今日、村上春樹の短編集『はじめての文学 村上春樹』(06)を読み終えました。
巻末の著者あとがき「かえるくんのいる場所」を読むと、それぞれの作品についての著者の考えや思いが伝わってきます。この本を契機に、今後は『レキシントンの幽霊』(96)や『神の子どもたちはみな踊る』(00)など、彼のオリジナル短編集を読んでみようかなと思いました。
巻末の著者あとがき「かえるくんのいる場所」を読むと、それぞれの作品についての著者の考えや思いが伝わってきます。この本を契機に、今後は『レキシントンの幽霊』(96)や『神の子どもたちはみな踊る』(00)など、彼のオリジナル短編集を読んでみようかなと思いました。
この本について、巻末の著者あとがき「かえるくんのいる場所」から一部引用します。
若い人々が読むための短編小説集を編むということで、これまでに書いた作品の中から自選した。選択作業はそれほどむずかしくはなかった。というか、むしろ簡単だった。(中略)
とはいえ僕はこれらの作品を、ただひとつだけを例外として、とくに年少者に読んでもらうことを念頭に置いて書いたわけではない。(中略)
年少者向けの作品集ということもあり、またそれとは関係なく手を入れたいと思うところもあり、作品の細部にはあちこち手を入れた。
※「若い人々が読むための短編小説集」とありますが、「若い人々」って何歳くらいだろう? 「とくに年少者に読んでもらうことを念頭に置いて書いたわけではない」とも言っているので、中高校生以上だろうか? でも、ルビを多用しているのは、小学生にも読めるようにするためでしょうか? 要するに、幅広く若い人たちに読んでもらいたいってことでしょう?とはいえ僕はこれらの作品を、ただひとつだけを例外として、とくに年少者に読んでもらうことを念頭に置いて書いたわけではない。(中略)
年少者向けの作品集ということもあり、またそれとは関係なく手を入れたいと思うところもあり、作品の細部にはあちこち手を入れた。
【収録作品】( )は収録短編集
◆シドニーのグリーン・ストリート(『中国行きのスロウ・ボート』)
この作品は、シドニー・グリーンストリートという有名な俳優(映画『カサブランカ』にトルコ帽をかぶってでてくる太ったおじさん)の名前から発想したそうです。
「僕」は私立探偵(フィリップ・マーロウのパロディ?)で、「羊男」の依頼を受け、「羊博士」に奪われたあるものを取り返しに行きます。この作品は、シドニーでもいちばんしけた通りだというグリーン・ストリートが舞台になっています。
◆シドニーのグリーン・ストリート(『中国行きのスロウ・ボート』)
この作品は、シドニー・グリーンストリートという有名な俳優(映画『カサブランカ』にトルコ帽をかぶってでてくる太ったおじさん)の名前から発想したそうです。
「僕」は私立探偵(フィリップ・マーロウのパロディ?)で、「羊男」の依頼を受け、「羊博士」に奪われたあるものを取り返しに行きます。この作品は、シドニーでもいちばんしけた通りだというグリーン・ストリートが舞台になっています。
◆カンガルー日和(『カンガルー日和』)
若い夫婦が動物園にカンガルーの赤ん坊を見に行く話。僕も上野動物園にパンダの赤ん坊を見に行きたくなりました。
若い夫婦が動物園にカンガルーの赤ん坊を見に行く話。僕も上野動物園にパンダの赤ん坊を見に行きたくなりました。
◆鏡(『カンガルー日和』)
怪談です。確かに、鏡って怖い。
怪談です。確かに、鏡って怖い。
◆とんがり焼の盛衰(『カンガルー日和』)
「僕」は全く知らないのに、みんなは知っている「とんがり焼」と「とんがり鴉」。とてもシュールな世界です。
「僕」は全く知らないのに、みんなは知っている「とんがり焼」と「とんがり鴉」。とてもシュールな世界です。
◆かいつぶり(『カンガルー日和』)
なぜか「かいつぶり」という題で話を書いてみようと思い、かいつぶりがどんな鳥かも知らずに書いたそうです。不合理には不合理で対抗する主人公がおもしろい。
なぜか「かいつぶり」という題で話を書いてみようと思い、かいつぶりがどんな鳥かも知らずに書いたそうです。不合理には不合理で対抗する主人公がおもしろい。
◆踊る小人(『螢・納屋を焼く・その他の短編』)
「この物語はファンタジーのかたちをとっているが、意図的にファンタジーとして書かれたものではない。僕としてはむしろ普通の現実的な物語を書くような気持ちでこの話を書いた。最後の方に生々しくグロテスクな描写がある。僕はこのように幻想の裏側にある激しい暴力性や、避けがたい腐敗や、救いのない崩壊ぶりに強く心を惹かれるところがある。」(「かえるくんのいる場所」より)ということですが、夢と現実に錯綜して現れる「踊る小人」といい、1頭の像から5頭の像を作る「象工場」といい、すごい美人の彼女がグロレスクに変貌するシーンといい、結構ドキドキする話です。
「女の子をモノにする」なんて表現は、僕は好きですが、子どもの読者向きではないです。
◆鉛筆削り(あるいは幸運としての渡辺昇
◆タイム・マシーン(あるいは幸運としての渡辺昇◆
◆ドーナツ化
◆ことわざ
◆牛乳
◆インド屋さん
◆もしょもしょ
◆真っ赤な芥子
以上、『夜のくもざる』収録のショート・ショートです。
渡辺昇は「鉛筆削り」では鉛筆削りのマニアックなコレクターとして登場しますが、「タイム・マシーン」では単なるマニアから異常な人に変わってしまったように思います。渡辺昇という名前は、イラストレーター安西水丸さんの本名だそうです。
ドーナツ化した人は必ずこう言うようです。「私たち人間存在の中心は無なのよ。何もない、ゼロなのよ。どうしてあなたはその空白をしっかり見据えようとしないの? どうして周辺部分にばかり目がいくの?」。ドーナツ化すると人はどうなるのでしょう? あれこれ想像するのがおもしろい。
「猿も木から落ちる」場面を見た人が、そういうことは本当にあるんだとわかったけど、「猿も木から落ちる」ということわざで猿に注意するのは気の毒で言えないという。でも、鳩が豆鉄砲をくらったところも見たと言ってるので、猿の話も怪しくなります。
「牛乳」も「インド屋さん」も特定のモデルがいるそうです。インドするって、どういうこと?
ぼちょぼちょに良いことをしたら、もしょもしょがくりゃくりゃをくれた。で、僕はくりゃくりゃを毎日のように堪能している。僕もくりゃくりゃが欲しい。
「真っ赤な芥子が笑ってる」という童謡の歌詞から始まっている。って作家は言うけど、そんな童謡本当にあるの?
「この物語はファンタジーのかたちをとっているが、意図的にファンタジーとして書かれたものではない。僕としてはむしろ普通の現実的な物語を書くような気持ちでこの話を書いた。最後の方に生々しくグロテスクな描写がある。僕はこのように幻想の裏側にある激しい暴力性や、避けがたい腐敗や、救いのない崩壊ぶりに強く心を惹かれるところがある。」(「かえるくんのいる場所」より)ということですが、夢と現実に錯綜して現れる「踊る小人」といい、1頭の像から5頭の像を作る「象工場」といい、すごい美人の彼女がグロレスクに変貌するシーンといい、結構ドキドキする話です。
「女の子をモノにする」なんて表現は、僕は好きですが、子どもの読者向きではないです。
◆鉛筆削り(あるいは幸運としての渡辺昇
◆タイム・マシーン(あるいは幸運としての渡辺昇◆
◆ドーナツ化
◆ことわざ
◆牛乳
◆インド屋さん
◆もしょもしょ
◆真っ赤な芥子
以上、『夜のくもざる』収録のショート・ショートです。
渡辺昇は「鉛筆削り」では鉛筆削りのマニアックなコレクターとして登場しますが、「タイム・マシーン」では単なるマニアから異常な人に変わってしまったように思います。渡辺昇という名前は、イラストレーター安西水丸さんの本名だそうです。
ドーナツ化した人は必ずこう言うようです。「私たち人間存在の中心は無なのよ。何もない、ゼロなのよ。どうしてあなたはその空白をしっかり見据えようとしないの? どうして周辺部分にばかり目がいくの?」。ドーナツ化すると人はどうなるのでしょう? あれこれ想像するのがおもしろい。
「猿も木から落ちる」場面を見た人が、そういうことは本当にあるんだとわかったけど、「猿も木から落ちる」ということわざで猿に注意するのは気の毒で言えないという。でも、鳩が豆鉄砲をくらったところも見たと言ってるので、猿の話も怪しくなります。
「牛乳」も「インド屋さん」も特定のモデルがいるそうです。インドするって、どういうこと?
ぼちょぼちょに良いことをしたら、もしょもしょがくりゃくりゃをくれた。で、僕はくりゃくりゃを毎日のように堪能している。僕もくりゃくりゃが欲しい。
「真っ赤な芥子が笑ってる」という童謡の歌詞から始まっている。って作家は言うけど、そんな童謡本当にあるの?
◆緑色の獣(『レキシントンの幽霊』)
「自分を慕って地の底からやってきたけなげな緑色の獣をどこまでもいたぶる女性は、けっして特異な存在ではない。それはすべての女性がうまれつき心の内に秘めているものなのだ。」(「かえるくんのいる場所」より)そうです。
「自分を慕って地の底からやってきたけなげな緑色の獣をどこまでもいたぶる女性は、けっして特異な存在ではない。それはすべての女性がうまれつき心の内に秘めているものなのだ。」(「かえるくんのいる場所」より)そうです。
◆沈黙(『レキシントンの幽霊』)
学校における「いじめ」がテーマになっています。著者は「かえるくんのいる場所」で「とにかくストレートな話だ。正直に言って、このようなストレートな話はあまり好みではない。これを書いたのは、この話の語り手が体験したのと同じような心的状況を、僕自身一度ならず経験したからである。僕としては、自分がそのときに感じた心情を少しでもリアルに、物語というかたちに換えてみたかったのだ。だからもともとはとても個人的な意味合いを持った作品であったわけだ。」と語り、「同じような立場に置かれたことのある(そして今も置かれている)人々の心の支えに少しでもなってくれたら、僕としてはとても嬉しい。」と結んでいます。
学校における「いじめ」がテーマになっています。著者は「かえるくんのいる場所」で「とにかくストレートな話だ。正直に言って、このようなストレートな話はあまり好みではない。これを書いたのは、この話の語り手が体験したのと同じような心的状況を、僕自身一度ならず経験したからである。僕としては、自分がそのときに感じた心情を少しでもリアルに、物語というかたちに換えてみたかったのだ。だからもともとはとても個人的な意味合いを持った作品であったわけだ。」と語り、「同じような立場に置かれたことのある(そして今も置かれている)人々の心の支えに少しでもなってくれたら、僕としてはとても嬉しい。」と結んでいます。
◆かえるくん、東京を救う(『神の子どもたちはみな踊る』)
片桐がアパートの部屋に戻ると、そこには巨大な蛙がいました。蛙は自らを「かえるくん」と呼ぶように言い、片桐に東京を壊滅から救うために一緒にみみずくんと闘うよう話します。蛙は自らを「暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリングとか、そういうややこしいものではありません。実物の蛙です。」と言いますが、読者としては蛙が何の「暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリング」なのか知りたいところです。
片桐がアパートの部屋に戻ると、そこには巨大な蛙がいました。蛙は自らを「かえるくん」と呼ぶように言い、片桐に東京を壊滅から救うために一緒にみみずくんと闘うよう話します。蛙は自らを「暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリングとか、そういうややこしいものではありません。実物の蛙です。」と言いますが、読者としては蛙が何の「暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリング」なのか知りたいところです。