昨夜、高野公彦編『北原白秋歌集』を読み終えました。
「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」(「桐の花」収録)は、人妻との恋愛を歌ったものですが、白秋はその女性の夫から姦通罪で訴えられます。結果的には免訴になりましたが、この事件の前後に詠んだ作品をみれば、白秋の精神的苦悩がよく分かります。
以下、一読して気になった歌を引用します。
「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」(「桐の花」収録)は、人妻との恋愛を歌ったものですが、白秋はその女性の夫から姦通罪で訴えられます。結果的には免訴になりましたが、この事件の前後に詠んだ作品をみれば、白秋の精神的苦悩がよく分かります。
以下、一読して気になった歌を引用します。
「桐の花」(1913)
かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし
美くしき「夜」の横顔を見るごとく遠き街見て心ひかれぬ
にほやかにトロムボーンの音は鳴りぬ君と歩みしあとの思ひ出
馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば
燕、燕、春のセエリーのいと赤きさくらんぼ啣(くは)え飛びさりにけり
いつしかに春の名残となりにけり昆布干場(ほしば)のたんぽぽの花
夏よ夏よ鳳仙花ちらし走りゆく人力車夫にしばしかがやけ
あまつさへキヤベツかがやく畑遠く郵便脚夫疲れくる見ゆ
夏の日はなつかしきかなこころよく梔子(くちなし)の花の汗もちてちる
あかしやの花ふり落す月は来ぬ東京の雨わたくしの雨
食堂の黄なる硝子をさしのぞく山羊の眼のごと秋はなつかし
武蔵野のだんだん畑の唐辛子いまあかあかと刈り干しにけれ
いと長き街のはづれの君が住む三丁目より冬は来にけむ
君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
雪の夜の紅きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ
沈丁の薄らあかりにたよりなく歯の痛むこそかなしかりけれ
かりそめにおん身慕ふといふ時もよき俳優(わざをぎ)は涙ながしぬ
春はもや静こころなし歇私的里(ヒステリー)の人妻の面(かほ)のさみしきがほど
温かに洋傘(かさ)の尖(さき)もてうち散らす毛莨(きんぽうげ)こそ春はかなしき
このおもひ人が見たらば蟇(ひき)となれ雨が降つたらへら鷺となれ
ただひと目君を見しゆゑ三味線の絃(いと)よりほそく顫ひそめにし
どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし
昨日君がありしところにいまは赤く鏡にうつり虞美人草(ひなげし)のさく
君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは紅しダリヤは紅し
鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり
日もすがらひと日監獄(ひとや)の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする
監獄(ひとや)いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に染(し)みわたる
十一月は冬の初めてきたるとき故国(くに)の朱欒(ザボン)の黄にみのるとき
春くれば白く小さき足の指かはゆしと君を抱きけるかな
「雲母集(きららしゅう)」(1915)
大空に何も無ければ入道雲むくりむくりと湧きにけるかも
朝霧にかぎり知られぬみをつくしかぎりもしらぬ恋もするかな
おめおめと生きながらへてくれなゐの山の椿に身を凭(よ)せにけり
生きの身の吾が身いとしくもぎたての青豌豆の飯(いひ)たかせけり
麫麵(パン)を買ひ紅薔薇の花もらひたり爽やかなるかも両手に持てば
かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻なれば
明るけどあまり真白きかきつばたひと束にすれば何か暗かり
海にゆかばこの寂しさも忘られむ海にゆかめとうちいでて来ぬ
石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼
櫂おつとり舟に飛び下りむちやくちやに漕ぎまはる赤き赤き夕ぐれ
日もすがら光り消えたりうねり波思ひ出したりまた忘れたり
駿河なる不二の高嶺をふり仰ぎ大きなる網をさと拡げたり
虔(つつ)ましきミレエが画(ゑ)に似る夕あかり種蒔人(たねまき)そろうて身をかがめたり
ライ麦の畑といはず崖といはず落日(いりひ)いつぱいに滴(したた)る赤さ
曼珠沙華の花あかあかと咲くところ牛と人とが田を鋤きてゐる
風はしる目ざめし如くあかあかと椿一時に耀く紅く
「雀の卵」(1921)
この妻は寂しけれども浅茅生(あさぢふ)の露けき朝は裾かかげけり
枇杷の葉の葉縁(はべり)にむすぶ雨の玉の一つ一つ揺れて一つ一つ光る
枇杷の葉の葉縁にゆるる雨の玉のあな落ちんとす光りて落ちたり
この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風
夏浅き月夜の野良の家いくつ洋燈(ランプ)つけたり馬鈴薯(じやがいも)の花
昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
太鼓一つとんとろと鳴れり炎天の遠(をち)ひた寂しかも青田見てゐて
遠雷(とほいかづち)とどろけば白き蝶の鞠の耀きてくづれまた舞ひのぼる
ながれ来て宙にとどまる赤蜻蛉(あかあきつ)唐黍の花の咲き揃ふうへを
椰子の実の殻に活けたる茶の花のほのかに白き冬は来にけり
刈小田に落穂搔き搔く雀いくつうしろ向けるは尻尾(しりを)上げて忙(せは)し
巣をつくる二羽の雀がうしろ羽根かすかにそよぐ春立つらむか
我やひとり離れ小嶋の椰子の木の月夜の葉ずれ夜もすがら聴く
蟹を搗き蕃椒(たうがらし)擂(す)り筑紫びと酒のさかなに噛む夏は来ぬ
夜祭の万燈の上にいよいよあがり大きなるかも今宵の月は
何ごとも夢のごとくに過ぎにけり万燈の上の桃色の月
麗(うら)らかに頭まろめて鳥のこゑきいてゐる、といふ心になりにけるかも
茶の聖(ひじり)千の利休にあらねども煙のごとく消(け)なむとぞ思ふ
「観相の秋」(1922)※長歌・俳句・詩文のみで、短歌はなし。
「風隠集」(1944、没後刊行)
みどり児が力こめたる掌(たなひら)に一つ手(た)にぎる小さきかやの実
山川のみ冬の瀞(とろ)に影ひたす椿は厚し花ごもりつつ
雪ふかしここの谿間(たにま)の湯の宿の湯気のこもりによくぬくもらむ
朝ひらく黃のたんぽぽの露けさよ口寄する馬の叱られてゆきぬ
わが宿の竹の林をのぞく子はつばきのあかき首環かけたり
山寺の春も闌(た)けたり秋田蕗の大きなる葉に雨は音して
この大地震(おほなゐ)避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る
萩すすき観つつ隣ればうらやすし今さらかはす言のすくなさ
吾庭の梅雨(つゆ)の雨間の花どころ藜(あかざ)しげりて青がへる啼く
「海阪(うなさか)」(1949、没後刊行)
月明き半島の夜を歩まむとし汐ふかき風をまづ吸ひにけり
あれだあれだ城ヶ島のとつぱづれに燈台の灯(ひ)が青う点(つ)いてる
ざるふりてすくふお前がうれしくておれは鰌になりにけるかも
ひようとして寒き風来る山はなに上衣(うはぎ)いそぎ着けぬ氷沢かも
七面鳥おほらかなるかな雌を追ふと広庭をまろく大きくまはる
燕麦(えんばく)は今刈り了(を)へて真夏なり修道院にいたるいつぽんの道
真夏日の光に聴けば遠どほし緬羊の声は人に似るなり
夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
日本のいやはての北の小学校水蝋樹(いぼた)蕾みて夏休みらし
ワレライマヤコクキヤウニアリ、むらさきの花じやがいもの盛りに打電す
まさしく津軽海峡に入りにけり早や見る青き草崖(くさがけ)のいろ
「白南風(しらはえ)」(1934)
水うちて月の門辺(かどべ)となりにけり泡盛の甕に柄杓添へ置く
秋の夜は前の書棚の素硝子に煙草火赤し我が映るなり
霜いたり空は濃青(こあを)き夜の明けに筑波の山はくきやかに見つ
半夏生(はんげしやう)早や近からし桐の葉に今朝ひびく雨を二階にて聴く
しやしやと来て篠懸(すずかけ)の葉をひるがへす青水無月の雨ぞ此の雨
日は暑しのぼり険しき坂なかば築石垣(つきいしがき)のこほろぎのこゑ
硝子窻月に開きて坐りけりつくゑにうつる壺と筆の影
しらしらと朝行く鷺の影見れば高くは飛ばず寒き水の田
昼餉(ひるげ)には庭の芝生にぢかに坐りわが眼先(まなさき)のかきつばたの花
たけ高きヒマラヤ杉の星月夜二階の窻に灯(ひ)のうごく見ゆ
颱風の逸れつつしげきあふり雨白萩の花のしとど濡れたる
赤松の木群(こむら)しづけきここの宮椎の若葉の時いたりけり
白南風(しらはえ)の光葉(てりは)の野薔薇過ぎにけりかはづのこゑも田にしめりつつ
唐辛子花咲く頃やほのぼのと炎天の畝に歪(ひず)む人かげ
水の田に薄氷(うすひ)ただよふ春さきはひえびえとよし映る雲行
この軍鶏の勢(きほ)へる見れば頸毛(くびげ)さへ逆羽(さかば)はららげり風に立つ軍鶏
よく冷やして冷(ひ)やき麦酒はたたき走る驟雨のあとに一気に飲むべし
ひらひらと風に吹かるる黄の揚羽蝶(あげは)立秋も今日は二日過ぎたり
「夢殿」(1939)
母(おや)の国筑紫この土我が踏むと帰るたちまち早や童(わらべ)なり
葉のとぢてほのくれなゐの合歓(ねむ)の花にほへる見れば幼な夕合歓
水の街棹さし来れば夕雲や鳰の浮巣のささ啼きのこゑ
爆竹の花火はぜちる柳かげ水のながれは行きてかへらず
柳河、柳河、空ゆうち見れば走り出(づ)る子らが騒ぎの手のとるごとし
風立てて我が家の空を過ぎにけるこのたまゆらよ機は揺れ揺れぬ
翼のかげ支柱に映りしづかなる飛行はつづく夕火照(ほて)る海
麦の秋夕かぐはしき山の手に観世音寺の講堂は見ゆ
春寒き旅順の港見おろしてましぐらに駛(はし)る自動車今あり
雲かとも山かとも思ふ地の駛朱(うるみ)蒙古は曠(ひろ)し日も落ちはてぬ
樹の下(もと)に出で立つ女丹(をみなに)の頬(ほ)して陽(ひ)は豊かなる香(かぐ)はしき空
菫咲く春は夢殿日おもてを石段(いしきだ)の目に乾く埴土(はにつち)
すれすれに波の面(も)翔(かけ)るひと列(つら)はすべて首伸べぬ羽ばたく青鴨
「渓流唱」(1943、没後刊行)
行く水の目にとどまらぬ青水沫(あをみなわ)鶺鴒の尾は触れにたりけり
うすうすに見のほそりつつ落つる影浄蓮の滝もみ冬さびたる
庭の木々影は幽(かす)けき午(ひる)過ぎて酒恋(こほ)しかも郭公徹る
仙波沼水もぬるむか春早やも河童の子らは抜手切りそむ
山川や青の水泡(みなわ)に棲む魚の山女(やまめ)はすがし眼も濡れにけり
乏しくも足りてこそあれ山人はただにつかへむ山河(やまかは)にのみ
暁、ただに一色(ひといろ)にましろなる霜の真実に我直面す
朝山は風しげけれや夏鳥の百鳥(ももどり)のこゑの飛びみだれつつ
「橡(つるばみ)」(1943、没後刊行)
銃殺の刑了りたりほとほとに言絶えにつつ夕飯(ゆふめし)を我は
物の葉やあそぶ蜆蝶(しじみ)はすずしくてみなあはれなり風に逸(そ)れゆく
ほのあかく花はけむりし庭の合歓(ねむ)風そよぐなり現(うつ)し実(み)の莢(さや)
遅々として遊べる見れば鴨は鴨鷺は鷺としおのづ寄りにけり
「黒檜(くろひ)」(1940)
照る月の冷(ひえ)さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲(し)ひてゆくなり
目の盲ひて幽かに坐(ま)しし仏像(みすがた)に日なか風ありて触りつつありき
ニコライ堂この夜(よ)揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり
暖房は後冷(あとびえ)きびし夜にさへや眼帯白くあてて寝むとす
花かともおどろきて見しよく見ればしろき八つ手のかへし陽(び)にして
雪降りてしづけかりとふ朝庭に春の時雨か音わたり来る
つきて見む一二三四五六七八九(ひふみよいむなやここ)の十(とを)手もて数へてこれの手鞠を
み眼は閉ぢておはししかなや面(おも)もちのなにか湛へて匂へる笑(ゑみ)を
ひと度は相見まつりき縁(えにし)なり日光菩薩加護あらせたまへ
端渓の硯の魚眼すがしくて立秋はいま水のごとあり
ガソリン・コールター・材香(きが)・沈丁と感じ来て春繁しもよ暗夜(やみよ)行くなり
触りよきは空(くう)にしだるる藤浪の下重(おも)りつつとどめたる房
成城十九番地月まどかなる春夕(しゅんせき)の暮れつつはありて明(あか)りつつあり
「牡丹の木(ぼく)「黒檜」以後」(1943、没後刊行)
内隠(うちこも)るふかき牡丹のありやうは花ちり方に観きとつたへよ
雲くらき暁早くねざめして先声(せんじやう)の蝉に涙とまらず
腕時計父のウオルサムと合はしゐて燈(ほ)かげ寒きにほつり母を言ふ
帰らなむ筑紫母国(おやぐに)早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます
北原白秋 1885年、柳川藩御用達の海産物問屋を営む旧家に生まれ、1904年に早稲田大学に入学。学業の傍ら詩作に励み、1909年、処女詩集「邪宗門」を発表。2年後、詩集「思ひ出」を発表。名実ともに詩壇の第一人者となります。その後も、「東京景物詩」「桐の花」などに代表される詩歌集、「とんぼの目玉」、「赤い鳥」などの童謡集などさまざまな分野で次々と作品を発表。 「雨ふり(雨雨フレフレ)」、「待ちぼうけ」、「からたちの花」・・・。 聴いたら誰もが知っている、今なお、語り継がれる作品を数多く残しています。 白秋の故郷柳川への思いは強く、30年ぶりに訪問した際には感激の涙を流し、また晩年に発表した、故郷柳川を舞台にした写真集「水の構図」では「水郷柳川は我詩歌の母体である」と述べています。 1942年11月2日死去。享年57でした。(北原白秋記念館HPより、一部改編)