◆法輪寺
中宮寺から北方の法輪寺へ。5月らしい爽やかな天候の中、田舎の道を歩くのはとても心地よい気分でした。
中宮寺から北方の法輪寺へ。5月らしい爽やかな天候の中、田舎の道を歩くのはとても心地よい気分でした。
法輪寺の創建は、聖徳太子の御子・山背大兄王が、その子由義王とともに、太子の病気平癒のために建立されたと伝えています。昭和25年の発掘調査によって、当寺が法隆寺式伽藍配置であり、法隆寺西伽藍の3分の2の規模であること等が明らかになりました。また飛鳥様式の薬師如来坐像(重文)と虚空菩薩立像(重文)を伝えることから、7世紀末頃には寺観が整っていたと考えられ、十一面観音菩薩立像(重文)など平安仏を多く伝えることから、平安時代には寺勢なお盛んであったようです。
法輪寺が現在の規模になったのは江戸・正保2年の台風によるもので、金堂・講堂はじめ諸宇悉くが倒壊し、三層目を失った三重塔だけが残ったと伝えます。その後宝暦年間に三重塔が修理され、金堂・講堂等が再建されましたが、昭和19年に至り三重塔は雷火にて焼失しました。
斯く重なる悲運に遭遇しましたが、昭和のみなさまのご支援により、昭和50年4月、三重塔は再び甦りました。(絵葉書添付の解説より)
法輪寺が現在の規模になったのは江戸・正保2年の台風によるもので、金堂・講堂はじめ諸宇悉くが倒壊し、三層目を失った三重塔だけが残ったと伝えます。その後宝暦年間に三重塔が修理され、金堂・講堂等が再建されましたが、昭和19年に至り三重塔は雷火にて焼失しました。
斯く重なる悲運に遭遇しましたが、昭和のみなさまのご支援により、昭和50年4月、三重塔は再び甦りました。(絵葉書添付の解説より)
三重塔
■塔とは
塔は仏舎利(お釈迦様のお骨)をお納めするいわばお釈迦様のお墓で、本来はお釈迦様そのもの、寺院の中心というべき建物です。お釈迦様がお亡くなりになったときに十塔(八塔ともいう)が建立されたのが仏塔のはじめで、仏弟子はその塔を礼拝しながら修行を続けたといいます。日本では、飛鳥時代には伽藍の中心におかれましたが、時代とともに中心より離れていきました。
■三重塔再建について
太平洋戦争末期の昭和19年7月21日、当寺の三重塔は落雷で焼失しました。焼失前の塔は最大最古の三重塔として明治時代より国宝指定を受けていましたが、全焼してしまったためにその指定は解除されました。
焼失直後から再建を念じつつ、ようやく昭和30年代後半より再建事業としての形をとりはじめましたが、国宝指定解除で国の補助金が一切ないため、全額を当寺で調達しなければならず、大阪万博景気やオイルショックなど経済変動も影響し、小さい寺での再建事業は困難を極めました。
しかしながら住職二代にわたって全国を勧進行脚するなかで、作家の幸田文先生はじめ全国のたくさんの方々より大きなご支援をいただくことができ、昭和50年、西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初の同じお姿でお返しすることができました。
現在塔内には、塔の焼失時にお救いできた釈迦如来坐像と四天王像(平安後期)をご安置しています。
「天人の楽」にたとえられる風鐸(ふうたく/大型のものは塔の軒先に、小型のものは九輪についている、風で鳴る仕組みの鐘)の音を聞くことができるのも、塗られているベンガラ色が鮮やかであるのも、再建20年あまりの若々しい塔ならではの魅力といえましょう。(法輪寺HPより)
塔は仏舎利(お釈迦様のお骨)をお納めするいわばお釈迦様のお墓で、本来はお釈迦様そのもの、寺院の中心というべき建物です。お釈迦様がお亡くなりになったときに十塔(八塔ともいう)が建立されたのが仏塔のはじめで、仏弟子はその塔を礼拝しながら修行を続けたといいます。日本では、飛鳥時代には伽藍の中心におかれましたが、時代とともに中心より離れていきました。
■三重塔再建について
太平洋戦争末期の昭和19年7月21日、当寺の三重塔は落雷で焼失しました。焼失前の塔は最大最古の三重塔として明治時代より国宝指定を受けていましたが、全焼してしまったためにその指定は解除されました。
焼失直後から再建を念じつつ、ようやく昭和30年代後半より再建事業としての形をとりはじめましたが、国宝指定解除で国の補助金が一切ないため、全額を当寺で調達しなければならず、大阪万博景気やオイルショックなど経済変動も影響し、小さい寺での再建事業は困難を極めました。
しかしながら住職二代にわたって全国を勧進行脚するなかで、作家の幸田文先生はじめ全国のたくさんの方々より大きなご支援をいただくことができ、昭和50年、西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初の同じお姿でお返しすることができました。
現在塔内には、塔の焼失時にお救いできた釈迦如来坐像と四天王像(平安後期)をご安置しています。
「天人の楽」にたとえられる風鐸(ふうたく/大型のものは塔の軒先に、小型のものは九輪についている、風で鳴る仕組みの鐘)の音を聞くことができるのも、塗られているベンガラ色が鮮やかであるのも、再建20年あまりの若々しい塔ならではの魅力といえましょう。(法輪寺HPより)
十一面観音菩薩立像(図録「大和路秀麗 八十八面観音巡礼」より)
平安時代 木造 彩色 像高360.0センチ 重要文化財
講堂の本尊(当寺の本尊は薬師如来)で、4メートル近い大きなお姿を収蔵庫の中央にご安置しています。頭部から台座(請花)までを杉の一材から彫り出し、両肩を接ぎつけています。大きな眼、太い眉、厚い唇の力強いお顔には、平安前期の特色がうかがえますが、全体に穏やかな作風を示しているところから、10世紀頃のものと考えられます。化仏は、宝髻の上に仏面1、地髪の正面に慈悲面3、左側に瞋怒面3、右側に牙上出面3、背後に暴悪大笑面1とあり、右手を長く垂下して左手を屈臂する、十一面観音の一般的なお姿です。光背(板光背)は中世の後補です。かつては初午のお参りが盛んであったと伝えられ、現在も三井の集落の方々による観音講があります。
なおこの十一面観音について、秋艸道人(しゅうそうどうじん/会津八一)の歌が『鹿鳴集』にあり、当寺境内にその歌碑があります。
観音菩薩は、観世音菩薩あるいは観自在菩薩の略です。観世音とは衆生が救いを求める音声を聞くとただちに救済するという意味、観自在とは一切諸法の観察と同様に衆生の救済も自在であるという意味です。救いを求める者に応じて、千変万化の相に変化して救済するということから、ヒンドゥー教の多面像の影響を受け、種々の変化観音(へんげかんのん)が考えられました。十一面観音はその中でも最も古く代表的なお姿といわれています。(法輪寺HPより)
※図録「大和路秀麗 八十八面観音巡礼」を持っていますが、法輪寺の十一面観音がこの中に含まれていることを知りませんでした。これで7体の十一面観音を拝観したことになります。残りは大安寺だけになりました。講堂の本尊(当寺の本尊は薬師如来)で、4メートル近い大きなお姿を収蔵庫の中央にご安置しています。頭部から台座(請花)までを杉の一材から彫り出し、両肩を接ぎつけています。大きな眼、太い眉、厚い唇の力強いお顔には、平安前期の特色がうかがえますが、全体に穏やかな作風を示しているところから、10世紀頃のものと考えられます。化仏は、宝髻の上に仏面1、地髪の正面に慈悲面3、左側に瞋怒面3、右側に牙上出面3、背後に暴悪大笑面1とあり、右手を長く垂下して左手を屈臂する、十一面観音の一般的なお姿です。光背(板光背)は中世の後補です。かつては初午のお参りが盛んであったと伝えられ、現在も三井の集落の方々による観音講があります。
なおこの十一面観音について、秋艸道人(しゅうそうどうじん/会津八一)の歌が『鹿鳴集』にあり、当寺境内にその歌碑があります。
観音菩薩は、観世音菩薩あるいは観自在菩薩の略です。観世音とは衆生が救いを求める音声を聞くとただちに救済するという意味、観自在とは一切諸法の観察と同様に衆生の救済も自在であるという意味です。救いを求める者に応じて、千変万化の相に変化して救済するということから、ヒンドゥー教の多面像の影響を受け、種々の変化観音(へんげかんのん)が考えられました。十一面観音はその中でも最も古く代表的なお姿といわれています。(法輪寺HPより)
十一面観音菩薩立像(図録「大和路秀麗 八十八面観音巡礼」より)
虚空蔵(こくうぞう)菩薩立像(絵葉書をコピー)
飛鳥時代 木造 彩色 像高175.4センチ 重要文化財
かつては、本尊の薬師如来とともに金堂にご安置していました。寺伝で虚空蔵菩薩とお呼びしていますが、左手に水瓶をもち、右手は屈臂仰掌しているお姿から、観音菩薩と称すべきでしょう。
本尊の薬師如来と同じく樟の一木造りで、三段葺きの大きな反花の蓮華座の上に、両足をそろえて直立しておられます。内刳りはありませんが、木心部分に空洞状の朽損があり、はじめからそのような材を使用したとも考えられています。体つきは平面的で簡素な肉づけで、側面からみるとやや腹部が前に出ています。一見してそのお姿が法隆寺の百済観音像に似ていますが、顔も脚も大きく、ずんぐりした印象があります。また、本尊の薬師如来と共通するうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、天衣の左右対称性が崩れていることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。
虚空蔵とは、福と智の二蔵の無量なことが大空にも等しく広大無辺であるという意味で、わが国では8世紀頃から信仰されています。この菩薩を念じて求聞持法(ぐもんじほう)という修法を行なうと記憶力が増すと考えられ、また近世に始まる「十三参り」に象徴されるように智恵の仏様として、また丑年、寅年の護り本尊として篤く信仰されています。(法輪寺HPより)
※奈良時代以降の仏像と比べ、頭と体のバランスが不均衡だと思いますが、素朴で親しみやすい仏像だと思います。かつては、本尊の薬師如来とともに金堂にご安置していました。寺伝で虚空蔵菩薩とお呼びしていますが、左手に水瓶をもち、右手は屈臂仰掌しているお姿から、観音菩薩と称すべきでしょう。
本尊の薬師如来と同じく樟の一木造りで、三段葺きの大きな反花の蓮華座の上に、両足をそろえて直立しておられます。内刳りはありませんが、木心部分に空洞状の朽損があり、はじめからそのような材を使用したとも考えられています。体つきは平面的で簡素な肉づけで、側面からみるとやや腹部が前に出ています。一見してそのお姿が法隆寺の百済観音像に似ていますが、顔も脚も大きく、ずんぐりした印象があります。また、本尊の薬師如来と共通するうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、天衣の左右対称性が崩れていることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。
虚空蔵とは、福と智の二蔵の無量なことが大空にも等しく広大無辺であるという意味で、わが国では8世紀頃から信仰されています。この菩薩を念じて求聞持法(ぐもんじほう)という修法を行なうと記憶力が増すと考えられ、また近世に始まる「十三参り」に象徴されるように智恵の仏様として、また丑年、寅年の護り本尊として篤く信仰されています。(法輪寺HPより)
◆グッズ・土産
・絵葉書「法輪寺」
・絵葉書「法輪寺」
◆参考
「大和路秀麗 八十八面観音巡礼」とは、8体の十一面観音像を訪ねる旅のことで、十一面×8で「八十八面観音」となります。以下のお寺の十一面観音像が対象になっています。
西大寺、法華寺、海龍王寺、大安寺、法輪寺、聖林寺、長谷寺、室生寺
「大和路秀麗 八十八面観音巡礼」とは、8体の十一面観音像を訪ねる旅のことで、十一面×8で「八十八面観音」となります。以下のお寺の十一面観音像が対象になっています。
西大寺、法華寺、海龍王寺、大安寺、法輪寺、聖林寺、長谷寺、室生寺