今週、インターハイの応援のため、堺市(ハンドボール)と和歌山市(剣道)に行って来ました。
和歌山市ではホテルの目の前が和歌山城だったので、空いた時間に見学することができました。和歌山城は標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に築かれた平山城で、天守閣までは簡単に行けましたが、着いた途端に汗が吹き出しました。でも、大天守に登ると涼しい風が吹いていて、とても爽快でした。
和歌山市ではホテルの目の前が和歌山城だったので、空いた時間に見学することができました。和歌山城は標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に築かれた平山城で、天守閣までは簡単に行けましたが、着いた途端に汗が吹き出しました。でも、大天守に登ると涼しい風が吹いていて、とても爽快でした。
ホテルの部屋から和歌山城を望む。
裏坂より天守閣をめざす。
南東側より天守閣を望む。
南西側より天守閣を望む。
楠門をくぐり、天守閣へ。
天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。 姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。(Wikipediaより)
大天守より和歌山市内を望む。
和歌山城(和歌山市HPより)
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎でした。
その後、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。そして、元和5年(1619)には徳川家康の第10男頼宣が入城し、紀州藩55万5千石の居城となり、以来、尾張・水戸と並び、徳川御三家のひとつとして長い歴史を刻んできました。
明治となってから和歌山城は和歌山公園として公開され、昭和10年には天守閣が国宝に指定されました。
その貴重な文化遺産は、昭和20年7月9日の戦災によりその英姿を一夜にして焼失してしまいましたが、市民の熱意と浄財によって昭和33年10月1日、天守閣は見事に再建されました。
その後も一の橋・大手門の再建や御橋廊下の復元はじめ、整備が続けられています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎でした。
その後、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。そして、元和5年(1619)には徳川家康の第10男頼宣が入城し、紀州藩55万5千石の居城となり、以来、尾張・水戸と並び、徳川御三家のひとつとして長い歴史を刻んできました。
明治となってから和歌山城は和歌山公園として公開され、昭和10年には天守閣が国宝に指定されました。
その貴重な文化遺産は、昭和20年7月9日の戦災によりその英姿を一夜にして焼失してしまいましたが、市民の熱意と浄財によって昭和33年10月1日、天守閣は見事に再建されました。
その後も一の橋・大手門の再建や御橋廊下の復元はじめ、整備が続けられています。