先日、野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』を読みましたが、柴田元幸氏による新訳が出ている(2012.7)ことを知ったので、さっそく購入しました。
柴田訳『ナイン・ストーリーズ』には、村上春樹訳『フラニーとズーイ』がそうだったように「あとがき」や「解説」の類いは掲載されていません。巻末には「原著者の要請により」とありますが、サリンジャーが自分の本に自分の作品以外の余分なものを入れることを固く禁じているからです。
以下に別冊折り込みとして添えられている「訳者あとがき(の・ようなもの)」を引用します。
以下に別冊折り込みとして添えられている「訳者あとがき(の・ようなもの)」を引用します。
小説を訳すのはいつでも「耳を澄ます」営みだが、この『ナイン・ストーリーズ』を訳していたときは、いつにも増して、語り手や登場人物の言葉や息づかいに耳を澄まし、彼らのしぐさや周りにあるいろんな物に目を凝らしていた気がする。暑い夏の午後に、薄暗い部屋にこもってこの小説を訳している自分が、ペンは持っているのだけれど何も書かずに、紙の向こうにいる人たちがくっきり見えくっきり聞こえてくるのを待っている姿が、ほとんど目に浮かぶ気がする。聴覚的にも視覚的にもできるだけノイズのないよう(結果はともかく志としては)努めた訳文を介して、世界に対してムカツいていたり、過剰な自意識を抱え込んでいたり、傷から癒えるすべを探っていたりするサリンジャー世界の人たちが、読む人の目の前に見えてくれば嬉しい。そうやって見えてきた人たちは、善人とか悪人とかいった「物語」的な判断を下される前の、いわば丸腰の個人である。そういう丸腰の個人を浮かび上がらせるのが小説のひとつの仕事だとすれば、『ナイン・ストーリーズ』ほどあざやかにその仕事をなしとげている小説もそうザラにないのではないかと思う。
【収録作品】( )内は野崎孝訳のタイトル
◆バナナフィッシュ日和(バナナフィッシュにうってつけの日)
◆コネチカットのアンクル・ウィギリー(コネティカットのひょこひょこおじさん)
◆エスキモーとの戦争前夜(対エスキモー戦争の前夜)
◆笑い男(笑い男)
◆ディンギーで(小舟のほとりで)
◆エズメに――愛と悲惨をこめて(エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに)
◆可憐なる口もと 緑なる君が瞳(愛らしき口もと目は緑)
◆ド・ドーミエ=スミスの青の時代(ド・ドーミエ=スミスの青の時代)
◆テディ(テディ)
◆バナナフィッシュ日和(バナナフィッシュにうってつけの日)
◆コネチカットのアンクル・ウィギリー(コネティカットのひょこひょこおじさん)
◆エスキモーとの戦争前夜(対エスキモー戦争の前夜)
◆笑い男(笑い男)
◆ディンギーで(小舟のほとりで)
◆エズメに――愛と悲惨をこめて(エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに)
◆可憐なる口もと 緑なる君が瞳(愛らしき口もと目は緑)
◆ド・ドーミエ=スミスの青の時代(ド・ドーミエ=スミスの青の時代)
◆テディ(テディ)