処理ですが、ずっと以前両親が農業をしていた頃は堆肥にしていましたが、現在は可燃ごみ専用の袋に入れ、ごみ収集所に出しています。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5
今日はケヤキの落ち葉を16袋、それに雑草や枯れ枝も処理したので、全部で20袋になりました。次の可燃ごみ収集日の金曜日まで軽トラの荷台に積んでおきます。この秋集めた落ち葉は、ケヤキ以外も含めて200袋以上になると思います。

三菱一号館美術館「フィリップス・コレクション展」

$
0
0
イメージ 1
明治27年(1894)、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計の「三菱一号館」が竣工しました。全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられていました。昭和43年(1968)、三菱一号館は老朽化のために解体されましたが、平成21年(2009)、40年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地によみがえりました。平成22年春、三菱一号館は「三菱一号館美術館」として生まれ変わりました。(三菱一号館美術館HPより、一部改編)


 今日、東京・丸の内にある三菱一号館美術館に「フィリップス・コレクション展」(10月17日~2019年2月11日)を見に行ってきました。
 「全員巨匠!」がこの展覧会のキャッチフレーズです。確かに有名な画家たちの作品ばかりのようです。でも、それらの画家の代表作があるかっていうと、そうでもないようです。(これはこの展覧会に限ったことではないと思います。)ただし、フィリップス・コレクションの優れたところは、一目でその画家の作品とわかる、その画家の典型的な作品を集めているところだと思います。
 で、しばらく躊躇しましたが、この展覧会の特設サイトの作品紹介を見て、実際に見てみることにしました。
 三菱一号館美術館が「19世紀後半から20世紀前半の近代美術」を展示する美術館だということを知りませんでした。これは僕の絵画の嗜好とピッタリですし、今日フィリップス・コレクション展を見て、抽象絵画は苦手ってことも自覚しました。
 今日一番の収穫は、ドガの「稽古する踊り子」に出会えたことです。古風で、こじんまりした展示室でこの絵を見たとき、その色彩と構図に惹きつけられました。また、ボナールの作品を4点も見られたし、ゴッホの2作品もいいなと思いました。
 この展覧会は2月までやっているので、1月にまた行こうと思います。


◆見どころ(展覧会特設サイトより)
 米国で最も優れた私立美術館の一つとして知られるワシントンのフィリップス・コレクションは、裕福な実業家の家庭に生まれ、高い見識を持つコレクターであったダンカン・フィリップス(1886-1966)の旧私邸であった場所に位置しています。2018年には創立100周年を迎えます。1921年にはニューヨーク近代美術館よりも早く、アメリカでは近代美術を扱う最初の美術館として開館しました。
 フィリップスの常に鋭い取捨選択によって、コレクションの中核をなす作品群はいずれも質の高いものばかりです。本展では、この世界有数の近代美術コレクションの中から、アングル、コロー、ドラクロワ等19世紀の巨匠から、クールベ、近代絵画の父マネ、印象派のドガ、モネ、印象派以降の絵画を牽引したセザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点を展覧します。

◆フィリップス・コレクションについて(展覧会特設サイトより)
 ダンカン・フィリップスは、米国ペンシルベニア州の鉄鋼王を祖父に持ち、類いまれなフィリップス・コレクションを築いた。1921年、首都ワシントンにある19世紀建築の私邸に増築した大きな天窓のある一室で、亡き父と兄を称える美術館、フィリップス・メモリアル・アート・ギャラリーを開館。
 妻で画家のマージョリー・アッカーと共に、印象派の絵画や存命の芸術家たちの作品をくつろいだ雰囲気の中で鑑賞できる場を作り上げた。本展では19世紀以降の作品を展示し、フィリップスの蒐集へのアプローチやモダニズムに対する見方に焦点を当てる。フィリップスは1966年に亡くなったが、その精神はフィリップス・コレクションに受け継がれており、現在、同コレクションは4,000点以上の作品を所蔵している。

◆三菱一号館美術館について(公式HPより、一部改編)
 平成22年(2010)春、東京・丸の内に開館。JR東京駅丸の内南口改札から徒歩5分。
 19世紀後半から20世紀前半の近代美術を主題とする企画展を年3回開催。
 赤煉瓦の建物は、三菱が明治27年(1894)に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したもの。
 コレクションは、建物と同時代の19世紀末西洋美術を中心に、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、オディロン・ルドン、フェリックス・ヴァロットン作品等を収蔵。


 以下、印象に残った絵をいくつか紹介します。(図録「カタログ」順、写真は展覧会特設サイトより、解説は図録「作品解説」より)

オノレ・ドーミエ(1808-79)「蜂起」(1848以降、87.6×113cm)
イメージ 2

 ダンカン・フィリップスが自ら所蔵するドーミエのなかでもっとも優れた作品と考えたのが本作《蜂起》であった。長い間忘れられていたこの作品が市場に出た際、フィリップスはこの機に乗じてこれを入手したが、彼はその時のことを、「ルーヴル美術館が慎重に検討を重ねているあいだに、この作品を発送するよう電報を打ったのだ」と満足げに回想している。彼が本作を「コレクションのなかでもっとも優れた作品」と評したのは1度ではなかった。
 ドーミエが制作した比較的数の少ない大型作品である本作は、おそらくルイ=フィリップの王政が崩壊した1848年の二月革命から着想を得た。フィリップスは画面中央の人物を「名もなき無数の戦いを支えた名もなき平凡な担い手」と呼び、「前進する群衆があらわすのは、波のように高まる民主主義への機運・・・・自由の歴史における叙事詩的運動だ」と説明している。
 様式的観点から、本作は1850年代後半にドーミエによって描かれ、その後別の画家によって手が加えられたと考える研究者たちもいる。フィリップスは、このような後の加筆があったにせよ、この絵画の本質はドーミエの精神を明らかにしていると考え、次のように述べた。「偉大な芸術家の情熱や精神や手腕が絵画の本質的な部分に遺憾なく発揮され、それが感情を伝えているならば、たとえ未完成であっても、その傑作は過小評価されるべきではない」。この絵画は、そこに描かれた時代を越えて、1940年代という戦争の時代を生きたフィリップスにとって特別な意味をもつ作品であった。フィリップス・コレクションは現在、ドーミエによる7点の油彩画と数点のリトグラフ、水彩画、素描を所蔵している。


フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)「アルルの公園の入り口」(1888、72.4×90.8cm)
イメージ 3

 ファン・ゴッホは2年間をパリで過ごして印象派の画家たちと交流したのち、1888年の2月、アルルに向けて出発した。彼はより平穏な生活を求めながら、ポール・ゴーガンを指導者として彼のもとに集う芸術家たちの共同体を結成することを夢見てもいた。アルルで数ヶ月が過ぎた頃、ファン・ゴッホはこの新たな共同体の拠点として、ラマルティーヌ広場に小さな黄色い家を借りる。本作《アルルの公園の入り口》は1888年の8月から10月のあいだに描かれたが、この頃ファン・ゴッホはゴーガンとの創作活動を開始すべく、彼の到着を心待ちにしていた。ファン・ゴッホはその拠点となる家を飾るために複数の絵画を制作し、それゆえこの時期は彼にとって非常に活動的な時期となった。本作は彼の家の向かいにあった公園の入り口を描いたものである。麦わら帽子をかぶった人物はこの時期に制作された多数の絵画に繰り返し登場しており、画家自身の自画像なのかもしれない。
 ダンカン・フィリップスは1926年に「欲しい作品一覧(ウィッシュ・リスト)」を公開したが、そこには「ファン・ゴッホの独創的才能を示す作例」が含まれていた。1920年代末までに、彼はファン・ゴッホ作品を2度購入している。1930年9月、彼はニューヨークのウィルデンシュタイン画廊から、気に入らなければ返品可能という条件で本作を受け取り、ただちに購入へと踏み切った。フィリップスは本作を「魂の叫び」と表現している。



フィンセント・ファン・ゴッホ「道路工夫」(1889、73.7×92.7cm)
イメージ 4

 1888年10月にゴーガンがアルルの「黄色い家」に到着して以降、ゴッホとゴーガンは暮らしと制作をともにした。しかし彼らの気質の違いのために、共同での創作活動は失敗へと至ることになる。ゴーガンが去る2日前、ファン・ゴッホは自分の耳の一部を切り落とし、これにより彼はサン=レミの精神病院への入院を余儀なくされた。1889年から90年にかけての秋冬に病院から外出した際、サン=レミにあるミラボー大通りの補修工事を目にしたファン・ゴッホは、この主題から着想を得て、《道路工夫》のふたつのヴァージョンを生み出した。1889年12月7日、ゴッホは弟のテオに次のように書き送っている。「私が完成させた最新の習作は村の光景を描いたもので、人々は巨大なプラタナスの木の下で道路の舗装を修繕している。そこには砂の山や石や巨大な気の幹があり、木葉は黄色く色づきつつある」。それから約1ヶ月後、彼はこの場面を描いたふたつのヴァージョンを制作したことを書き残している。より早い時期の作例である《大きなプラタナスの木々》(クリーヴランド美術館)は実際の風景を写生した習作と考えられており、一方フィリップス・コレクションが所蔵するより完成度の高いヴァージョンである本作は1889年の12月にアトリエで描かれ、ゴッホ本人によって「模写 repetition」と呼ばれた。本作はアルルにいた頃よりも淡い色合いで制作されており、そこには「より単純な色彩にふたたび取り組みたい」というゴッホの願望があらわれている。
 ダンカン・フィリップスは、ファン・ゴッホをモダン・アートの発明者のひとりとみなし、彼の作品を「信仰の告白であり愛の行為」であると考えた。フィリップスは本作《道路工夫》を「ファン・ゴッホによる最高水準の作品」とみなした。



ポール・セザンヌ(1839-1906)「ベルヴュの野」(1892-95、36.2×50.2cm)
イメージ 5

 本作はセザンヌの義弟が所有していたプロヴァンスの土地を描いた作品である。この土地はエクスとサント=ヴィクトワール山に近いアルク渓谷が見渡せる位置にあり、セザンヌが1899年まで生活し制作をおこなったジャズ・ド・ブッファンにある一家の敷地からもさほど遠くはなかった。セザンヌは同じベルヴュの野の景観を異なる距離から3度描いたが、本作はそのうちの最後に制作された1点と考えられる。厳格に切り取られ、幾何学的に様式化された形態によって構成された色鮮やかな風景は、絵画の構成要素に安定感を与えるとともに、観る者にこの土地を思い起こさせることに焦点をおいて制作されている。フィリップスはニューヨークのマリー・ハリマン画廊で開催されたセザンヌ生誕100周年を記念する展覧会の会期終了後間も無く、同展に出品されていた本作を14,000ドルで購入した。



ポール・セザンヌ「自画像」(1878-80、60.3×47cm)
イメージ 6

 セザンヌは30点以上の自画像を制作したが、その多くが中年に差しかかった自身の姿を四分の三面観の姿勢で描いたものであった。ダンカン・フィリップスは1928年に本作をポール・ローザンベール画廊から45,000ドルで購入したが、その時点で本作はアメリカの美術館のコレクションに加わった最初のセザンヌの自画像であった。本作は美術業界でもよく知られていた。セザンヌが亡くなった2年後の1908年、本作はニューヨークのメトロポリタン美術館の目にとまることとなったが、そこで美術館の理事たちから「モダン過ぎる」と評されたのである。フィリップスは当初、セザンヌの作品に批判的だったが、後にセザンヌの《自画像》に匹敵しうるのはニューヨークのフリック・コレクションが持つレンブラントの《自画像》だけだと記している。フィリップス曰く、セザンヌのまなざしの静かな覚悟は「知の孤高の中で挑戦するこの芸術家の魂を物語っている」。



エドガー・ドガ(1834-1917)「稽古する踊り子」(1880年代はじめ~1900頃、130.2×97.8cm)
イメージ 7

 ドガは晩年、線の使い方がより表現的になり鮮やかな色彩をもちいるようになっていった。ここでは彼が頻繁に素描したル・ペルティエ通りのスタジオでの踊り子たちの舞台裏が捉えられている。本作は練習用のバーに片脚を乗せた踊り子を描いたドガの最後の作品群のうちのひとつ。フィリップスは本作を「アラベスクとバレエ・ダンサー特有の身体を讃える彼の装飾的作品のなかでも、特異な記念碑的存在」と断言している。
 ドガはふたりの踊り子を組み合わせて描いた原寸大の習作だけでなく、それぞれの踊り子を別々に着衣とヌードで描いた習作も制作していたことが、近年の調査によって判明した。これによって彼の制作方法に関する理解が深まるとともに、自身の作品を調整するという彼の終生変わらぬ傾向が明らかになった。彼は無数の修正とさまざまな技法や指も含めた道具によって、運動の感覚を見事に捉えた考え抜かれた構図を実現していったのである。彼が試したパステルやリトグラフ、モノタイプ、彫刻といったさまざまな技法はすべて、彼の制作方法に影響を与えている。絵を近くからよく見てみると、練習用のバーとふたりの踊り子の伸ばした脚が下方へと移動させられていることがわかる。また身体を支えている脚と両腕にも幾度か位置を修正した跡がうかがえる。ふたりの踊り子の茶色い髪は、オレンジの絵具の薄塗りの層によって覆われている。当初、踊り子はそれぞれ、カンヴァスのより下方とより左側に描かれていたのである。スカートも1度は今より短く書かれていた。ドガはそうした修正をほとんど隠そうとはせず、観者にわかるように残した。


ピエール・ボナール(1867-1947)「犬を抱く女」(1922、69.2×39cm)
イメージ 8

 1925年のカーネギー国際美術展で、ボナールの描いた本作を目にしたダンカン・フィリップスは、たちまちこれに魅了された。描かれているのは愛犬を抱くボナールのパートナー、マルト・ド・メリニーであり、フィリップスによれば、「家庭の喜びと親密さ」が表現されているという。本作を見出して以降、フィリップスはこの画家の熱心な崇拝者となり、彼をルノワールの後継者とみなした。本作《犬を抱く女》は、アメリカの美術館に収蔵された最初のボナールの絵画である。フィリップスはその後、アメリカの美術館における最初のボナールの展覧会を1930年に開催、後にアメリカ国内でもっとも大規模かつ多様性に富んだボナール作品コレクションのひとつを築くこととなった。彼はボナールをお気に入りの芸術家と公言し、まぎれもない色彩の天才と呼んでいる。1926年、ボナールはフィリップス・コレクションを訪れ、フィリップスとその妻マージョリーと面会した。それからおおよそ20年後、ボナールはフィリップスに、「私はしばしば、ワシントンであなたと過ごしたあの喜ばしい時間を思い出します」と書き送っている。



ピエール・ボナール「開かれた窓」(1921、118.1×95.9cm)
イメージ 9

 画家として活動を開始した当初、ボナールと友人エドゥアール・ヴュイヤールはナビ派に属していた。これは、ポール・ゴーガンの象徴主義理論や日本美術、ステファヌ・マラルメの詩を信奉する画家たちの集団であった。ボナールは1909年から10年にかけて南仏の強烈な光を発見したのち、明るく表現力に富んだ色彩を特徴とする室内画や風景画へと移行する。本作はジヴェルニーの西側数キロに位置するヴェルノンのセーヌの渓谷にあるボナールの家を描いたものである。構図全体に渡って、塗られていない白の下地で表現された光の当たる部分が、鮮やかに塗り重ねられたさまざまな色相と調和している。ボナールはこの室内の穏やかな秩序と、窓から見える自然のよりロマン主義的な世界とを隣り合わせに描いた。ボナールのヴェルノンの庭園には野草や灌木、高木が」生い茂っており、彼はセーヌ渓谷に青々と茂る植物をしばしば自身の絵画に描きこんでいる。フィリップスは、この絵画は「あらゆるセザンヌの追随者やマティスの信奉者を満足させるだろう。しかしここにはまた、絶えざる自己更新という若々しい精神が存在する」と考えていた。ゆったりと横たわる女性はマルト・ド・メリニーであろう。彼女は1893年にボナールの愛人に、1925年に妻となり、彼女が亡くなる1942年までともに過ごした。ダンカン・フィリップスは本作を、ニューヨークのジャック・セリグマン商会から11,000ドルで購入した。



ピエール・ボナール「棕櫚の木」(1926、114.3×147cm)
イメージ 10

 1922年までのほぼ毎年、ボナールはコート・ダジュールのカンヌの北にあるル・カネで一時を過ごし、そこで制作をおこなっていた。当初、この地域の強烈な光に触発されたボナールは、彼をとりまく光や色彩、濃厚な影の効果を表現することのできる場所として、自邸からの類まれな眺望を選んだ。彼は次のように説明している。「私は毎日違う眼で物事を見ている。空やさまざまな物体、あらゆるものは絶え間なく変化し続け、そのなかで溺れることもあるだろう。しかし、それこそが生をもたらすものなのだ」。コレクションが所有するボナールの記念碑的風景画4点のうち最初に入手された本作は、フィリップスにとってもっとも重要な作品のひとつであった。彼は1928年に本作《棕櫚の木》について次のように記している。「もっとも贅沢な雰囲気のボナール 作品・・・光の熱狂的賛歌・・・家から飛び出し、太陽のまばゆい光へと飛び込む際の視覚的・感情的スリル」。前景では、太陽の影になった女性、おそらくはボナールの妻マルトがリンゴを差し出し、光と色彩に満ちた楽園へと観者を招き入れている。フィリップスはこの輝きあふれる作品を、ニューヨークのデ・ハウケ商会から12,400ドルで購入した。



ピエール・ボナール「リヴィエラ」(1923頃、79.1×77.2cm)
イメージ 11

 ここでボナールは、曇り空の下に広がるル・カネの町と港のパノラマ、そしてエステレル山脈を描き出している。南フランス特有の濃い葉の茂みが構図の下部を覆っており、そこから町を見下ろす展望が開けている。後景には水、空、沈む夕日、そして遠くの山々がのぞく。ボナールの制作方法にとって、第一印象は重要な意味を持っていた。彼はアトリエの壁に複数のカンヴァスを固定すると、おそらく無作為に、あの絵画やこの絵画のあちらやこちらに少しだけ加筆し、その後はリラックスするため散歩に出かけて英気を養うというやり方で制作をおこなった。ボナールは、色彩には「形の論理と同じくらい厳格な論理が存在する」と説明している。フィリップスは本作を、ニューヨークのデ・ハウケ商会から10,000ドルで購入した。



ラウル・デュフィ(1877-1953)「画家のアトリエ」(1935、119.4×149.5cm)
イメージ 12

 1877年、ル・アーヴルに生まれたデュフィは、素描家としての訓練を積んだのち、エコール・デ・バザールへの奨学金を勝ち取る。1920年代に地中海を訪れモロッコを旅した経験が、彼の色づかいに新たな光をもたらした。1930年代、デュフィは芸術家のアトリエを題材としたいくつかの絵画を製作。本作はモンマルトルのゲルマ袋小路に位置するデュフィのアトリエを描いた作品であり、彼は1911年から亡くなるまでここを仕事場とした。左の壁には彼がビアンシーニ・フェリエのためにデザインした花柄のテキスタイルが確認でき、アトリエ全体には彼自身の絵画が散りばめられ、それらは同定することができる。こうした描写によって本作は、装飾家・デザイナー・画家としての彼の活動を深く理解するのに役立つ。カリグラフィを思わせる線描と大胆な色彩は、彼が仕事場で感じる喜びの反映であり、彼が屋内と外光と窓から見える空間との相互作用に関心をもっていたことを示している。このような無理のない自然さの感覚は、フィリップスが芸術においてもっとも愛した要素であった。本作が描かれた2年後、フィリップス家はデュフィを自宅へと招待している。マージョリー・フィリップスは、ユーモアに溢れた魅力的なデュフィの姿を回想している。



アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)「エレナ・パヴォロスキー」(1917、64.8×48.6cm)
イメージ 13

 モディリアーニは1906年にパリに移り住んだのち、友人や芸術家の肖像を複数制作し、物思いに耽る人物像の探求で名声を得た。そうした作品の多くは三次元的形態や彫刻への彼の関心を反映しており、それはモデルとなった人物の目鼻をかたどる輪郭線にあらわれている。エレナ・パヴォロスキーは芸術の道を志すためパリに出て、そこで戦前のモンパルナスで急増しつつあった外国人居住者のグループやモディリアーニ、ピカソ、シャイム・スーティンといった芸術家たちと知り合った。彼女は1911年にロシア移民で画廊主であった男性と結婚。夫婦で積極的に展覧会を開催し、多くの前衛芸術家を支援した。パヴォロスキーはモディリアーニに金銭と食事を提供し、その返礼としてモディリアーニはこの肖像画を贈った。



オスカー・ココシュカ(1886-1980)「クールマイヨールとダン・デュ・ジェアン」(1927、90.2×132.1cm)
イメージ 14

 1927年、ココシュカはヨーロッパの景勝地を描くための旅へと出発する。彼はそうした旅を幾度もも繰り返していた。彼の手紙によれば本作は北イタリアへの旅行中に描かれた3番目の作品であり、制作時期は10月16日から22日の間のどこかと考えられる。モンブラン山脈のイタリア側に寄り添うように建てられたホテルで、ココシュカは昼間は周囲を探索し、午後はホテルに戻って自室のバルコニーで絵を描いた。彼は母に宛てて、モンブランが「手が届きそうなほど近くに」見えると書き送っている。油彩絵具を水彩絵具のように薄め、その流動性をいかした技法を実現したココシュカは、観者の前に立ちはだかる山々が緊密に詰め込まれた絵画的構図を生み出した。重く暗い色は、明るい色彩の部分を引き立てモティーフの輪郭を示しているが、単なる記述的な役割から自由であるようでいて、しかしやはり構図を形成する一要素となっている。本作を含むココシュカの風景画がもつダイナミックな視点には、彼がドレスデン美術大学で教鞭を執っていた時期(1919-23)に触れることのできた日本の浮世絵の構図から得た教えが反映されている。
 フィリップスはココシュカに会う前に、すでに次のように書き送っている。「あなたは史上もっとも優れた風景画家であると同時に、人の心理を描くことにもっとも長けた肖像画家のひとりであると考えています・・・・。この国(アメリカ)にはあなたの訪問を心待ちにするファンがいるのです」。1年後、ここシュカは1947年のバーゼルのクンストハレの自身の個展のカタログに、次のように記した。「こちらで開催中の私の展覧会は大成功です。観に来られますでしょうか? 愛をこめて。あなたのココシュカより」。



パブロ・ピカソ(1881-1973)「緑の帽子をかぶった女」(1939、65.1×50.2cm)
イメージ 15

 1935年、ピカソはシュルレアリスムの若手写真家ドラ・マールと出会った。当時、彼は妻オルガ・コクローヴァと別れ、愛人マリー=テレーズ・ウォルターは娘マヤを出産、そしてピカソは自身の芸術的な関心に熱中していた。マールは戦前から戦中にかけて、友人としてモデルとして、また愛人としてピカソの人生に積極的に関わった。マールは1937年5月から6月にかけてピカソの絵画《ゲルニカ》を撮影し、完成に至るまでの各段階を記録に残している。ピカソが1938年から39年初頭にかけて制作した複数のマールの肖像は、悲痛に歪んだ顔をもち、涙を流していることも多いが、それは彼らが共に生きた激動の時代を反映したものだろう。本作《緑の帽子をかぶった女》はそうした不安や緊張を打破する作品である。頭部の彫刻的形態は非西欧文化圏の芸術へのピカソの関心を想起させ、その両眼は物悲しい表情をたたえる一方で、灰色がかった青やピンクといった肌の色彩はバラ色の時代(1904-06)を思わせる。



◆グッズ・土産
・図録『フィリップス・コレクション展 A MODERN VISION』
・額絵
・絵ハガキ

10,000km走破~プジョー《3008》

$
0
0
イメージ 1

 今日、プジョー《3008》の走行距離が10,000kmに達しました。3月29日納車ですから、ちょうど9ヶ月かかりました。
 これまでに所有したプジョーは、ステーションワゴン(406ブレーク・407sw・308sw)とクーペ・カブリオレ(308cc)、コンパクトカー(208)で、SUVは初めてでした。
 ステーションワゴンもクーペ・カブリオレもコンパクトカーもそれぞれに良さがあり、また乗ってみたいと思います。でも、しばらくはこのSUVに乗ろうと思います。よく走るし、運転しやすいし、燃費もいいし。ただ、SUVがたくさん走っているので、個性的じゃないのは嫌だと思う部分もあります。

【参考】10,000km燃費
 《3008》の表示によれば、15.1km/ℓです。ディーゼルエンジン(軽油)ですから、けっこう燃費はいいと思います。これまでに乗ったクルマ(トヨタ・スプリンター、VWゴルフ、トヨタ・ハイラックスサーフ、トヨタ・ハイラックスWキャブ+プジョー)の中で一番いいと思います。

金子兜太の本を2冊購入しました。

$
0
0
イメージ 1
左:『日本行脚 俳句旅』、右:『金子兜太の俳句入門』


 昨日の朝、NHK総合テレビで「耳をすませば『闘い続けた猊集充圻瓠狙侈粁蘰算辧丙邁函法Χ盪匈澄頁仗諭法繊戞廚鮓ました。今年2月に亡くなった石牟礼道子さんと金子兜太さんを追悼する番組でした。
 金子さんの戦争体験や戦後の組合活動、山頭火や一茶への傾倒、テレビ出演時のユーモアのある言葉に共感を覚えました。で、彼の句集を読もうと思いましたが、たくさんあって選べなかったので、まずは以下の2冊を購入しました。
・『日本行脚 俳句旅』(2014)
・『金子兜太の俳句入門』(2012)


【参考】金子兜太編『現代の俳人101』(04)から金子兜太の句と略歴(一部改編)を引用します。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
朝はじまる海へ突込む鴎の死
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
三日月がめそめそといる米の飯
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな

暗黒や関東平野に火事一つ
人体冷えて東北白い花盛り
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
猪がきて空気を食べる春の峠
夏の王駿馬三千頭と牝馬

冬眠の蝮のほかは寝息なし
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
長生きの朧のなかの眼玉かな
よく眠る夢の枯野が青むまで
おおかみに螢が一つ付いていた

金子兜太(かねこ とうた)
 大正8年(1919)~平成30年(2018)。埼玉県生まれ。東京大学経済学部卒。旧制水戸高校時代より俳句を始める。昭和16年(1941)、加藤楸邨に師事、「寒雷」に投句、後同人。昭和20年代より30年代にかけて社会性俳句・前衛俳句の旗手として活躍、造型俳句論を提唱。31年(1956)、現代俳句協会賞受賞。37年(1962)、「海程」を創刊。58年(1983)、現代俳句協会長(現在名誉会長)、62年(1987)、朝日俳壇選者に就任。日本現代詩歌文学鑑賞、現代俳句大賞、蛇笏賞、NHK放送文化賞、日本芸術院賞などを受賞。句集13冊。その全容を伝える『金子兜太集』全4巻(筑摩書房)の他著書多数。

村上春樹『国境の南、太陽の西』を読みました。(再)

$
0
0
イメージ 1

 今日、村上春樹の長編第7作『国境の南、太陽の西』(92)を読み終えました。(再)
 この作品を読んだのは2008年以来、10年ぶりでした。その時の記事は以下の通りです。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/43038449.html

 今年6~9月、村上春樹の長編小説14作品のうち7作品を読みました。少し間が空いたので、残りの7作品も読んでみることにしました。以下が残りの7作品です。
・『風の歌を聴け』(79)
・『1973年のピンボール』(80)
・『ノルウェイの森』(87)
・『国境の南、太陽の西』(92)
・『スプートニクの恋人』(99)
・『アフターダーク』(04)
・『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(13)

 『国境の南、太陽の西』について、ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
 今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう――たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて――。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。待望の文庫化。

【感想等】
◆この作品には他の村上作品によくあるような超常現象や奇想天外な展開はありません。島本さんの歩んだ人生と現在の生活が謎としてあるくらいです。
 要約すると陳腐な話になってしまいそうですが、僕はこの作品のどこに惹かれるんだろう? 主人公がかつて好きだった女性に再会し、もしかしたら二人は新しい人生を始められるかもしれない、というストーリーに共感を覚えるからでしょうか?
 でも、「国境の南」にも「太陽の西」にも結局は何もない。ここでしっかり生きなさいと言われているようにも思います。

◆ジャズ・バンドが演奏する「スタークロスト・ラヴァーズ」は、悪い星のもとに生まれた恋人たち=ロミオとジュリエットをモチーフにしています。「僕」がこの曲の意味を島本さんに話したことをきっかけに、二人はお互いの気持ちを確認します。ちょっとカッコつけ過ぎだし、甘ったるい。バブル期の雰囲気が出ているように思います。

◆主な登場人物(登場順)
・僕(ハジメ・始)
・島本さん
・大原イズミ
・イズミの従姉
・有紀子
・有紀子の父

◆気になった文章
・プリテンニュアハピーウェニャブルウ
 イティイズンベリハートゥドゥー
 今ではもちろんその意味はわかる。「辛いときには幸せなふりをしよう。それはそんなにむずかしいことではないよ」。まるで彼女がいつも浮かべていたあのチャーミングな微笑みのような歌だ。たしかにそれはひとつの考え方ではある。でも時によってはそれはとてもむずかしいことになる。(P18)

・「オリジナルのカクテルが幾つかあるよ。店の名前と同じで『ロビンズ・ネスト』っていうのがあってそれがいちばん評判がいい。僕が考案したんだ。ラムとウオッカがベースなんだ。口当たりはいいけれど、かなりよくまわる」
「女の子を口説くのによさそうね」
「ねえ島本さん、君にはよくわかってないようだけれど、カクテルという飲み物はだいたいそのために存在しているんだよ」
 彼女は笑った。「じゃあそれをいただくことにするわ」(P130)
 ~

・「なんだっていつかは消えてしまう。こんな店だっていつまで続いているかはわからない。人々の嗜好が少し変化し、経済の流れが少し変われば、今ここにある状況なんてあっという間に消えてしまう。僕はそんな実例を幾つも見てきた。本当に簡単なものだよ。かたちがあるものは、みんないつかは消えてしまう。」(P147-48)
 ~この作品は、1951年1月4日の「僕」の誕生から、(「僕」が36歳の)1987年11月初めに島本さんと再会するまでを、「僕」の回想として描いています。そして、再会した二人の物語が、1987年11月から、 まで展開します。この期間はバブル期(1986年12月~1991年2月)と重なり、「僕」はその時代の成功者として描かれています。「僕」は青山で2軒のジャズ・バーを経営し、4LDKのマンションで妻と2人の娘とともに円満に暮らし、BMWなど2台の外車と別荘を所有しています。
 この引用部分を読むと、「僕」がバブル崩壊を予期していたようにみえますが、この作品全体としては、日本中がバブル景気に浮かれていた時代を反映した作品です。

・「スタークロスト・ラヴァーズ」と島本さんは言った。「それはどういう意味なのかしら?」
「悪い星のもとに生まれた恋人たち。薄幸の恋人たち。英語にはそういう言葉があるんだ。ここではロミオとジュリエットのことだよ。エリントンとストレイホーンはオンタリオのシェイクスピア・フェスティヴァルで演奏するために、この曲を含んだ組曲を作ったんだ。オリジナルの演奏では、ジョニー・ホッジスのアルト・サックスがジュリエットの役を演奏して、ポール・ゴンザルヴェスのテナー・サックスがロミオの役を演奏した」
「悪い星のもとに生まれた恋人たち」と島本さんは言った。「まるでなんだか私たちのために作られた曲みたいじゃない?」
「僕らは恋人なのかな?」
「あなたはそうじゃないと思うの?」
 僕は島本さんの顔を見た。彼女の顔にはもう微笑みは浮かんでいなかった。その瞳の中に微かな輝きのようなものが見えるだけだった。(P233-34)

・「太陽の西にはいったい何があるの?」と僕は訊いた。
 彼女はまた首を振った。「私にはわからない。そこには何もないのかもしれない。あるいは何かがあるのかもしれない。でもとにかく、それは国境の南とは少し違ったところなのよ」P130)

・「(前略)僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えて、乾いているんだ。その部分を埋めることは女房にもできないし、子供たちにもできない。それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるんだ。そしてそれが満たされて初めて僕は気がついたんだよ。これまでの長い歳月、どれほど自分が飢えて渇いていたかということにね。僕にはもう二度、そんな世界に戻っていくことはできない」(P249)
 ~浮気男の常套句のように聞こえます。

◆作品中に登場する音楽/ミュージシャン一覧
♫ロッシーニの序曲集、ベートーヴェンの田園交響曲、『ペール・ギュント』、リストのピアノ・コンチェルト
♫ビングクロスビーのクリスマス音楽
♫ナット・キング・コール「プリテンド」「国境の南」
♫シューベルト『冬の旅』
♫「コンコヴァド」

♫「スタークロスト・ラヴァーズ」
♫デューク・エリントン『サッチ・スウィート・ザンダー』
♫「エンブレサブル・ユー」
♫ヘンデルのオルガン・コンチェルト
♫トーキング・ヘッズ「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」

♫クリスマス・ソング
♫モーツァルトのクァルテット
♫「犬のおまわりさん」「チューリップ」
♫ヴィヴァルディ/テレマン
♫「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」

◆作品中に登場する車一覧
●BMW320
●赤いジープ・チェロキー
●トヨタ・コロナ
●黒い大きなメルセデス
●サーブ、ジャガー、アルファ・ロメオ

●ブルーのメルセデス260E
●BMW M5


【参考】村上春樹の長編小説&オリジナル短編集
◆長編小説
01『風の歌を聴け』(79)
02『1973年のピンボール』(80)
03『羊をめぐる冒険』(82)
04『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(85)
05『ノルウェイの森』(87)
06『ダンス・ダンス・ダンス』(88)
07『国境の南、太陽の西』(92)
08『ねじまき鳥クロニクル(94、95)
09『スプートニクの恋人』(99)
10『海辺のカフカ』(02)
11『アフターダーク』(04)
12『1Q84』(09、10)
13『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(13)
14『騎士団長殺し』(17)

◆オリジナル短編集
01『中国行きのスロウ・ボート』(83)
02『カンガルー日和』(83)
03『螢・納屋を焼く・その他の短編』(84)
04『回転木馬のデッド・ヒート』(85)
05『パン屋再襲撃』(86)
06『TVピープル』(90)
07『レキシントンの幽霊』(96)
08『神の子どもたちはみな踊る』(00)
09『東京奇譚集』(05)
10『女のいない男たち』(14)

足利銘菓〈古印最中〉をいただきました。

$
0
0
イメージ 1

 今日、近所に住んでいる叔母から足利のお土産〈古印最中〉をいただきました。美味しいと評判だそうなので、早速包みを開けてみました。すると、最中と一緒に相田みつを(1924-91)が書いた栞が入っていました。
 香雲堂本店のHPで確認すると、包装紙のデザインと栞の言葉は相田みつをが制作したものでした。
 私は若い頃、生活のために、商店の包装紙のデザインや宣伝文を作る仕事をやっておりました。家にいたのでは仕事はきませんからあちこち注文取りに歩きました。
 香雲堂さんに行った時のことです。ご主人が自分の店の包装紙を私に見せて、
「これよりもいいものを作る自信はありますか?」
と聞くんです。私は即答しました。
「自信は少しもありませんが、うぬぼれだけはいっぱいあります。」
するとご主人は、
「ほう、あんたはおもしろい、頼もう!!」
ということになりました。
 私は一生懸命に包装紙をデザインし、栞のことばを考えて書きました。現在見ると大変恥ずかしいものですが、このことばは、包装紙と共にいまだに使ってくれております。おかげさまです。(香雲堂本店HPより)



 久々に相田みつをの第一詩集『にんげんだもの』(1984)を開いてみました。以下、今日いいなと思った詩を引用します。
  ただいるだけで
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる
あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんなあなたに
わたしもなりたい


  うれい
なみだで
あらわれるたびに
まなこがふかくなり
うれいが
ふかくなる


  自分の番
うまれかわり
死にかわり永遠の
過去のいのちを
受けついで
いま自分の番を
生きている
それがあなたの
いのちです
それがわたしの
いのちです


いま
ここにしか
ないわたし
のいのち
あなたのいのち

村上春樹『ノルウェイの森』を読みました。(再)

$
0
0
イメージ 1

 今日、村上春樹の長編第5作『ノルウェイの森』(87)を読み終えました。(再)
 この作品について、ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
上巻
 暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの「ノルウェイの森」が流れ出した。僕は1969年、もうすぐ20歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱していた。――限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。
下巻
 あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと――。あたらしい僕の大学生活はこうして始まった。自殺した親友キズキ、その恋人の直子、同級生の緑。等身大の人物を登場させ、心の震えや感動、そして哀しみを淡々とせつないまでに描いた作品。

【感想等】
◆どう読めばいいのか、難しい作品です。多くの登場人物があり、多くの印象的なエピソードが語られますが、余計なものを削ぎ落としていくと、「僕」と直子だけが残るように思います。
 キズキの自死をきっかけに、「僕」は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と、「死」を身近なものとして捉えるようになります。しかし、「死」をもって自らを救おうという考えには至りません。
 一方、直子は姉の自死の記憶にキズキの自死が重なり、「死」を苦しみから逃れる一つの手段だと考えてしまったようです。

◆セックスを描いた場面が多く登場しますが、奔放すぎて羨ましいだけです。僕の大学時代のことを考えたら、涙が出てきます。
 この作家のセックスの描き方はアメリカ小説の影響だと思います。ずっと昔、いくつかのアメリカ小説を読んでそう思いました。

◆主な登場人物(登場順)
・僕(ワタナベ・トオル)
・直子
・突撃隊
・キズキ
・永沢
・ハツミ
・緑(小林緑)
・レイコ(石田玲子)
・病的な嘘つきの少女
・緑の父
・若い漁師

◆気になった文章
・「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」(上巻P19)

・そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。(上巻P21)

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
 (中略)
 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり〈死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ〉と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
 しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの17歳の5月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。(上巻P48-49)

・林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこがどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだが、最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地良く描こうとした絵からしばしば感じとる情感に似ていた。ウォルト・ディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていて、同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もカーテンが引かれていた。(上巻P186-87)
 ~最近、ムンク展を見たばかりだったので、「ウォルト・ディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれない」という文章が気になりました。

・「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のことを思いだしてたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる? 海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」
「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐしゃぐしゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするね」
「そうだね。その時、君はたしか長い詩を書いてたな」(上巻P231)
 ~この作品に短編の「螢」(『螢・納屋を焼く・その他の短編』〈84〉収録)が組み込まれているのは知っていましたが、短編の「めくらやなぎと眠る女」(同、ショート・ヴァージョン「めくらやなぎと、眠る女」は『レキシントンの幽霊』〈96〉収録)も組み込まれていることに気づきました。
 「僕」と友人とその彼女という3人が登場する作品は、すべて「僕」とキズキと直子に集約されるような気がします。

・「あの人、あなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちゅうあったわ。子供のころからずっとそうだったの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど」
 (中略)
「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキくん」(上巻P232-33)
 ~直子がキズキの精神的な弱さについて語っている部分です。こういうことは彼に限ったことではなく、青年期には誰もが経験することだと思います。これだけではキズキの自殺の理由はわかりません。

・ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、そして永沢さんならそういう女をいくらでも手に入れることができただろう。しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の心の共震を呼ぶのだ。タクシーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女が僕の心の中に引きおこすこの感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけていた。しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。

 僕がそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あとのことだった。僕はある画家をインタヴューするためにニュー・メキシコ州サンタ・フェの町に来ていて、夕方近所のピツァ・ハウスに入ってビールを飲みピツァをかじりながら奇蹟のように美しい夕陽を眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテーブルから、目につくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ。(下巻P118-19)
 ~

・「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ? それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」(下巻187-88)
 ~緑が「僕」に語った言葉です。彼女が経験的に学んだ人生哲学ですが、とてもわかりやすい。

◆作品中に登場する音楽/ミュージシャン一覧
♫ ビートルズ「ノルウェイの森」
♫ ビリー・ジョエル
♫ 君が代
♫ ヘンリー・マンシーニ「ディア・ハート」
♫ ブラームス『交響曲第4番』

♫ ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
♫ ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビー』
♫ ジム・モリソン、マイルス・デイヴィス
♫ いしだあゆみ
♫ 「七つの水仙」

♫ 「レモン・ツリー」「パフ」「500マイル」「花はどこに行った」「漕げよマイケル」
♫ レナード・バーンスタイン
♫ マービン・ゲイ、ビージーズ
♫ マーラーのシンフォニー
♫ バッハのフーガ・小品

♫ ビートルズ「ミシェル」「ノーホエア・マン」「ジュリア」「ノルウェイの森」
♫ ボサノヴァ
♫ バッハ、モーツァルト、スカルラッティー
♫ バッハのインベーション
♫ 「プラウド・メアリ」

♫ トランジスタ・ラジオから流れる歌謡曲
♫ ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ「スピニング・ホイール」、クリーム「ホワイト・ルーム」、サイモン・アンド・ガーファンクル「スカボロー・フェア」
♫ ビートルズ「ヒア・カムズ・ザ・サン」
♫ ブラームス『ピアノ協奏曲第2番』
♫ バド・パウエル、セロニアス・モンク

♫ 「デサフィナード」「イパネマの娘」、バカラック、レノン=マッカートニー
♫ ハードロック、トニー・ベネット
♫ ローリング・ストーンズ「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」
♫ ドアーズ「People Are Strange」
♫ セロニアス・モンク「ハニサックル・ローズ」

♫ ジョン・コルトレーン
♫ オーネット・コールマン、バド・パウエル
♫ マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』
♫ サラ・ヴォーン
♫ ドリフターズ「アップ・オン・ザ・ハーフ」

♫ モーツァルト、モーリス・ラヴェル
♫ ロベール・カサドゥシュの弾くモーツァルトのピアノ・コンチェルト
♫ カルロス・ジョビン「デサフィナード」
♫ ビートルズ「ノルウェイの森」「ミシェル」
♫ バッハのフーガ

♫ ヘンリー・マンシーニ「ディア・ハート」
♫ ビートルズ「ノルウェイの森」「イエスタデイ」「ミシェル」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」「フール・オン・ザ・ヒル」「ペニー・レイン」「ブラック・バード」「ジュリア」「64になったら」「ノーホエア・マン」「アンド・アイ・ラブ・ハー」「ヘイ・ジュード」
♫ ドリフターズ「アップ・オン・ザ・ルーフ」
♫ ラヴェル「死せる王女のためのパヴァーヌ」、ドビッシー「月の光」、バカラック「クロース・トゥ・ユー」「雨に濡れても」「ウォーク・オン・バイ」「ウェディングベル・ブルーズ」
♫ ボサノヴァ、ロジャース=ハート、ガーシュイン、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、キャロル・キング、ビーチボーイズ、スティービー・ワンダー、「上を向いて歩こう」、「ブルー・ベルベット、「グリーン・フィールズ」

♫ ビートルズ「エリナ・リグビー」「ノルウェイの森」
♫ バッハのフーガ

◆作品中に登場する車一覧
●赤いN360
●メルセデス・ベンツ
●トヨタ・カローラ
●4WDのランド・クルーザー
●ダークブルーのボルボ

●(ヤマハの125ccの赤いバイク)

Bunkamura ザ・ミュージアム「ロマンティック・ロシア」

$
0
0
イメージ 1

 今日、東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムに「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」(2018.11.23~2019.1.27)を見に行ってきました。
 本当は三菱一号館美術館で開催中の「フィリップス・コレクション展」(2/11まで)を見に行く予定でした。しかし、昨夜「ロマンティック・ロシア」について紹介する番組(BS日テレ〈ぶらぶら美術・博物館〉)を見て、ロシアの自然を描いた絵や有名な「忘れえぬ女」を見たいと思ったので、会期が残り少ないこちらを先に見ることにしました。

◆見どころ
ふるい立つ当時のロシア美術界
 この時代のロシアの文化は、チャイコフスキー、ムソルグスキーといった作曲家や、トルストイ、ドストエフスキーに代表される文豪は日本でよく知られていますが、美術の分野でも多くの才能を輩出しました。その美術界では19世紀後半にクラムスコイら若手画家によって組織された「移動派」グループが、制約の多い官製アカデミズムに反旗を翻し、ありのままの現実を正面から見据えて描くことをめざしていました。移動派の呼称は啓蒙的意図で美術展をロシア各地に移動巡回させたことによります。一方、モスクワ郊外アブラムツェヴォのマーモントフ邸に集まったクズネツォフ、レヴィタン、コローヴィンらの画家たちは、懐古的なロマンティシズムに溢れた作品を多く残しましたが、彼らと移動派には共に祖国に対する愛という共通点が見出せます。(展覧会特設サイトより)

展覧会の構成
 第1章 ロマンティックな風景(春・夏・秋・冬)
 第2章 ロシアの人々(ロシアの魂・女性たち)
 第3章 子供の世界
 第4章 都市と生活(都市の風景・日常と祝祭)

移動派
 正式名称は移動展覧会協会で、アカデミズムという制約を嫌うクラムスコイらにより1870年にサンクトペテルブルクで設立される。民衆の生活を中心に当時の社会生活を写実的な手法で克明に描き出し、その歪みや矛盾を告発するだけでなく、祖国愛をもとに郷土の自然にも目を向けた風景画も盛んに描いた。移動派の展覧会はロシア国内だけでなくキエフやワルシャワにも巡回。地方に暮らす人々を芸術に触れさせる啓蒙的な役割を果たした。活動を終了する1923年まで48回の展覧会を開催している。

アブラムツェヴォ
 第実業家サーワ・マーモントフが所有する地所。芸術を積極的に支援したマーモントフは同地の別荘に著名な芸術家を集め、芸術家村を作り上げた。そこにはレーピンやコローヴィン、ワスネツォフ兄弟をはじめとした画家や彫刻家などが集まって作品制作にいそしんでおり、19世紀ロシアの芸術の発展に大きく寄与している。また同地にはロシアの伝統を復興するため、さまざまな工芸工房も併設されていた。

世紀末ロシア
 この時期のロシアは近代化が遅れたことにより社会のあちこちにひずみが生じており、きわめて不安定だった。農奴解放令後も身分の違いは残り続け、権威に対する反発が日増しに強くなっていった。そうした社会の状況と反比例するように美術だけでなく文学ではトルストイやツルゲーネフなど、音楽ではチャイコフスキーやラフマニノフなどの諸分野において傑出した才能を多く輩出している。民衆を啓蒙しようとする運動も盛んになり、権威への抵抗、民衆への働きかけという点で、移動派はこの時代の特徴をよく表していた。
(以上、出展目録「ロマンティック・ロシアを読み解くキーワード」より)

◆国立トレチャコフ美術館について
 ロシア美術の殿堂、国立トレチャコフ美術館は12世紀の貴重なイコンに始まる約20万点の所蔵作品を誇っています。この膨大なコレクションは、創設者パーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)によって基礎が築かれました。モスクワの商家に生まれたトレチャコフは紡績業で多額の財を築き、利益を社会に還元しようと数多くの慈善事業を行いました。
 とりわけ生涯をかけて取り組んだのが「ロシアの芸術家によるロシア美術のための美術館」、それもあらゆる人に開かれた公共美術館の設立だったのです。鋭い審美眼の持ち主であったトレチャコフは、当時のアカデミーの潮流のみに囚われず確固とした信念に基づき40年にわたってコレクションを充実させていきます。なかでも彼は熱心に同時代の芸術家の作品を収集、レーピン、クラムスコイ、ペローフなどの芸術家との親交も厚く、彼らの支援にも努めました。トレチャコフは1880年代から自宅の庭に建てたギャラリーでコレクションの一般公開を始め、1892年には亡くなった弟が収集していたヨーロッパ絵画と併せてコレクションをモスクワ市に寄贈しました。彼の死後、住居も展示室へと改装されて、ワスネツォフの設計による古代ロシア建築様式の豪奢なファサードが建てられ、20世紀初頭には現在のような姿になりました。ロシア革命後、国に移管されたトレチャコフ美術館は、その後も美術品の収集を続け、質、量ともに第一級のロシア美術コレクションを世界に誇っています。(展覧会特設サイトより)


 以下、印象に残った絵をいくつか紹介します。(図録掲載順。写真は展覧会特設サイトより、あるいは図録をコピー。解説は図録より)

アブラム・エフィーモヴィチ・アルヒーポフ「帰り道」(1896、35×69cm)
イメージ 2

 風景画と風俗画の融合は19世紀末ロシア絵画の重要な特徴の一つである。アルヒーポフは人間と周囲の自然の情緒を優れた技巧で表現した。サイズの小さな作品であっても、画家は自然の壮大な叙事詩的な響きを表現することができた。本作で描かれるのは、仕事を終えた若い御者が四輪馬車で家路につく場面である。彼の周りには平野が広がり、遥か彼方で森の端が灰色にくすんでいるのが見える。弧を描く馬具に一つだけついた小さな鈴が、馬の緩やかな歩みに合わせて規則正しく鳴っている。馬の蹄から舞い上がる砂埃が灰青色の煙を立て、銀色がかった夜明け前の空と溶け合っている。灰色と黄土色の柔らかな色調が、驚くほど繊細な物思わしい憂いの気分を作り出している。(以下略)



イサーク・イリイチ・レヴィタン「森の小花と忘れな草」(1889、49×35cm)
イメージ 3

 ロシア絵画の歴史においてレヴィタンは特別な地位を占めている。1880-1890年代、ロシア固有のロマンティックなイメージや世界におけるロシア独自の道が探求されていた時代に、レヴィタンは他の風景画家よりも繊細に、ロシアの自然に特有の美、詩情、叙情性を表現した。チェーホフの妹マリヤ・チェーホワは、レヴィタンは「自然に並々ならぬ愛情を抱いていた。それは愛というよりも、むしろ恋だった」と回想している。
 1880年代末にレヴィタンが制作した花のある静物画にも、祖国の自然に対する画家の恋情が込められている。本作は《タンポポ》(1880年代末)とパステル画《矢車草》(1894)と共に、子供の頃から親しんだ素朴な野の花の持つ温和で控えめな美を賛美している。(以下略)



イワン・コンスタンチーノヴィチ・アイヴァゾフスキー「海岸、別れ」(1868、56.5×75cm)
イメージ 4

 アイヴァゾフスキーはサンクトペテルブルクの美術アカデミーを金メダルを取得して卒業した後、若冠22歳だった1840年にアカデミーから派遣奨学金を得てイタリアに留学し、美術の勉強を続けた。海、海辺の町、岸辺への愛ゆえに、アイヴァゾフスキーはイタリア中を旅し、とりわけ海辺を頻繁に訪れた。画家はナポリとその近海の小さな島々の風景と出会い、絵のように美しい海を描く機会を得て、ナポリ湾に接するティレニア海に浮かぶイスキア島を繰り返し描いている。画家の関心を惹きつけたのは、滑らかで静かな水面と夕日に照らされた大気が作り出す金色の靄(もや)だった。本作では自然の中のあらゆるものが、幸福な平穏、完全な調和で満たされている。海に出ていく漁師たちと家族の別れという悲しい光景ですら、その平穏を乱しはしない。アイヴァゾフスキーの海景画では、別れ、出会い、再び訪れる別れというテーマがしばしば画題となった。イタリアの美に魅了されたアイヴァゾフスキーは、ロシアに帰国した後も長年にわたって記憶を頼りに愛する異国の風景に立ち戻った。(以下略)



アルカージー・アレクサンドロヴィチ・ルイローフ「静かな湖」(1908、143.3×104.5cm)
イメージ 5

 本作には太陽の光と暖かさで満たされた静かな森の一隅が描かれている。劇場の舞台の緞帳のような針葉樹の向こうに、憂いや悲しみのない理想郷的な特別な世界が広がっているのが見える。自然は心和ませる静けさと調和の内にある。釣りの準備をする村人が丹念に漁具を整えている。一瞬の後にはボートは岸から離れ、森の奥にある湖の、揺らぎもしない静かな水面を乱すだろう。色彩の明るい響き、様々な色彩が作り出す平面、自然の様式化された表現によって、写実的な絵画全体に装飾性がもたらされている。(以下略)



イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「雨の樫林」(1891、124×203cm)
イメージ 6

 本作はシーシキンの才能のいわば満開の時期に描かれた。シーシキンは愛してやまない自然の中で、あらゆるものに身を委ねた。彼は数々の習作、小品を描き、素朴な森の花、細い草、多様な苔といった細部を丹念に描き込んでいる。また、技巧を駆使して大作を描くこともあった。そうした大作では、彼が愛した森の自然の力強さと美を表現した。シーシキンは太陽の輝かない日でさえ、ロシアの風景の美を見出し、曇りや雨の日の自然の状態にも心惹かれた。画家は本作で、おそらく何日かにわたって降り続いている雨がもたらす湿った空気の魅力を発見している。霧雨の中で、遠い木々や、ぬかるんだ雨道を行く人々の輪郭はかすんでいる。道往く人はもう水たまりに注意を向けず、その中を歩いていく。だがこのような状態でも、自然は独自の美しさ、魅力を具えている。シーシキンは本作で、人間のかすかに哀しげな詩的で物憂げな状態とそれに呼応するような自然の状態を表現している。
 ロシアでは長雨の陰鬱な日が続くことが多い。こうした状況はロシア文学でも多くの詩に、またシーシキンの偉大な同時代人であるチャイコフスキーやラフマニノフの曲にも影響している。



イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「樫の木、夕方」(1887、44.5×63.5cm)
イメージ 7

 シーシキンは、ロシアの自然の偉大な描き手であり、その作品において、巧みな技術と愛によって、母国の大地の果てしない広がり、人を寄せつけぬ森の深奥を表現し、草木の一本一本、老木の粗い樹皮について物語った。力強い樫の森は、シーシキンがもっとも好んだテーマの一つだった。彼は素晴らしい樫の林を描いた大作を何点か制作しており、ピョートル大帝がフィンランド湾の岸辺に植えた樫の林も描いている。この《樫の木、夕方》は、《樫林》(1887)の習作の一つである。
 シーシキンは、「風景画家の重要な仕事は自然を熱心に学ぶことである。風景を写生した作品は空想を交えてはならない」と確信していた。自然に対する画家のこのような態度には、植物学者のような学者たちに通じるものがあるが、シーシキンの生きた時代が世界の理性的な認識を追求する時代だったことを思えば、シーシキンはまさに時代の特徴を具えた人物だったと言える。またシーシキンは、習作においても全体的な感覚を表現することに長けており、だからこそ彼の習作は独立した作品として迎えられている。(以下略)



イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「正午、モスクワ郊外」(1869、111.2×80.4cm)
イメージ 8

 1866年夏、シーシキンは長年の友人で風景画家であるカーメネフと共にモスクワ郊外ブラトツェヴォの古い荘園に近い地に滞在した。シーシキンはいつものように「情熱的に」制作し、毎日、数点の風景画の習作を制作した。この夏の仕事の最も重要な成果が渾身の大作《午後、モスクワ郊外》である。シーシキンは本作をもとに3年後に別の作品(《林、正午》1872)も制作している。本作は光、太陽で満たされ、巨匠の多数の作品のテーマである「心を癒やす」広大な空間を表現している。本作を機として、母国、祖国の自然という主題がシーシキンの創作に新たに加わり、後年も多数の作品でこの主題に取り組むことになった。
 遥か彼方まで続く広がり、なだらかな丘、林、静かな小川、どこまでも高い空、あちこちに見える村の聖堂の鐘楼――こうした眺めを味わうことのできる慎ましくも美しいモスクワ郊外の風景は、ロシアの自然のイメージそのものである。小村ブラトツェヴォの近郊も例外ではない。モスクワの北部に位置し、小さな川の岸辺に広がるブラトツェヴォは、すでに14世紀にはモスクワ近郊の裕福な貴族たちに注目され、村の持ち主は何度も変わった。現在ではブラトツェヴォはモスクワの一部となったが、18世紀に建てられた二階建ての荘園の建物や、荘園からほど近い17世紀の聖堂は、数世紀を経て今も残っている。
 今ではブラトツェヴォ近郊に数百年前の風景の名残を見出すことは難しい。しかしシーシキンの作品はモスクワ郊外の素朴な魅力を今日まで伝えている。ライ麦の実る畑や太陽に内側から照らされているかのような銀色がかった雲の浮かぶ高い空が、この村の眺めに厳かな美を与えている。村の道に沿って農家の人々が歩き、丘の間には煙を上げている人家や教会堂がかすかに見える。それらは自然の中で暮らす人間の存在を表す印である。この風景画からは、四季が巡るように永遠に繰り返される地上の生の平穏と安定が伝わってくる。本作に漂う飾り気のない明るい詩的な情緒はパーヴェル・トレチャコフを魅了し、トレチャコフが購入した最初のシーシキン作品となった。



イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「花瓶のフロックス」(1884、64×56.2cm)
イメージ 9

 クラムスコイは画家、美術理論家、美術批評家、社会活動家、そして何よりも、19世紀後半に花開いたロシア・リアリズム美術の代表的人物として活動した。クラムスコイは、ロシア美術の発展に独自に貢献するために団結した画家たちのグループである移動展覧会協会のリーダーであり、思想面の指導者だった。彼は自分の創造力と才能の大部分を肖像画に捧げたが、花のある静物画を一点のみ制作している。驚くべき自由奔放さと技巧によって、フロックスのユニークな「肖像画」を描き上げたのである。白、薔薇色、真紅。桜色、ライラック色、すみれ色の鮮やかな色彩から成る豊かな色調が、葉の瑞々しい緑や青い艶やかな花瓶と調和し、喜ばしいと同時に厳かな雰囲気を醸し出している。丈夫な庭の植物の一つで、芳香を漂わせるフロックスの花束は、画家の絵筆によって、沈みゆく太陽の優しい照り返しに彩られた軽やかな花の「雲」に変身したかのようである。




セルゲイ・アルセーニエヴィチ・ヴィノグラードフ「秋の荘園で」(1907、63×80.7cm)
イメージ 10

 ヴィノグラードフが作品に描いた場所の中でも、最も好んだ場所の一つが、トゥーラ県のゴロヴィンカの荘園である。この荘園は芸術のパトロンとして知られたサーワ・マーモントフの息子、フセヴォロト・マーモントフの領地だった。ヴィノグラードフはマーモントフ家と親しく、夏も冬もしばしば彼らの荘園に滞在した。(中略)
 本作では、画家は落葉しはじめた木々の細く曲がった幹の間から見たゴロヴィンカの邸宅を、庭園の側から描いている。画家は優れた技量を駆使して、明るく鮮やかな色を全体の色調と調和させている。ここでは自然が、調和の中心、喜びの源泉として描かれている。この風景画は人間の心と自然の共鳴を表現した19世紀ロシアの風景詩と深く呼応している。



イワン・シルイチ・ゴリュシュキン=ソロコプドフ「落葉」(1900年代、63×47cm)
イメージ 11

 レーピンの弟子であるゴリュシュキン=ソロコプドフは次のように書いている――「私はまだ美術アカデミーで学んでいた頃から、ロシアの歴史と古いルーシの風習に関心を持ちはじめた。自然に取り巻かれたロシアの生活の美を感じさせるあらゆるモチーフに興味を惹かれた」。ゴリュシュキン=ソロコプドフは肖像画と歴史画の巨匠であり、才能ある教育者でもあった。20世紀初頭、彼の芸術は広く知られ、油彩や素描の複製が著名な雑誌に掲載されたほか、副業として「民衆的な様式」の広告ポスターの制作にも取り組んだ。彼の鮮やかで華麗な古き良き時代を描いたロマンティックな作品に人々は魅了された。本作では肖像と風景画が一体化しており、秋を詩的に擬人化した象徴的なイメージを創り出している。この肖像画には、モダニズム美術の特徴である輪郭線への愛着を見て取ることができる。明確なコントラストと共に描かれている背景は、柔弱な横顔の青ざめた色合いを強調している。(以下略)



ワシーリー・ニコラエヴィチ・バクシェーエフ「樹氷」(1900、67×89.5cm)
イメージ 12

 パクシェーエフは人々の日常を描いた風俗画の巨匠であると同時に、優れた風景画家である。彼は独特の柔和さと叙情性を特徴とするモスクワ派の巨匠であっただけでなく、「レヴィタンの後継者」の一人でもあり、ロシアの自然に対するレヴィタン特有の詩的理解を受け継いでいた。画家で美術史家でもあったアレクサンドル・ベヌアの言葉によれば、モスクワ派の画家たちは「ロシアの自然、ロシアの生活を描くだけでなく、それらを理解し、愛し、心動かされていた」。そして冬の風景は、ロシアの風景をめぐる思想を深めるための格好の画題となった。
 パクシェーエフは樹氷に包まれた木々というモチーフを繰り返し描き、冬の太陽の日差しに照らされた輝くほど白い雪の美を愛をこめて表現した。モチーフの魅力と単純だが工夫を凝らされた構図に、風景画家バクシェーエフの個性が現れている。森はまるでおとぎ話の魔法の森のようであり、それを観る者は脆い結晶で織り上げられた白い雪の美が壊れないようにと願う。祝祭の衣装をまとった森は、魔法をかけられ凍りついたかのようだが、もし突風が吹けば、次に雪が降る時まで森は姿を変えてしまう。自然はたえず動き、変化し続けるが、いつも予期せぬ新しい魅力を秘めている。(以下略)



イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン「画家イワン・クラムスコイの肖像」(1882、96.5×75cm)
イメージ 13

 クラムスコイは19世紀後半の最も偉大なロシアの画家の一人であるだけでなく、深遠な思想家、美術批評家、非凡な教育者としての才能を兼ね備えていた。モデルの心理を表現する肖像画の巨匠だったクラムスコイは、作家レフ・トルストイの最初の肖像画(1873)を描き、ロシア美術の至宝の一つである《荒野のキリスト》(1872)、著名な《忘れえぬ女》(1883)を生み出した。(中略)
 本作はクラムスコイの外面だけでなく、人格、性格の本質をも明確に伝えている。レーピンはクラムスコイとの最初の出会いについて、回想記でこう記している――「なんという人だ! なんという目だ! 小さい目で、落ち窪んだ眼窩の深みにあるというのに、はっきり目立っている。灰色の目が輝いている。なんて真面目な顔なのだろう」。レーピンは回想記に、自分の師クラムスコイの「尽きせぬエネルギー」について書き、クラムスコイを「ロシアの偉大な画家」と呼び、画家としても市民としても「国家的記念碑」に値する人物だと記している。



イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「月明かりの夜」(1880、178.8×135.2cm)
イメージ 14

 本作はかつて夕方から夜にかけて戸外で演奏された吹奏楽曲である夜想曲(ノクターン)に喩えることができる。この作品は夜想曲のように、観る者の心を高揚させ、思い出を甦らせ、夢想へと誘う。
 白いドレスを纏った若い女性が独り、古い庭園で老木の傍らのベンチに腰掛けている。彼女の姿は月夜の詩情、その静けさや神秘と調和し、一体化している。誰かを待っているのか、あるいはただ物思いや回想に耽っているのか。彼女がこの問いに答えることは永遠にない。人間の心の中にあって時には自然界にも現れる語り尽くされないもの、空想、夢、詩。この作品を描きイメージを創り出した画家にとって、また鑑賞者にとって、彼女はそれらの化身であり続ける。(中略)
 本作の女性像を描くにあたって最初にモデルとなったのは、後に著名な科学者ドミトリー・メンデレーエフの妻となった美術アカデミーの若い生徒アンナ・ポポーワだった。しかし作品が完成に近づいた時、絵の入手を決意したトレチャコフ美術館創設者の弟セルゲイ・トレチャコフは画家に絵の中の女性に自分の妻の面影を与えてほしいと依頼した。
 本作はこうして生まれたユニークな肖像画であると同時に、厳かな夜の静寂と密やかに「響き」「流れる」月の光を表現した「雰囲気を伝える絵画」でもある。
※ドミトリー・メンデレーエフ:元素周期表を作成したロシアの化学者


イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「忘れえぬ女(ひと)」(1883、76.1×102.3cm)
イメージ 15

 《忘れえぬ女》は、19世紀ロシア美術における最も有名で人気のある作品の一つである。
 本作品には決して最後まで解き明かされることのない秘密が驚くべき方法で託されている。原題《見知らぬ女(ひと)》自体も秘密めき、謎めいているため、1883年に展示されたその時から、この絵は様々な伝説に包まれてきた。
 「半ばジプシー風の威厳のある浅黒い美人」と当時の美術批評家が評したこの若く麗しい女性のモデルが誰であるか、人々は思い思いに想像し、皇帝の宮廷に近い人物、あるいはトルストイの小説の主人公アンナ・カレーニナ、フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』の登場人物ナスターシャ・フィリッポヴナなど様々な説が生まれた。その後、20世紀初頭には、《忘れえぬ女》の中にアレクサンドル・ブロークの詩における「麗しの淑女」としての「見知らぬ女」の風貌を見出そうとする風潮が生まれた。ここで挙げた文学作品のヒロインは皆、その行動や生き方によって、ブルジョア社会の道徳的な決まり事に挑戦した女性だった。クラムスコイの《忘れえぬ女》は、それらの文学作品のヒロインと共通する部分があるが、決して特定の文学作品の挿絵でもなければ原型でもない。独自の自律した存在なのである。
 冬の冷たい靄(もや)に包まれたサンクトペテルブルクのネフスキー大通りを、幌を上げた馬車に乗って、若く美しく、洗練された衣装を纏った婦人が通りかかる。彼女の物腰、首のかしげ方、睫毛でやや隠された目からのぞく眼差し――それらすべては、振る舞いを規定する慣習や厳しい規則に縛られた固苦しいサンクトペテルブルクに対する挑戦と対立である。彼女は上流社会、貴族社会には属していない日陰の世界の婦人である。クラムスコイの《忘れえぬ女》はフランスの著名な作家アレクサンドル・デュマの有名な小説『椿姫』のユニークなロシア版である。
 しかし、この作品はそれほど一義的な作品ではない。クラムスコイは疑いもなく、自分のヒロインに見惚れている。画家は彼女のあまり白くない顔に浮かぶ暖かい薔薇色、豊かな睫毛、黒い瞳のビロードのような輝きを描くことに喜びを見出しており、卓越した技術を駆使して、帽子を飾る軽やかな駝鳥の羽、馬車のラッカー塗り木材、少し粗い革の座面を描いている。華麗で美しい写実的絵画のみずみずしさと優美さが、この作品に結実している。クラムスコイは自分の描いた《忘れえぬ女》の誘い掛けるような美と、絵の細部における真実味溢れる描写に魅了されているが、それと同時に、ある問いを投げかけている――外面の美と、内面の美、道徳的美の境界はどこにあるのか? この問題を自分に問いかけたのはクラムスコイだけではなかった。社会における女性の解放、平等が本格的に検討されはじめた当時、この問題はロシア文学、哲学、社会思想の大きな論点となった。こうした論争においてクラムスコイが属していたロシアの民主的な芸術流派は、物質的な美、肉体的な美ではなく、人間の心の美を支持した。厳格で清教徒的ですらあるクラムスコイの芸術において、《忘れえぬ女》は彼が感覚的な美の魔力に身を委ねたおそらく唯一の作品なのである。



フィリップ・アンドレーエヴィチ・マリャーヴィン「本を手に」(1895、108×72.5cm)
イメージ 16

 本作で描かれているのは画家の妹アレクサンドラ・マリャーヴィナ(1875-1903)である。
 マリャーヴィンは貧しい農家に生まれ、一時期はアトス山で見習い修道士としてイコン工房で働いていた。やがて、彫刻家ウラジーミル・ベクレミシェフの助言と援助を受けて美術アカデミーに入学し、在学中に本作を制作した。マリャーヴィンと同窓だった画家アンナ・オストロウーモワ=レーベジェワは次のように回想している――「彼(マリャーヴィン)は美術アカデミーの学生たちの中でもひときわ成功を収め、1年目の夏が終わった頃には、自分の母、読書する妹、父(中略)を描いた秀逸な習作を持参した。それらの作品は私にも仲間にも強い感銘を与えた・・・・彼は新しい清涼な空気をもたらした」。本作は非常に大胆な構図、モデルである女性の動きと頭部の力溢れる描写によって優れた作品となっているだけでなく、身近な家族への画家の愛を生き生きと伝える肖像画としても魅力的である。



ニコライ・ニコラエヴィチ・グリツェンコ「イワン大帝の鐘楼からのモスクワの眺望」(1896、72×54cm)
イメージ 17

 モスクワのクレムリンのパノラマは、何世紀にもわたってその美と威容によって、詩人、イコン画家、画家たちを魅了し、彼らはこのモスクワの要塞(クレムリン)に数々の美しい作品を捧げてきた。威厳ある要塞の壁で囲まれた大小の聖堂のような壮大な建築群が、都市の象徴、「首都の心臓」と考えられてきたのは当然のことだった。(中略)
 本作ではクレムリンの白い石の壁や大聖堂の荘厳さ、陽を浴びて輝く金色の丸屋根がグリツェンコの筆によって不滅なものとなり、「母なるモスクワ」への真の畏敬に満ちた堂々たる讃歌として描かれている。要塞の壁の二つの塔の間には、常にモスクワの大公たちの納骨堂として機能してきたアルハンゲリスキー大聖堂がそびえている。その左に位置しているのが、皇族たちの祈りの場であったブラゴヴェシェンスキー大聖堂である。
 グリツェンコの本作では、モスクワのクレムリンの威容と精神的な美が、ロシアの地の栄光と力を讃える美しい記念碑として描かれている。本作に描かれた大聖堂やその他の建築、古く美しい事物は、「最古の首都」と呼ばれたロシアの古の首都における様々な出来事や伝説の記憶を伝えているかのようである。



コンスタンチン・アレクセーエヴィチ・コローヴィン「小舟にて」(1888、53.3×42.5cm)
イメージ 18

 コローヴィンは印象主義の代表的画家であり、その名はロシアにおける印象主義の誕生とも深く結びついている。コローヴィンにとって1880年代は芸術の道を探求する時期となった。画家としての出発期に強い影響を受けた移動派のリアリズムの痕跡をまだ残しながらも、80年代のコローヴィンはすでに、光、空気、色が絵画の重要な「主人公」となる外光主義や印象主義的傾向に関心を持ち、新しい美術の可能性を感じていた。
 1888年夏、コローヴィンは自分の師であるポレーノフのモスクワ郊外のジューコフカにある別荘に滞在した。コローヴィンにとってポレーノフこそが、弟子たちに絵画の多様で多大な可能性を初めて示し、フランス印象派の画家たちについて語った先駆者だった。コローヴィンは後に、ポレーノフは古い学校に「新鮮な流れ」を持ち込み、「心という建物の窓を春のように開放してくれた」と回想している。1888年にジューコフカで制作した素晴らしい技術による習作の数々は、印象主義の画家としてのコローヴィンの成長の重要な発展段階を示している。しかしポレーノフはコローヴィンが習作に満足せずに完成作品を描くことを要求し、コローヴィンは師の助言に従って本作に取り掛かった。画家のマリヤ・ヤクーンチコワとヴェーラ・ヤクーンチコワ姉妹とポレーノフが本作のモデルを務めたが、独創性に富んだ若い画家は本作の男性に自分自身の風貌を与えている。
 また、その時コローヴィンは彼自身が語っているように、愛についての絵画を描きたいと願っていた。本作を観る者が目にするのは、ロマンティックな逢引のシーンである。木々の枝はまるでアーチのようにクリャジマ川の上に掛かり、葉の上では陽の光がきらめき、ゆるやかな水の流れに反映している。葉の帳(とばり)の下では、小舟で青年が本を朗読し、若い娘がそれに耳を傾けている。本作の主人公として情緒を作り上げているのは、夏の終わりの柔らかな光である。生い茂った葉を通る抜けて、光は娘の優しい顔を照らし、明るい色のブラウスを様々な色に染め上げている。二人きりで小舟で舟遊びをするこの光景に、画家は一体化する心という詩的なイメージを与え、理想郷のような別荘生活に流れる平和で穏やかな空気を表現している。



◆グッズ・土産
・図録『国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア』
・額絵
・絵ハガキ

熊谷達也『浜の甚兵衛』を読みました。

$
0
0
イメージ 1

 今日、熊谷達也の『浜の甚兵衛』(2016)を読み終えました。
 この作品について、「講談社BOOK倶楽部」のHPから引用します。
 明治三陸地震で2万人を超える犠牲者が出た19世紀末。三陸の仙河海港で沖買船の商売をしていた菅原甚兵衛は、富裕な魚問屋マルカネの社長と女郎屋の女将の子で、正妻の子である兄とはそりが合わず、鬱屈を粗暴な振る舞いに込めて暮らしていた。海上の事故で船を失った甚兵衛は、大きな借金を抱えつつ、北洋でのラッコ・オットセイ猟に賭けて出る。
 東北からはるか北の海に繰り出し強く生きた甚兵衛の覚悟と男気。
 東日本大震災を機に、震災をさまざまに描いて小説に昇華する著者ライフワーク「仙河海サーガ」の出発点にして最新作!
※仙河海サーガ(仙河海シリーズ)
 悒螢▲垢了辧戞13)
◆愴腓澆粒ぁ戞14)
『ティーンズ・エッジ・ロックンロール』(15)
ぁ慊の音、空の青、海の詩』(15)
ァ愆召粒ぁ\膕漏そ福戞16)
Α慷匹蕕鯵后戞16)
А愽佑凌喨識辧戞16)
─慄醂の海』(17)

【感想等】
◆この作品は、宮城県気仙沼市をモデルにした「仙河海」が主な舞台になっています。
 気仙沼は昔から津波の被害や大火災を何度も経験し、そのたびに力強く復興してきた町です。「仙河海」の物語でも、気仙沼が被災した明治29年(1896)の明治三陸沖地震や昭和4年(1929)の大火が描かれています。
 明治三陸沖地震の被害状況がとてもリアルに描かれていると思います。私達は東日本大震災の際、津波が押し寄せ、陸地にある物をなぎ倒し、呑み込んでいく映像をテレビで繰り返し見ましたが、そこに人の姿はありませんでした。実際は多くの方が津波の犠牲になったのですが、この作品にはそういった犠牲者の姿が描かれています。

◆主人公・菅原甚兵衛の19歳から52歳までの波乱の人生が描かれていますが、ハイライトは第二高潮丸(スクーナー船)に乗ってオットセイを追っていた20代だと思います。甚兵衛はオットセイの毛皮を求め、千島列島、さらにはカムチャツカ半島周辺まで航海します。
 カムチャツカ半島に近いコマンドルスキー諸島ではオットセイ群棲地に上陸し、オットセイを次々と撲殺します。そこはロシア領なので銃を使うと密猟がわかってしまうからです。ロシア兵に見つかり、銃撃戦にでもなるのかとハラハラドキドキ。でも、その場面はそこで終わり、ちょっと肩透かし。

◆菅原甚兵衛は、『微睡みの海』に登場した菅原貴之の曽祖父くらいかと思いましたが、繋がりは無いようです。

◆主な登場人物(登場順)
・菅原甚兵衛
・林太郎
・忠次郎
・孫六
・おたみ
・おすみ(菅原すみ)
・金子辰蔵
・金子辰之助
・高畠亥治郎
・広田助三郎
・高木徹郎
・川島賢吾
・葵(遠藤幸江)
・八重

【参考】
イメージ 2
コマンドルスキー諸島

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。(再々)

$
0
0
イメージ 1

 今日、村上春樹の長編第13作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(13)を読み終えました。(再々)
 この作品について、ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
 多崎つくるは鉄道の駅をつくっている。名古屋での高校時代、四人の男女の親友と完璧な調和を成す関係を結んでいたが、大学時代のある日突然、四人から絶縁を申し渡された。理由も告げられずに。死の淵を一時さ迷い、漂うように生きてきたつくるは、新しい年上の恋人・沙羅に促され、あの時何が起きたのか探り始めるのだった。

【感想等】
◆この作品は、主人公・多崎つくるの現在と過去(回想)が交互に語られ、「巡礼の旅」で4人がつくるを絶縁した理由が明かされます。
・回想~4人の親友(赤松慶=アカ、青海悦夫=アオ、白根柚木=シロ、黒埜恵理=クロ)
・回想~大学の友人(灰田文紹)
・現在~新しい恋人(木元沙羅)
・現在~4人を訪ねる「巡礼の旅」

◆村上作品によくある超常現象や奇想天外な展開はありません。大雑把に言うと、この作品は青年期の友情の挫折と、大人の恋愛を描いています。主人公の友情の挫折経験はとても悲惨ですが、程度の差こそあれ青年期には多くの人が経験することです。乗り越えなければならない青年期の課題の一つだと思います。
 今回、『国境の南、太陽の西』(92)と『ノルウェイの森』(87)に続いてこの作品を読んだので、超常現象や奇想天外な展開のないのもいいなと思いました。多崎つくると木元沙羅の恋愛は成就すると思います。沙羅は38歳の大人の女性ですから、ちゃんとした選択をすると思います。

◆シロ(白根柚木)は『ノルウェイの森』の直子に似てるし、『国境の南、太陽の西』の大原イズミにも似ていると思います。

◆リストのピアノ独奏曲集『巡礼の年』は多くの場面で出てきます。前回まではスルーしていましたが、今回はCDを買って聞いてみようと思います。

◆主な登場人物(登場順)
・多崎つくる(多崎作)
・赤松慶
・青海悦夫
・白根柚木
・黒埜恵理
・木元沙羅
・灰田文紹
・緑川
・オルガ
・エドヴァルト・ハアタイネン

◆気になった文章
・「限定された目的は人生を簡潔にする」(P28)

・嫉妬とは――つくるが夢の中で理解したところでは――世界で最も絶望的な牢獄だった。なぜならそれは囚人が自らを閉じ込めた牢獄であるからだ。誰かに力尽くで入れられたわけではない。自らそこに入り、内側から鍵をかけ、その鍵を自ら鉄格子の外に投げ捨てたのだ。そして彼がそこに幽閉されていることを知る者は、この世界に誰一人いない。もちろん出ていこうと本人が決心さえすれば、そこから出ていける。その牢獄は彼の心の中にあるのだから。しかしその決心ができない。彼の心は石壁のように硬くなっている。それこそがまさに嫉妬の本質なのだ。(P54)

・「フォースと共に歩みなさい」(P272)

◆作品中に登場する音楽/ミュージシャン一覧
♫ ピアノ・トリオのジャズ
♫ メンデルスゾーン、シューマン
♫ バリー・マニロウ、ペットショップ・ボーイズ
♫ クラシック音楽~器楽曲、室内楽、声楽曲
♫ フランツ・リストのピアノ独奏曲集『巡礼の年』の《第一年・スイス》より「ル・マル・デュ・ペイ(郷愁)」~ラザール・ベルマン演奏

♫ セロニアス・モンク「ラウンド・ミッドナイト」
♫ モーツァルト、シューベルト、ワグナー
♫ ケトルドラム(ティンパニ)の音
♫ アントニオ・カルロス・ジョビン
♫ ブラームスの交響曲

♫ エルヴィス・プレスリー「ラスヴェガス万歳!」
♫ シューマンのピアノ曲『子供の情景』の第7曲「トロイメライ」
♫ ワム!
♫ シベリウス
♫ リスト『巡礼の年』の《第一年・スイス》の8曲目「ル・マル・デュ・ペイ」から《第二年・イタリア》の4曲目「ペトラルカのソネット第47番」まで~ラザール・ベルマン演奏

♫ エルヴィス・プレスリー「冷たくしないで」
♫ トランペット協奏曲
♫ アルフレート・ブレンデル演奏の『巡礼の年』
♫ ピアノ・ソナタ
♫ ハイドンの交響曲

◆作品中に登場する車一覧
●レクサス
●メルセデス・ベンツ、BMW
●カローラ、クラウン
●ポルシェ・カレラ4
●紺色のフォルクスワーゲン・ゴルフ

【参考】
イメージ 2
ハメーンリンナ

椿展に行ってきました。(2)

$
0
0
 今日、茨城つばきの会主催の〈第2回美浦椿展〉に行ってきました。
 《みほふれ愛プラザ》(稲敷郡美浦村)という地域交流館を会場に、早咲き椿の鉢植えや切り花を展示していました。
 苗木の即売も行なっていたので、ワビ芯ツバキ「一子侘助」(いちこわびすけ)とヤブツバキ系「若楓」を購入しました。どちらも赤い花を咲かせる椿で、鉢植えにして大事に育てたいと思います。
 茨城つばきの会の事務局を担当している方は、かつての職場の同僚で、今回もいろいろ説明してくれました。今年の椿展はあと4回あるので、また見に行こうと思います。
 以下、気になった椿をいくつか紹介します。

イメージ 1
太郎冠者(有楽):ワビスケツバキ

イメージ 2
三河数寄屋:ワビスケツバキ

イメージ 3
乙姫:ワビスケツバキ

イメージ 4
 

イメージ 5
 

イメージ 6
太郎冠者(有楽):ワビスケツバキ

イメージ 7
龍の里

イメージ 8
紅白美人:ヤブツバキ系

イメージ 9
熊谷:ヤブツバキ系

イメージ 10
式部:ヤブツバキ系

イメージ 11
王冠:肥後ツバキ

イメージ 12
ハイドゥン:ベトナム椿

イメージ 13
金華美女:中国椿

ようこそ!

$
0
0

Welcome to my photo diary


イメージ 1
庭のロウバイがきれいに咲いています。(1月25日)

 日々の仕事と生活に忙殺され、時間があっという間に過ぎていきます。いつも先のことばかり考えて「いま」を大切にしていないような気がします。日常の出来事を出会った人やモノの写真で記録し、一日一日に異なった意味をもたせていきたいと思います。(2006年5月22日)‥‥‥と言って始めたブログですが、最近は好きな小説や見仏、バイクのことが中心になっています。

左のINDEXか、下の「最新の画像」から中にお入りください。

『レーピンとロシア近代絵画の煌めき』を購入しました。

$
0
0
イメージ 1

 籾山昌夫『レーピンとロシア近代絵画の煌めき』(2018)を購入しました。
 先日、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」(2018.11.23~2019.1.27)を見ました。とても心惹かれ、今後もロシア絵画展があったら見に行こうと思いました。で、ロシア絵画について勉強しようと思い、この本を購入しました。
 「ロマンティック・ロシア」展については、以下を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56918502.html

 以下、この本の要点を抜粋し、引用したいと思います。(一部改編。写真はWikipediaより。ただし、シーシキン「正午、モスクワ郊外」は「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」展特設サイトより。クラムスコイ「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」とレーピン「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー の肖像」はこの本をコピー)

イリヤ・レーピンとその時代
 ロシア帝国の19世紀後半は、急激な近代化の時代であった。1861年の農奴解放令はロシアにおける産業革命を促し、中流階級が増えて都市が発展した。一方で、社会的な歪みが革命運動を生み、1881年には皇帝アレクサンドル2世(1818-1881)が暗殺された。
 ロシアの意欲的な画家たちは、帝国美術アカデミーの独占的な支配から独立を試み、1863年にサンクト・ペテルブルク芸術家組合(アルテリ)、1870年に移動美術展覧会(移動展)組合を設立した。美術アカデミーが西欧の新古典主義に則っていたのに対して、移動展組合員たち(移動派)の作品は、1860年代の社会状況を描く批判的リアリズムから脱却し、心理描写や人々の感情を喚起するような風景描写を含む芸術性と民衆性を兼ね備えたリアリズムへと進み、とりわけ1870年代末から民族や祖国をテーマとする作品を多く生み出した。そして、移動展がもっとも輝かしい成果を上げた1870年代から1870年代に脚光を浴びたのが、ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レービン(1844-1930)である。

移動美術展覧会の誕生
 サンクト・ペテルブルクの美術アカデミーは卒業生に対して芸術家の身分を保証し、帝室や教会からの公式の依頼を独占的に引き受け、また、地方の美術学校を監督することで、ロシアの美術界を支配していた。厳格で保守的な美術アカデミーにたいして、より自由なモスクワ絵画彫刻学校(1865年にモスクワ絵画彫刻建築学校に改組)を卒業した画家ワシーリー・ペローフ(1833-82)は、《村の説教》(1861)や《村の復活祭の十字架行進》(1861)といった聖職者や上流階級の堕落、貧困や女性蔑視などの社会の不公正を告発する作品を描き、1860年代の批判的リアリズムを先導した。1860年代はまだ、教訓的な絵画による社会の健全化が信じられた理想主義の時代であり、出来事や状況を描くことが重視され、個々の人物の個性や内面を描写することはまだ不十分であった。

 ニコライ・ゲー(1831-94)は、美術アカデミーの給費生としてイタリア滞在中に描いた《最後の晩餐》を1863年9月に美術アカデミーの展覧会に出品した。アレクサンドル2世が買い上げたこの作品は、テーブルに着いた使徒たちにキリストが裏切りを予言するルネサンス以来の伝統的な図像を踏襲せず、リアリズムを追求して、寝そべって食べる古代ローマ式の会食の後にユダが部屋を出て行く場面を再現していた。そのため、この作品は、イワン・クラムスコイ (1837-87)、アレクサンドル・リトーフチェンコ(1835-90)、コンスタンチン・マコーフスキー(1839-1915)ら14人の学生が美術アカデミーの最終学年のコンクールに際して、自由な画題選択を求めたものの受け入れられず、同年11月に退学した「14人の反乱」のきっかけのひとつになった。

イメージ 17
ニコライ・ゲー「最後の晩餐」(1863、283×382cm)

 クラムスコイらは画家として生活するために、内務省の許可を得てアルテリ(サンクト・ペテルブルク芸術家組合)を結成する。都市では、農奴解放後に領地を手放した中小貴族が流入し、市場経済が勃興して新しい中産階級が生まれていた。美術アカデミーを介した公式の美術品注文体系から外れていたアルテリの画家たちは、この新しい中流階級を主な顧客として自分たちの共同住居で展覧会を開き、1865年にはニージニー・ノーヴゴロトの商業見本市に合わせて巡回展を開催した。
 1869年、ペローフ、アレクセイ・サヴラーソフ(1830-97)、グリゴーリー・ミャソエードフ(1834-1911)らモスクワの画家たちが、サンクト・ペテルブルクのアルテリに移動展組合の設立を提案した。規約案が記されたこの手紙には、ゲー、クラムスコイを始め、レーピン、風景画家のイワン・シーシキン(1832-98)とフョードル・ワシーリエフ(1850-73)を含む23名が署名している。移動展組合は1年後の1870年に15名で設立された(当時、美術アカデミーの学生であったレーピンは参加していない)。アルテリが共同受注、共同制作による生活の保証を目的とする共同体であったのに対して、移動展組合は展覧会での作品売却益の一部で運営される市場原理に基づく組織であり、その目的は移動展を通して、特に地方の人々に芸術を浸透させることにあった。それは当時盛んであった人民主義運動に通底していた。

 第1回移動展は、1871年11月23日にサンクト・ペテルブルクの美術アカデミーで開幕し、ゲーの《ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル大帝》(1871)やサヴラーソフの《ミヤマガラスの飛来》(1871)などが出品された。その後、展覧会はモスクワに加え、ハリコフ(現ハルキウ)、キエフ(現キーウ)に巡回した。当初、美術アカデミーは移動展に好意的であったが、その独立性が明らかになると、美術アカデミーの学生の出品を禁じ、1876年の第5回展から会場の提供を中止した。移動展は科学アカデミーなどで開催されるようになり、また、創立メンバーのワレリー・ヤコービ(1833-1902)、アレクセイ・コルズーヒン(1835-94)は一度も出品せず、ペローフは1878年に脱退した。
 このような移動展組合を支えたのは、次世代のが形である。1874年にコンスタンチン・サヴィーツキー(1844-1905)、1875年にアルヒープ・クイーンジ(1842-1910)、1876年にニコライ・ヤロシェンコ(1846-98)、1878年にレーピン、ワシーリー・ポレーノフ(1844-1927)、ヴィークトル・ワスネツォーフ(1848-1926)、1881年にワシーリー・スーリコフ(1848-1916)が加入した。

 美術アカデミーは対抗する巡回展を組織したが、観覧者数も作品販売実績も移動展には及ばなかった。移動派は、サヴィーツキーの《イコンのお迎え》(1878、第6回展)やレーピンの《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(1885、第13回展)など、主としてロシアの主題を人々に解り易く写実的に描いたことから、民族的な美術を代表すると見なされ、収集家や批評家のみならず、一般大衆からも支持された。また、移動展は展示即売が行われて美術市場が生まれ、実業家パーヴェル・トレチャコフ(1832-98)など貴族階級でない収集家もコレクションを充実させた。移動展の最多観覧者数は1885年の第13回展で、サンクト・ペテルブルク会場だけで、44,689人、巡回会場合計で75,986人を記録した。最多販売実績は1889年の第17回展で、出品作品187点中123点が売却された。

 移動展は美術アカデミーの展覧会に代わる唯一の展覧会であったが、1890年代になると、リアリズムから離れた若い画家たちが、サンクト・ペテルブルク美術家協会など新しい展覧会組織を設立した。一方、美術アカデミーは組織改革を行い、1894年にレーピン、シーシキン、クイーンジ、ウラジーミル・マコーフスキー(1846-1920)を教授陣に迎えた。その後も移動派は美術アカデミーの重要な地位を占め、移動展はロシア革命後の1923年まで存続した。

ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レーピン
 1890年11月、作家アントン・チェーホフ(1860-1904)は、作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840-93)への手紙の中で、音楽のチャイコフスキー、文学のレフ・トルストイ(1828-1910)に並ぶ地位を美術で占めているのはイリヤ・レーピン(1844-1930)であると記している。

 1863年、レーピンは美術アカデミーを目指してサンクト・ペテルブルクに上京し、「14人の反乱」が起きた11月に美術奨励協会の素描学校に通い始め、そこで指導していたイワン・クラムスコイ(1837-87)を知る。翌年、レーピンは美術アカデミーの学生になるが、一方で、クラムスコイの招待でアルテりの夕べの集いにも参加していた。

 レーピンはまもなく美術アカデミーで頭角を表し、1869年には旧約聖書を課題にした作品《ヨブとその友》で小金メダルを獲得した。その後、ほぼ同時に描かれたふたつの作品、《ヤイロの娘の復活》(1871)と《ヴォルガの船曳き》(1870-73)によって、美術界の注目を集める。(引用者注:《ヤイロの娘の復活》は美術アカデミーの卒業制作であり、これによって大金メダルと6年間の給費留学の権利を得た。)

 1873年、レーピンは美術アカデミーの給費留学生として、家族を伴ってイタリアを経由してフランスのパリに到着し、中世ロシアの英雄叙事詩ヴィリーナに基づく《水底の王国サトコ》に取り組んだ。翌年4月には、写真家ナダールのアトリエで開催された第1回印象派展を目撃し、その印象をスターソフとトレチャコフに手紙で伝えている。その夏にはノルマンディのヴールで過ごし、サヴィーツキーやポレーノフらと戸外で制作した。1875年のパリのサロンには、《パリのカフェ》(1875)に加えて《石を運ぶ馬、ヴール》(1874)が入選している。しかし、《水底の王国サトコ》を完成したものの、ロシアの主題を異国で描くことに困難を感じ、留学を切り上げてサンクト・ペテルブルクに帰還した。その後、1877年には古都モスクワに転居して、1878年に移動展組合に加入する。

 19世紀後半のロシアでは歴史学が発達し、1872年にはアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ皇太子記念モスクワ歴史博物館が開館するなど、自国の歴史に対する関心が高まっていた。さらに、1877年から翌年にかけての露土戦争によって高揚した民族主義は、レーピンの作品にも反映されている。モスクワで描いた《ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき》(1879)は、ピョートル1世(1672-1725)が進めた西欧化に抵抗した異母姉ソフィヤ・アレクセエヴナ(1657-1704)を描いている。

イメージ 18
イリヤ・レーピン「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき」(1879、204.5×147.7cm)

 モスクワでは実業家トレチャコフと親交を深め、文豪トルストイや歴史画家スーリコフと知り合い、モスクワ郊外の鉄道王サーワ・マーモントフ(1841-1918)の領地アブラムツェヴォで夏を過ごし、そこでポレーノフやワスネツォーフらと共に教会の壁画も手掛けた。トルストイが高く評価した《夕べの宴》(1881)を完成し、《作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキーの肖像》(1881)、《エリザヴェータを演じる女優ペラゲーヤ・アンチポヴナ・ストレーぺトワの肖像》(1881)、《休息》(1882)など肖像画の傑作を描き、《クールスク県の十字架行進》(1881-83)、《懺悔の前》(1879-85)、《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》(1880-91)、《宣伝家の逮捕》(1880-92)など、その後の代表作に着手したのもモスクワに住んでいた時期であった。

 1882年にサンクト・ペテルブルクに戻ったレーピンは、翌年の第11回移動展に《クールスク県の十字架行進》、1884年の第12回展に《思いがけなく》(1884-88)、1885年の第13回展に《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(1885)とロシア美術史上の傑作を出品し、その名声は頂点を極めた。

イメージ 19
イリヤ・レーピン「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン」(1885、199.5×254cm)

 レーピンは1891年から美術アカデミーの改革構想にに関わり、同年11月には《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》を含む約300点の作品を展示する個展を美術アカデミーで開催した。1894年から美術アカデミー絵画アトリエで指導し、1898年には美術アカデミーの校長を務めた。同時に、翌年には美術雑誌『芸術世界』主催の展覧会に参加するなど、象徴主義といった新しい芸術の傾向にも関心を持ち続けた。(引用者注:1907年、教壇から引退した。)

 1903年には、それまでの膨大な経験を活かした《1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典》を完成させるなど精力的に創作を続け、移動展にもロシア革命直前1916年の第45回展まで出品を続けた。しかし、1903年にレーピンが移り住み、スターソフ、作家チェーホフやマキシム・ゴーリキー(1868-1936)、歌手フョードル・シャリャーピン(1873-1936)らが訪れたペナーチ荘のあるサンクト・ペテルブルク郊外のクオッカラ(現レーピノ)は1917年のフィンランド独立によってフィンランド領となり、翌年にはロシアとの国境も閉ざされた。それでも、1920年にフィンランド芸術協会の名誉会長に選出されたレーピンの展覧会が、ヘルシンキを始めとする北欧各地で開催され、また、1926年にはソヴィエト芸術家代表団がペナーチ荘を訪問するなど、レーピンの存在は生前忘れられることはなかった。
 1930年9月29日、ロシア近代絵画の巨匠イリヤ・レーピンは、ペナーチ荘で家族に見守られて逝去した。


1 ロシアの歴史と伝承、聖書
 帝国美術アカデミーの歴史画が古典古代の出来事やギリシア・ローマ神話を題材として、普遍的な美を追求したのに対して、移動派はロシアの歴史や伝承を当時の社会状況と対照しながら、現実を描く風俗画の技法を用いて描いた。

【掲載画】
●ニコライ・ゲー
「最後の晩餐」(1863)
「カルヴァリ(ゴルゴタ)」(1892頃)
「ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル大帝」(1871)
●イワン・クラムスコイ
「荒野のキリスト」(1872)
●イリヤ・レーピン
「水底の王国サトコ」(1876)
「ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィヤ・アレクセエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の全使用人が拷問されたとき」(1879)
「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」(1880-91)
●ワシーリー・スーリコフ
「銃兵処刑の朝」(1881)
「大貴族婦人モローゾワ」(1887)
●ヴィークトル・ワスネツォーフ
「イーゴリ・スヴャトスラヴィチとポロヴェツ人との死闘の後」(1880)
「正しい者たちの主の喜び(楽園の敷居)」(1885-96)
●アレクサンドル・リトーフチェンコ
「モスクワ府主教奇蹟者フィリップの棺の前の皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチとノーヴゴロト大主教ニーコン」(1886)

イメージ 2
イワン・クラムスコイ「荒野のキリスト」(1872、180×210cm)

 新約聖書によると、洗礼を受けたイエス・キリストは聖霊によって荒野に送り出され、悪魔の誘惑を40日間受けた。しかし、クラムスコイは、自己犠牲について煩悶するキリストの人間的な内面を描出した。その心の葛藤は、固く組み合わされた手で明らかである。
 作品の公開前にモスクワの実業家トレチャコフとコジマー・ソルダチョーンコフ(1818-1901)に加え、美術アカデミーが教授の称号授与を提示して購入を申し出たが、トレチャコフが入手し、1872年の第2回移動展サンクト・ペテルブルク会場と、《荒野の救世主》という題で1874年の第3回モスクワ会場で展示された。1878年のパリ万国博覧会にも出品された。

イメージ 3
イリヤ・レーピン「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」(1880-91、203×358cm)

 ザポロージャのシーチ(ドニエプル河岸にあったウクライナ・コサックの砦)を治めるコサックが、降伏してトルコの臣民になるようにというトルコのスルタン、メフメト4世(1642-93)からの勧告に対して、極めて辛辣な嘲笑を込めた手紙で答えたという歴史的な伝説に基づく。
 レーピンは、ザポロージャのコサックの歴史や風俗など、あらゆる資料を研究し、南ロシアとウクライナへ、ヴォルガ川とドニエプル川へ旅行し、風景、典型的な人物像、武器、衣装、食器などを描いた何冊かのスケッチブックを持ち帰った。1892年に皇帝アレクサンドル3世(1845-94)が35,000ルーブルでこの作品を購入し、その代金でレーピンはヴィテプスク県に領地ズドラヴニョーヴォを手に入れて、1890年代の夏の多くをそこで過ごした。


2 農村の生活
 農村の生活を描いた風俗画には、1860年代の批判的リアリズム絵画と1870年代以降の作品との違いが明らかである。批判的リアリズムを先導したワシーリー・ペローフの《村の復活祭の十字架行進》(1861)といった作品は、地方の聖職者と上流階級の堕落や貧富の差のみならず、農民の無知や盲目的信仰なども描き出している。物語や状況を視覚化し、社会悪を告発して改善しようとする姿勢には、アレクサンドル2世の上からの改革にも通じるものがある。
 これに対して、1870年代には、特定の出来事や現実の瞬間に迫ることが風俗画の目的となり、社会悪を非難するだけではなく、新しい主人公を求め、人間の肯定的な部分を認めるようになった。移動派の画家は、農民や大衆の知恵による問題解決を期待する知識人たちインテリゲンツィアと同調していた。地方貴族と農民の不平等を描いたグリゴーリー・ミャソエードフの《ゼームストヴォの昼食》(1872)でも、農民の表情には知性と精神性が与えられ、イワン・クラムスコイは農民の人格そのものを絵画の主題とした。
 1870年代後半からは、多様な人々から構成される農民社会をそのまま写しとるような出来事や瞬間が描かれた。イリヤ・レーピンの《クールスク県の十字架行進》(1881-83)は、ひとりひとりの人物の個性を捉えて迫真性を追求すると同時に、ある農村社会のまさにパノラマとなっている。
 一方、イラリオン・プリャーニシニコフの《北方の救世主の日》(1887)には、もはや社会問題も人間の多様性も描かれず、広大な風景の中に伝統的な儀式が執り行われる郷愁を誘うような美しい光景が展開され、新しい芸術の傾向を予感させる。

【掲載画】
●ワシーリー・ペローフ
「村の復活祭の十字架行進」(1861)
●グレゴーリー・ミャソエードフ
「ゼームストヴォの昼食」(1872)
●イワン・クラムスコイ
「養蜂場の番人」(1872)
「森番」(1874)
●ワシーリー・マクシーモフ
「農民の結婚式への魔術師の到着」(1875)
●コンスタンチン・サヴィーツキー
「イコンのお迎え」(1878)
●ニコライ・クズネツォーフ
「祝日」(1879)
●イリヤ・レーピン
「夕べの宴」(1881)
「クールスク県の十字架行進」(1881-83)
●イラリオン・プリャーニシニコフ
「北方の救世主の日」(1887)

イメージ 4
イリヤ・レーピン 「夕べの宴」(1881、114.5×185.5cm)

 1877年9月に転居したモスクワで制作された。翌年のパリ万国博覧会への出品作品を選定するためにレーピンのアトリエを訪れたアンドレイ・ソーモフ(1830-1909)とニコライ・ソプコ(1851-1906)は出品を勧めたが、期限までに完成しなかった。その後、1880年夏に《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》の資料収集のためウクライナに旅行した際、この作品の習作も描かれ、それらの区別ができないものもある。とりわけタルノーフスキー家の領地カチャノフカで多くの習作が描かれた。同年10月にトルストイがアトリエを訪れ、ふたりが初めて出会ったとき、文豪はこの作品を高く評価した。

イメージ 5
イリヤ・レーピン「クールスク県の十字架行進」(1881-83、178×285.4cm)

 正教国ロシアで、平民や貴族、文官や軍人、俗人や僧侶といったあらゆる身分や年齢の人々が集う十字架行進は珍しい光景ではなかった。煌びやかなランタン(ファナーリ)を誇らしげに担ぐ男たち、空のイコンの箱を大切に携えるふたりの女性、華やかな礼服に身を包み、額の汗を拭いながら香炉を振る司祭、イコンを胸の前に捧げ歩く地主の妻、行列から疎外される背の曲がった男や巡礼。色彩豊かな宗教行列の中に、人々の社会的立場と心理的差異を明確にしながら、ロシアの多様な人生のパノラマを展開している。


3 近代化するロシア帝国
 ロシア帝国の19世紀後半は激動の時代であった。1853年から1856年のクリミア戦争での敗北によって、ロシアの後進性を認識したアレクサンドル2世(1818-1881)や開明的な貴族官僚は、1861年の農奴解放令など、上からの社会改革を進めた。
 南下政策をとるロシア帝国は、1867年にトルキスタン総督府を設置し、1874年には徴兵制度を導入して、1877年から翌年にかけての露土戦争でオスマン帝国との戦いに勝利した。戦争画家ワシーリー・ヴェレシチャーギンはこれら一連の軍事行動に身を投じ、その記録画を西欧で公開した。
 国内では、1860年代から1870年代、とりわけ1874年前後に、自ら農村共同体に入り、社会主義を広めて革命に結び付けようとした都市の知識人、人民主義者(ナロードニキ)による「人民の中へ」運動が盛んになった。しかし、多くの農村ではナロードニキは受け入れられず、政府からも弾圧されたため、急進的な一派が「人民の意志」を結成し、テロによる政権の解体を目指して、1881年にはアレクサンドル2世の暗殺に成功する。
 跡を継いだアレクサンドル3世(1845-94)は、保守的なロシア正教会聖務会院長コンスタンチン・ポベドノースツェフ(1827-1907)を重用して、反動的な専制政治を強化した。また、帝国内のロシア化を進め、ナショナリズムが高揚した。1891年にはシベリア鉄道の建設が始まるなど、この時代、ロシア帝国の工業化が加速する一方、前近代的な社会体制との間に多くの矛盾が起き、社会不安は増大していった。
 ニコライ2世(1868-1918)は東アジアへの進出によって国内問題の解消を試みたが、1904年に日露戦争が始まり、翌年の血の日曜日事件をへて、1906年に憲法(ロシア帝国国家基本法)が制定され、専制君主制から国家評議会を上院、新たに開設される国会(ドゥーマ)を下院とする立憲君主制に移行した。

【掲載画】
●グリゴーリー・ミャソエードフ
「1861年2月19日の法令を読む」(1873)
●イリヤ・レーピン
「ヴォルガの船曳き」(1870-73)
「新兵の見送り」(1879)
「宣伝家の逮捕」(1880-92)
「ニコライ2世の肖像」(1895)
「1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典」(1903)
●コンスタンチン・サヴィーツキー
「鉄道保線工事」(1874)
●ワシーリー・ヴェレシチャーギン
「戦争礼賛」(1871-72)
「敗北、奉神礼」(1878-79)
●コンスタンチン・マコーフスキー
「臨終の床のアレクサンドル2世」(1881)

イメージ 6
イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳き」(1870-73、131.5×281cm)

 アカデミー副総裁ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の依頼で制作された《ヴォルガの船曳き》は、1871年初めには仕上げられて美術奨励協会の展覧会に出品されたが、レーピンは翌年夏にヴォルガ川流域を再び訪れて、その観察から描き直し、1873年3月に美術アカデミーで公開した。
 レーピンの回想録『遠きこと近きこと』には、船曳きひとりひとりの物語が語られている。先導する善良なカーニン、憎悪に満ちた眼差しを投げる水夫のイーリカ、引き綱に抵抗する若いラーリカ。同時代の社会の底辺にある人物の個性を捉えたこの作品は、同年のウィーン万国博覧会で展示された際、批評家ポール・マンツ(1821-95)が、フランス人画家ギュスターヴ・クールベ(1819-77)のレアリスムを引合いに出して論じた。ロシアにおける近代絵画の確立を示す作品である。

イメージ 7
イリヤ・レーピン「宣伝家の逮捕」(1880-92、34.8×54.6cm)

 「人民の中へ」運動で農村に入ったナロードニキが逮捕される場面である。官憲の調べに対して、宣伝家は厳しい表情で顔をそむける一方、農民たちは遠巻きにそれを見ている。その構図は、レンブラント・ファン・レイン(1606-69)の銅版画《エッケ・ホモ(民衆に晒されるキリスト)》(1648頃)を参考にしているとも言われてきた。
 1877年から翌年にサンクト・ペテルブルクで行われた193人の学生と政治犯――ロシア帝国に対する人民主義的騒乱とその宣伝の罪に問われた革命家――に対する一連の刑事裁判に触発されて描かれた作品である。

イメージ 8
イリヤ・レーピン「1901年5月7日の国家評議会百周年記念祝典」(1903、400×877cm)

 ニコライ2世を始めとするロシア帝国の高官たちの集団肖像画であり、最高国家機関である国家評議会の百周年に寄せて、1901年に政府が公式に発注した作品である。80名ほどの高官たちの姿を収め、祝典の厳かな雰囲気や晴れやかな礼装を記録しながら、ひとつの空間を創り出している。
 この準備制作として、70点以上の肖像画が制作され、レーピンは右手を痛め、左手で描くようになった。マリイーンスキー宮殿会議場の豪華さ、刺繍や勲章で飾られた議員の煌びやかな制服は、むしろ国家評議会の形式主義を露呈させている。


4 自然と風景
 1870年代と1890年代に頂点を迎えた移動派の風景画は、祖国ロシアの大地の雄大さや季節の移り変わり、あるいは身近な自然を描き、多くの場合、時の経過や生命の営みといった物語的要素を織り込んでいる。

【掲載画】
●アレクセイ・サヴラーソフ
「ミヤマガラスの飛来」(1871)
●イワン・シーシキン
「正午、モスクワ郊外」(1869)
「冬」(1890)
「松林の朝」(1889)
「ライ麦畑」(1878)
「樫林の雨」(1891)
●フョードル・ワシーリエフ
「雪解け」(1871)
●ワシーリー・ポレーノフ
「モスクワの中庭」(1878)
●アルヒープ・クイーンジ
「ウクライナの夜」(1876)
「雨後」(1879)
「白樺林」(1879)
●イリヤ・オストロウーホフ
「新緑」(1887)
「錦秋」(1886)
●イサーク・レヴィターン
「雨後、プリョース」(1889)
「白樺林」(1889)
「静寂の修道院」(1890)
「ウラジミール街道」(1892)
「永久(とわ)の安らぎの上に」(1894)
「3月」(1895)

イメージ 9
イワン・シーシキン「正午、モスクワ郊外」(1869、111.2×80.4cm)

 朝、鍬を持って畑に向かう農民たち。背景には果てしなく平原が続く。自然の壮大さを示すように、積雲の湧く空が大きく描かれている。1869年の美術アカデミーの展覧会に出品され、トレチャコフが初めて購入したシーシキンの作品である。このとき、シーシキンは「私の絵があなたの手に、ロシアの芸術家の華麗なコレクションに入るのは、とても嬉しい」とトレチャコフに書いている。

イメージ 10
イワン・シーシキン「松林の朝」(1889、139×213cm)

 左下に「I.シーシキン 1889年」の署名があり、その下に不鮮明な「K.サヴィーツキー」という署名がある。森の中のクマという光景を思いついたのはサヴィーツキーで、シーシキンが作品を完成させ、トレチャコフが購入した。サヴィーツキーは「クマを仕留めて毛皮を分け合い」、絵の代金4,000ルーブルの内、4分の1を受け取ったと同年3月に親類へ手紙を書き、また、署名をすることになったと後に公表している。

イメージ 11
イワン・シーシキン「樫林の雨」(1891、124×203cm)

 この作品の解説がないので、以下、「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」展の図録の解説を引用します。
 本作はシーシキンの才能のいわば満開の時期に描かれた。シーシキンは愛してやまない自然の中で、あらゆるものに身を委ねた。彼は数々の習作、小品を描き、素朴な森の花、細い草、多様な苔といった細部を丹念に描き込んでいる。また、技巧を駆使して大作を描くこともあった。そうした大作では、彼が愛した森の自然の力強さと美を表現した。シーシキンは太陽の輝かない日でさえ、ロシアの風景の美を見出し、曇りや雨の日の自然の状態にも心惹かれた。画家は本作で、おそらく何日かにわたって降り続いている雨がもたらす湿った空気の魅力を発見している。霧雨の中で、遠い木々や、ぬかるんだ雨道を行く人々の輪郭はかすんでいる。道往く人はもう水たまりに注意を向けず、その中を歩いていく。だがこのような状態でも、自然は独自の美しさ、魅力を具えている。シーシキンは本作で、人間のかすかに哀しげな詩的で物憂げな状態とそれに呼応するような自然の状態を表現している。
 ロシアでは長雨の陰鬱な日が続くことが多い。こうした状況はロシア文学でも多くの詩に、またシーシキンの偉大な同時代人であるチャイコフスキーやラフマニノフの曲にも影響している。


5 都市の人々
 アレクサンドル2世の改革によって貴族の特権の多くが廃止され、その経済的基盤は著しく不安定になった。没落した一族の扶養は女子に託され、また、都市部の女性人口が過剰であったために、女子高等教育が必要とされた。1871年1月14日の勅令で女性の就労が制度化され、助産師、看護師、准医師、薬剤師などの医療職、初等学校や女子中等学校の教育職、電信、信号業務などの公的な事務職が認可された。農民を対象とした人民主義運動の終焉と共に、1880年代の移動美術展覧会(移動展)には、都市で生活する人々、とりわけ教養ある若い女性を描く作品が現れる。
 1877年から翌年にかけてサンクト・ペテルブルクでは、人民主義運動に参加した193人の学生と政治犯が刑事裁判にかけられた。政府の弾圧に対して、1879年に過激な一派が「人民の意志」を結成し、1881年3月1日には名門貴族の娘で、女子高等教育過程を修了したソフィヤ・ペローフスカヤ(1853-81)の指導の下、アレクサンドル2世を爆弾テロで暗殺する。
 ニコライ・ヤロシェンコが《火夫》や《女子課程学生》といった都市の新しい人間そのものを洞察しているのに対して、ウラジーミル・マコーフスキーは彼らの状況を描写している。
 そして、イリヤ・レーピンは、こうした状況と人物の心理描写とを融合し、さらに、美術の伝統をも巧みに織り交ぜた。13人の人物が描かれた《集会》は、光と影の扱い方を含めて、ニコライ・ゲーの《最後の晩餐》を想起させ、《思いがけなく》はアレクサンドル・イワーノフの《民衆の前に現れたキリスト》(1837-57)や冬宮殿(現エルミタージュ美術館)にあったレンブラント・ファン・レインの《放蕩息子の帰還》(1663-65)といった歴史上の名画を踏まえている。

【掲載画】
●ニコライ・ヤロシェンコ
「女子課程学生」(1883)
「火夫」(1878)
「学生」(1881)
●イワン・クラムスコイ
「見知らぬ女」(1883)
「皇后マリヤ・フョードロヴナの肖像」(1881)
●イリヤ・レーピン
「ワルワーラ・イワノヴナ・イクスクル・フォン・ヒルデンバント男爵夫人の肖像」(1889)
「集会」(1883)
「懺悔の前」(1879-85)
「思いがけなく」(1884-88)
●ウラジーミル・マコーフスキー
「並木道で」(1886-87)
「銀行破綻」(1881)
「夕べの集い」(1875-97)

イメージ 12
イワン・クラムスコイ「見知らぬ女」(1883、75.5×99cm)

 羽飾りのついたベルベットの帽子とリボンのついた毛皮のコートを身を包み、サンクト・ペテルブルクのネフスキー大通りを進む豪華な馬車の上から見下ろす美しい女性。当時、高級娼婦の肖像と見なされたこの作品をトレチャコフは購入しなかった。プラハにある個人蔵の習作が、当時のその見方を裏付ける。
 クラムスコイはこの作品に「見知らぬ女」という題名を与えることで、ある特定の人物の肖像画ではなく普遍化された女性像、あるいは名前を捨てた女性の姿であることを示している。

イメージ 13
イワン・クラムスコイ「皇后マリヤ・フョードロヴナの肖像」(1881、109×74cm)

 アレクサンドル3世の后マリヤ・フョードロヴナ(1847-1928)は、デンマーク王クリスチャン9世の次女。1864年にロシア皇太子ニコライと婚約したが、ニコライが病死し、弟のアレクサンドルと結婚した。この肖像画は、1881年、アレクサンドル3世が即位後に依頼し、セルゲイ・レヴィーツキーがスタジオで撮影した写真を基に描かれ、同年7月にペテルゴフで完成された。
 1894年にアレクサンドル3世が崩御、長男のニコライ2世が即位して、マリア・フョードロヴナは皇太后となった。1917年のロシア革命では、甥のイギリス王ジョージ5世が派遣した戦艦でヤルタから救出され、デンマークに亡命した。
 この作品は、革命までサンクト・ペテルブルクのアニーチコフ宮殿にあり、1918年にエルミタージュ美術館に移された。その後忘れられていたが、修復を経て2004年に公開された。


6 ロシア帝国の著名人たち
 モスクワの実業家で美術収集家のパーヴェル・トレチャコフは、祖国ロシアの同時代の作家、作曲家、画家、俳優、学者の肖像画をワシーリー・ペローフ、イワン・クラムスコイ、イリヤ・レーピンらに注文し、あるいは購入して、優れた肖像画のコレクションを形成した。画家たちもまた、ある人物の単なる模写ではなく、民族を代表するような意味のある人物像を求め、その特徴を描写する新しい方法を見出した。

 移動派の多くの画家が、優れた人物像の典型としてレフ・トルストイ(1828-1910)を描いた。トルストイその人も偉大な人間観察者であり、若い頃に写真修正師の仕事をしていたクラムスコイは、鋭敏な観察力と精緻な描写力によって、それを画面に記録した。クラムスコイ の《レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像》(1873)は、この文豪を描いた数多くの肖像画の中でも、文豪の深い洞察力、眼力を捉えた、もっとも優れた作品である。

【掲載画】
●イワン・クラムスコイ
「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1873)
「イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャローフの肖像」(1874)
●ニコライ・ゲー
「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1884)
●イリヤ・レーピン
「裸足のレフ・ニコラエヴィチ・トルストイ」(1901)
「アレクセイ・フェオフィラクトヴィチ・ピーセムスキーの肖像」(1880)
「アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテインの肖像」(1881)
「エリザヴェータを演じる女優ペラゲーヤ・アンチポヴナ・ストレーぺトワの肖像」(1881)
●ワシーリー・ペローフ
「アレクサンドル・ニコラエヴィチ・オストローフスキーの肖像」(1871)
「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの肖像」(1872)

イメージ 14
イワン・クラムスコイ「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの肖像」(1873、98×79.5cm)

 この作品はトルストイ伯爵の領地トゥーラ県ヤースナヤ・ポリャーナで、彼が『アンナ・カレーニナ』を執筆しているときに描かれた。クラムスコイはトルストイの個性を捉えるだけでなく、高い道徳心、深い精神性と知性を備えた人物の典型として描いた。
 文豪の家族は、この作品を展覧会に出品しないことを条件としたが、1878年のパリ万国博覧会のためにスターソフがトルストイを説得して、その条件を撤回させた。
 小説に登場する画家ミハイロフの言葉は、クラムスコイの芸術観を反映している。


[特集]身近な人々(家族の肖像・芸術家仲間)
【掲載画】
●イリヤ・レーピン
「休息」(1882)
「あぜ道にて、あぜ道を歩くヴェーラ・アレクセエヴナ・レーピナと子どもたち」(1879)
「少年ユーリー・イリイチ・レーピンの肖像」(1882)
「秋の花束」(1892)
「日向で」(1900)
「ワシーリー・イワノヴィチ・スーリコフの肖像」(1877)
「ワシーリー・ドミトリエヴィチ・ポレーノフの肖像」(1877)
「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー の肖像」(1881)
「画家イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイの肖像」(1882)
●イワン・クラムスコイ
「読書、ソフィヤ・ニコラエヴナ・クラムスカヤの肖像」(1866以降)
「画家の娘ソフィヤ・イワノヴナ・クラムスカヤの肖像」(1882)
「イワン・イワノヴィチ・シーシキンの肖像」(1873)
「イリヤ・エフィモヴィチ・レーピンの肖像」(1876)
「アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・リトーフチェンコの肖像」(1878)

イメージ 15
イリヤ・レーピン「休息」(1882、143×94cm)

 画家の妻ヴェーラ・レーピナは、レーピンが美術アカデミーの学生であったときの下宿先、建築家アレクセイ・ツェフツォーク(1815頃-没年不明)の娘で、ふたりは1872年に結婚した。
 この作品は、肘掛椅子でまどろむ妻を正面から描いているが、《休息》という題名に加えて、習作と比べて衣装が華やかになっているなど、展覧会向けの作品として描かれた。喪章であろうか、右腕には黒いリボンが巻かれている。この作品は、1883年のミュンヘン国際美術展にも出品された。

イメージ 16
イリヤ・レーピン「作曲家モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキーの肖像」(71.8、58.5× cm)

 この肖像画は、アレクサンドル2世が暗殺された翌日、1881年3月2日から5日にかけてニコラーエフスキー陸軍病院の病室で描かれた。レーピンがムソルグスキーを知ったのは、1870年代はじめのことで、それ以来、この作曲家の肖像画を描くことを考えていたが、ようやく実現したのである。しかし、11日後の3月16日にムソルグスキー は亡くなった。
 この作品は3月1日からサンクト・ペテルブルクのユースポフ邸で開催されていた第9回移動展に途中から出品され、3月26日の『声(ゴーロス)』紙第85号にスターソフの記事「ムソルグスキー の肖像」が掲載されると、1日に2,500人以上の観客が押し寄せたという。レーピンはトレチャコフから受け取ったこの作品の代金400ルーブルをムソルグスキー の墓碑のために寄付した。

ワビスケツバキ〈有楽〉が咲きました。

$
0
0
 庭のワビスケツバキ〈有楽〉(太郎冠者とも)が咲き始めました。しかし、まだ寒さが厳しいので、咲いてもすぐに汚くなってしまいます。
 先日、美浦の椿展に行った際、切り花にして楽しむといいと言われたので、さっそく蕾の多い枝を切り、花瓶に挿してみました。で、昨日から咲き始めました。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

熊谷達也『鮪立の海』を読みました。

$
0
0
イメージ 1

 今夜、熊谷達也『鮪立(しびたち)の海』(2017)を読み終えました。
 この作品について、Amazon「商品の説明」を引用します。
 宮城県北、三陸海岸の入江にたたずむ町「仙河海」。のちに遠洋マグロ漁業で栄えるこの地で、大正14年に生まれた菊田守一は、「名船頭」として名を馳せた祖父や父のようになることを夢みていた。いつか自分の船で太平洋の大海原に乗り出してカツオの群を追いかけたい――。米軍の艦上戦闘機グラマンとの戦い、敗戦からの復興……。著者ライフワーク「仙河海」サーガの最新作。三陸の海辺には、どんな日常があったのか――。

【感想等】
◆この作品は、仙河海の漁師・菊田守一(もりいち)の7歳(昭和7年)から33歳(昭和33年)までが描かれています。この期間は15年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)と戦後復興という激動の時代であり、そんな中で祖父や父のような優れた船頭になることを夢見て真摯に生きる守一の姿に共感を覚えます。

◆この作品の主要な登場人物は、『浜の甚兵衛』(16)の登場人物とつながっています。そのつながりを見つけた時、熊谷作品を読み続ける喜びを感じます。
・菊田守一:魚問屋マルカネ(金子辰之助)のために土地と家を失った菊田安吉の孫(惣吉の息子)
・後半に登場し、守一の親友になる遠藤征治郎:菅原甚兵衛と遠藤幸江との間にできた子
・守一が乗る遠洋マグロ船第五洋徳丸の船頭・川島洋太郎:菅原甚兵衛のラッコ船に乗り、北洋でオットセイを追った川島賢吾の孫。
・最終章に、静岡県焼津に移ってからの菅原甚兵衛の消息が描かれています。

◆守一は、父が船頭、兄が船長を務める向洋丸に乗り、太平洋でのカツオ・マグロ漁に従事します。しかし、太平洋戦争が勃発すると、向洋丸は海軍に徴用され、太平洋上での哨戒活動に当たります。やがて、向洋丸には武装が施され、通称「黒潮部隊」に編入されると、米潜水艦との交戦、グラマンF6Fによる機銃掃射と爆撃によって沈没します。
 軍人ではない漁師たちが軍隊組織に組み込まれ、米軍の潜水艦や戦闘機の攻撃にさらされ、多くの命が奪われたことは、とても衝撃的でした。熊谷達也の短編集『山背郷』(02)収録の「モウレン船」にも、海軍に哨戒艇として徴用されたカツオ船が、米軍機の機銃掃射と魚雷によって轟沈し、主人公・菊田勘治らが船の残骸にしがみついて救援を待つ姿が描かれています。

◆熊谷作品には「家督」という言葉がしばしば登場します。「跡継ぎ」の意味ですが、東北地方、あるいは宮城県では現在も使われている言葉なのでしょうか。僕の住んでいる地域では「家督」という言葉は耳にしません。
 守一は真知子と愛し合いますが、お互いが「家督」のために、別れることになります。守一はそれを何年も引きずりますが、真知子の変わり身の早さには驚きます。でも、真知子がそうせざるを得なかった理由は十分理解できます。

◆主な登場人物(登場順)
・菊田守一
・菊田惣吉
・金子辰之
・金子辰巳
・菊田惣一
・小野寺保
・森本兵曹長
・早坂真知子
・菊田みつゑ
・遠藤征治郎
・川島洋太郎
・川島賢吾
・大幡清子
・美和子

◆気になった文章
・惣吉が守一に語った言葉(P7357)
「したがら馬鹿だって言ったのだ。ある程度は自分のことを客観視できねば、本当にいい船頭にはなれねえど。守の一番悪(わり)ぃ部分は、必要以上に自分を過小評価するところだ。己惚(うぬぼ)れるのはまずいけんと、もっと自信を持っていがすぞ。ずいぶん前の話になるけどや、洋太郎と同じことを惣一も語ってだっけがらに」

雪が降りました。

$
0
0
イメージ 1

 昨夜、久々にまとまった雨が降り、やがて雪に変わりました。
 今朝、と言っても9時過ぎですが、庭に出るとクルマに少し雪が積もっていました。前の畑や芝生の上、家の裏には雪が残っていましたが、アスファルト舗装の庭には雪が積もらず、凍結していました。昨年のような大雪にならなくてよかったと思います。

三菱一号館美術館「フィリップス・コレクション展」(再)

$
0
0
イメージ 1

 今日、東京・丸の内の三菱一号館美術館に「フィリップス・コレクション展」(2018年10月17日~2019年2月11日)を見に行ってきました。(再)
 会期末だったので、予想通り、けっこう混んでいました。でも、もう一度見たかった絵を見られたので、混雑はそれほど気になりませんでした。ただし、今後の教訓として、会期末と開場直後の入場は避けようと思います。
 この展覧会の見どころ等については、前回記事を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56908373.html

 以下、印象に残った絵をいくつか紹介します(図録「カタログ」順)。写真は展覧会特設サイトより、あるいは図録をコピー。解説は図録「作品解説」より(一部改編)

ジャン・シメオン・シャルダン「プラムを盛った鉢と桃、水差し」(1728頃、44.5×56.2cm)
イメージ 2

 シャルダンは果物を盛った鉢と中国清朝の康熙帝の治世に作られた磁器の水差しを、絵具の薄い層によって「ぼかされた」飾り気のない空間にシンプルに配置した。シャルダンにとって色彩とは、個々の静物を描くだけでなく、物と物との間の空間までをも生き生きと描き出すものであった。シャルダンは次のように説明する。「自然界に存在するあらゆる物の形態は、それを取り巻くすべての色調・・・・(すなわち)それが置かれた空間やそれを照らす光と相関関係にある色彩を正確にあらわすことで、その輪郭を明確にすることができる」。
 本作《プラムを盛った鉢と桃、水差し》はダンカン・フィリップスが特に気に入っていた絵画のひとつで、彼はシャルダンを近代静物画の父とみなしていた。彼はシャルダンの静物に対するアプローチを、ポール・セザンヌやジョルジュ・といった創造的な芸術家の眼を先取りするものと考え、しばしば本作を近代絵画と並べて展示した。



クロード・モネ「ヴェトゥイユへの道」(1879、59.4×72.7cm)
イメージ 3

 1878年、作品の売れ行き不振と増え続ける借金に打ちのめされたモネは、家族とともにパリ北西80キロの農村ヴェトゥイユに移住した。画家はこの地で技法の洗練に3年を費やし、同じ景観を異なる季節や同じ日の異なる時間帯に描いた連作を制作した。
 関連する5点の絵画のうち最後に描かれた作品である本作《ヴェトゥイユへの道》は、村のはずれ、モネの旧居へ通じる舗装されていない平坦な道へと観る者をいざなう。ダンカン・フィリップスは本作を、1918年から19年にかけて購入した作品のベスト15に含めている。



クロード・モネ「ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)」(1897、64.8×100cm)
イメージ 4

 ル・アーヴルで幼少期を過ごしたモネは、しばしばフランスの北岸で絵画制作をおこなった。画家は1896年から97年にかけてヴァランジュヴィル、プールヴィル、ディエップで三種類のシリーズを手がけ、岩壁の景観を描いた作品を50点以上残している。
 本作《ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)》はそのうちの1点。モネは1日に2、3点の作品を仕上げながら、自然を主題としたいくつかの絵画群の制作に着手し、天候や光が風景に与える効果を描き出した。本作においてモネは北方の朝の光に照らされた岩壁、海、空、そして微かに見える海岸線を描き出している。
 ダンカン・フィリップスにとって、本作はモネの典型的作例であった。彼はこのような作品を長年にわたって探し求めており、その過程で1920年代と30年代に3点のモネ作品を売却している。フィリップスは、ニューヨークのワールド・ハウス画廊から購入した本作を「これまで見たなかでもっとも美しいモネ作品のひとつ」とみなした。



フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの公園の入り口」(1888、72.4×90.8cm)
イメージ 5

 ファン・ゴッホは2年間をパリで過ごして印象派の画家たちと交流したのち、1888年の2月、アルルに向けて出発した。彼はより平穏な生活を求めながら、ポール・ゴーガンを指導者として彼のもとに集う芸術家たちの共同体を結成することを夢見てもいた。アルルで数ヶ月が過ぎた頃、ファン・ゴッホはこの新たな共同体の拠点として、ラマルティーヌ広場に小さな黄色い家を借りる。
 本作《アルルの公園の入り口》は1888年の8月から10月のあいだに描かれたが、この頃ファン・ゴッホはゴーガンとの創作活動を開始すべく、彼の到着を心待ちにしていた。ファン・ゴッホはその拠点となる家を飾るために複数の絵画を制作し、それゆえこの時期は彼にとって非常に活動的な時期となった。本作は彼の家の向かいにあった公園の入り口を描いたものである。麦わら帽子をかぶった人物はこの時期に制作された多数の絵画に繰り返し登場しており、画家自身の自画像なのかもしれない。
 ダンカン・フィリップスは1926年に「欲しい作品一覧(ウィッシュ・リスト)」を公開したが、そこには「ファン・ゴッホの独創的才能を示す作例」が含まれていた。1920年代末までに、彼はファン・ゴッホ作品を2度購入している。1930年9月、彼はニューヨークのウィルデンシュタイン画廊から、気に入らなければ返品可能という条件で本作を受け取り、ただちに購入へと踏み切った。フィリップスは本作を「魂の叫び」と表現している。



ポール・ゴーガン「ハム」(1889、50.2×57.8cm)
イメージ 6

 ゴーガンによるもっとも偉大な芸術的革新は、彼の表現力に富んだ色彩の使用法である。彼はフランスのブルターニュ地方にある小さな村ル・プルデュで本作を制作した。ここは彼が綜合主義、大胆で力強い形態と線的なリズムを特徴とする抽象とレアリスムとの総合を修得した場所でもある。彼は静物画を数点しか制作しておらず、本作はおそらく彼が1881年に絵画制作をともにしたマネもしくはセザンヌの芸術から着想を得たものと考えられる。
 ダンカン・フィリップスは、ニューヨークのポール・ローザンベール画廊を通じて本作《ハム》を購入した際、本作が「コレクションの作品群と類似性を持っており」、「後続する絵画の源泉として」の役割を担っていると述べている。フィリップスはゴーガンをロマン主義的理想主義者として称賛していたが、彼のプリミティヴィズムに関しては評価を保留しており、彼の描いたタヒチの風景画1点を手放してさえいる。この静物画はコレクションが持つ唯一のゴーガンによる絵画である。



アドルフ・モンティセリ「花束」(1875頃、69.2×49.2cm)
イメージ 7

 非常に独創的な肖像・静物・風景画家であるモンティセリは、パリでアカデミックな画家たちとともに絵画を学び、ルーヴル美術館でジョルジョーネやレンブラント、ヴェロネーゼらの作品を模写しながら、ドラクロワと交友を結んで色彩に対する強い情熱を共有した。
 モンティセリの絵画の特徴である粗く自由な筆づかいと質感に富んだ表面は、セザンヌやゴッホ、野獣(フォーヴ)といった近代の芸術家たちに非常に大きな影響を与えた。実際、ゴッホはモンティセリの様式を模倣し、6点の作品を購入した。
 ダンカン・フィリップスは1953年に本作をポール・ローザンベール画廊の展覧会ではじめて目にし、その6年後、モンティセリの歴史的役割を再発見して購入するに至った。フィリップスはモンティセリを「ドラクロワのロマン主義とファン・ゴッホ以後現代に至るまでの全ての表現主義とを結びつける存在」とみなしている。



ポール・セザンヌ「ザクロと洋梨のあるショウガ壺」(1893、46.4×55.6cm)
イメージ 8

 セザンヌは日常的な物体に重みと量感を与える方法を求めて、40年の間におよそ200点以上の静物画を生み出した。彼は1870年代後半までに、シンプルな家庭内の品々に焦点をあて、複数の果物を、器や折りたたまれた布の襞と対話するように設置することで構図に奥行を持たせている。平行する短い筆致で描かれたこれらの作品は、色彩や光に対するセザンヌの認識や円熟期へと至る画家個人の様式の変遷を記録している。
 1920年代中頃、ダンカン・フィリップスはセザンヌによる静物画を探し求めていた。1929年のニューヨーク近代美術館開館記念展で本作を目にし、さらに1939年2月にニューヨークのウィルデンシュタイン・ギャラリーで再度目にしたのち、フィリップスは展覧会のために本作を借用する。フィリップスにとって、本作に描き出された形態と形式の堅固さは、シャルダンによる威厳ある静物画を想起させるものであった。フィリップスの甥であるギフォードが、1939年に本作を美術館へ寄贈した。本作はかつて、セザンヌ本人によってモネに贈られ、彼の所蔵品であったという来歴を持つ。



エドガー・ドガ「稽古する踊り子」(1880年代はじめ-1900年頃、130.2×97.8cm)
イメージ 9

 ドガは晩年、線の使い方がより表現的になり鮮やかな色彩をもちいるようになっていった。ここでは彼が頻繁に素描したル・ペルティエ通りのスタジオでの踊り子たちの舞台裏が捉えられている。本作は練習用のバーに片脚を乗せた踊り子を描いたドガの最後の作品群のうちのひとつ。フィリップスは本作を「アラベスクとバレエ・ダンサー特有の身体を讃える彼の装飾的作品のなかでも、特異な記念碑的存在」と断言している。
 ドガはふたりの踊り子を組み合わせて描いた原寸大の習作だけでなく、それぞれの踊り子を別々に着衣とヌードで描いた習作も制作していたことが、近年の調査によって判明した。これによって彼の制作方法に関する理解が深まるとともに、自身の作品を調整するという彼の終生変わらぬ傾向が明らかになった。彼は無数の修正とさまざまな技法や指も含めた道具によって、運動の感覚を見事に捉えた考え抜かれた構図を実現していったのである。彼が試したパステルやリトグラフ、モノタイプ、彫刻といったさまざまな技法はすべて、彼の制作方法に影響を与えている。絵を近くからよく見てみると、練習用のバーとふたりの踊り子の伸ばした脚が下方へと移動させられていることがわかる。また身体を支えている脚と両腕にも幾度か位置を修正した跡がうかがえる。ふたりの踊り子の茶色い髪は、オレンジの絵具の薄塗りの層によって覆われている。当初、踊り子はそれぞれ、カンヴァスのより下方とより左側に描かれていたのである。スカートも1度は今より短く書かれていた。ドガはそうした修正をほとんど隠そうとはせず、観者にわかるように残した。



エドガー・ドガ「リハーサル室での踊りの稽古」(1870-72年頃、40.6×54.6cm)
イメージ 10

 ドガは1870年代を通じて、ル・ペルティエ通りにある古いオペラハウスの広いリハーサル室にいる踊り子たちの姿を描いた。陽光の効果を描くという印象派の関心を共有していたドガは、高さのある3つのアーチ窓から差し込む自然光によって部屋全体を満たしている。さらにドガは、生徒たちにステップを実演してみせる指導者の熱のこもった動きを巧みに捉えている。本作はおそらく1877年に開催された第3回印象展に出品されたと考えられる。
 近年の調査によって、本作の下に、完成された肖像画が描かれていたことが明らかとなった。この隠された肖像画は白い口髭を蓄えた厚い瞼の男性を描いたものであり、ドガの父親であるオーギュスト・ド・ガスと似た特徴を備えている。



ピエール・ボナール「犬を抱く女」(1922、69.2×39cm)
イメージ 11

 1925年のカーネギー国際美術展で、ボナールの描いた本作を目にしたダンカン・フィリップスは、たちまちこれに魅了された。描かれているのは愛犬を抱くボナールのパートナー、マルト・ド・メリニーであり、フィリップスによれば、「家庭の喜びと親密さ」が表現されているという。本作を見出して以降、フィリップスはこの画家の熱心な崇拝者となり、彼をルノワールの後継者とみなした。
 本作《犬を抱く女》は、アメリカの美術館に収蔵された最初のボナールの絵画である。フィリップスはその後、アメリカの美術館における最初のボナールの展覧会を1930年に開催、後にアメリカ国内でもっとも大規模かつ多様性に富んだボナール作品コレクションのひとつを築くこととなった。彼はボナールをお気に入りの芸術家と公言し、まぎれもない色彩の天才と呼んでいる。1926年、ボナールはフィリップス・コレクションを訪れ、フィリップスとその妻マージョリーと面会した。それからおおよそ20年後、ボナールはフィリップスに、「私はしばしば、ワシントンであなたと過ごしたあの喜ばしい時間を思い出します」と書き送っている。



ラウル・デュフィ「画家のアトリエ」(1935、119.4×149.5cm)
イメージ 12

 1877年、ル・アーヴルに生まれたデュフィは、素描家としての訓練を積んだのち、エコール・デ・バザールへの奨学金を勝ち取る。1920年代に地中海を訪れモロッコを旅した経験が、彼の色づかいに新たな光をもたらした。1930年代、デュフィは芸術家のアトリエを題材としたいくつかの絵画を製作。
 本作はモンマルトルのゲルマ袋小路に位置するデュフィのアトリエを描いた作品であり、彼は1911年から亡くなるまでここを仕事場とした。左の壁には彼がビアンシーニ・フェリエのためにデザインした花柄のテキスタイルが確認でき、アトリエ全体には彼自身の絵画が散りばめられ、それらは同定することができる。こうした描写によって本作は、装飾家・デザイナー・画家としての彼の活動を深く理解するのに役立つ。カリグラフィを思わせる線描と大胆な色彩は、彼が仕事場で感じる喜びの反映であり、彼が屋内と外光と窓から見える空間との相互作用に関心をもっていたことを示している。このような無理のない自然さの感覚は、フィリップスが芸術においてもっとも愛した要素であった。本作が描かれた2年後、フィリップス家はデュフィを自宅へと招待している。マージョリー・フィリップスは、ユーモアに溢れた魅力的なデュフィの姿を回想している。



フアン・グリス「新聞のある静物」(1916、73.7×60.3cm)
イメージ 13

 エンジニアとしての訓練を2年間積んだのち、グリスは1906年にスペインを離れパリに定住する。当初はグラフィック・アーティストやイラストレーターとして活動しながら、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックと親交を結び、ふたりによるキュビスムの展開の目撃者となった。クリスは1911年までに、この芸術運動におけるもっとも名高い画家のひとりとしての地位を確立。分析的キュビスムにはじまり、コラージュを経て、綜合的キュビスムへと至るこの芸術様式の発展とともに歩んだ。
 建築的な外観をもつ本作は、コラージュを模倣するためにトロンプ・ルイユ(だまし絵)も効果をもちいている。暗色の色相豊かな画面を一筋の白が劇的に通り抜ける構成は、過去の美術史やスペインのバロック美術の遺産にグリスが傾倒していたことを思い起こさせる。
 自身の作品を過去の伝統を受け継ぐものにしたいと考えていたグリスは次のように説明する。「私の技法はかつてオールド・マスターがもちいたものである」。マルセル・デュシャンは1950年に「ソシエテ・アノニム」のための資金調達をおこなった際、本作の購入を希望していたダンカン・フィリップスにこれを持ちかけた。「我々(のコレクション)には初期キュビスムの重要な作例が欠けているが、本作はその欠落を実に完璧に埋める作品である」。



ハインリヒ・カンペンドンク「村の大通り」(1919頃、50.2×67.9cm)
イメージ 14

 ゴッホやセザンヌの芸術に見られる線と色彩の力は、カンペンドンクの初期絵画作品の着想源であった。カンペンドンクは芸術家グループ「青騎士」の一員として「青騎士年鑑」の出版に関わり、1911年に開催されたこのグループの最初の展覧会に参加している。
 彼は本作《村の大通り》において、表現主義的な色彩と単純化した形態をもちいることで、優しい動物たちと古風で風変わりな建物による個人的世界を描き出した。本作はフランツ・マルクやカンディンスキーによる作品、キュビスムや未来派、ロシアやバイエルン地方の民衆芸術から彼が受けた影響を示している。また田舎暮らしへの郷愁や図と地の関係性の軽視といった特徴は、マルク・シャガールからの影響である。
 本作の前の所有者であるキャサリン・ドライヤーは本作について、「曖昧で自由な空間に関する新たな考え方、色彩そして生命の表現にかけて唯一無二」の作品と言及している。カンペンドンクの熱心な支持者であったドライヤーは、彼の作品を展示し、彼を「ソシエテ・アノニム」、ドライヤーが1920年にマルセル・デュシャンやマン・レイとともに立ち上げた実験的前衛芸術団体の一員に加えている。フィリップスは1953年にドライヤーの遺作から本作を選んだ。



オスカー・ココシュカ「ロッテ・フランツォスの肖像」(1909、114.9×79.4cm)
イメージ 15

 オーストリアの画家兼版画家で文筆家でもあったココシュカは、モデルの心理の内なる本質を呼び起こすような肖像画を制作した。著名な法律家の妻であったロッテ・フランツォスは、ココシュカに本作の制作を依頼したが、ココシュカは彼女に強い憧れを抱いており、おそらくは愛していた。優美で儚くいくらか不穏にも見える身振り、線、色彩の巧みな表現によって、この肖像画は彼女を押し潰そうとする苛立ちの苛烈さをあらわしている。
 ココシュカは彼女に宛てて次のように書いている。「あなたの肖像は衝撃的だったのではないかと思います。人間が与える効果は首のところまでだと思われますか? 髪、手、服、動作、それらすべてが少なくとも等しく重要なのです」。彼女の頭部や肩、指先から放射される色と光は、彼女にこの世のものならぬ霊的な性質を与えている。ココシュカは後に次のように述懐している。「私はロウソクの炎のように彼女を描いた。内側には黄色と透き通ったライトブルー、そしてその周囲に鮮やかなダークブルーのオーラを・・・あらゆる優しさ、愛すべき親切さ、そして理解、それが彼女だったのです」。フィリップスとココシュカは連絡を取り続け、1949年にワシントンでココシュカが美術館を訪れた際に会っている。



パブロ・ピカソ「横たわる人」(1934、46.4×65.4cm)
イメージ 16

 横たわる裸婦は美術史の長い伝統から引き出されたモティーフであるが、本作の裸婦が表現するのはそれとは異なるもの、すなわち古典的なものとシュルレアリスム的なものとの衝突である。ピカソは表現力に富んだわずかな筆づかいによって、彼のモデルでありミューズでもあったマリー=テレーズ・ウォルターが装飾的な衝立の前に置かれた長椅子の上で四肢を伸ばして横たわる官能的な姿を描き出している。彼女は自分の世界に没頭しており、観者の視線に気づいていないように見える。豪勢な室内に肉感的でエロティックな人物像を描くこうしたタイプの作品は、1932年から34年にかけてのピカソの作品の多勢を占めていた。



ジョルジュ・ブラック「驟雨」(1952、34.9×54.6cm)
イメージ 17

 フォーヴのオリジナル・メンバーのひとりであったブラックは、色彩に溢れた風景画でそのキャリアを始めたが、その後それを放棄し、キュビスムという、より観念的な目標を追究するようになる。ブラックは1950年代に、おそらくは友人で芸術家仲間のニコラ・ド・スタールの影響を受けて、風景画に触覚的な質感を与えるという可能性を見出した。ブラックの粗い筆づかいやさまざまな厚みの筆致は、この場面に物質性を与えている。本作で4本の平坦な色の帯として表現されているノルマンディーの野は、彼にとって思い出深い場所であった。ブラックは青年時代、故郷のル・アーヴル近郊を自転車で駆け回っており、その趣味はヴァランジュヴィルでも続いた。



ジョルジュ・ブラック「フィロデンドロン」(1952、130.2×74cm)
イメージ 18

 ダンカン・フィリップスは、アメリカにおけるブラック芸術の普及促進に重要な役割をはたした人物である。彼は、多くのアメリカ人の観衆にヨーロッパのモダニズムを紹介した美術館館長、蒐集家、画商によって構成されるネットワークの一員であった。フィリップスは、伝統と結びつきながらも自律したブラックの精神に親近感を抱いていた。自身が館長を務めた45年の間に、彼は11点のブラックによる絵画を入手している。
 ブラックは第二次大戦後、複数の物体を視覚空間の中に配置するための難解で複雑な方法をますます探求するようになる。本作《フィロデンドロン》は、植物や描きかけのカンヴァス、自宅から持ち寄った品々で埋め尽くされた自身のアトリエを、暗く謎めいた雰囲気で描いた一連の作品のひとつである。本作には、ガーデンチェアと金属製のテーブル、その上に水差しと大きなリンゴが描かれている。物体は平坦に描かれ、まるで切り抜かれて表面に貼り付けられたかのようである。絵具の塗られていない剥き出しのカンヴァスが室内に光の効果を生んでおり、後景のハイライトと共鳴している。この椅子は1952年までにはブラックの作品に頻出するモティーフとなっていた。これはノルマンディー沿岸の実家から持ってきたもので、故郷への彼の愛着を象徴している。



イメージ 19
美術館の一角。ピエール・ボナールの「開かれた窓」(レプリカ)が飾ってありました。


◆グッズ・土産
・絵ハガキ
Viewing all 681 articles
Browse latest View live