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my 見仏記35~石道寺

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 西野薬師堂を出て、次に向かったのは石道(いしみち)という集落にある石道寺(しゃくどうじ)です。このお寺には井上靖の小説『星と祭』に登場する、赤い唇の十一面観音が安置されています。『星と祭』を読み、ぜひ見たいと思っていた仏像なので、念願叶って幸せな気分になりました。

石道寺(しゃくどうじ)
 もと石道寺、ここから東1キロの山間にあって神亀3年(726)延法上人が開基され、延暦23年(804)伝教大師によって再興、本尊の十一面観音を祀り、己高山(ここうざん)石道寺と命名し比叡山の別院として大いに栄えたと伝えられています。
 戦国時代には、1575年に信長の兵火により全焼しましたが、仏像は守られ、関ヶ原の戦も終わった1605年には再興し、明治の中頃まで己高山仏教寺院の名刹の一つとして、重きを成してきました。当時の絵図には、湖北地方には珍しい仁王門があり、格調の高かったことが偲ばれます。
 しかしその仁王門が、明治27年(1894)に焼失し同29年の大水で、庫裏が流される災難が続き、ついに無住となりました。
 現在の石道寺のお堂は、大正3年(1914)に旧石道寺の本堂(明治2年再興)を里人の手により、参拝と管理によい、この地に移築し、同4年4月に厨子共々全ての仏像を移しました。また同時に高尾寺の仏像も一堂に合祀し、盛大に遷仏式を行いました。その時より今日まで、里の人により守り続けられています。
 1200年を越える時の中で、消え去っていったものは数知れませんが、雄大な己高山と慈愛に満ちた仏様のまなざしは、時を越えて私たちを見守ってくださいます。(己高山石道寺リーフレットより)

イメージ 1
本堂

イメージ 2
十一面観音立像(奥びわ湖観光協会HPより)

 井上靖『星と祭』で「村の娘がモデルなのでは」と表現
 高さ173.2cm、平安時代
 ケヤキ材の一木造で、着衣の衣文線の表現などに平安時代後期の洗練された作風を示す。白土(はくど、炭酸カルシウムを原料とする白色顔料)を塗った下地の上に施された彩色が、唇の朱など部分的に残されている。拝する者には素朴で可憐な印象を与え、井上靖『星と祭』などの文学作品にも取り上げられて人気が高い。(『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』より)

 この十一面観音さまは、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに現われていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。野の匂いがぷんぷんする。笑いをふくんでいるように見える口もとから、しもぶくれの頬のあたりへかけては、殊に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も、王冠といったいかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。腕輪も、胸飾りも、ふんわりと纏っている天衣も、なんとなく映っていることか。それでいて、観音さまとしての尊厳さはいささかも失っていない。しかし、近寄り難い尊厳さではない。何でも相談にのって下さる大きくて優しい気持ちを持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟喧嘩の裁きも、嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引受けて下さりそうなものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。(井上靖『星と祭』より)

◆グッズ・土産
・写真1葉(十一面観音立像)

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