薬師寺金堂
3年前に薬師寺を訪れた時、東塔は解体工事中(平成21年~32年の予定)だったし、聖観音は石川県に御遷座中で「御分身」(レプリカ)しか見られませんでした。今回はレンタカーを使ったので、時間的に余裕ができ、薬師三尊と聖観音をゆっくり拝観することができました。
◆薬師三尊像
金堂内部を外から覗く。中央に薬師如来、右に日光菩薩。
手前から、日光菩薩立像、薬師如来坐像、月光菩薩立像。(JR東海キャンペーンポスター)
新羅の半島統一といった国際情勢も影響して、7~8世紀の日本は不安定な時代でした。その雰囲気を象徴するかのように、飛鳥時代末期の非常に短い期間に花開いたのが白鳳文化でした。法隆寺などの飛鳥仏の造形とは明らかに違い、自然なバランスの肉体表現を持つ、きわめて完成度の高い造形を示しています。
薬師寺は、今は奈良市西ノ京にありますが、もとは飛鳥地方の藤原京に建てられた寺院を前身とします。『日本書紀』によりますと、680年に天武天皇が皇后の病気平癒を願って発願し、平城遷都後に現在地に移転されました。
薬師如来は、東の彼方の薬師浄土の盟主で、毎朝、日月をこの世に送り出す生命力の如来ですので、日光菩薩・月光菩薩が脇を固めています。この脇侍は、中尊を中心にほぼ完璧な鏡像関係(鏡で映したように完全に左右逆転している)をしており、完璧な三尊形式を構成しています。いずれも鼻梁が高く切れ長の美しい目が白鳳様式を特徴付けていますが、はたしてこの造形の源流はどこにあるのでしょう。(藪内佐斗司『仏像礼讃』より)
薬師寺は、今は奈良市西ノ京にありますが、もとは飛鳥地方の藤原京に建てられた寺院を前身とします。『日本書紀』によりますと、680年に天武天皇が皇后の病気平癒を願って発願し、平城遷都後に現在地に移転されました。
薬師如来は、東の彼方の薬師浄土の盟主で、毎朝、日月をこの世に送り出す生命力の如来ですので、日光菩薩・月光菩薩が脇を固めています。この脇侍は、中尊を中心にほぼ完璧な鏡像関係(鏡で映したように完全に左右逆転している)をしており、完璧な三尊形式を構成しています。いずれも鼻梁が高く切れ長の美しい目が白鳳様式を特徴付けていますが、はたしてこの造形の源流はどこにあるのでしょう。(藪内佐斗司『仏像礼讃』より)
◇薬師如来といえば、普通左手に薬壺を持っているが、この像は持っていない。薬師如来が薬壺を持つようになるのは、平安初期以降のことだという。
◇(日光・月光菩薩は)片足に重心をかけ薬師如来を挟んで左右対称のように見えるが、よく見ると頭部と天衣の飾りに微妙な違いがある。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)
◇(日光・月光菩薩は)片足に重心をかけ薬師如来を挟んで左右対称のように見えるが、よく見ると頭部と天衣の飾りに微妙な違いがある。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)
◆聖(しょう)観世音菩薩立像
東院堂。聖観音はここに安置されています。
聖観世音菩薩立像(薬師寺HPより)
貴公子のような美しい立ち姿(金銅/白鳳期・奈良時代の前半/像高188.9cm)
東院堂の中央の大きな厨子に、安置されている聖観音菩薩。金堂の日光菩薩・月光菩薩と同じように黒光りし、衣が足にぴったりとまつわりついているが、腰はひねっておらず直立不動のお姿。衣は、左右対称。冠をつけているのではなく、高く結い上げられた頭髪の左右に唐草模様の飾りがあるのが珍しい。聖観音がよく手にしている蓮の花や水瓶は、持っていらっしゃらない。くっきりとした目鼻立ちで微笑されていて美しい。一説では、19歳で悲劇の死を遂げた有間皇子がモデルともいわれている(大津皇子がモデルという説もあり)。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)
東院堂の中央の大きな厨子に、安置されている聖観音菩薩。金堂の日光菩薩・月光菩薩と同じように黒光りし、衣が足にぴったりとまつわりついているが、腰はひねっておらず直立不動のお姿。衣は、左右対称。冠をつけているのではなく、高く結い上げられた頭髪の左右に唐草模様の飾りがあるのが珍しい。聖観音がよく手にしている蓮の花や水瓶は、持っていらっしゃらない。くっきりとした目鼻立ちで微笑されていて美しい。一説では、19歳で悲劇の死を遂げた有間皇子がモデルともいわれている(大津皇子がモデルという説もあり)。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)
◆グッズ・土産
・御守(東院堂)
・御守(東院堂)