今日、熊谷達也の長編小説『氷結の森』(07)を読み終えました。
この作品について、文庫本ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
この作品について、文庫本ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
日露戦争に従軍した猟師の矢一郎は故郷を離れ、樺太で過去を背負い流浪の生活を続けていた。そんな彼を探し回る男が一人。矢一郎の死んだ妻の弟、辰治だ。執拗に追われ矢一郎はついに国境を越える。樺太から氷結の間宮海峡を越え革命に揺れる極東ロシアへ。時代の波に翻弄されながらも過酷な運命に立ち向かう男を描く長編冒険小説。直木賞・山本賞ダブル受賞の『邂逅の森』に連なる狄広畛杏作完結編。
(参考)狄広畛杏作:『相剋の森』(03)、『邂逅の森』(04)、『氷結の森』(07)
(参考)狄広畛杏作:『相剋の森』(03)、『邂逅の森』(04)、『氷結の森』(07)
【感想等】
◆大正時代、日本統治下の樺太から物語は始まります。主人公・柴田矢一郎はかつて秋田のマタギでしたが、事情があって故郷を捨てて10年になります。樺太の大自然の中、巨大なヒグマと対決する姿が描かれるのかと思いましたが、この作品で描かれるのは人間同士の確執や愛憎であり、歴史に翻弄される人間たちです。
◆大正時代、日本統治下の樺太から物語は始まります。主人公・柴田矢一郎はかつて秋田のマタギでしたが、事情があって故郷を捨てて10年になります。樺太の大自然の中、巨大なヒグマと対決する姿が描かれるのかと思いましたが、この作品で描かれるのは人間同士の確執や愛憎であり、歴史に翻弄される人間たちです。
◆作品の冒頭、香代が矢一郎に「ニコラエフスクに行く」と告げます。これで尼港事件(1920)が描かれること、そして矢一郎が彼女の救出にニコラエフスクに行くということが想像されました。
◆矢一郎は、誘拐された樺太の狩猟民ニブヒの娘タイグークを救出するためロシアとの国境を越え、氷結した間宮海峡を渡り、ニコラエフスクに向かいます。そこで香代と再会し、タイグークを救い出しますが、その時すでにトリャピーツィン率いるらパルチザンがニコラエフスクに迫っていました。
◆尼港事件では日本軍守備隊と在留日本人は全滅したとされています。そんな中、矢一郎は生き残れるのか? 香代とタイグークは? 最終章「焦土の街」の矢一郎は、シュワルツェネッガーかスタローン、あるいはブルース・ウィルスさながら奮闘します。でも、実際に日本人が700名以上も殺戮された事件ですから、最終章はあまり読みたくありませんでした。
【参考】
シベリア出兵
革命直後のロシアに対する干渉戦争。はじめに日本軍などの共同軍事干渉を唱えたのは英仏で、1918年(大正7)1月、日英が居留民保護の目的でウラジオストクへ軍艦を派遣した。その後アメリカがチェコ軍救済に限定した日米共同派兵をもちかけた結果、8月12日に日本軍が、19日に米軍がウラジオストクに上陸を開始。アメリカが日米同数の7,000人派兵を主張したのに対し、日本は3カ月間に7万3,000余人も派兵したため協調は困難となり、20年1月9日アメリカが出兵打切りを通告。日本は居留民保護、革命の波及防止に目的を変更して駐留を継続したが、北樺太以外からは22年10月撤退、25年の日ソ基本条約調印後に北樺太からも撤退した。(『山川 日本史小辞典』より)
革命直後のロシアに対する干渉戦争。はじめに日本軍などの共同軍事干渉を唱えたのは英仏で、1918年(大正7)1月、日英が居留民保護の目的でウラジオストクへ軍艦を派遣した。その後アメリカがチェコ軍救済に限定した日米共同派兵をもちかけた結果、8月12日に日本軍が、19日に米軍がウラジオストクに上陸を開始。アメリカが日米同数の7,000人派兵を主張したのに対し、日本は3カ月間に7万3,000余人も派兵したため協調は困難となり、20年1月9日アメリカが出兵打切りを通告。日本は居留民保護、革命の波及防止に目的を変更して駐留を継続したが、北樺太以外からは22年10月撤退、25年の日ソ基本条約調印後に北樺太からも撤退した。(『山川 日本史小辞典』より)
尼港事件(ニコラエフスク事件)
シベリア出兵中、黒竜江(アムール川)河口の要衝ニコラエフスク(尼港)に駐屯する日本守備隊と居留民がパルチザン軍と衝突した事件。1920年(大正9)2月5日、トリャピーツィンの指揮する約4,000人のパルチザン部隊が日本守備隊を降伏させた。日本側は3月12日深夜、パルチザン司令部を奇襲して反攻を試みたが失敗、居留民と将兵130余人は投獄された。参謀本部は旭川第7師団から救援部隊を送ったが、パルチザン軍は5月25日に捕虜を殺害して撤退。日本側はこの事件を利用して北樺太の保障占領を行った。(『山川 日本史小辞典』より)
尼港事件は、ロシア内戦中の1920年(大正9)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。
港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。
日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。(Wikipediaより)
シベリア出兵中、黒竜江(アムール川)河口の要衝ニコラエフスク(尼港)に駐屯する日本守備隊と居留民がパルチザン軍と衝突した事件。1920年(大正9)2月5日、トリャピーツィンの指揮する約4,000人のパルチザン部隊が日本守備隊を降伏させた。日本側は3月12日深夜、パルチザン司令部を奇襲して反攻を試みたが失敗、居留民と将兵130余人は投獄された。参謀本部は旭川第7師団から救援部隊を送ったが、パルチザン軍は5月25日に捕虜を殺害して撤退。日本側はこの事件を利用して北樺太の保障占領を行った。(『山川 日本史小辞典』より)
尼港事件は、ロシア内戦中の1920年(大正9)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。
港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。
日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。(Wikipediaより)
ニブヒ(ギリヤーク)
ニヴフ/ニブフ(ロシア語での複数形はニヴヒ)は、樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数民族。古くはギリヤーク(ロシア語での複数形はギリヤーキ)と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語ニヴフ語を持つ。アムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる。(Wikipediaより)
ニヴフ/ニブフ(ロシア語での複数形はニヴヒ)は、樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数民族。古くはギリヤーク(ロシア語での複数形はギリヤーキ)と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語ニヴフ語を持つ。アムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる。(Wikipediaより)