Quantcast
Channel: my photo diary
Viewing all articles
Browse latest Browse all 681

my 見仏記15~観音寺

$
0
0
イメージ 1
観音寺本堂

台風10号接近の影響による雨の中、京田辺市にある観音寺に着きました。
庫裏の玄関口で声をかけると住職が現れ、本堂に案内されました。
そこで住職から観音寺の由来や十一面観音立像の説明を受けましたが、国宝の十一面観音立像を間近に拝観できたことは喜びとともに、驚きでもありました。観音寺の十一面観音立像は、前日拝観した聖林寺(しょうりんじ)の十一面観音立像と同じ木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)だということ。また、観音寺は南山城(京都府)にあるけれど、ここの十一面観音立像は天平文化を代表する仏像だということを教えていただきました。

十一面観音立像(京田辺市観光協会HPより)

イメージ 2

 御本尊十一面観世音菩薩はこの普賢教法寺の御本尊で、古記録によりますと天平16年(744)安置されたものであります。天下泰平と国民豊楽の祈願をこめられた御霊像で、その後千二百余年の間、世の変遷につつがなくいまし、今にその御霊徳をおわかち下さって居るのであります。この十一面観音様は四種功徳、十種勝利と申しまして、我々の苦難をお救い下さる観音様のうちでも特にすぐれた御利益がお経にとかれて居ます。要約いたしますと、常に我々と共にあって、無病息災に、不時の災難をのがれさせ、種々の祈願を成就せしめるとの御誓願であります。(大御堂観音寺「略縁起」より)

 観音寺がある京田辺市は、京の南であったことから、古くは南山城と呼ばれ、近くを流れる木津川流域には、興福寺の末寺であった岩船寺、笠置寺、海住山寺、神童寺が建ち並ぶ。それらのお寺の中で、一番北にあたる観音寺は、興福寺の別院として大いに発展し、京都府にあって、奈良時代の天平文化の流れを伝える最北端の寺院であった。
 ゆえに観音寺には、天平文化の至宝と称される木心乾漆造の国宝・十一面観音像が伝えられている。
 古い記録によると、この十一面観音像は平安京ができるちょうど50年前の744年(天平16)に、良弁(ろうべん)上人が、この地に安置した仏像と伝わる。
 「木心乾漆造は、平安期の一木造や寄木造など彫るという技法ではなく、木を粗彫りし、内刳りをして、その上に漆を盛って造る技法になります。漆の厚さは薄いところで約5mm、厚いところで約2cmになります。天平時代独特の技法ですが、当時としては、莫大な費用と時間を要したと考えられています。」(観音寺・三神栄弘住職談)
 気品あふれる姿、慈悲に満ちた柔和な表情など、観音寺の十一面観音像は、天平文化の造形や特徴をまさに伝えている。
(出版社『絶対に訪ねたい! 京都の仏像 千年の都で美仏をめぐる。』より、一部改編)

 本像の像高は172.7センチ。8世紀後半の制作であり、一木造の心木の上に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形する木心乾漆造という技法を用いている。この技法は、骨組みをのぞくと基本的に漆を塗布した麻布だけを用いる脱活(だっかつ)乾漆像に比べれば、まだ安価で簡便だが、それでも木造に比べればはるかに高価かつ高度な技術を必要とするため、平安初期を最後に、制作されなくなってしまう。逆に言えば、この技法を用いた仏像は、非常に恵まれた環境下で制作されたことを示唆している。
 8世紀にこの技法を用いて制作された十一面観音立像の作例は、他に奈良の聖林寺の十一面観音立像しかない。この2つの像は、技術的に共通するのみならず、頭上の変化面が小さめに造形されている点、ともすると異様な感じをあたえがちな本面両側の脇面を省略している点も共通する。これら造形上の特徴は、日本人の平明さを好む志向を表しているという指摘もあり、その後の十一面観音像の典型を創作したという意味で、きわめて重要である。これはあくまで私見にすぎないが、観音寺像のほうが聖林寺像よりも、表情が温和で、より日本化しているように思える。いわば和風の美形である。
(出版社『完全保存版 日本の美仏 仏像はなぜ美しいのか?』より)

◆グッズ・土産
・十一面観音立像写真(2枚)

Viewing all articles
Browse latest Browse all 681

Trending Articles