今回の見仏の最後は、渡岸寺観音堂の十一面観音立像でした。3月以来、2回目の拝観でした。長い時間、ゆっくり見ることができました。前より、ずっと好きになった気がします。
◆渡岸寺観音堂(どうがんじかんのんどう、向源寺)
『近江伊香郡志』所収の寺伝によれば、天平8年(736)、当時、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音を彫り、光眼寺を建立し息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、その後憂いは絶たれたという。その後病除けの霊験あらたかな観音像として、信仰されるようになった。延暦9年(790)、比叡山延暦寺の開祖である最澄が、勅を奉じて七堂伽藍を建立したという。
元亀元年(1570)、浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立した。
明治21年(1888)、宮内省全国宝物取調局の九鬼隆一らが当寺の十一面観音像を調査し、日本屈指の霊像と賞賛した。古社寺保存法に基づく日本で最初の国宝指定は明治30年(1897)12月28日付けで行われたが、このとき、この十一面観音像も国宝に指定された(当時の「国宝」は、文化財保護法における「重要文化財」に相当する)。国宝指定時の内務省告示における十一面観音像の所有者名は「観音堂」となっている。向源寺が属する真宗では、阿弥陀如来以外の仏を本堂に祀ることを認めていないが、この十一面観音像については、向源寺飛地境内観音堂に祀るということで、本山から許可された。大正14年(1925)には平安時代建築の様式を取り入れた観音堂が再建された。昭和17年(1942)には宗教団体法の規定に基づき、向源寺飛地境内観音堂は正式に向源寺の所属となった。十一面観音像が文化財保護法に基づく国宝(いわゆる新国宝)に指定されたのは昭和28年(1953)のことである。同年より、十一面観音像と胎蔵大日如来坐像は、高月町国宝維持保存協賛会の理事が毎日交替で維持管理に当たっている。(Wikipediaより)
元亀元年(1570)、浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立した。
明治21年(1888)、宮内省全国宝物取調局の九鬼隆一らが当寺の十一面観音像を調査し、日本屈指の霊像と賞賛した。古社寺保存法に基づく日本で最初の国宝指定は明治30年(1897)12月28日付けで行われたが、このとき、この十一面観音像も国宝に指定された(当時の「国宝」は、文化財保護法における「重要文化財」に相当する)。国宝指定時の内務省告示における十一面観音像の所有者名は「観音堂」となっている。向源寺が属する真宗では、阿弥陀如来以外の仏を本堂に祀ることを認めていないが、この十一面観音像については、向源寺飛地境内観音堂に祀るということで、本山から許可された。大正14年(1925)には平安時代建築の様式を取り入れた観音堂が再建された。昭和17年(1942)には宗教団体法の規定に基づき、向源寺飛地境内観音堂は正式に向源寺の所属となった。十一面観音像が文化財保護法に基づく国宝(いわゆる新国宝)に指定されたのは昭和28年(1953)のことである。同年より、十一面観音像と胎蔵大日如来坐像は、高月町国宝維持保存協賛会の理事が毎日交替で維持管理に当たっている。(Wikipediaより)
観音堂
十一面観音立像(絵ハガキをコピー、以下同じ)
官能的な体躯で魅了する近江の至宝
ヒノキ材一木造、高さ177.3cm、平安時代(9世紀)
◇平安初期にさかのぼる古い時代の特徴を残す
髪を結いあげた「髻(もとどり)」から、台座の「蓮肉(れんにく)」までをヒノキの一材から彫り出していることや、髪の一部に「乾漆」技法による盛り上げが残っていることなど、古い時代の仏像の特徴をよく備えています。
胴部と脚部を折り曲げて生き生きした動きをあらわしていることや、耳?戻(じとう)、臂釧(ひせん)とよばれるアクセサリーのデザインが園城寺の国宝不動明王画像(黄不動・9世紀作)と共通することなどから、平安時代初期(9世紀)の作と考えられます。
寺伝によると、天平8年(736)聖武天皇の勅願によって泰澄(たいちょう)が厄除祈願を込めて十一面観音を刻み、観音堂を建立。のちに最澄が中興したとされます。現在は、向源寺の飛び地境内にある観音堂の収蔵庫に平安後期の大日如来坐像(重文)とともに安置されています。
◇大ぶりの頭上面でもバランスのとれたプロポーション
頭上面が大ぶりにあらわされながら、長い腕や天衣などでたくみにバランスをとり、絶妙なプロポーションを保っています。優しく穏やかな目鼻立ちや、美しく官能的な体躯の表現は、見る者に女性的な印象を与えます。
元亀元年(1570)、湖北の地で織田信長と浅井・朝倉連合軍が合戦におよんだとき、土の中に埋めて守ったとする伝説もあり、篤い信仰のもと地域ぐるみで守られてきた、近江の至宝です。
※井上靖『星と祭』
新聞の連載小説を、昭和46年に単行本化。琵琶湖上のボート事故で子を亡くした2人の父親が、湖の死者を見守っているという観音像の巡礼を始める。作中、滋賀県各地の十一面観音像について魅力的に紹介され、湖国観音巡りのブームをまきおこした。向源寺像については「大きな王冠をつけ」テイルとか、「仏像というより古代エジプトの女帝」のようであるなどの独特な表現が目を引く。
(『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』より)
ヒノキ材一木造、高さ177.3cm、平安時代(9世紀)
◇平安初期にさかのぼる古い時代の特徴を残す
髪を結いあげた「髻(もとどり)」から、台座の「蓮肉(れんにく)」までをヒノキの一材から彫り出していることや、髪の一部に「乾漆」技法による盛り上げが残っていることなど、古い時代の仏像の特徴をよく備えています。
胴部と脚部を折り曲げて生き生きした動きをあらわしていることや、耳?戻(じとう)、臂釧(ひせん)とよばれるアクセサリーのデザインが園城寺の国宝不動明王画像(黄不動・9世紀作)と共通することなどから、平安時代初期(9世紀)の作と考えられます。
寺伝によると、天平8年(736)聖武天皇の勅願によって泰澄(たいちょう)が厄除祈願を込めて十一面観音を刻み、観音堂を建立。のちに最澄が中興したとされます。現在は、向源寺の飛び地境内にある観音堂の収蔵庫に平安後期の大日如来坐像(重文)とともに安置されています。
◇大ぶりの頭上面でもバランスのとれたプロポーション
頭上面が大ぶりにあらわされながら、長い腕や天衣などでたくみにバランスをとり、絶妙なプロポーションを保っています。優しく穏やかな目鼻立ちや、美しく官能的な体躯の表現は、見る者に女性的な印象を与えます。
元亀元年(1570)、湖北の地で織田信長と浅井・朝倉連合軍が合戦におよんだとき、土の中に埋めて守ったとする伝説もあり、篤い信仰のもと地域ぐるみで守られてきた、近江の至宝です。
※井上靖『星と祭』
新聞の連載小説を、昭和46年に単行本化。琵琶湖上のボート事故で子を亡くした2人の父親が、湖の死者を見守っているという観音像の巡礼を始める。作中、滋賀県各地の十一面観音像について魅力的に紹介され、湖国観音巡りのブームをまきおこした。向源寺像については「大きな王冠をつけ」テイルとか、「仏像というより古代エジプトの女帝」のようであるなどの独特な表現が目を引く。
(『1冊でわかる滋賀の仏像 文化財鑑賞ハンドブック』より)
同
同
十一面観音立像
精緻で華麗な「もうひとつの向源寺十一面観音像」
39.3cm、平安時代
向源寺収蔵庫内で、小さな厨子の中に安置されている。カヤの一木造で、表面に拭き漆(ふきうるし)を塗り、着衣には截金(きりがね、金箔を細く線状に切って貼り付け、文様を表現する技法)で「七宝繋文(しっぽうつなぎもん)」などの文様をあらわす。国宝十一面観音像の存在感に比べてどうしても注目度は低くなるが、小像ながら精緻で華麗な表現が見事。
39.3cm、平安時代
向源寺収蔵庫内で、小さな厨子の中に安置されている。カヤの一木造で、表面に拭き漆(ふきうるし)を塗り、着衣には截金(きりがね、金箔を細く線状に切って貼り付け、文様を表現する技法)で「七宝繋文(しっぽうつなぎもん)」などの文様をあらわす。国宝十一面観音像の存在感に比べてどうしても注目度は低くなるが、小像ながら精緻で華麗な表現が見事。
井上靖文学碑
井上靖は小説『星と祭』(1971)で渡岸寺観音堂の十一面観音立像を取り上げました。それを記念して建てられたのがこの文学碑です。前回来た時は見逃してしまいましたが、今回は受付の方にうかがってちゃんと見ることができました。
◆グッズ・土産
・絵ハガキ8枚セット「渡岸寺観音堂 向源寺」
・絵ハガキ8枚セット「渡岸寺観音堂 向源寺」