◆法起寺
法輪寺から東へ。歩いて法起寺(ほうきじ/ほっきじ)をめざしました。近づくと三重塔が見えてきました。 法起寺の三重塔は飛鳥時代に建立されたもので、高さ24m、現存最古の三重塔です。
法輪寺から東へ。歩いて法起寺(ほうきじ/ほっきじ)をめざしました。近づくと三重塔が見えてきました。 法起寺の三重塔は飛鳥時代に建立されたもので、高さ24m、現存最古の三重塔です。
法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれており、平成5年に法隆寺とともに、世界文化遺産に登録されました。
この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。
創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。
その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年 (685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。(法起寺HPより)
この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。
創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。
その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年 (685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。(法起寺HPより)
三重塔
この建物は、現存最古の三重塔で、創建は慶雲3年(706)です。建立後は、再三にわたる大修理が行われたため、建立当初の形式が明らかでないところもありますが、昭和45年から50年にかけての解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がなされ、現在に至っています。
初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません。(飛鳥時代 国宝)(法起寺HPより)
初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません。(飛鳥時代 国宝)(法起寺HPより)
三重塔
十一面観音菩薩立像(絵葉書をコピー)
この像は講堂の本尊でしたが、現在は収蔵庫に安置しています。造像形式は通常の十一面観音菩薩像で、幹部は杉の一材から彫出しており、10世紀後半ごろの作といわれています。(平安時代 重要文化財)(法起寺HPより)
◆グッズ・土産
・絵葉書「法起寺」
・絵葉書「法起寺」