今日、上野の国立西洋美術館で「ルーベンス展―バロックの誕生」(10.16-2019.1.20)を見ました。リーフレットの「ルーベンス作品約40点が10カ国より集結」なんて謳い文句を見ると、こんなチャンスは滅多にないから見に行こう、なんて単純に思ってしまいました。
◆開催概要(展覧会特設サイトより)
ペーテル・パウル・ルーベンスの名は、わが国では名作アニメ『フランダースの犬』によって知られています。そう、主人公ネロが一目見たいと望み続け、最終回にはその前で愛犬パトラッシュとともにこと切れる、聖母大聖堂の祭壇画の作者です。しかし本場西洋では、ルーベンスの方が圧倒的に有名です。バロックと呼ばれる壮麗華美な美術様式が栄えた17世紀ヨーロッパを代表する画家であり、後に「王の画家にして画家の王」と呼ばれたほどの存在なのです。本展覧会はこのルーベンスを、イタリアとのかかわりに焦点を当てて紹介するものです。
なぜイタリアなのか? イタリアは古代美術やルネサンス美術が栄えた地であり、バロック美術の中心地もローマでした。また、当時はローマがヨーロッパの政治の中心でもありました。フランドルのアントウェルペンで育ったルーベンスは、幼いころから古代文化に親しみ、イタリアに憧れを抱きます。そして1600年、ついに彼はイタリアの土を踏み、08年まで滞在してこの地の美術を吸収することで、自らの芸術を大きく発展させたのです。フランドルに帰郷後も彼はたえずイタリアの美術を参照し、また手紙を書くときはイタリア語を用いるなど、心のなかにイタリアを保ち続けました。一方で、若い頃からきわめて有能だったルーベンスは、イタリアの若い画家たちに多大な影響を与え、バロック美術の発展に拍車をかけたと考えられます。ジョヴァンニ・ランフランコやジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ピエトロ・ダ・コルトーナといった盛期バロックの立役者となった芸術家たちは、ルーベンス作品との出会いによって表現を羽ばたかせた可能性があります。また17世紀末のルカ・ジョルダーノらは、ルーベンスから多くの刺激を受けました。
本展はルーベンスの作品を、古代彫刻や彼に先行する16世紀のイタリアの芸術家の作品、そして同時代以降のイタリア・バロックの芸術家たちの作品とともに展示します。ルーベンスがイタリアから何を学んだのかをお見せするとともに、彼とイタリア・バロック美術との関係を解きほぐし、明らかにすることを目指します。これまでわが国では何度かルーベンス展が開催されてきましたが、この画家とイタリアとの双方向の影響関係に焦点を当てた展覧会は、初の試みとなります。ルーベンスとイタリア・バロック美術という、西洋美術のふたつのハイライトに対する新たな眼差しのあり方を、日本の観衆に与える最良の機会となることでしょう。
なぜイタリアなのか? イタリアは古代美術やルネサンス美術が栄えた地であり、バロック美術の中心地もローマでした。また、当時はローマがヨーロッパの政治の中心でもありました。フランドルのアントウェルペンで育ったルーベンスは、幼いころから古代文化に親しみ、イタリアに憧れを抱きます。そして1600年、ついに彼はイタリアの土を踏み、08年まで滞在してこの地の美術を吸収することで、自らの芸術を大きく発展させたのです。フランドルに帰郷後も彼はたえずイタリアの美術を参照し、また手紙を書くときはイタリア語を用いるなど、心のなかにイタリアを保ち続けました。一方で、若い頃からきわめて有能だったルーベンスは、イタリアの若い画家たちに多大な影響を与え、バロック美術の発展に拍車をかけたと考えられます。ジョヴァンニ・ランフランコやジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ピエトロ・ダ・コルトーナといった盛期バロックの立役者となった芸術家たちは、ルーベンス作品との出会いによって表現を羽ばたかせた可能性があります。また17世紀末のルカ・ジョルダーノらは、ルーベンスから多くの刺激を受けました。
本展はルーベンスの作品を、古代彫刻や彼に先行する16世紀のイタリアの芸術家の作品、そして同時代以降のイタリア・バロックの芸術家たちの作品とともに展示します。ルーベンスがイタリアから何を学んだのかをお見せするとともに、彼とイタリア・バロック美術との関係を解きほぐし、明らかにすることを目指します。これまでわが国では何度かルーベンス展が開催されてきましたが、この画家とイタリアとの双方向の影響関係に焦点を当てた展覧会は、初の試みとなります。ルーベンスとイタリア・バロック美術という、西洋美術のふたつのハイライトに対する新たな眼差しのあり方を、日本の観衆に与える最良の機会となることでしょう。
◆ルーベンスについて(展覧会特設サイトより)
ルーベンス(1577-1640)はスペイン領ネーデルラント(現在のベルギー、ルクセンブルクを中心とする地域)のアントウェルペンで育ちました。由緒ある家柄の息子だったため、宮廷人となるべく高度な教育をほどこされましたが、画家への思い捨てがたく、修業を始めます。
修業を終えると1600年から08年までイタリアに滞在し、古代美術やルネサンスの美術を咀嚼しつつ、当時の最先端の美術を身につけた画家に成長しました。
アントウェルペンに戻ったルーベンスはこの地を治める総督夫妻の宮廷画家となり、大規模な工房を組織して精力的に制作に励みましたが、一方で外交官としても活動します。彼はスペインやイギリスなどに赴き、当時戦乱のさなかにあったヨーロッパに平和をもたらすべく、奔走しました。その際も各地の宮廷のコレクションを熱心に研究し、自らの制作に役立てました。彼は光と動きにあふれる作品によって、当時ヨーロッパで流行したバロック美術を代表する画家となっています。
修業を終えると1600年から08年までイタリアに滞在し、古代美術やルネサンスの美術を咀嚼しつつ、当時の最先端の美術を身につけた画家に成長しました。
アントウェルペンに戻ったルーベンスはこの地を治める総督夫妻の宮廷画家となり、大規模な工房を組織して精力的に制作に励みましたが、一方で外交官としても活動します。彼はスペインやイギリスなどに赴き、当時戦乱のさなかにあったヨーロッパに平和をもたらすべく、奔走しました。その際も各地の宮廷のコレクションを熱心に研究し、自らの制作に役立てました。彼は光と動きにあふれる作品によって、当時ヨーロッパで流行したバロック美術を代表する画家となっています。
◆バロック絵画について(Wikipediaより)
バロック絵画は、16世紀末から18世紀なかばの西洋芸術運動であるバロック様式に分類される絵画。バロックは絶対王政、カトリック改革、カトリック復興などと深い関連があり、ときには一体化したものと見なされることもあるが、バロック美術とバロック建築の傑作は絶対主義やキリスト教とは無関係に、作品自身が持つ魅力によって広く親しまれ、受け入れられている。
もっとも重要で有名なバロック絵画は1600年ごろから18世紀初頭にかけて描かれた。バロック絵画は劇的な描写技法、豊かで深い色彩、強い明暗法などで特徴づけられる。ルネサンス美術とは異なり、バロック美術では大げさで芝居がかったような場面描写が好まれ、動的な躍動感あふれる作品が多く制作された。盛期ルネサンスの代表的な芸術家ミケランジェロは彫刻ダビデ像を、ゴリアテとの戦いを控えて沈思する人物として表現した。一方、バロックの代表的な芸術家ベルニーニは、ゴリアテに向かって石を投げつける瞬間をとらえたダビデ像 を制作している。ルネサンス美術で賞賛された冷徹な理性ではなく、バロック美術では一瞬の感情や情熱の表現を追求していた。
バロック絵画を代表する画家として、イタリアのカラヴァッジョ、オランダのレンブラント、フェルメール、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケス、フランスのプッサンらの名前があげられる。
バロック絵画にはカラヴァッジョが多用した明暗法の一種であるキアロスクーロの使用によって劇的な物語性を表現した画家が多い。カラヴァッジョは盛期ルネサンスの人文主義を受け継ぎ、自身が独自に発展させた人物を写実的に描く手法と強烈なキアロスクーロを用いて劇的な効果をもたらす技法は同時代の芸術家たちの大きな影響を与え、西洋美術史に新たな流れを生み出した。その他にフランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイクが描いた優美かつ力強い肖像画も、とくにイングランドで大きな影響を及ぼした絵画である。
17世紀オランダの隆盛は巨大な美術市場を形成し、画家たちは風景画、静物画、肖像画、歴史画、風俗画など、さまざまなジャンルに特化した作品を描いた。当時のオランダ人画家たちの絵画技術は非常に高く、20世紀のモダニズム萌芽まで美術界に影響を与え続けた。
もっとも重要で有名なバロック絵画は1600年ごろから18世紀初頭にかけて描かれた。バロック絵画は劇的な描写技法、豊かで深い色彩、強い明暗法などで特徴づけられる。ルネサンス美術とは異なり、バロック美術では大げさで芝居がかったような場面描写が好まれ、動的な躍動感あふれる作品が多く制作された。盛期ルネサンスの代表的な芸術家ミケランジェロは彫刻ダビデ像を、ゴリアテとの戦いを控えて沈思する人物として表現した。一方、バロックの代表的な芸術家ベルニーニは、ゴリアテに向かって石を投げつける瞬間をとらえたダビデ像 を制作している。ルネサンス美術で賞賛された冷徹な理性ではなく、バロック美術では一瞬の感情や情熱の表現を追求していた。
バロック絵画を代表する画家として、イタリアのカラヴァッジョ、オランダのレンブラント、フェルメール、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケス、フランスのプッサンらの名前があげられる。
バロック絵画にはカラヴァッジョが多用した明暗法の一種であるキアロスクーロの使用によって劇的な物語性を表現した画家が多い。カラヴァッジョは盛期ルネサンスの人文主義を受け継ぎ、自身が独自に発展させた人物を写実的に描く手法と強烈なキアロスクーロを用いて劇的な効果をもたらす技法は同時代の芸術家たちの大きな影響を与え、西洋美術史に新たな流れを生み出した。その他にフランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイクが描いた優美かつ力強い肖像画も、とくにイングランドで大きな影響を及ぼした絵画である。
17世紀オランダの隆盛は巨大な美術市場を形成し、画家たちは風景画、静物画、肖像画、歴史画、風俗画など、さまざまなジャンルに特化した作品を描いた。当時のオランダ人画家たちの絵画技術は非常に高く、20世紀のモダニズム萌芽まで美術界に影響を与え続けた。
以下、印象に残った絵をいくつか紹介します。(展示順、写真は図録をコピー)
◆ルーベンス「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(1615-16、37.3×26.9cm)
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本作品はルーベンスと最初の妻イサベラ・ブラントの長女クララ・セレーナを描いたものだ。像主がクララ・セレーナに同定されたのは、大英博物館にあるルーベンスが描いた素描などから知られる母イサベラ・ブラントの容貌と、きわめて似ていることによる。1611年3月21日に生まれた彼女は、この時およそ5歳である。1624年11月11日付のニコラ=クロード・ファブリ・ペレスクのルーベンス宛の書簡により、彼女は12歳で亡くなったことがわかる。
本作品は四辺が切り詰められており、それもあって彼女はとても近くから、やや見下ろして描かれているように見える。おそらくルーベンスから1メートルと離れていなかったのではないか。画家が描きとめたかったのは彼女の表情であり、それゆえ顔立ちは丹念に描かれている一方で、背景や襟、頭部のほかの部分の細部はほのめかされるのみである。
ルーベンスの肖像画としては珍しいことにモデルを正面から描いたこの絵は、顔の向きもあいまって、画家とモデルとの親密さを強く感じさせ、くつろいだ時間に描かれたものだろうと思わせる。ルーベンスの私的な肖像画の好例と言える作品である。(図録解説より抜粋)
※ルーベンスの娘クララ・セレーナの5歳の頃の肖像画です。絵の解説文に「12歳で亡くなった」とあり、少し切なさを感じました。本作品は四辺が切り詰められており、それもあって彼女はとても近くから、やや見下ろして描かれているように見える。おそらくルーベンスから1メートルと離れていなかったのではないか。画家が描きとめたかったのは彼女の表情であり、それゆえ顔立ちは丹念に描かれている一方で、背景や襟、頭部のほかの部分の細部はほのめかされるのみである。
ルーベンスの肖像画としては珍しいことにモデルを正面から描いたこの絵は、顔の向きもあいまって、画家とモデルとの親密さを強く感じさせ、くつろいだ時間に描かれたものだろうと思わせる。ルーベンスの私的な肖像画の好例と言える作品である。(図録解説より抜粋)
◆ルーベンス「法悦のマグダラのマリア」(1625-28、295×220cm)
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本作品に描かれるのは、法悦により失神したマグダラのマリアである。頭を後方に傾けて微動だにせず、恍惚の眼差しを天上に向け、青白い手足からは力が抜け、髪はほどけ乱れている。その右手の手元には、彼女の重要な持物(アトリビュート)である香油壺が見える。
最も敬虔なキリストの弟子のひとりであり、キリストの復活における最初の証人ともされているマグダラのマリアは、中世に流布したヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』(1623)によれば、フランスの荒野に隠棲し、天使たちに天上へと運ばれる霊的な幻視と法悦を日に七度も体験した。16世紀には、祈りの姿のまま雲に包まれ、大勢の天使たちによって天上へと運ばれるこの聖女の姿が好んで描かれ、17世紀前半にもそうした作例は多い。一方、本作品においてルーベンスは、中世の物語の記述とも16世紀の絵画伝統とも異なって、法悦により失神して地面に身体を投げ出す聖女の姿を、その両腕を支えるふたりの天使と共に描いている。これはアヴィラの聖テレサの著作の記述に従ったものである。(図録解説より抜粋)
※『広辞苑』によれば、「法悦」とは「恍惚とするような歓喜の状態。エクスタシー」を意味します。恍惚状態のマグダラのマリアを見た時、死者のように見えてゾッとしました。最も敬虔なキリストの弟子のひとりであり、キリストの復活における最初の証人ともされているマグダラのマリアは、中世に流布したヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』(1623)によれば、フランスの荒野に隠棲し、天使たちに天上へと運ばれる霊的な幻視と法悦を日に七度も体験した。16世紀には、祈りの姿のまま雲に包まれ、大勢の天使たちによって天上へと運ばれるこの聖女の姿が好んで描かれ、17世紀前半にもそうした作例は多い。一方、本作品においてルーベンスは、中世の物語の記述とも16世紀の絵画伝統とも異なって、法悦により失神して地面に身体を投げ出す聖女の姿を、その両腕を支えるふたりの天使と共に描いている。これはアヴィラの聖テレサの著作の記述に従ったものである。(図録解説より抜粋)
◆ルーベンス「マルスとレア・シルウィア」(1616-17、207.5×271.5cm)
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マルスのレア・シルウィアに対する愛を主題とするこの場面は、オウィディウスの『祭暦』をはじめとする、古代ローマ文学に着想を得ている。ここでルーベンスは、キューピッドの力によってウェスタ神殿の火を守る巫女レア・シルウィアに心を奪われ、彼女を篭絡しようとする戦いの神マルスを描いている。アルバ・ロンガ王ヌミトルの娘レア・シルウィアは、父親から王位を簒奪した叔父アムリウスによって、正統な王位継承者をもうけぬよう、純潔の誓いをもってウェスタ神殿に身を捧げることを強いられた。ウェルギリウスによれば、レア・シルウィアが誓いを破ってマルスと交わったことにより、ローマの建設者ロムルスとレムスが生まれたという。
ルーベンスによる理想化された構図は、古代の典拠に忠実に従っているわけではない。オウィディウスによれば、レア・シルウィアは水汲みに行った森の中で、眠っている間にマルスに犯されたのに対し、本作品では、マルスはウェスタ神殿でレア・シルウィアに襲いかかっているからだ。神殿には、アイネイアスによってトロイアの神殿からイタリアにもたらされたパラス・アテナ像が立ち、永遠に燃える聖火が供えられている。ふたりを結びつけるキューピッドは、画面中央で両者のマントの裾を握っている。鎧を身につけたマルスは雲から降りてきたところだ。この描写は、画家がルネサンス的なマルスの図像学を取り入れるに飽き足らず、この神話に関する古代文献の記述を几帳面に参照したことを示している。というのも、レア・シルウィアが武具と雲の存在からマルスをそれと認めたという記述があるからである。(図録解説より抜粋)
※この二人が交わって、ローマの建設者ロムルスとレムスが生まれたという。レア・シルウィアの表情がとても印象的です。ルーベンスによる理想化された構図は、古代の典拠に忠実に従っているわけではない。オウィディウスによれば、レア・シルウィアは水汲みに行った森の中で、眠っている間にマルスに犯されたのに対し、本作品では、マルスはウェスタ神殿でレア・シルウィアに襲いかかっているからだ。神殿には、アイネイアスによってトロイアの神殿からイタリアにもたらされたパラス・アテナ像が立ち、永遠に燃える聖火が供えられている。ふたりを結びつけるキューピッドは、画面中央で両者のマントの裾を握っている。鎧を身につけたマルスは雲から降りてきたところだ。この描写は、画家がルネサンス的なマルスの図像学を取り入れるに飽き足らず、この神話に関する古代文献の記述を几帳面に参照したことを示している。というのも、レア・シルウィアが武具と雲の存在からマルスをそれと認めたという記述があるからである。(図録解説より抜粋)
◆ルーベンス「エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち」(1615-16、217.8×317.3cm)
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本作品に表されているのは、アッティカの初代王ケクロプスの3人の娘たちの神話である。この娘たちは、知恵の女神ミネルウァより、脚のかわりに2匹の蛇の尾を生やした怪物のような子供エリクトニオスを託された。エリクトニオスは、ウルカヌスがミネルウァを犯そうとして失敗した時、偶然地面にこぼれた精液によって大地の女神ガイアが身籠り、生まれた子供である。ミネルウァは不運な子供を哀れみ、他の女神たちの目に触れぬよう、この子を籠の中に入れて三姉妹に託し、籠を決して開けぬよう言いつけた。だが三姉妹のひとりアグラウロスは好奇心に抗えず、蓋を開けてエリクトニオスを見てしまう。
ルーベンスが描いた場面では、アグラウロスが籠の前に身体を屈め、彼女の左側にパンドロソスが、その反対側にヘルセが立ち、興味深げにその場に立ち会っている。後景の左側には、自然と肉欲の神パンを表すヘルメ柱があり、牧歌的な風景をはさんだ画面の反対側には、豊穣を司る女神ガイアが、複数の乳房をもつ噴水を飾る彫像として表わされている。エリクトニオスの神話を伝える多くの著作の中でも、ルーベンスの絵画はオウィディウスの『変身物語』に基づくとされる。ほかの著作では、半身が蛇のエリクトニオスを目にした3人の娘たちは恐怖のあまり狂気にとらわれ、アクロポリスの壁から身を投げるという悲劇的な結末を迎えるのに対し、『変身物語』ではパンドロソスとヘルセは女神の言いつけを破った罰を受けることがない。ひとりアグラウロスのみ、次の段落に記す別のエピソードにおいて(省略)、高慢ゆえに報いを受けることになる。(図録解説より抜粋)
※バロック絵画を理解するキーワードは、「過剰さ」あるいは「盛りすぎ感」です。この作品には「豊満すぎる肉体」が描かれています。現代の美意識では「痩せてる方がきれい」ですが、17世紀の西洋では豊満な肉体が美人の条件。バロック絵画は、そこも「過剰」に表現します。(山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画史入門』より)ルーベンスが描いた場面では、アグラウロスが籠の前に身体を屈め、彼女の左側にパンドロソスが、その反対側にヘルセが立ち、興味深げにその場に立ち会っている。後景の左側には、自然と肉欲の神パンを表すヘルメ柱があり、牧歌的な風景をはさんだ画面の反対側には、豊穣を司る女神ガイアが、複数の乳房をもつ噴水を飾る彫像として表わされている。エリクトニオスの神話を伝える多くの著作の中でも、ルーベンスの絵画はオウィディウスの『変身物語』に基づくとされる。ほかの著作では、半身が蛇のエリクトニオスを目にした3人の娘たちは恐怖のあまり狂気にとらわれ、アクロポリスの壁から身を投げるという悲劇的な結末を迎えるのに対し、『変身物語』ではパンドロソスとヘルセは女神の言いつけを破った罰を受けることがない。ひとりアグラウロスのみ、次の段落に記す別のエピソードにおいて(省略)、高慢ゆえに報いを受けることになる。(図録解説より抜粋)
◆グッズ・土産
・図録『ルーベンス展―バロックの誕生』
・絵ハガキ
・図録『ルーベンス展―バロックの誕生』
・絵ハガキ