京都旅行2日目。銀閣寺を拝観した後、「哲学の道」を散策しながら、永観堂(正式名称は禅林寺)に向かいました。
永観堂は有名な紅葉の名所だけあって、多くの観光客が訪れていました。でも、僕の目的は見仏なので、紅葉はスルーです。
永観堂は有名な紅葉の名所だけあって、多くの観光客が訪れていました。でも、僕の目的は見仏なので、紅葉はスルーです。
◆永観堂略史(永観堂HPより)
奥山の岩垣紅葉散りぬべし、照る日の光、見る時なくて(古今集)
この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょうそうず、797-873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿3年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、爛皀潺犬留粉册沖瓩箸靴得乕翰余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まります。真紹僧都は「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい」との信条のもと『禅林寺式』を著し、照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げられたので、風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多く見ることとなりました。
永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし、1033-1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代です。次は永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず、1166-1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。
みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ(千載集)
と詠まれた永観律師はことに高名です。律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、多くの史書にみえるところです。永観律師は幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになりましたが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選びます。18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたといわれています。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来しています。
永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都です。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133-1212)の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依されました。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177-1247)に譲りました。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201-1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となりました。以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています。
歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見ますが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?-1881)は社会福祉事業に貢献されました。師は京都府立病院の前身にあたる療病院の設立に尽力されました。
永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたからです。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられています。
この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょうそうず、797-873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿3年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、爛皀潺犬留粉册沖瓩箸靴得乕翰余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まります。真紹僧都は「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい」との信条のもと『禅林寺式』を著し、照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げられたので、風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多く見ることとなりました。
永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし、1033-1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代です。次は永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず、1166-1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。
みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ(千載集)
と詠まれた永観律師はことに高名です。律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、多くの史書にみえるところです。永観律師は幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになりましたが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選びます。18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたといわれています。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来しています。
永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都です。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133-1212)の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依されました。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177-1247)に譲りました。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201-1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となりました。以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています。
歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見ますが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?-1881)は社会福祉事業に貢献されました。師は京都府立病院の前身にあたる療病院の設立に尽力されました。
永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたからです。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられています。
◆阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀)(像高77cm、平安後期~鎌倉初期、永観堂HPより)
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伝説がある。東大寺開創供養の時一老翁が捧げた阿弥陀像を宮中で祀りになっていたが、やがて東大寺に下賜された『東大寺要録』。
この阿弥陀如来像は東大寺宝蔵に秘蔵されていたのだが、たまたま永観はその尊像を拝する機会があり、尊像の奥深いところから呼びかける声を聞いた。永観は、「衆生済度こそ、この仏の本願であり宝蔵にしまっておくのはもったいない」と嘆いた。これが白河法皇の耳に入り、永観が護持し供養することとなった。後年、永観が東大寺別当職を辞して尊像を背負って京に入る際、東大寺の僧がそれを取り戻そうと追いかけて京都の木幡まできたところ、尊像は永観の背に取り付いて離れず、僧たちはあきらめたと言い伝えられている。
永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、
「永観、おそし」
と声をかけられた。永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。
「みかえり阿弥陀」として知られる永観堂禅林寺の本尊像。全体に穏健な平安時代後期の作風を示すが、ひきしまった面相や、適度に装飾的な衣文などから、慶派などとは異なる系統の鎌倉時代の京都の仏師による作であると考えられている。特殊な姿勢を破綻なくまとめ、静から動への一瞬を見事に捉えており、作者の技量の高さが見てとれる。
みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ(千載集)
上の和歌は永観律師の作であるが、「みかえり阿弥陀如来」のお姿を現代風に解釈すると、次のようになろう。(文:岡部伊都子)
・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。
・自分自身の位置をかえりみる姿勢。
・愛や情けをかける姿勢。
・思いやり深く周囲をみつめる姿勢。
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。
真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心。(永観堂HPより)
※「みかえり阿弥陀」は知っていましたが、変な姿くらいにしか思っていませんでした。しかし、実際に拝観し、その由来を知ったらとても身近な存在になりました。この阿弥陀如来像は東大寺宝蔵に秘蔵されていたのだが、たまたま永観はその尊像を拝する機会があり、尊像の奥深いところから呼びかける声を聞いた。永観は、「衆生済度こそ、この仏の本願であり宝蔵にしまっておくのはもったいない」と嘆いた。これが白河法皇の耳に入り、永観が護持し供養することとなった。後年、永観が東大寺別当職を辞して尊像を背負って京に入る際、東大寺の僧がそれを取り戻そうと追いかけて京都の木幡まできたところ、尊像は永観の背に取り付いて離れず、僧たちはあきらめたと言い伝えられている。
永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、
「永観、おそし」
と声をかけられた。永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。
「みかえり阿弥陀」として知られる永観堂禅林寺の本尊像。全体に穏健な平安時代後期の作風を示すが、ひきしまった面相や、適度に装飾的な衣文などから、慶派などとは異なる系統の鎌倉時代の京都の仏師による作であると考えられている。特殊な姿勢を破綻なくまとめ、静から動への一瞬を見事に捉えており、作者の技量の高さが見てとれる。
みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ(千載集)
上の和歌は永観律師の作であるが、「みかえり阿弥陀如来」のお姿を現代風に解釈すると、次のようになろう。(文:岡部伊都子)
・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。
・自分自身の位置をかえりみる姿勢。
・愛や情けをかける姿勢。
・思いやり深く周囲をみつめる姿勢。
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。
真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心。(永観堂HPより)
◆グッズ・土産
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