5月9日(水)から11日(金)まで、2泊3日の日程で奈良県に行ってきました。初日、家を出た時は雨でしたが、奈良に着いた頃には晴れており、予定通りに見仏できました。なお、今回初めて御朱印帳を購入し、各寺院で御朱印をいただきました。
以下、今回訪れた14の寺院です。初日と2日目は電車とバス、タクシー、3日目はレンタカーを利用しました。
以下、今回訪れた14の寺院です。初日と2日目は電車とバス、タクシー、3日目はレンタカーを利用しました。
【5/9(水)】
◆法隆寺 ◆中宮寺 ◆法輪寺 ◆法起寺
【5/10(木)】
◆聖林寺 ◆薬師寺 ◆唐招提寺 ◆秋篠寺 ◆西大寺
【5/11(金)】
◆円成寺 ◆東大寺 ◆興福寺 ◆新薬師寺 ◆白毫寺
◆法隆寺 ◆中宮寺 ◆法輪寺 ◆法起寺
【5/10(木)】
◆聖林寺 ◆薬師寺 ◆唐招提寺 ◆秋篠寺 ◆西大寺
【5/11(金)】
◆円成寺 ◆東大寺 ◆興福寺 ◆新薬師寺 ◆白毫寺
◆法隆寺
松の翠の美しい矢田丘陵を背に、大和平野を広々と見渡す斑鳩の里に聖徳太子が斑鳩宮を造営されたのは推古天皇9年(601)。ほどなく太子は、ここに亡き父用明天皇のため寺の造立を発願され、推古15年(607)ごろに完成したのが法隆寺です。
太子は中国の優れた政治や文化、とりわけ仏教を積極的に取り入れ、四天王寺、中宮寺、広隆寺などの寺々を建立し、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣などによって国の発展を計られましたが、惜しくも推古30年(622)49歳のとき、人々の悲嘆のうちに薨去されました。
その後太子の志は、太子の遺訓を守る長子の山背大兄王が受け継がれるところでありましたが、蘇我入鹿の軍勢により、大兄王をはじめ太子の一族は滅亡しました。法隆寺はその後も太子を慕う人々によって護持されたと伝えますが、『日本書紀』によると天智9年(670)、一屋余す事無く焼失したと記されています。しかし間もなく再建が進められ、遅くとも奈良時代の初頭までには飛鳥時代の様式で中心伽藍が復興され、やがて旧にも増した寺観が整えられたのが、世界最古の木造建築群として知られる現在の西院伽藍です。 一方、斑鳩宮は、荒廃にまかせるままになっているのを嘆かれた奈良時代の高僧行信僧都が、天平11年(739)ごろ、太子の菩提を願って宮跡に建立されたのが夢殿で、これを中心とした建築群が東院伽藍です。このような幾多の経緯にもかかわらず今日の法隆寺では、飛鳥時代以来の多くの仏像や建造物のほか、あまたの美術工芸品を眼前にすることが 出来るのは誠に幸いなことであります。(法隆寺HPより)
太子は中国の優れた政治や文化、とりわけ仏教を積極的に取り入れ、四天王寺、中宮寺、広隆寺などの寺々を建立し、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣などによって国の発展を計られましたが、惜しくも推古30年(622)49歳のとき、人々の悲嘆のうちに薨去されました。
その後太子の志は、太子の遺訓を守る長子の山背大兄王が受け継がれるところでありましたが、蘇我入鹿の軍勢により、大兄王をはじめ太子の一族は滅亡しました。法隆寺はその後も太子を慕う人々によって護持されたと伝えますが、『日本書紀』によると天智9年(670)、一屋余す事無く焼失したと記されています。しかし間もなく再建が進められ、遅くとも奈良時代の初頭までには飛鳥時代の様式で中心伽藍が復興され、やがて旧にも増した寺観が整えられたのが、世界最古の木造建築群として知られる現在の西院伽藍です。 一方、斑鳩宮は、荒廃にまかせるままになっているのを嘆かれた奈良時代の高僧行信僧都が、天平11年(739)ごろ、太子の菩提を願って宮跡に建立されたのが夢殿で、これを中心とした建築群が東院伽藍です。このような幾多の経緯にもかかわらず今日の法隆寺では、飛鳥時代以来の多くの仏像や建造物のほか、あまたの美術工芸品を眼前にすることが 出来るのは誠に幸いなことであります。(法隆寺HPより)
左:五重塔、正面:大講堂、右:金堂
釈迦三尊像(金堂)(法隆寺HPより)
金堂内陣の広い須弥壇には、飛鳥彫刻を代表する釈迦三尊像を始め、薬師像や四天王像のほか、鎌倉期に造られた阿弥陀三尊像や平安期の毘沙門・吉祥天像が安置され、また釈迦・薬師・阿弥陀像の頭上には、それぞれ華麗な天蓋が吊り下げられています。
端厳ななかに穏やかなほほ笑みをたたえた釈迦三尊像(鞍作止利作)の精緻な光背の裏面には、推古30年(622)に聖徳太子が発病され、また薨去されるにあたり、その病気平癒と成道を願って造られた太子等身の像が、その翌年に止利仏師によって完成したことなどが刻まれております。つまりこの像は、釈迦の像でありながら聖徳太子その人の像でもあるわけで、法隆寺が太子菩提の寺でもあることを物語っています。(飛鳥時代 国宝)(法隆寺HPより)
※これまで飛鳥時代の仏像にはあまり興味を持ちませんでした。今回、飛鳥仏を多く見ましたが、技術的には未完成でも素朴さがいいなと思いました。端厳ななかに穏やかなほほ笑みをたたえた釈迦三尊像(鞍作止利作)の精緻な光背の裏面には、推古30年(622)に聖徳太子が発病され、また薨去されるにあたり、その病気平癒と成道を願って造られた太子等身の像が、その翌年に止利仏師によって完成したことなどが刻まれております。つまりこの像は、釈迦の像でありながら聖徳太子その人の像でもあるわけで、法隆寺が太子菩提の寺でもあることを物語っています。(飛鳥時代 国宝)(法隆寺HPより)
四天王像(金堂)(法隆寺HPより)
須弥壇の四隅に置かれた四天王像は、現存する日本最古の四天王で、全体の直線的な表現は止利仏師の様式に共通し、後世の威嚇的な四天王像とは異なった物静かな彫像です。(飛鳥時代 国宝)(法隆寺HPより)
※東大寺戒壇堂の四天王像とは印象が全く違いますが、こういう素朴な感じの像もいいなと思います。夢違(ゆめちがい)観音(大宝蔵院)(法隆寺HPより)
この像に祈ると悪夢が吉夢に変わるとの伝説から、夢違観音と呼ばれ、親しまれています。(白鳳時代 国宝)(法隆寺HPより)
※優しい表情が心に残ります。百済観音像(百済観音堂)(法隆寺HPより)
飛鳥彫刻を代表するこの像は像高209.4僉あたかも天を指すようなすらりと伸びた体躯に、優しく微笑みかける柔和な尊顔が華麗な光背に映え、見る人の心を惹きつけます。江戸時代には虚空蔵菩薩とされていましたが、明治に化仏のある透かし彫りの宝冠が見つかり、百済観音と呼ばれるようになりました。光背の支柱は竹を模して造られ、基部に山岳文が表現されています。(飛鳥時代 国宝)(法隆寺HPより)
夢殿
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地であります。
高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。(奈良時代 国宝)(法隆寺HPより)
高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。(奈良時代 国宝)(法隆寺HPより)
救世(ぐぜ)観音(夢殿)(法隆寺HPより)
聖徳太子の等身像と伝えられる救世観音像は、行信が夢殿建立のときに本尊として迎えた霊像です。楠の一木造りで漆箔が施され、長く秘仏として厳重に奉安されてきたために金銅仏と見まがうような輝きをみせています。(飛鳥時代 国宝)(法隆寺HPより)
※今回の見仏は、夢殿の秘仏・救世観音の特別開扉(4月11日~5月18日)に合わせて行きました。建物の外から覗く感じでしたし、修学旅行の中学生で混雑していたので、近くでゆっくり見ることはできませんでした。 でも、初めて実物を見ることができてよかったと思います。法隆寺で御朱印帳を購入し、そこで初めての御朱印をいただきました。
◆グッズ・土産
・御朱印帳
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