上宮王院太子殿(本堂)
見仏二日目、この日最初に訪ねたのは広隆寺でした。ホテルを出たのが少し早かったので、お寺に着いてから受付で暫く待ちました。でも、その静かな時間がとてもよかったと思います。落ち着いた気持ちで見仏に向かうことが出来ました。
広隆寺に来たのは「弥勒菩薩半跏思惟像」を見るためで、目当ての仏像は新霊宝殿に安置されていました。新霊宝殿には他にも多くの仏像が安置されており、そちらをゆっくり見てから「弥勒菩薩半跏思惟像」の前に行きました。
広隆寺に来たのは「弥勒菩薩半跏思惟像」を見るためで、目当ての仏像は新霊宝殿に安置されていました。新霊宝殿には他にも多くの仏像が安置されており、そちらをゆっくり見てから「弥勒菩薩半跏思惟像」の前に行きました。
◆弥勒菩薩半跏思惟像
弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかし(ゆ)いぞう) は、仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右?茲にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像である。日本には大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、飛鳥、奈良時代の作品が多く残されている。
中でも有名な京都市太秦の広隆寺新霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。しかしこの像は、当時多くの仏像が楠で造られているのに対して赤松で造られているため、『日本書紀』記載の推古31年(623年)に新羅から伝来したものとする説が有力であった。ところが1968年、大きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明し、断定できなくなっている。この像の右の腰から下げられた綬帯(じゅたい)は、以前から楠木であることは知られていたが、これは後に付加したものとして考慮されていなかったが、二箇所の、特に背板に楠材が使用されていることは、楠が朝鮮半島南部に自生しているが、日本での使用例が多いため、日本で造像された可能性も出てきた。
なお、制作時は漆で金箔を貼り付けた漆箔像であった。
ヤニが出にくい赤松が素材に使用されているため余分な清掃の必要がなく、清掃作業中の人的過失によって破損してしまうことがなかった。また赤松と楠という2つの材質の含水率の違いから熱伝導率に差が生じ、外部の温度が上昇すると接着部に水蒸気の層が発生する。これがバリアの役目を果たすため、高温や急激な温度変化に強い特徴をもつ。これらの理由によって現代まで良好な状態のまま保たれたと考えられている。
弥勒菩薩の微笑みは「アルカイク・スマイル」として知られている。またその姿がオーギュスト・ロダンの考える人を想起させることから、「東洋の詩人(フランス語: Po??te de l'Est)」との愛称をもつ。偶然ではあるが、最後の審判の話がミトラ教の影響で生まれたことを考えると、ここに不可思議な因縁を感じることができる。
像高123.3cm(足元からの高さ、台座からは約147cm)(Wikipediaより)
※新霊宝殿の中心に位置する「(宝冠)弥勒菩薩半跏思惟像」(飛鳥時代)の横に、「(宝髻)弥勒菩薩半跏思惟像」(白鳳時代)が安置されていました。伏し目がちでうつむき気味な顔が、まるでホロリと涙をこぼしているようにも見えることから「泣き弥勒」と呼ばれているそうです。小さな仏像ですが、とても印象に残りました。中でも有名な京都市太秦の広隆寺新霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。しかしこの像は、当時多くの仏像が楠で造られているのに対して赤松で造られているため、『日本書紀』記載の推古31年(623年)に新羅から伝来したものとする説が有力であった。ところが1968年、大きく抉られた内繰りの背板に楠材が使用され、背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明し、断定できなくなっている。この像の右の腰から下げられた綬帯(じゅたい)は、以前から楠木であることは知られていたが、これは後に付加したものとして考慮されていなかったが、二箇所の、特に背板に楠材が使用されていることは、楠が朝鮮半島南部に自生しているが、日本での使用例が多いため、日本で造像された可能性も出てきた。
なお、制作時は漆で金箔を貼り付けた漆箔像であった。
ヤニが出にくい赤松が素材に使用されているため余分な清掃の必要がなく、清掃作業中の人的過失によって破損してしまうことがなかった。また赤松と楠という2つの材質の含水率の違いから熱伝導率に差が生じ、外部の温度が上昇すると接着部に水蒸気の層が発生する。これがバリアの役目を果たすため、高温や急激な温度変化に強い特徴をもつ。これらの理由によって現代まで良好な状態のまま保たれたと考えられている。
弥勒菩薩の微笑みは「アルカイク・スマイル」として知られている。またその姿がオーギュスト・ロダンの考える人を想起させることから、「東洋の詩人(フランス語: Po??te de l'Est)」との愛称をもつ。偶然ではあるが、最後の審判の話がミトラ教の影響で生まれたことを考えると、ここに不可思議な因縁を感じることができる。
像高123.3cm(足元からの高さ、台座からは約147cm)(Wikipediaより)
◆グッズ・土産
・絵葉書「弥勒菩薩」「廣隆寺」
・御守
・絵葉書「弥勒菩薩」「廣隆寺」
・御守
【参考】 https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000064
■広隆寺
■広隆寺
広隆寺は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺(うずまさでら)などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。
帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。(Wikipediaより、一部改編)
帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。(Wikipediaより、一部改編)