今日、熊谷達也の『揺らぐ街』(16)を読み終えました。
この作品について、帯に書かれた文章の一部を引用します。
この作品について、帯に書かれた文章の一部を引用します。
東京で東日本大震災に遭遇し、テレビに映る被災地の映像に激しい衝撃を受けた文芸編集者の山下亜依子は、編集長の小暮から、被災地である仙河海市出身の作家・武山洋嗣に原稿を依頼できないかと持ちかけられる。武山のことはデビュー時に担当していたものの、本を一冊出したきり、3年前から音信不通になっていた。その武山に、こんなタイミングで、執筆の依頼などしていいものか。一方、震災以後、書けなくなってしまっていた担当作家の桜城葵からは、新作の取材のために仙河海市に入りたいと持ちかけられて・・・・。
【感想等】
◆文芸作品の編集者・山下亜依子は、東日本大震災の直後、編集長から武山洋嗣のカムバックについて打診されます。
武山は自社の新人賞を受賞しましたが、事情があって執筆に集中できず、担当の亜依子とも音信不通になっていました。編集長は武山が被災地・仙河海市出身なので、彼に被災地を舞台にした書き下ろし作品を依頼しようと考えたのでした。
◆文芸作品の編集者・山下亜依子は、東日本大震災の直後、編集長から武山洋嗣のカムバックについて打診されます。
武山は自社の新人賞を受賞しましたが、事情があって執筆に集中できず、担当の亜依子とも音信不通になっていました。編集長は武山が被災地・仙河海市出身なので、彼に被災地を舞台にした書き下ろし作品を依頼しようと考えたのでした。
◆被災地を舞台にしたり、被災者を描くのはとても難しいことだと思います。この作品では、震災について書くことの是非や書くことの意義が語られています。
以下、登場人物の言葉を引用します。これらは作家・熊谷達也が自らの葛藤を主人公達に語らせているんだと思います。
以下、登場人物の言葉を引用します。これらは作家・熊谷達也が自らの葛藤を主人公達に語らせているんだと思います。
(武山)「震災の話を書いたとして、それを読みたい読者って、実際のところいると思いますか? 少なくとも被災地にはいないでしょう。あの日のことは忘れてしまいたい、思い出したくないという人が大半なんですよ。誰だって追体験なんかしたくないです。そんな読者に、震災を描いた小説を読めと言ったって無理ですよ」(P168)
(武山)「じゃあ、被災地以外の人は? となると、それもやっぱり疑問です。この仙台ですら、日常が戻ってくるにつれ、3・11は過去のものになりつつあります。実は僕、月に一度か二度、何をするでもなく、沿岸部に足を運んでいるんです。理由は自分でもよくわからないんですけど、現実をきちんと見ておかなければ、という思いだけはあって。で、一日かけて沿岸部を回り、仙台に戻って来ますよね。すると、沿岸部と仙台の中心部とのギャップの大きさに、いつも戸惑うんです。そのギャップは日ごとに増してきている。仙台ですらそうなのですから、東京ではすでに過去の出来事になっていませんか? リアルタイムで関心があるのは原発だけ、というのが本音じゃないですか? だから、これから先は、震災後1年とか2年とか、そんな区切りの時にだけ思い出すような話になっていくと思うんですよね。そこへもってきて震災の話を書いた小説が出ても、いまさら震災ですか? みたいな醒めた目で見られて終わり。そんな気がします。(P168-169)
(亜衣子)「この世には、読者が求める小説だけがあればいいって、そういうことはないですよね? 読者のニーズ云々とは別に、書かれるべき小説とか、読まれるべき小説って、どんな時にもあるとわたしは思います。誰も思ってもいなかった気づきのようなものを、あらためて読者にもたらすような、そんな小説です。そういう小説が書ける立場に、今の武山さんは否応なく立たされている。そうわたしは思うんです。それを無視するのは、ある意味、とてももったいない話かもしれない。なんか、あの、上手く考えがまとまらないんですけど、たまたま書き手としての力を持った武山さんが、たまたま千年に一度の大きな災害の場に居合わせた。これは偶然ではあるのだけれど、避けて通れなかった運命だと、そんなふうに考えてもいいんじゃないかと思います」(P169)
(桜城葵)「たとえば仙河海市。ご自身の生まれ故郷だから当たり前だけど、今回の津波で壊滅した沿海部の、震災以前の姿を武山さんは克明に知っていますよね。そこには以前、どんな街並みがあってどんな人達がどんなふうに暮らしていたのか、その肌触りまで。それに対して、小説家としてのわたしは、強烈に嫉妬してしまうわけ。山下さんが言った通り、それをそのままにしておくなんて、どう考えたってもったいない話。そうじゃないかしら」(P170)
(武山)「じゃあ、被災地以外の人は? となると、それもやっぱり疑問です。この仙台ですら、日常が戻ってくるにつれ、3・11は過去のものになりつつあります。実は僕、月に一度か二度、何をするでもなく、沿岸部に足を運んでいるんです。理由は自分でもよくわからないんですけど、現実をきちんと見ておかなければ、という思いだけはあって。で、一日かけて沿岸部を回り、仙台に戻って来ますよね。すると、沿岸部と仙台の中心部とのギャップの大きさに、いつも戸惑うんです。そのギャップは日ごとに増してきている。仙台ですらそうなのですから、東京ではすでに過去の出来事になっていませんか? リアルタイムで関心があるのは原発だけ、というのが本音じゃないですか? だから、これから先は、震災後1年とか2年とか、そんな区切りの時にだけ思い出すような話になっていくと思うんですよね。そこへもってきて震災の話を書いた小説が出ても、いまさら震災ですか? みたいな醒めた目で見られて終わり。そんな気がします。(P168-169)
(亜衣子)「この世には、読者が求める小説だけがあればいいって、そういうことはないですよね? 読者のニーズ云々とは別に、書かれるべき小説とか、読まれるべき小説って、どんな時にもあるとわたしは思います。誰も思ってもいなかった気づきのようなものを、あらためて読者にもたらすような、そんな小説です。そういう小説が書ける立場に、今の武山さんは否応なく立たされている。そうわたしは思うんです。それを無視するのは、ある意味、とてももったいない話かもしれない。なんか、あの、上手く考えがまとまらないんですけど、たまたま書き手としての力を持った武山さんが、たまたま千年に一度の大きな災害の場に居合わせた。これは偶然ではあるのだけれど、避けて通れなかった運命だと、そんなふうに考えてもいいんじゃないかと思います」(P169)
(桜城葵)「たとえば仙河海市。ご自身の生まれ故郷だから当たり前だけど、今回の津波で壊滅した沿海部の、震災以前の姿を武山さんは克明に知っていますよね。そこには以前、どんな街並みがあってどんな人達がどんなふうに暮らしていたのか、その肌触りまで。それに対して、小説家としてのわたしは、強烈に嫉妬してしまうわけ。山下さんが言った通り、それをそのままにしておくなんて、どう考えたってもったいない話。そうじゃないかしら」(P170)
◆これまで仙河海シリーズに登場した人物、あるいはその周辺の人物が描かれています。読者がこの作品に親近感を持って読める仕掛けになっていると思います。
主人公・山下亜依子は、仙河海市でかつての恋人と再会します。たまたま乗ったタクシーの運転手が川島聡太(『潮の音、空の青、海の詩』の主人公)だったからです。そして、亜依子は探しあぐねていた武山洋嗣の居場所を聡太から教えられることになります。仙河海市がいくら小さな町だったとしても、ちょっと御都合主義かなって思いますが、オッケーです。ただ、川島聡太の役割が武山洋嗣への橋渡しだけというのは寂しい。
もう一人、仙河海市出身で、文芸雑誌『文藝界』の編集長・菊田守は、『希望の海 仙河海叙景』の第5話「永久(とわ)なる湊」で主人公・菊田清子の息子として描かれています。
主人公・山下亜依子は、仙河海市でかつての恋人と再会します。たまたま乗ったタクシーの運転手が川島聡太(『潮の音、空の青、海の詩』の主人公)だったからです。そして、亜依子は探しあぐねていた武山洋嗣の居場所を聡太から教えられることになります。仙河海市がいくら小さな町だったとしても、ちょっと御都合主義かなって思いますが、オッケーです。ただ、川島聡太の役割が武山洋嗣への橋渡しだけというのは寂しい。
もう一人、仙河海市出身で、文芸雑誌『文藝界』の編集長・菊田守は、『希望の海 仙河海叙景』の第5話「永久(とわ)なる湊」で主人公・菊田清子の息子として描かれています。
◆主人公の山下亜依子は、桜城葵という中堅作家を担当しており、葵は作品中に頻繁に登場します。編集者と作家の関係、出版界の諸事情などが描かれ、興味をひかれる部分もありますが・・・・。
◆武山洋嗣が被災地を舞台に書き始めた作品は、『仙河崎市八景・・・』という8編からなる短編集でした。これは『希望の海 仙河海叙景』と同じ構想で、その第1話は『希望の海 仙河海叙景』の第2話「冷蔵家族」そのものでした。