今日、熊谷達也の『まほろばの疾風(かぜ)』(2000)を読み終えました。
この作品について、ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
この作品について、ブックカバー裏表紙の解説を引用します。
時は8世紀末。東北には、大和朝廷に服従しない誇り高い人々がいた。かれら蝦夷(えみし)は農耕のために土地に縛られるのではなく、森の恵みを受け大自然と共生しながら自由に暮らしていた。だが、その平和を大和軍の侵攻によって破られる。そして、一人の男が蝦夷の独立を賭け、強大な侵略者に敢然と戦いを挑んだ。彼の名はアテルイ。北の森を疾風のように駆け抜けた英雄の生涯を描く壮大な叙事詩。
【感想等】
◆蝦夷の首長・アテルイの最期については、NHKドラマ「火怨・北の英雄 アテルイ伝」(主演:大沢たかお、2013)を見ていたので、この作品を読むのは少しためらわれました。
しかし読み始めると、熊谷達也らしいストーリーテリングと独自の人物設定に、最後まで一気に読んでしまいました。
アテルイが呰麻呂(アザマロ)の息子だったり、モレが巫女だったり、史料には書かれていませんが、作家の想像力によって登場人物たちが生き生きと活動していました。
◆蝦夷の首長・アテルイの最期については、NHKドラマ「火怨・北の英雄 アテルイ伝」(主演:大沢たかお、2013)を見ていたので、この作品を読むのは少しためらわれました。
しかし読み始めると、熊谷達也らしいストーリーテリングと独自の人物設定に、最後まで一気に読んでしまいました。
アテルイが呰麻呂(アザマロ)の息子だったり、モレが巫女だったり、史料には書かれていませんが、作家の想像力によって登場人物たちが生き生きと活動していました。
◆今回、蝦夷の歴史について興味を持ったので、簡単な歴史書も読んでみたいと思います。
【参考】
アテルイ ?~延暦21年8月13日(802年9月17日)
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。
陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へと侵出した紀古佐美率いる朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂率いる朝廷軍、坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。(Wikipediaより)
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。
陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へと侵出した紀古佐美率いる朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂率いる朝廷軍、坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。(Wikipediaより)
蝦夷征討(三十八年戦争)
宝亀5年(774)に按察使(あぜち)大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられてから、弘仁2年(811)までを「三十八年戦争」と呼ぶ蝦夷征討の時代となる。一般的には、以下の4期に分けられる。
《第1期》
桃生(ものう)城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われた。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂(いじのあざまろ/これはるのあざまろ)らの協力もあり、宝亀9年(778)までには反乱は一旦収束したと考えられている。
《第2期》 伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)
宝亀11年3月22日(780年5月1日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。
正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある。藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。
《第3期》
延暦8年(789)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという。
延暦13年(794)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。
延暦20年(801)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。このとき蝦夷の指導者阿弖流為(あてるい)は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。
『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖流為と盤具公母礼(もれ)が500余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。
第3期の蝦夷征討は、延暦22年(803)に志波城を築城したことで終了した。
《第4期》
弘仁2年(811)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている。
(Wikipediaより、一部改編)
宝亀5年(774)に按察使(あぜち)大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられてから、弘仁2年(811)までを「三十八年戦争」と呼ぶ蝦夷征討の時代となる。一般的には、以下の4期に分けられる。
《第1期》
桃生(ものう)城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われた。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂(いじのあざまろ/これはるのあざまろ)らの協力もあり、宝亀9年(778)までには反乱は一旦収束したと考えられている。
《第2期》 伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)
宝亀11年3月22日(780年5月1日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。
正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある。藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。
《第3期》
延暦8年(789)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという。
延暦13年(794)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。
延暦20年(801)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。このとき蝦夷の指導者阿弖流為(あてるい)は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。
『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖流為と盤具公母礼(もれ)が500余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し阿弖流為と母礼が河内国で処刑されたことが記録されている。また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。
第3期の蝦夷征討は、延暦22年(803)に志波城を築城したことで終了した。
《第4期》
弘仁2年(811)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている。
(Wikipediaより、一部改編)