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石田比呂志の短歌

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小高賢編著『現代短歌の鑑賞101』及び『現代の歌人140』。それぞれ101人と140人の歌人を取り上げ、歌人ごとに30首ずつ選んで収録しています。


 今日の読売新聞日曜版「名言巡礼」に石田比呂志の短歌が取り上げられていました。
 〈職業に貴賤あらず〉と噓を言うな耐え苦しみて吾は働く
 この歌に惹かれ、彼の短歌をもっと読んでみたいと思いました。以下、読売新聞及び『現代短歌の鑑賞』、『現代の歌人140』からの引用です。

◆新聞紙面から
 短歌誌「牙」を主宰した歌人石田比呂志は、少年時代から職を転々とした経歴の持ち主である。戦前は筑豊炭田で採炭に従事し、戦後は村役場の臨時職員、旅館番頭、キャバレー支配人・・・。40代半ばで熊本に暮らすまで、郷里の福岡や、東京、山口、大分などを流浪した。
 石川啄木の「一握の砂」に出会って歌人を目指し、18歳で上京した。夢破れて帰郷してからも作歌を続け、10年余を経て再び上京。翌1963年、第9回角川短歌賞候補作に選ばれ、「小心記」30首が「短歌」5月号に掲載された。
 〈職業に貴賤あらず〉と噓を言うな耐え苦しみて吾は働く
 30首の一連にあったこの歌を、長年連れ添った歌人の阿木津英さん(67)は、「青年時代、一番苦労して辛酸をなめた頃の歌。美しい建前に全身で抵抗した」と話す。

 出身は福岡県京都(みやこ)郡小波瀬(おばせ)村(現・苅田(かんだ)町)。村長を務めて郡の有力者だった祖父の石松は、隣町の行橋(ゆくはし)の干拓事業に財産をつぎ込んだが志は成らず、家は没落した。石田は藩校を前身とする旧制豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学・高校)に入学したものの、素行不良のため2年生で退学処分となっている。
 「小心記」が巻頭を飾った第1歌集「無用の歌」は65年に刊行。未来短歌会の岡井隆さん(89)が石田の個性を「野武士」にたとえた序文などが収められ、華々しい。
 しかし刊行の前年、東京にいた石田は、郷里で美容院を開く遠縁の塩塚悦子さん(78)に、金の工面を頼む手紙を送っていた。「悦子ちゃん、もう五千円貸して下さい」「僕は才能など初手からない、ダメな人間なんでせうか」。短歌20首を書いた原稿用紙も添えられた。両親を早くに亡くし、石田に気遣われて育った悦子さんは、「この人、本当に駄目になる」と思ったという。はるかに上回る額を携え、勤め先のキャバレーを訪ねていった。

 歌を命とし、無頼派といわれた石田は生涯に17冊の歌集を出し、自身の著作を悦子さんに届け続けた。こんな一首もある。
 酒のみてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

石田比呂志
 1930年、福岡県生まれ。59年、歌誌「未来」に入会。62年に「牙短歌会」を結成して「牙」を創刊したが、その後休刊。74年に大分県中津市で「牙」を再刊、主宰となる。翌年、熊本で暮らし始め、歌人の山埜井(やまのい)喜美枝との結婚生活を解消する。86年、「手花火」で短歌研究賞を受賞。2010年、生前最後の歌集「邯鄲線(かんたんせん)」を出版。11年、脳内出血のため80歳で死去し、「牙」は追悼号で終刊した。読売新聞「よみうり西部歌壇」選者。七回忌を迎えた今年、最終歌集「冬湖(とうこ)」が刊行された。


◆小高賢編著『現代短歌の鑑賞101』(1999)より
酔いて遅く帰り来たりし灯の下に塑像の如く母の坐(お)りたり
生活の足しにせよとぞ賜いたる銭のうちより酒少し買う
人さまの見ている時にこの馬鹿な酔いたる足がたたらを踏みつ
あこがれの時代(ときよ)は過ぎて喉くだる夜半一椀の酒苦きかな
今日もまた来ておるわいと思いながら酒飲む男の横に坐る

しばしばも盃(はい)置きて外(と)の雨を聞く怯(きょう)ならずや自ら堕するというは
盃の酒ふふみつつうつしみは空亦復空(くうやくぶくう)塵中の塵
五十歳過ぎて結語をもたざれば夜の酒場に来たりて唄う
熱燗の酒くる待ているあいだ辛子蓮根の穴覗きおり
酒のみてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

酒飲みのかつ人生の先輩として先に酔う ちょっと失礼
ちょこなんと止まる止まり木隣りにも死にはぐれたる男がひとり
おつまみはそなたの乳首でよいなどと言いてつまみぬひょいとばかりに

 〈職業に貴賎あらず〉と噓を言うな耐え苦しみて吾は働く(『無用の歌』)
 いかにも石田比呂志らしい一首ではないだろうか。みずから語るところによれば、中学2年の1学期で退学処分を受け、世間から白眼視されるようになったという。故郷脱出を願い、たえず変転を夢見るこの少年は、結果として啄木にひかれ、徒手空拳のまま文学修行を志して上京することになる。
 近藤芳美、岡井隆らの「未来」に入会。キャバレー支配人、水道工事人夫、旅館番頭など40数種の職業を経ながら、文学としての短歌への真剣な取組が始まる。
 放蕩無頼の生活を送りながら、短歌への思いをたぎらせる。そういった石田の真骨頂が冒頭の一首なのである。啄木といい、文学的彷徨といい、いささか大時代な印象もあるだろう。しかし、石田は真面目なのである。文学の意味をつきつめる。すると当然、社会に対し、才能に対し、学歴に対し怨念が生まれる。その怨念をみずから隠すことをしない。露悪的に作品化せざるを得ないのである。そのプロセスが作品として不思議な味を持ちはじめる。
 すでに石田のそのような姿勢は当初から仲間に指摘されてきた。たとえば吉田漱はこんなふうにはっきりといっている。
 その内部には傷つきやすい、同時に彼自身も毛嫌いながらふっきれない甘さ、弱々しさが、つねに二重構造になってしめされている。こうした構造の作品は、生きることの悔しさ、うらみと、怒りと、恥かしさがいりまじる。
 自分という存在を過剰にいいつのることによって、戦おうとするのである。短歌のためにはすべてを犠牲にしてもかまわないといった一元論のはげしさは、実践力がともなうため、相手をへきえきさせながら、また感嘆を作りだしてしまうのである。
 いうまでもなくこの作者には毒があり、その毒は微量ではない。しかし、温室育ちのいまの歌壇のなかで、こういった毒はむしろ貴重な存在なのではないか。石田比呂志ファンが多いのも諾(うべな)えるものがある。
 『無用の歌』の時代から幾星霜を経て、その露悪的な、隠遁的な生活態度の作品は洗練され、近年は一種の芸となっている印象がつよい。無為徒食の人生がたんたんと表現されてゆく。演技を感じながら、巧まざるユーモアに読み手は気持ちを動かしてしまうのである。


◆小高賢編著『現代の歌人140』(2009)より
諦観という語しきりに浮かぶ日は無性に過去が美しく見ゆ
今日もまた競輪ですか電線の雀が口を揃えて言えり
小生は清く正しく美しく生きて来たとは言うていません
職業の欄に歌人と明記して犬にちんちんさせているなり
二の腕に止まりたる蚊を口窄め神慮の方(かた)へ吹きてやりたり

岩の秀(ほ)に寄せて砕けて散る波が石田さあんと哭いて砕くる
電柱に両手ひろげて抱きついて泣きたいような月夜の道だ
まっ白いご飯に卵ぶっかけてまぶせばことり心が点る
豊前から肥後に流れて三十年かくかくしかじか件(くだん)の如し
友がみな我より偉く見えぬ日に花を買い来て見する妻無し

神妙に弔辞を聞きている如く喜寿の祝いの祝辞聞きおり
いい歌の裏には深い闇がある天(あめ)の香具山駅無人駅
人、花に咲けとし言えば花、人にお前こそ咲いて見せろと言えり

 石田作品は、「志の高さと劣等感、不屈の闘志と繊細な神経、無頼の精神と目線の低さ」(大島史洋)が同居している。ファンがいる理由でもある。
 自己戯画化するかと思うと、アララギのエコールのもとで、徹底した写生の歌を作る。酒飲みの自己弁護、あるいはギャンブル(特に競輪)でカネをすった作品がある一方で、視点のしっかりした技巧的な秀歌も少なくない。
 「ありのままの生身の姿をさらす作者と演技者として振る舞う作者。一冊の歌集のなかに常に両極端とも言うべき二つの顔が現れる」(松村正直)のは、口語調とともに石田作品の大きな特徴である。

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