表紙の肖像はスキピオ
今日、塩野七生の歴史エッセイ『ローマ人の物語供.魯鵐縫丱訐鏥』(1993)を読み終えました。
この巻の内容について、新潮社編『塩野七生「ローマ人の物語」スペシャル・ガイドブック』(07)から抜粋して引用します。
この巻の内容について、新潮社編『塩野七生「ローマ人の物語」スペシャル・ガイドブック』(07)から抜粋して引用します。
■ポエニ戦役の始まり
紀元前265年、隣国シラクサからの圧力を受けたメッシーナから救援を求める施設がローマの許(もと)へやってきた。元老院と市民集会はこれに応じ、軍団の派遣を決める。それはローマ軍が史上初めて海を渡りイタリア半島の外へ出て行くことを意味していた。また、メッシーナを救援することはシラクサの後方に控えるカルタゴとの対決をも意味していたのである。以後1世紀以上にわたるポエニ戦役が、その幕を開けた。
■最初の海戦
海戦は未経験であったローマだが、新兵器「カラス」を開発・投入し、総力を挙げてその不利を克服していく。
敵船の甲板に叩きつけられたのちは、ローマ兵が歩いて渡れる桟橋ともなる「カラス」が猛威を振るい、ローマ軍は圧勝する。その後も、象を率いたカルタゴ軍の猛攻や海上での嵐に悩まされたものの、ローマ軍は勝利を重ね、紀元前241年、シチリアでの覇権を手にした。
■ハンニバルがやってきた!
思わぬ敗北を喫したカルタゴでは、一人の青年が秘かにローマへの復讐を誓っていた。その将こそハンニバルである。すでにスペインでの植民で成果を上げていた彼には、大きな計画と野望があった。
アルプスを越えてイタリアに乗り込んだハンニバルは、各地で次々とローマ軍を打ち破っていく。喉元に刃をつきつけられたローマは意を決し、ついに決戦に挑む。会戦の場所は南イタリア、アドリア海に面したカンネの平原であった。
事実、兵力はローマ側が上であった。だがハンニバルはその不利をも利用する。積極的に攻めてきた敵の主力である歩兵部隊に自軍の精鋭を当てて釘付けにし、その隙にローマ騎兵を叩く。その後に、改めて全兵力でローマ歩兵を包囲したのだ。ハンニバルの戦術は見事に効果を発揮し、ローマ軍は壊滅した。
■ハンニバルの「弟子」スキピオ
更なる窮地に立たされたローマの元老院に、一人の青年が現れた。青年は、わずか24歳。資格年齢に16歳も足りないにも関わらず、自分を司令官として戦線に派遣して欲しいと申し出る。これを拒めないほど、ローマは人材が払底していた。
スキピオは、まるでハンニバルの足跡を追うかのように、スペインへと赴いた。かの地でカルタゴ勢を蹴散らし、続いて矛先をカルタゴ本国に向ける。本拠地を狙い撃ちにされたと知って、ハンニバルは本国への撤退を決めた。イタリアに攻め込んでから15年の歳月が経っていた。
両軍は、カルタゴから内陸に入ったザマの地で相対した。今度は、兵力ではカルタゴ軍が有利と思われた。しかも指揮を執るのはハンニバルである。
「弟子」は「師」に倣うかのように、敵を凌駕した。(カルタゴ側の戦死者は2万。ローマ側の戦死者は1,500。)
紀元前201年、第二次ポエニ戦役は終結し、西地中海の盟主の座はカルタゴからローマへと移った。
■ローマ、地中海の覇者に
勝利に報いるため、スキピオには「アフリカヌス」という尊称が贈られた。しかし、共和政のローマは英勇を好まない。親戚のスキャンダルがきっかけでスキピオは失脚し、ローマ政界からあっけなく姿を消した。
一方、ローマは大国としてギリシアやマケドニアの紛争に介入し、いずれも支配下に置くことに成功。そしてカルタゴをも併合し、イタリア半島のみならず地中海の覇者となった――。
紀元前265年、隣国シラクサからの圧力を受けたメッシーナから救援を求める施設がローマの許(もと)へやってきた。元老院と市民集会はこれに応じ、軍団の派遣を決める。それはローマ軍が史上初めて海を渡りイタリア半島の外へ出て行くことを意味していた。また、メッシーナを救援することはシラクサの後方に控えるカルタゴとの対決をも意味していたのである。以後1世紀以上にわたるポエニ戦役が、その幕を開けた。
■最初の海戦
海戦は未経験であったローマだが、新兵器「カラス」を開発・投入し、総力を挙げてその不利を克服していく。
敵船の甲板に叩きつけられたのちは、ローマ兵が歩いて渡れる桟橋ともなる「カラス」が猛威を振るい、ローマ軍は圧勝する。その後も、象を率いたカルタゴ軍の猛攻や海上での嵐に悩まされたものの、ローマ軍は勝利を重ね、紀元前241年、シチリアでの覇権を手にした。
■ハンニバルがやってきた!
思わぬ敗北を喫したカルタゴでは、一人の青年が秘かにローマへの復讐を誓っていた。その将こそハンニバルである。すでにスペインでの植民で成果を上げていた彼には、大きな計画と野望があった。
アルプスを越えてイタリアに乗り込んだハンニバルは、各地で次々とローマ軍を打ち破っていく。喉元に刃をつきつけられたローマは意を決し、ついに決戦に挑む。会戦の場所は南イタリア、アドリア海に面したカンネの平原であった。
事実、兵力はローマ側が上であった。だがハンニバルはその不利をも利用する。積極的に攻めてきた敵の主力である歩兵部隊に自軍の精鋭を当てて釘付けにし、その隙にローマ騎兵を叩く。その後に、改めて全兵力でローマ歩兵を包囲したのだ。ハンニバルの戦術は見事に効果を発揮し、ローマ軍は壊滅した。
■ハンニバルの「弟子」スキピオ
更なる窮地に立たされたローマの元老院に、一人の青年が現れた。青年は、わずか24歳。資格年齢に16歳も足りないにも関わらず、自分を司令官として戦線に派遣して欲しいと申し出る。これを拒めないほど、ローマは人材が払底していた。
スキピオは、まるでハンニバルの足跡を追うかのように、スペインへと赴いた。かの地でカルタゴ勢を蹴散らし、続いて矛先をカルタゴ本国に向ける。本拠地を狙い撃ちにされたと知って、ハンニバルは本国への撤退を決めた。イタリアに攻め込んでから15年の歳月が経っていた。
両軍は、カルタゴから内陸に入ったザマの地で相対した。今度は、兵力ではカルタゴ軍が有利と思われた。しかも指揮を執るのはハンニバルである。
「弟子」は「師」に倣うかのように、敵を凌駕した。(カルタゴ側の戦死者は2万。ローマ側の戦死者は1,500。)
紀元前201年、第二次ポエニ戦役は終結し、西地中海の盟主の座はカルタゴからローマへと移った。
■ローマ、地中海の覇者に
勝利に報いるため、スキピオには「アフリカヌス」という尊称が贈られた。しかし、共和政のローマは英勇を好まない。親戚のスキャンダルがきっかけでスキピオは失脚し、ローマ政界からあっけなく姿を消した。
一方、ローマは大国としてギリシアやマケドニアの紛争に介入し、いずれも支配下に置くことに成功。そしてカルタゴをも併合し、イタリア半島のみならず地中海の覇者となった――。
【関係年表】
前270 ローマ、イタリア半島を統一
前264 カルタゴとの戦役始まる
前218 ハンニバル、アルプスを越えイタリアへ進攻
前216 カンネの会戦。ローマ軍大敗
前202 ザマの会戦。スキピオ、ハンニバルを破る
前146 ローマ、カルタゴを滅亡させる
前264 カルタゴとの戦役始まる
前218 ハンニバル、アルプスを越えイタリアへ進攻
前216 カンネの会戦。ローマ軍大敗
前202 ザマの会戦。スキピオ、ハンニバルを破る
前146 ローマ、カルタゴを滅亡させる
【感想等】
◆以前はハンニバルのアルプス越えやカンネの会戦(前216)、ザマの会戦(前202)といったダイナミックな歴史的事件にばかり関心を持ちましたが、今回はローマがいかにしてハンニバルによるイタリア半島侵入という危機を乗り越えたかに注目しました。
ハンニバルは「ローマ連合」からローマの同盟都市や植民都市を離反させることによってローマの弱体化を図ろうとしましたが、それらの都市が「ローマ連合」から離反することはあまりありませんでした。ローマはイタリア半島を統一する過程で多くの都市国家を軍事力で支配下に置きましたが、敗者である都市国家を同盟都市や植民都市などの処遇の違いはあれ、緩やかな支配を続けていたからです。
◆以前はハンニバルのアルプス越えやカンネの会戦(前216)、ザマの会戦(前202)といったダイナミックな歴史的事件にばかり関心を持ちましたが、今回はローマがいかにしてハンニバルによるイタリア半島侵入という危機を乗り越えたかに注目しました。
ハンニバルは「ローマ連合」からローマの同盟都市や植民都市を離反させることによってローマの弱体化を図ろうとしましたが、それらの都市が「ローマ連合」から離反することはあまりありませんでした。ローマはイタリア半島を統一する過程で多くの都市国家を軍事力で支配下に置きましたが、敗者である都市国家を同盟都市や植民都市などの処遇の違いはあれ、緩やかな支配を続けていたからです。