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東京都美術館「ムンク展―共鳴する魂の叫び」

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 今日、上野公園にある東京都美術館に「ムンク展―共鳴する魂の叫び」(10月27日~2019年1月20日)を見に行って来ました。
 会場には午前10時半頃着きましたが、既に入場待ちの行列ができていました。上野駅内のチケットショップで当日券を購入していたので、チケット売場の行列には並ばずにすみました。会場内は多くの人で溢れていましたが、比較的ゆっくり見ることができました。
 目玉は「叫び」ですが、他にも興味深い作品が数多く出品されており、ムンクの画業のおおよそを知ることが出来ました。そんな中、彼の「自画像」が気になりました。ムンクは多くの自画像を残していますが、カメラで自撮りした写真を使って肖像画を描いていたようです。カメラを創作に活用したという点では、同じ時代に画家として活動したピエール・ボナール(1867‐1947)も同じです。
 ムンクの自画像を見ながら、これからは僕もカメラでセルフポートレートを撮ろうかなって思いました。僕は写真を撮るのは好きですが、病気の治療薬の副作用で「ムーンフェイス」になって以来、自分の写真を一枚も撮っていません。ムーンフェイスはだいぶ改善されたし、そろそろ自分の生きた証しを残しておこうかなって思いました。


◆開催概要(東京都美術館HPより)
 世界で最もよく知られる名画の一つ《叫び》を描いた西洋近代絵画の巨匠、エドヴァルド・ムンク(1863-1944)。画家の故郷、ノルウェーの首都にあるオスロ市立ムンク美術館が誇る世界最大のコレクションを中心に、約60点の油彩画に版画などを加えた約100点により構成される大回顧展です。
 複数描かれた《叫び》のうち、ムンク美術館が所蔵するテンペラ・油彩画の《叫び》は今回が待望の初来日となります。愛や絶望、嫉妬、孤独など人間の内面が強烈なまでに表現された代表作の数々から、ノルウェーの自然を描いた美しい風景画、明るい色に彩られた晩年の作品に至るまで、約60年にわたるムンクの画業を振り返ります。
〈章構成〉
1 ムンクとは誰か
2 家族―死と喪失
3 夏の夜―孤独と憂鬱
4 魂の叫び―不安と絶望
5 接吻、吸血鬼、マドンナ
6 男と女―愛、嫉妬、別れ
7 肖像画
8 躍動する風景
9 画家の晩年

◆エドヴァルド・ムンク(Wikipediaより、一部改編)
 ムンクは1863年、ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。1868年に母が病気で亡くなり、1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている。
 1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった。
 1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ。
 1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった。
 1896年にはパリに移り住み、版画の制作などに注力した。1897年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。この頃にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった。
 1903年頃からは友人のマックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりして、ドイツを中心に活動した。
 1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時にはノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた。
 1909年に退院するとノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や労働者シリーズを手がけた。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなった。

 ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる。

生命のフリーズ
 ムンクは主に1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、〈生命のフリーズ〉と称し、連作と位置付けている。「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」、「死」、そして愛と死がもたらす「不安」である。
 1902年の第5回ベルリン分離派展では、22点の作品が「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられていた。「愛の芽生え」のセクションには『接吻』『マドンナ』など、「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命の踊り』など、「生の不安」には『不安』『叫び』など、「死」には『病室での死』『新陳代謝(メタボリズム)』などの作品が展示された。(Wikipediaより)


 以下、印象に残った絵を紹介します。(展示順。写真は特設WEBサイトより、あるいは図録をコピー。解説は図録より)

自画像(1895、46×31.5cm、リトグラフ)
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 エドヴァルド・ムンクのこの自画像は、黒地を背景に浮かび上がる頭部と腕によって表わされている。骸骨と化した腕は、おそらくは「メメント・モリ」を象徴的に表わす伝統に従うもので、画家の死すべき運命を思わせる。「メメント・モリ」とはラテン語の警句で、「死を忘れるなかれ」と訳される。頭蓋骨や骨、そして腐った果物は、17世紀のバロック芸術において、この言葉を象徴するモティーフとしてとくに好んで用いられた。こうした解釈は、リトグラフの上部署名と制作年が墓碑銘のように表わされていることからも導き出される。この自画像を制作したとき、ムンクはまだ30代初めにすぎなかったが、それでも「死」のテーマはすでに彼の作品にたびたび描かれていた。



地獄の自画像(1903、82×66cm)
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 この自画像はいくつかの写真をもとに描かれた。写真の中のムンクは、戸外で裸になってポーズをとり、青白い肌の身体と日焼けした顔を見せている。本作品では、現実が空想と混ざり合い、画家の姿は燃え上がる地獄の炎と、そびえ立つ影とともに描かれている。ムンクの考えでは、地獄とはおそらく、彼の「仇敵たち」がムンクを送り込みたいと望んでいる場所だった。19世紀から20世紀へと世紀が変わる頃、ムンクの生活は、ストレスやアルコールの濫用、そして絶え間ない旅行によって引き起こされた妄想症(パラノイア)を原因とする出来事で破綻していた。「仇敵たち」のリストはどんどん長くなり、ついにムンクは公の場で騒ぎを起こす精神状態へと陥ったあげく、見ず知らずの人々を盗みや陰謀のかどで非難した。だが、この自画像の中のムンクは、何か確信のようなものをもって観る者に目を向けており、まるで「ここで君を待っているよ」と言っているかのようだ。



家壁の前の自画像(1926、92×73cm)
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 ムンクはオスロ郊外のエーケリーで1916年から1944年まで過ごしたが、その間に相当な数の自画像を制作した。自身が老いてゆく過程を記録することに興味をもっていた彼は、老齢となるにつれ、ますますその意識を強めていったのだろう。一方で、ムンクはこの絵画において、自画像というジャンルを利用しながら、色彩と感覚の実験を行なった。ここでは異なる緑の色調で顔の輪郭が表わされ、頭部の一部は背景の植物と混ざり合っている。目もくらむような強い日射しに反応しているのか、画家は両目を細めている。強烈な日射しの印象は、濃紺に近い深い青色で描かれた空の色調によっても強調されている。



メランコリー(1894-96、81×100.5cm)
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 ムンクによる「メランコリー」のイメージは、孤独や悲しみに陥り、意気消沈する人間を表現する古き伝統の系譜にある。文学的な主題としてのメランコリー(メランコリア)というテーマは古代末期にまで遡るが、ムンクは友人である美術批評家ヤッペ・ニルセン(1870-1931)の恋わずらいに着想を得て、昔からあるこのモティーフに新しい命を与えた。ニルセンが情事をもったオーダ・クローグ(1860-1935)は、彼より10歳年長で、ノルウエーの画家クリスチャン・クローグ(1852-1925)とすでに結婚していた。クローグは、ムンクの初期の師の一人である。ここでの風景は、互いに溶け合うフォルムと色彩によって構成されている。本作品はどこか特定の場所の描写というよりもむしろ、男の憂鬱な内面を表わす精神的なイメージと捉えることができるだろう。



赤と白(1899-1900、93.5×129.5cm)
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 前景に描かれた二人の女性が画面を支配している。白い服を着た金髪の女性は海のほうを向いており、身体を柱のように直立させている。赤い服を着た濃い髪色の女性は、身体の曲線がかなり強調されている。木々の幹の間に暗い色のドレスをまとった女性の痕跡が見える。この女性は、本作品と同じモティーフを表わす初期の油彩スケッチに描かれていたが、ここではムンクの手によって塗りつぶされている。二人の姿は、女性の生涯の異なる段階、あるいは性格の異なる側面を象徴しているのかもしれない。白い服を着た女性の無垢と純真さは、赤い服の女性の成熟と情熱的なエロティシズムと対照的だ。こうした象徴的な対比はありふれているが、この絵画の魅力はむしろ、象徴の「解釈」を超えて、赤、白、青、黒といった色彩が生み出す、緊張感に満ちた相互作用にある。



叫び(1910?、83.5×66cm)
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 ムンクの最も有名なモティーフである「叫び」は、人間が抱える実存的な不安と孤独と絶望の象徴となっている。オスロ・フィヨルド上空の日没時の空が見せる鮮烈な感覚を、ムンクは心の内の混乱を表わす革新的なイメージへと転換させたのだった。この絵画を観る者は、叫びとは、人間の口から放たれ、風景の中へと拡散し、それを揺り動かし、さざ波を立てていくものだと見なすかもしれない。だが、自然が叫び、両耳をふさぐ人物に激しく襲いかかっていると考えることもできるだろう。ムンクの芸術家としての感受性は、都市の匿名性や資本主義における疎外という、近代社会のもたらす副作用に反応した。彼が描いた鋭く叫びたてる(あるいは叫びにさらされている)人物は、自然からも、社会からも、そして内なる彼自身からも孤立しているのである。
※「叫び」は、1893年以降、4点制作され(リトグラフ作品を除く)、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と、個人所蔵のものが1点ずつあります。
.レヨン/厚紙、74×56cm、1893年、ムンク美術館
▲謄鵐撻蕁Εレヨン/厚紙、91×73.5cm、1893年、オスロ国立美術館
パステル/厚紙、79×59cm、1895年、個人蔵
ぅ謄鵐撻蕁μ漫晋罅83.5×66cm、1910年?、ムンク美術館 ※今回初来日


絶望(1894、92×73cm)
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 ムンクは本作品に「叫び」と同じ構図を採用し、「叫び」に描かれた人物を物憂げな男にただ置き換えた。本作品は、わずかな変更によってまったく異なる視覚的効果を生み出すことができるムンクの才能を証明している。中央の人物は、ダイナミックに揺れ動く風景の「創出者」ではない。自身の内面に沈み込む人物は、背後の鮮烈な日没の景色にもまったく心を動かさないままである。これは、ムンクが「メランコリー」のイメージにしばしば用いるのと同じ人物像だ。絶望や悲しみ、そして憂鬱といった感情は、ヨーロッパの芸術や文化において長い伝統がある。そうした感情を表わすムンクの絵画は、ドイツの画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)やカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)、そしてフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)といった芸術家たちの系譜に連なるものといえよう。



赤い蔦(1898-1900、119.5×121cm)
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 作品のタイトルから、家を覆う赤色が蔦であることがわかる。だが、これを火や血と結びつけてもあながち的外れとはいえないだろう。この家では、何か恐ろしいことが起こったにちがいない。それが正確に何であったかはわからないし、なぜ前景の男が大きく見開いた目でこちらを見つめているのかもわからない。そもそもこの人物は、現実的には絵画空間の中に配されていない。彼は描かれた情景と観る者との間に存在しているように見える。そうであるならば、血のように赤い家と周囲の情景は、心のイメージ、つまり私たちが男の目を通して知覚する悪夢のような光景として理解することができるだろう。



接吻(1895、49.7×39cm、エッチング・ドライポイント)
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 このエッチングは、ムンクの「接吻」のモティーフを表わす作品のなかでは最も自然主義的なものの一つである。他のヴァージョンでは、抱擁する男女がほとんど抽象的な形に単純化されているが、ここでは裸体の恋人たちが静かに抱き合い、接吻を交わしている姿を見てとれる。本展に出品される油彩画と本作品の違いは、カーテンが開かれていて、性的でエロティックな行為が隣人たちの視線にさらされているという点だ。それはこの版画のさらなる挑発的な要素といえるだろう。男女の愛と性的欲望が世間の目から隠されることなく、さらけ出されているのである。



森の吸血鬼(1916-18、149×137cm)
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 ムンクが生涯にわたりさまざまな方法で再制作し、組み合わせた一連のモティーフを生み出したのは1890年代のことであった。本作品においては、女の吸血鬼と男の犠牲者というムンクの象徴的なモティーフと、《夏の夜、声》に描かれた風景、さらに他のいくつかの主題が組み合わされている。ムンクは自身の作品を見本とし、繰り返し利用することで、新しい解釈と意味の転換を創出した。さらにムンクは作品を通じて、作品同士の関係性やその類似点と相違点について考えさせる。画家はイメージの総体を複雑に関連させることで、新たな物語や絵画的構想の発見を促しているのである。



マドンナ(1895/1902、71×59cm、リトグラフ)
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 マドンナの閉じた目と身振りは、聖なる恍惚の瞬間をしめしている。頭と腰の後ろに両腕を回すポーズは、トロイの神官を表した古代ギリシアの彫刻《ラオコーン》や、キリスト教の殉教者である聖セバスティアヌスの伝統的な表現を思い起こさせる。要するに、この図像は一つの「情念定型(パトス・フォルメル)」として、つまり時空を越えて繰り返す強い感情や情緒を内包し、発出するモティーフとして説明できる。
※マドンナは、額縁に描かれた精子と胎児に囲まれ、生命の始まりを予兆させる。表情は、恍惚とした愛の頂点を感じさせる一方で、白い肌とこけた?茲が、苦悩や死を暗示する。(公式ガイドブック『ムンク展―共鳴する魂の叫び』より)


マラーの死(1907、153×149cm)
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 1907年、ムンクはいくつかの作品において、幅広い筆遣いで幾何学的なパターンを描く実験を行った。本作品では、カンヴァスの全体が水平及び垂直の筆触で覆われている。それらは厚塗りで描かれている一方、合間にカンヴァス地の白色がかすかにゆらめき、作品に生き生きとした活力を与えている。主役である犠牲者の男と殺人者の女は、十字を形づくるように配されている。男はフランスの革命家ジャン=ポール・マラー(1743-93)で、ここに描かれた女性シャルロット・コルデー(1768-93)によって、浴槽につかっているところを刺殺された。ムンクはマラーのような殉死者の姿と自身を同一視していたため、この絵画は画家の自己表現としても解釈されてきた。



すすり泣く裸婦(1913-14、110.5×135cm)
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 すすり泣く裸婦を表わすこの絵画は、強い色調で描かれている。厚い層状に塗り重ねられた絵具は、カンヴァスの表面に浮彫りのような立体感を生み出している。絵具と色彩の生き生きとした扱い方は、主題のもつ感情的な性質と効果的に合致している。若い女は裸身で、弱々しく、悲しみと絶望にくれた状態にある。女性の親密な瞬間を捉えたこのイメージによって、ムンクは当時の社会的な慣習の記録者となった。芸術家としての眼差しが、女性たちに着せられた社会的な制約や汚名を、緊張感に満ちた苦悩の表現のうちに捉えているのだ。それでいてこの絵画は、装飾的で耽美的でもある。女の裸体は、調和に満ちた構図に収められている。重量感のある髪の毛が占める暗色の中央部分は、繊細なニュアンスに富む赤色とバラ色で縁取られている。深い悲しみにもかかわらず、彼女は生命力に満ちている。



(1925、140×200cm)
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 本作品の最初のタイトルは「堕落の後で」だった。この題名は、本作品が聖書を下敷きとする絵画であるような印象を与える。『旧約聖書』では、アダムとエヴァが知恵の樹から果実を食べたことで、神の恩寵を失った。神は二人をエデンの園から追放し、それぞれの裸体に羞恥心と罪の意識を刻んだ(このときから裸身を覆い隠すことになる)。この伝統的なテーマを扱ったムンクの作品では、男女の罪の意識と羞恥心が、衝撃と悲しみを示す劇的な身振りによって表わされている。ここでは、二人の罪の根源として、たとえば禁断の果実を食べるといったような特定の不正行為を突き止めることはできない。その代わりに、罪の意識は森の中で結ばれ、社会的な制約から切り離された彼らの関係に内在しているように見える。



生命のダンス(1925、143×208cm)
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 場面は夏の夜の海岸である。永遠に続く人間ドラマのように見える光景を満月が照らし出している。ムンクは人生を、誕生と繁殖、そして死が織りなす終わりなき循環と考えていた。本作品における主要な人物は、前景に描かれた3人の女性たちだ。白いドレスを着た左の若い女性は、青春期の純真さを表わしている。性愛が支配する画面中央では、赤いドレスの女性と、彼女に魅惑されたパートナーがダンスを踊っている。右側では、黒い服を着た年配の女性が、人生が終わりに近づきつつあることを表わしている。



真夏(1915、95.5×119.5cm)
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 ムンクの最も重要な作品の多くに描かれたノルウェーの夏の太陽の光は、愛と欲望、悲しみと孤独、あるいはこの絵画のように水浴する男女のいる情景を照らし出してきた。水浴する人々を描いた彼の絵画は、ときに論争を招くものとして受け止められ、とりわけノルウェーにおいてはその傾向があった。だが、人間の身体がむしろ抽象的に表わされたこのイメージには、論争の種となる要素はさほどない。彼の同僚でありライバルでもあったノルウェーの彫刻家グスタヴ・ヴィーゲラン(1869-1943)の作品と同様に、ムンクが描いた水浴する裸体の人物像は、平等主義的な調和と生き生きとした自己表現を兼ね備えた人類を表わすものだ。つまり社会的な格差のない状態を描くことによって、人間の存在を称揚しているのである。



庭のリンゴの樹(1932-42、100.5×77cm)
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 エーケリーの地で過ごした期間(1916-44)、自然と風景のモティーフはムンクにとってますます重要なものとなった。本作品に描かれた自邸周辺の庭と近隣の田園地帯の森は、彼の重要なインスピレーション源となる。ムンクは自然界で起こる季節の変化を視覚化し、記録し始めた。これにより、自然主義と印象派という自身の芸術のルーツに部分的ながら立ち返ることになった。どちらの立場も現実の世界を描くことを追い求めたが、自然主義がおもに社会的側面に関心を向けたのに対し、印象派は外界が人の感覚にどのように現われるかを探求した。ムンクは、外界ではなく内面のありようを探るべく、当初よりこれらの美術運動から距離を置いた。



自画像、時計とベッドの間(1940-43、149.5×120.5cm)
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 ムンクは老人らしい姿で、時計とベッドという二つの死の象徴の間に身を置いている。背後の開いた扉は、未知の世界に向かう道につながっている。ムンクの背後に見える日の光に溢れた部屋は、作品で埋めつくされている。生涯をかけて描いたこれらの作品を通じ、画家の遺産は生き続けるだろう。ここに描かれたムンクの絵画コレクションのうち、唯一特定できるのは、右側の女性の全身像だ。《クロトカヤ(おとなしい女)》(1927-29)と題されたその作品は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキー(1821-81)による短編から想を得たものだ。肌を露わにした女性は、ムンクの人生において性的な関心がいまだに重要な役割を果たしていることを示す。ベッドの色鮮やかな模様もまた、エロティシズムの象徴として解釈できるかもしれない。



◆グッズ・土産
・図録『ムンク展 MUNCH:A Retrospective』
・公式ガイドブック『ムンク展―共鳴する魂の叫び』
・額絵
・絵ハガキ

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