Quantcast
Channel: my photo diary
Viewing all articles
Browse latest Browse all 681

my 見仏記14~秋篠寺

$
0
0
イメージ 1
秋篠寺南門


これまで何度か秋篠寺を訪ねましたが、本堂に置かれた多くの仏像がかもし出す雰囲気は感じつつも、伎芸天以外にはほとんど目もくれなかったように思います。今回は、伎芸天以外の仏像にも注目して見仏しました。
本尊の薬師如来を中心に、外側に向かって日光・月光菩薩、十二神将、不動明王、地蔵菩薩、帝釈天、そして伎芸天が配置されていました。もちろん、伎芸天の美しさが際立っていましたが、彼女だけがポツンと宝物館などに置かれていたとしたら、彼女の美しさもそれほどには感じないと思います。

本堂
イメージ 2

鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つである。正面5間、側面4間。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている[2]。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。堂内には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などを安置する。(wikipediaより)

伎芸天立像(JR東海キャンペーンポスター)
イメージ 3

 秋篠寺は奈良時代の末、780年頃光仁天皇の勅願によって建立され、薬師如来を本尊とする寺であるが、伎芸天像もこの寺の創建の頃、他の多くの仏像とともに造顕されたものと思われる。しかしその後、平安時代の末、1135年兵火のために金堂等が焼失した際、この伎芸天像も御首部を残し御胴体が大きく破損し、鎌倉時代に於て再び御胴体が造られ現在のお姿を見るに到った。したがって現在のお像は御首部だけが奈良時代の作(乾漆造)であり、御頸部以下御胴体は鎌倉時代の作(寄木造)であるが、ともにきわめて写実的な作風をもって全体が統一され、かすかに憂いをおびた表情の優美さとともに肢体の豊満さと、まれに見る微妙な動きはこの天女像の大きな特色である。
 伎芸天に捧げるお祈りのことば「ナウマク マケイシバラヤ オン シマイシキャヤ ソワカ」
(「伎芸天写真」に添付されたリーフレット「秋篠寺 伎藝天像」より、一部改編)

東洋のミューズは芸の守護神(頭部:脱活乾漆造、体部:木造/頭部:奈良時代、体部:鎌倉時代/像高206.6cm)
 美しく色っぽいことで有名な伎芸天。「東洋のミューズ」とも呼ばれている。伎芸天の像が安置されているのは、日本の古寺ではここだけといわれている。兵火により、奈良時代につくられた乾漆造の頭部のみが残った。それで、体は鎌倉時代の寄木造りの補作。でも頭と体に不自然さは感じられない。この美しい伎芸天はシヴァ神が音楽に興じているときに、彼の髪の生え際から生まれたといわれている。だから唇をわずかに開き、歌を歌っているように見える。音楽やその他の芸の守護神とされる。2mもあり大柄だけれど、威圧感はない。左に首をかしげて、右下に顔を向けた目線が優しげである。目線の先に行くと、目があったような気がして、ドキッとした。(田中ひろみ『拝んでしあわせ 奈良の仏像100』より)

イメージ 4
以前同じ時期に訪ねた時は萩が満開だったように記憶していますが、今回はまだほとんど咲いていませんでした。

◆グッズ・土産
・伎芸天写真(4枚組)
・御守

Viewing all articles
Browse latest Browse all 681

Trending Articles