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my 見仏記49~秋篠寺(再)

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秋篠寺
 秋篠寺へは近鉄大和西大寺駅からバスで数分でした。見仏の対象は「伎芸天」でしたが、今回は十二神将の表情も気になりました。十二神将というと、新薬師寺の「伐折羅(バサラ)」の仏敵を威嚇するような怒りの表情が思い浮かびます。しかし、秋篠寺の十二神将の表情を見ると、笑っている像が多いように見えました。
 なお、秋篠寺では通常、御朱印はいただけません。毎年6月6日、秘仏の大元帥明王立像のご開帳の際だけ、御朱印「大元帥明王尊」がいただけるそうです。

 秋篠寺は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院。本尊は薬師如来。開基は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。(Wikipediaより)


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本堂

 鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つである。桁行(正面)5間、梁間(側面)4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する用語)。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。堂内には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などを安置する。(Wikipediaより)


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伎芸天

 【頭部】奈良時代末期 脱活乾漆像 【体部】鎌倉時代 木造・彩色 像高204.5cm
 伎芸天が本来の尊名であったか否かは定かではないが、美しく静かに動くしなやかな肢体や、あたかも天上界の歌が聞こえるような口元や表情などからは、この尊名がまことに相応しい。伎芸天女はヒンドゥー教のシヴァ神(仏教では大自在天)が天上界で奏楽のとき、その髪の生え際から生まれた絶世の美女で、『図像抄』によると端正な顔容に唐服をまとい、天衣・瓔珞(ようらく)で身を飾って左手に花を奉げる天女の姿に描かれる。またその『念誦法』によると、豊穣・吉祥・豊楽を願えば悉く良く満足を与え、また諸々の業や芸を速やかに良く成就せしめるとある福徳円満・諸芸成就の神で、古来技芸にかかわる人々が深い信仰を寄せてきた。(図録「秋篠寺」より)


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十二神将

 南北朝時代 木造・彩色 像高65.8~72.5cm
 本尊薬師三尊像の両側に6躯ずつ二列の階段状に安置されているこれ等の像は、小像ながら精緻に彫刻されて保存も良く彩色も比較的良く遺存するが、少々窮屈に配されているので、それぞれの彫像の良さが些か解りにくいのが惜しい。
 十二神将は薬師如来とその信者たちの守護神で、昔、釈迦と同様に印度の王子として生まれた薬師は、衆生の苦しみを救うために出家。苦行中に12の大誓願を立て、やがて大願成就して東方薬師浄瑠璃浄土の教主となるが、この12の誓願を守護するために現れた12の夜叉大将が十二神将である。その信仰が中国で十二支と結ばれて、12の方角や12の時刻を守護するとされて、頭頂に十二支を頂くものも作られるようになる。当寺の十二神将像にも十二支の標識となるものを頂き、そのうち戌神像内に延文3年(1358)の紙片が納入され、小品ながら鎌倉末期(南北朝)の美作として貴重である。尚、名称には多少の混乱も認められる。(図録「秋篠寺」より)


◆グッズ・土産
・図録「秋篠寺」


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