今日、東京ミッドタウンにあるサントリー美術館に「京都・醍醐寺 真言密教の宇宙」(9月19日~11月11日)を見に行ってきました。
醍醐寺HPによれば、「醍醐寺の寺宝・伝承文化財は、国宝75,522点、重要文化財425点、その他未指定を含めると約15万点に及ぶ」そうです。仏像や仏画だけでなく、創建以来の歴史を物語る貴重な史料・書跡も数多く伝承されているとのことです。
今回の展覧会では、そうした醍醐寺の寺宝・伝承文化財を満遍なく展示しています。その分、仏像の展示が少なく、見仏が目的の僕にとってはちょっと物足りなさを感じる内容でした。しかし、醍醐寺には一度は行ってみたいと思っているので、この展覧会はとても良い機会になりました。
ところで、〈みうらじゅん〉〈いとうせいこう〉の二人はこの展覧会の「仏像大使」だそうで、音声ガイドで彼らの掛け合いが聴けました。けっこう良かったと思います。
醍醐寺HPによれば、「醍醐寺の寺宝・伝承文化財は、国宝75,522点、重要文化財425点、その他未指定を含めると約15万点に及ぶ」そうです。仏像や仏画だけでなく、創建以来の歴史を物語る貴重な史料・書跡も数多く伝承されているとのことです。
今回の展覧会では、そうした醍醐寺の寺宝・伝承文化財を満遍なく展示しています。その分、仏像の展示が少なく、見仏が目的の僕にとってはちょっと物足りなさを感じる内容でした。しかし、醍醐寺には一度は行ってみたいと思っているので、この展覧会はとても良い機会になりました。
ところで、〈みうらじゅん〉〈いとうせいこう〉の二人はこの展覧会の「仏像大使」だそうで、音声ガイドで彼らの掛け合いが聴けました。けっこう良かったと思います。
「下醍醐から約1時間、山道を登っていくと、醍醐寺開創の地である上醍醐に至ります。上醍醐には、薬師堂、開山堂、如意輪堂、清瀧宮拝殿など、国宝、重要文化財に指定されている数々の堂宇が点在しています」(醍醐寺HPより、一部改編)とあります。1時間も山道を登るのは大変そうですが、山頂からの景色はどんなものか、ぜひ見たいなと思います。
◆展覧会の概要(サントリー美術館HPより、一部改編)
京都の山科盆地にある醍醐寺は、貞観16年(874)に理源大師聖宝(しょうぼう、832~909)によって開かれて以来、真言宗醍醐派の総本山として、常に歴史の表舞台で重要な役割を果たしてきた名刹です。真言密教のうちでも加持祈?偃や修法(すほう)など実践を重視する寺として発展したことで、その本尊となる彫刻や絵画、修法で用いる仏具など、開創期からの本格的な密教美術の数々が伝わります。また、修法の次第や方法、本尊の図像についての記録、各時代の為政者からの帰依を表す文書などは7万点近くに及ぶもので、国宝「醍醐寺文書聖教」として醍醐寺の繁栄の歴史を伝えています。
本展は国宝・重要文化財に指定された仏像や仏画を中心に、濃密な密教美術の世界をご体感いただくとともに、普段は公開されない貴重な史料・書跡を通じて、平安時代から近世にいたる醍醐寺の変遷をたどるものです。なかでも、中尊が2メートル近くの像容を誇る国宝《薬師如来および両脇侍像》や優麗な重要文化財《如意輪観音坐像》、迫力の重要文化財《五大明王像》は醍醐寺の信仰を象徴するとともに、平安彫刻の白眉に数えられるもので必見です。また、安土桃山時代に豊臣秀吉が行った有名な「醍醐の花見」に関する品々や、三宝院の襖絵、俵屋宗達による絵画など、醍醐寺をめぐる華やかな近世美術もご覧いただきます。
2016年、中国の上海博物館(上海)と陝西歴史博物館(西安)で初の醍醐寺展が開催され、広く好評を博しました。本展は中国での展覧会開催を記念するもので、開創以来千百年余にわたって醍醐寺に護り伝えられてきた品々をその歴史を追想しながら鑑賞することができる貴重な機会となります。
本展は国宝・重要文化財に指定された仏像や仏画を中心に、濃密な密教美術の世界をご体感いただくとともに、普段は公開されない貴重な史料・書跡を通じて、平安時代から近世にいたる醍醐寺の変遷をたどるものです。なかでも、中尊が2メートル近くの像容を誇る国宝《薬師如来および両脇侍像》や優麗な重要文化財《如意輪観音坐像》、迫力の重要文化財《五大明王像》は醍醐寺の信仰を象徴するとともに、平安彫刻の白眉に数えられるもので必見です。また、安土桃山時代に豊臣秀吉が行った有名な「醍醐の花見」に関する品々や、三宝院の襖絵、俵屋宗達による絵画など、醍醐寺をめぐる華やかな近世美術もご覧いただきます。
2016年、中国の上海博物館(上海)と陝西歴史博物館(西安)で初の醍醐寺展が開催され、広く好評を博しました。本展は中国での展覧会開催を記念するもので、開創以来千百年余にわたって醍醐寺に護り伝えられてきた品々をその歴史を追想しながら鑑賞することができる貴重な機会となります。
◆醍醐寺(Wikipediaより、一部改編)
醍醐寺は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基は理源大師聖宝(しょうぼう、832~909)である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。
平安時代初期の創建。貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後、室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。
平安時代初期の創建。貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後、室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。
以下、印象に残った仏像を紹介します。(展示順、写真は図録をコピー)
◆如意輪観音坐像
木造・漆箔 像高49cm 平安時代・10世紀
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木造・漆箔 像高49cm 平安時代・10世紀
如意輪観音は、聖宝(しょうぼう)が准胝(じゅんてい)・如意輪両観音像をまつり醍醐寺の濫觴(らんしょう、起源の意)として以来、寺内において特別に信仰されてきた尊像である。
頭部を右に傾けながら、右手第一手を頬にそえて思惟の相を表す。右膝を立てたかたちの坐法や、右に傾けた上体に呼応させるよう6本の腕を巧みに配す造形のバランスは見事なもので、愛らしい表情とともに、優麗な印象をつくりだしている。(図録より)
※美術館の入り口には大きなポスターが掲示され、その中心には「如意輪観音坐像」が大きく描かれていました。館内に入り、最初に展示されていたのがこの「如意輪観音坐像」でした。もともと、そんな大きな像は考えていませんでしたが、ポスターと実物(像高49cm)のギャップに、一瞬「?」。でも、ゆっくり360度から見ていると、この像の表情や姿に心惹かれました。頭部を右に傾けながら、右手第一手を頬にそえて思惟の相を表す。右膝を立てたかたちの坐法や、右に傾けた上体に呼応させるよう6本の腕を巧みに配す造形のバランスは見事なもので、愛らしい表情とともに、優麗な印象をつくりだしている。(図録より)
◆不動明王坐像
快慶作 木造・彩色・截金 像高53.3cm 鎌倉時代・建仁3年(1203)
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快慶作 木造・彩色・截金 像高53.3cm 鎌倉時代・建仁3年(1203)
頭頂に頂蓮(ちょうれん)を戴き、髪は総髪に梳(くしけず)り、両目を見開いて、上歯列で下唇を噛み、右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を執って瑟々座(しつしつざ)に坐る不動明王像である。顔立ちは忿怒(ふんぬ)相ながら明快で、みずみずしく、気品がある。体躯は均整が取れ、衣縁の処理や衣文表現は自然かつ現実的である。(図録より)
※先週、上野の東京国立博物館で大報恩寺の快慶作「十大弟子立像」を見たばかりだったので、この快慶作「不動明王坐像」には最初から親近感を持ちました。この不動明王の表情は他の一般的な不動明王と違い、忿怒の形相ながら、何かしら思慮深さを持っているように感じました。◆五大明王像のうち、不動明王
木造・彩色 像高86.9cm 平安時代・10世紀
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※不動明王をはじめ、五大明王像はいずれも目を見開いて眼玉がせり出しており、見る者に強い印象を与えます。
木造・彩色 像高86.9cm 平安時代・10世紀
※不動明王をはじめ、五大明王像はいずれも目を見開いて眼玉がせり出しており、見る者に強い印象を与えます。
◆五大明王のうち、大威徳明王
木造・彩色 像高81.8cm 平安時代・10世紀
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※大威徳明王の乗る牛が立ち姿なのは珍しい。しかも、大威徳明王の忿怒の表情に比べ、牛のまん丸な目が対照的でおもしろい。
木造・彩色 像高81.8cm 平安時代・10世紀
※大威徳明王の乗る牛が立ち姿なのは珍しい。しかも、大威徳明王の忿怒の表情に比べ、牛のまん丸な目が対照的でおもしろい。
五大明王像
かつて上醍醐にあった醍醐寺初代座主(ざす)観賢(かんげん)の創建になる中院に本尊として伝わったとみられる像である。当初の5躯がそろう五大明王像としては、京都・東寺講堂像に次ぐ古作となる。
中尊の不動明王像は等身で、ほかの四明王像はそれよりやや小さくつくられる。しかし、吊り上がった太い眉や、見開いて眼玉のせり出した目、大きく張った鼻による凄まじい忿怒の相に加え、不動明王像の両肩をいからせて広く開く胸部の表現、四明王像の細長い手足による豊かな動勢表現など、実際の像の大きさに比して迫力に満ちたもので、平安時代前期の仏像の中にあって異彩を放つ彫刻群像である。(図録より)
かつて上醍醐にあった醍醐寺初代座主(ざす)観賢(かんげん)の創建になる中院に本尊として伝わったとみられる像である。当初の5躯がそろう五大明王像としては、京都・東寺講堂像に次ぐ古作となる。
中尊の不動明王像は等身で、ほかの四明王像はそれよりやや小さくつくられる。しかし、吊り上がった太い眉や、見開いて眼玉のせり出した目、大きく張った鼻による凄まじい忿怒の相に加え、不動明王像の両肩をいからせて広く開く胸部の表現、四明王像の細長い手足による豊かな動勢表現など、実際の像の大きさに比して迫力に満ちたもので、平安時代前期の仏像の中にあって異彩を放つ彫刻群像である。(図録より)
◆薬師如来および両脇侍像
木造・漆箔 像高:薬師如来坐像176.1cm・日光菩薩立像119.9cm・月光菩薩立像120.9cm 平安時代・10世紀
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木造・漆箔 像高:薬師如来坐像176.1cm・日光菩薩立像119.9cm・月光菩薩立像120.9cm 平安時代・10世紀
上醍醐薬師堂の本尊で、平成13年(2001)に下醍醐の霊宝館へ遷座された。薬師堂は、延喜7年(907)、醍醐天皇御願(ごがん)として聖宝(しょうぼう)により造営が開始され、同9年の聖宝没後は弟子観賢(かんげん)に引き継がれた。『醍醐寺要書』所載の延喜13年(913)10月25日付け太政官符に、醍醐寺が定額寺(じょうがくじ、朝廷が保護した官寺)となり、上醍醐薬師堂がすでに完成していることが見えるので、本三尊像も延喜13年には安置されていたと考えられる。
中尊薬師如来像は、左手に薬壷(やっこ)を載せ、右手は掌を正面に向けて施無畏印(せむいいん)をつくり、左足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)する。頭部は大きくて肉付きがよく、そこに切れ長の目、大きくひろがる鼻、分厚い唇を刻み、威厳のある表情をみせる。体躯は男性的で堂々とし、重量感に富む。上にして組む左足裏を衣で包むのは奈良・唐招提寺盧舎那仏坐像などに、左脚から正面にかけて逆三角形状の衣端を垂らすのは奈良・新薬師寺薬師如来坐像などに先例があり、奈良時代末ないし平安時代初期にかけての仏像にならった表現が見出され注目される。一方で、両足部に表される翻波式衣文(ほんぱしきえもん、太く丸い衣文線と細くしのぎ立った衣紋線を交互に繰り返す彫法)の彫りがかなり浅くなっており、9世紀末以降の時期の特色を示す。また、光背の周縁に6躯の小化仏が付けられているが、これは本体と合わせて七仏薬師を表しているのだろう。6躯のうち4躯は本体と共通の作風を示しており、当初作と考えられる。
中尊の両脇に従う日光菩薩像と月光菩薩像は、中尊と比べて像高がかなり小さく、重厚感もさほど感じられないが、身体の比例は整い、腰をわずかにひねるなど動きをつけた姿勢につくられる。ふっくらとした顔、胸や腰のくびれ、胸飾の形式は奈良時代の仏像、とくに乾漆像などの作風にならったものと考えられる。両脚間や天衣に表される渦文(かもん)は前代の平安時代前期に流行したものだが、浅く、弛緩した表現となっっている。
像高の違いが目立つものの、中尊と両脇侍は一木造りの構造、背筋を伸ばした姿勢、着衣の衣端が波打つ表現、意識的に奈良時代の造形を取り入れている点、耳の細部表現などが共通しており、ほぼ同時に一具像として制作されたと見て良い。10世紀彫刻の展開を考える上できわめて重要な三尊像である。(図録より)
※仏像展示の最後がこの「薬師如来および両脇侍像」でした。「薬師如来坐像」に比べ、脇侍の「日光菩薩立像」と「月光菩薩立像」が小さいなと思いましたが、展示スペースの後方の椅子に座って眺めていたら、この仏像に僕の病気平癒をお願いしたくなりました。また、醍醐寺で再会したいなと思いました。中尊薬師如来像は、左手に薬壷(やっこ)を載せ、右手は掌を正面に向けて施無畏印(せむいいん)をつくり、左足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)する。頭部は大きくて肉付きがよく、そこに切れ長の目、大きくひろがる鼻、分厚い唇を刻み、威厳のある表情をみせる。体躯は男性的で堂々とし、重量感に富む。上にして組む左足裏を衣で包むのは奈良・唐招提寺盧舎那仏坐像などに、左脚から正面にかけて逆三角形状の衣端を垂らすのは奈良・新薬師寺薬師如来坐像などに先例があり、奈良時代末ないし平安時代初期にかけての仏像にならった表現が見出され注目される。一方で、両足部に表される翻波式衣文(ほんぱしきえもん、太く丸い衣文線と細くしのぎ立った衣紋線を交互に繰り返す彫法)の彫りがかなり浅くなっており、9世紀末以降の時期の特色を示す。また、光背の周縁に6躯の小化仏が付けられているが、これは本体と合わせて七仏薬師を表しているのだろう。6躯のうち4躯は本体と共通の作風を示しており、当初作と考えられる。
中尊の両脇に従う日光菩薩像と月光菩薩像は、中尊と比べて像高がかなり小さく、重厚感もさほど感じられないが、身体の比例は整い、腰をわずかにひねるなど動きをつけた姿勢につくられる。ふっくらとした顔、胸や腰のくびれ、胸飾の形式は奈良時代の仏像、とくに乾漆像などの作風にならったものと考えられる。両脚間や天衣に表される渦文(かもん)は前代の平安時代前期に流行したものだが、浅く、弛緩した表現となっっている。
像高の違いが目立つものの、中尊と両脇侍は一木造りの構造、背筋を伸ばした姿勢、着衣の衣端が波打つ表現、意識的に奈良時代の造形を取り入れている点、耳の細部表現などが共通しており、ほぼ同時に一具像として制作されたと見て良い。10世紀彫刻の展開を考える上できわめて重要な三尊像である。(図録より)
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・図録『京都・醍醐寺 真言密教の宇宙』
・図録『京都・醍醐寺 真言密教の宇宙』