先日、『完全保存版 知っておきたい! 密教の仏像入門』を購入しました。
以下、密教や密教の仏像について、いくつか基本的なことを引用します。
以下、密教や密教の仏像について、いくつか基本的なことを引用します。
◆密教とは「秘密の仏教」(P2)
密教とは秘密の仏教の略です。この秘密は隠し事をいうのではなく、万物の奥に人知では計り知れない不思議な力が働いているということを意味しています。
考えてみれば、例えばお米にも、たくさんの不思議があります。お米は、農家の人の働きだけでなく、田んぼの土の中の無数の生き物、水や日光、適度な気温など、全体がうまく働かなくては稔りません。そして、日が昇り、水が川を流れることにも、いまだ科学では解き明かせない神秘があります。それが万物の奥にある秘密ですが、真言密教の開祖、空海は2つの秘密があるといいます。1つは如来の秘密。もう1つは衆生(しゅじょう、人びと)の秘密です。
如来の秘密は、万物の奥にある神秘。何事もその働きなくしては成り立ちません。いっぽう衆生の秘密は、人の心は目先の利害や思い込みなどの迷い(煩悩)におおわれていて、万物の神秘を見ようとしないことです。しかし、隠された如来の秘密は、三密加持によって、誰にでも公開されているのだと空海はいいます。
仏教には「身口意の三業(しんくいのさんごう)」という言葉があります。業は行いを意味し、「身業」は身体の行動、「口業」は言葉を発すること、「意業」は意識の動きです。それを密教では三密といいます。稲の稔りにも働いている様々なことは、如来の三密の不思議な働きだと考えられます。また、人の三業も如来の三密と一体のものとして人の身口意も三密といます。
三密加持の加持という言葉は、一般に祈祷と同じ意味で使われますが、空海は『即身成仏義』で、「加持とは如来の大悲(だいひ、仏の大きな慈悲)と衆生の信心を表す。仏日の影(仏の光)が衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持となづく」といいます。
仏が人の心に映ることが加持だということですが、具体的には手で印を結んで、口で真言を唱え、意識を仏に向けて念ずることです。
そして即身成仏とは、人が生身の肉体のままで仏になることですが、何か特別な能力を得たり、ミイラになったりすることではありません。仏と人が融けあって、一体の境地になることをいいます。
この即身成仏が、空海の密教の究極の目標ですが、実際には仏の加護を願って様々な祈祷が行われ、それを修法(しゅほう)といいます。
密教とは秘密の仏教の略です。この秘密は隠し事をいうのではなく、万物の奥に人知では計り知れない不思議な力が働いているということを意味しています。
考えてみれば、例えばお米にも、たくさんの不思議があります。お米は、農家の人の働きだけでなく、田んぼの土の中の無数の生き物、水や日光、適度な気温など、全体がうまく働かなくては稔りません。そして、日が昇り、水が川を流れることにも、いまだ科学では解き明かせない神秘があります。それが万物の奥にある秘密ですが、真言密教の開祖、空海は2つの秘密があるといいます。1つは如来の秘密。もう1つは衆生(しゅじょう、人びと)の秘密です。
如来の秘密は、万物の奥にある神秘。何事もその働きなくしては成り立ちません。いっぽう衆生の秘密は、人の心は目先の利害や思い込みなどの迷い(煩悩)におおわれていて、万物の神秘を見ようとしないことです。しかし、隠された如来の秘密は、三密加持によって、誰にでも公開されているのだと空海はいいます。
仏教には「身口意の三業(しんくいのさんごう)」という言葉があります。業は行いを意味し、「身業」は身体の行動、「口業」は言葉を発すること、「意業」は意識の動きです。それを密教では三密といいます。稲の稔りにも働いている様々なことは、如来の三密の不思議な働きだと考えられます。また、人の三業も如来の三密と一体のものとして人の身口意も三密といます。
三密加持の加持という言葉は、一般に祈祷と同じ意味で使われますが、空海は『即身成仏義』で、「加持とは如来の大悲(だいひ、仏の大きな慈悲)と衆生の信心を表す。仏日の影(仏の光)が衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持となづく」といいます。
仏が人の心に映ることが加持だということですが、具体的には手で印を結んで、口で真言を唱え、意識を仏に向けて念ずることです。
そして即身成仏とは、人が生身の肉体のままで仏になることですが、何か特別な能力を得たり、ミイラになったりすることではありません。仏と人が融けあって、一体の境地になることをいいます。
この即身成仏が、空海の密教の究極の目標ですが、実際には仏の加護を願って様々な祈祷が行われ、それを修法(しゅほう)といいます。
◆密教の仏像に見られる4つの大きな特徴(P33、P46-47)
”従
四天王像など、ちょっと怖い顔をした仏像はありましたが、牙を剥くような怖い顔の仏像が登場したのは密教からです。いわゆる忿怒相といわれるものです。
四天王像など、ちょっと怖い顔をした仏像はありましたが、牙を剥くような怖い顔の仏像が登場したのは密教からです。いわゆる忿怒相といわれるものです。
∋僉淵檗璽此
インド的(ヒンドゥー的)な表現をするところに密教の特徴があります。したがって手の数が増えてきました(多臂化)。
インド的(ヒンドゥー的)な表現をするところに密教の特徴があります。したがって手の数が増えてきました(多臂化)。
0畫
おおむねインド的な服装をしています。いわゆる条帛という薄いたすき掛けの衣と腰衣ぐらいで、あまり厚着はしません。
おおむねインド的な服装をしています。いわゆる条帛という薄いたすき掛けの衣と腰衣ぐらいで、あまり厚着はしません。
ぐ篁
密教以前にも、印相はありましたが、密教以後は一つひとつの仏像の印相に細かく意味づけがされるようになりました。また持物も、帝釈天なら独鈷杵(とっこしょ)というように、その仏様を表す標識(シンボル)になっていったのです。
密教以前にも、印相はありましたが、密教以後は一つひとつの仏像の印相に細かく意味づけがされるようになりました。また持物も、帝釈天なら独鈷杵(とっこしょ)というように、その仏様を表す標識(シンボル)になっていったのです。
※その他
仏像が乗る台座も、多様化しました。密教以前の多くは蓮華座でしたが、密教以後は動物を表した獣座などが増えたのです。
密教の仏は、呪文である真言を必ず持っています。真言とは、サンスクリット語の「マントラ」を漢訳した言葉で、密語または陀羅尼と呼ばれています。例えば、金剛界大日如来に呼びかけ、祈る時には「オン・バザラダトバン」という真言を唱えます。
密教の仏は曼荼羅の中に登場します。
仏像が乗る台座も、多様化しました。密教以前の多くは蓮華座でしたが、密教以後は動物を表した獣座などが増えたのです。
密教の仏は、呪文である真言を必ず持っています。真言とは、サンスクリット語の「マントラ」を漢訳した言葉で、密語または陀羅尼と呼ばれています。例えば、金剛界大日如来に呼びかけ、祈る時には「オン・バザラダトバン」という真言を唱えます。
密教の仏は曼荼羅の中に登場します。
◆不動明王などの明王像は、密教オリジナルの尊格(P46)
現在、仏像は大きく分けて「如来・菩薩・明王・天部」の4つのカテゴリーがあります。その中で、まず明王像はすべて密教オリジナルの尊格なので、顕教の明王像は存在しません。つまり、それ以外の如来・菩薩・天部の仏像の中に、密教像と顕教像があるわけです。
現在、仏像は大きく分けて「如来・菩薩・明王・天部」の4つのカテゴリーがあります。その中で、まず明王像はすべて密教オリジナルの尊格なので、顕教の明王像は存在しません。つまり、それ以外の如来・菩薩・天部の仏像の中に、密教像と顕教像があるわけです。