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『「美術的に正しい」仏像の見方』を読みました。

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今日、布施英利『「美術的に正しい」仏像の見方』(15.4)を読みました。昨日、東京国立博物館のミュージアムショップで見つけた本で、帯の「人はなぜ、30歳を過ぎると仏像が好きになるのか?」というコピーに惹かれて購入しました。

独自の視点
 インドから、中国、朝鮮半島を経て、日本へと仏像が伝来してくる過程で、インドで発明された仏像は、その性格を変質させていきます。日本において、二つの「自然」が、仏像に新たな息吹として吹き込まれたのです。一つは「子どもの身体」という自然です。そして、もう一つは「森の樹木」という自然です。
 仏像に限りませんが、文化は伝播していく中で、形骸化して、その本来の意味を失っていくものです。それは文化が伝わる、長い時間が流れるということにともなう必然で、それを風化というのでしょう。しかし仏像は、日本で形骸化して風化して消えていくことなく、新たな生命を吹き込まれ、何度も甦ったのです。
 あるときは、身近にいる子どもに、人生の価値と、人の心をつかむ何かを感じ、それを仏像に取り込み、仏像の隠し味としました。またあるときは、森の樹木に世界の根源に通じる何かを感じ、それをまた仏像の命として吹き込みました。そんなふうにして、仏像は、インドで誕生して五百年、千年が過ぎても、その意味と生き生きした存在感を失うことなく生き延びたのです。日本ならではの仏像となったのです。
 仏像に、子どもの面影を見る、森の空気を感じる。そのとき、私たちは仏像というメディアを介して、世界の本質であるかもしれない何かを感じ、救われ、癒され、悦びが自分の体と心の中に湧き上がってくるのを感じます。
 子どもの体と、森の樹木。
 この二つの自然であるアニミズムの神たちは、日本の仏像となったのです。(P193-94)
※ブックカバー裏表紙のプロフィールによると、著者は「古今東西の様々な美術を対象に、とくに美術における人体像を解剖学の視点から研究している」とのこと。仏像を解剖学の視点から解説したり、この引用文のように仏像の姿・形を独自の観点から述べています。

仏像と向かい合う
 この『弥勒菩薩半跏思惟像』は、いま説明した「こころ」を造形したものだというのです。そして、忘れてはならないのは、人間は体を持っている限り、誰の中にも、その「こころ」がある、ということです。仏像を鏡のようにして、そこに自分の中にある「こころ」を映し出す。普段は忘れてしまって、気がつかないでいるかもしれない自分の中の「こころ」を、仏像と向かい合うことで再発見し、引き出すことができる、というわけです。
 祈りとは、何でしょう? 家内安全、合格祈願、恋愛成就、そういう現実的な願いはもちろん誰もが持つものでしょう。しかし仏像が私たちに与えてくれるのは、それ以上にもっと大切なもの(=揺るがないもの)は、「こころ」に気づくことなのでしょう。中宮寺の『弥勒菩薩半跏思惟像』は、そういう「こころ」を映し出すことのできる仏像なのです。(P85)
※仏像と向かい合うこと。それは自分自身と向かい合うことでもあります。

◆(著者がすすめる)仏像をめぐる旅
(1)まずは、奈良公園
 ・興福寺、東大寺、奈良国立博物館、新薬師寺
(2)次に、西ノ京と斑鳩あたり
 ・唐招提寺、薬師寺、法隆寺、中宮寺、法輪寺
(3)そして、奈良県の南部・山間の寺
 ・聖林寺、室生寺
(4)さらに、京都府と京都市
 ・観音寺、蟹満寺、浄瑠璃寺
 ・東寺、三十三間堂、千本釈迦堂(大報恩寺)

※近いうちに、三十三間堂と千本釈迦堂(大報恩寺)には行く予定です。奈良には秋に行こうと思っていましたが、夏にクルマで行こうかなって思い始めました。

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