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レイモンド・カーヴァー『大聖堂』を読みました。(再)

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 今日、レイモンド・カーヴァーの短編集『大聖堂』(村上春樹訳、1990)を読み終えました。(再)
 この短編集について、巻末の訳者による「解題」から抜粋し、引用したいと思います。
 この『大聖堂』は1983年9月15日にクノップフ社から発売された。レイモンド・カーヴァーの短篇集としては、『頼むから静かにしてくれ』『愛について語るときに我々の語ること』に続く3冊目ということになる。本書は全米批評家協会賞とピュリッツァー賞にノミネートされた。収録作品の「大聖堂」は1982年度の『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』に、「ささやかだけれど、役にたつこと」と「ぼくが電話をかけている場所」は1983年度の『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』(前者は同書の最優秀作品に選ばれている)に収録された。
 もちろん個々の読者の読者の好みや文学観によって評価の差はあるとは思うが、訳者としてはこの『大聖堂』はレイモンド・カーヴァーの4冊の短篇集の中では最も粒の揃った短篇集であると思っている。創作の気力と文章的技術とこの作家独自の持ち味が最高のレベルでぴたっと重ねあわされて、まさに知情意の三拍子が揃った見事な出来となっている。(中略)
 私が本書から個人的にベスト4を選ぶとすれば、やはり「羽根」「ささやかだけれど、役にたつこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂(カセドラル)」ということになる。それに続くAダッシュ・クラスは「シェフの家」「熱」「轡(くつわ)」あたりだろう。

【収録作品】
羽根
 主人公の「私」と妻とが、同僚夫婦の家を訪れ、醜い赤ん坊と奇妙な孔雀を見せられて唖然とする。しかし彼らの大地に足をつけたイノセントで幸せそうな家庭のありように打たれて、自分たちも自分たちなりの家庭を作ろうと決意する。しかしその結果ははかばかしいものではなかった。彼らの人生の過程のどこかで、その本来的なイノセンスが破壊されてしまっていたのだ。しかし主人公にはその原因をはっきりとつきつめることができない。最後に主人公の家庭の無残な崩壊ぶりが示唆されている。夜の闇の中に消えてしまった孔雀の姿が暗示的である。(訳者「解題」より)
 「いかさない夫婦と不細工な赤ん坊」「それにあの臭い鳥」と、主人公の妻は夫の友人夫婦を見下していましたが、彼らの幸せそうな家庭の在り方に触発され、それまで望んでいなかった子供を持つことを決意します。で、その後どうなったか? 人生ってままならないものです。

シェフの家
 アル中もののひとつ。主人公はアルコール中毒の夫と別居状態にある妻。もう一度だけやりなおしたいという夫の誘いを退けることができず、新しい恋人を捨てて彼のもとに向かう。そして「シェフの家」で一夏を彼と共に過ごす。そこには希望に満ちた新しい生活の予感がある。しかしある日、家主のシェフがやってきて、娘をそこに住まわせたいので出ていってくれと言う。そのようにして彼らは最後の希望の地を追われることになる。(訳者「解題」より)
 幸せって、誰かが与えてくれるものではありません。妻が戻ってくれたんだから、頑張らなくちゃ。でも、それができないから現在の主人公がいるのですね。

保存されたもの
 失業して、生きる意欲そのものを喪失してしまった夫。その夫を見ながら、自分もまたどうすればいいのかつかめないでいる妻。少しずつヴァイタルな世界から取り残されていくような、その二人の辺境的な生活風景をぴたっと鋭く切り取った短篇である。
 ただし話の流れが幾分分散している傾向があるように訳者は思う。夫の失業から冷蔵庫の故障という話の筋はとてもいい。冷凍食品がどんどん溶けていくという絶望感は非常にリアルである。溶けかけたものを全部今日のうちに食べてしまわなくてはならないというシチュエーションも面白い。従来のカーヴァーなら、この辺でこの辺で話をぷつんとぶったぎっていただろう。しかし新しいカーヴァーはもっと先へと話を続けていく。(訳者「解題」より)
 「シェフの家」と同様、この作品の夫も自分の人生を投げ出そうとしているようです。順調にいっているように見えても、ちょっとしたことで壊れてしまう自分の人生に嫌気がさしたのでしょうか?

コンパートメント
 故あって妻子と別れた孤独な中年男である主人公がヨーロッパ旅行をし、そのついでにフランスの大学に留学中の息子に会おうとする。息子とは喧嘩別れしてもう長いあいだ会ったことがない。彼は和解をするつもりで土産を買って列車に乗り込む。しかし息子の待つストラスブール駅に向かうあいだに、自分がもう息子に全然会いたくないことに彼は気づく。孤独な生活の中で、彼の中から愛というものが消えてしまっていたのだ。彼はもうそれをどこに見つけることもできない。彼が思い出せるのは怒りだけである。そして彼は姿を隠して、そのまま駅をやり過ごしてしまう。
 しかし彼は切り離された列車に取り残されてしまう。息子の土産として買ってきた腕時計も誰かに盗まれてしまう。彼自身の荷物は本来の列車に積まれたままパリに行ってしまった。彼はひとりぼっちで、言葉もわからぬ異国人にかこまれて、いずことも知れぬ遠い場所に運ばれて行く。(訳者「解題」より)
 救いのない話ですが、主人公のような生き方もあるんだなと思います。

ささやかだけれど、役にたつこと
 平和な家庭を襲う突然の悲劇。誕生日を迎えようとしていた子供が交通事故にあって意識不明になってしまう。両親のショックと不安。前半は子供の死で終わる。子供を失った夫婦は不気味な電話をかけてきたパン屋を追い詰めていく。まるで死んだ子供の魂を追って暗い冥界に彷徨(さまよ)いこむように、夜更けのパン屋へと彼らは車を走らせる。そこは世界の果てであり、愛の辺境である。そこでは愛が失われ、損なわれている。パン屋は人を愛することをやめ、人に愛されることをやめている。夫婦の方は愛をおしみなく与えたにもかかわらず、その対象は理不尽に唐突に抹殺されてしまった。パン屋にできることは二人のためにパンを焼くことだけだ。それは世界のはしっこにあって「ささやかだけれど、役にたつこと」なのだ。どれほど役にたつのか誰にもわからない。でも彼らはそれにかわる何ものをも持たないのだ。
 悲しい話だ。本当にヘビーな話だと思う。しかし最後にふっとパンの温かみが手の中に残るのだ。これは本当に素晴らしいことだと私は思う。(訳者「解題」より)
 子供を失った夫婦の悲しみや苦しみ、怒りといった感情がパン屋に向かいますが、パン屋にしてみればそれはとても理不尽な話です。パン屋は注文に応じて誕生日ケーキを焼き、それを取りに来なかった客に電話をかけただけなのです。しかし、夫婦の話を聞いたパン屋は二人にパンを振る舞うことで、二人に癒しを与えるのです。最後の段落が心に残ります。
 「匂いをかいでみて下さい」とダーク・ローフを二つに割りながらパン屋は言った。「こいつは重みのある、リッチなパンです」二人はそのパンの匂いをかぎ、パン屋にすすめられて、一くち食べてみた。糖蜜とあら挽き麦の味がした。二人は彼の話に耳を傾けた。二人は食べられる限りパンを食べた。彼らは黒パンを噛んで飲み込んだ。煌々とした蛍光灯の光の下にいると、まるで日の光の中にいるように感じられた。彼らは夜明けまで語り続けた。太陽の白っぽい光が窓の高みに射した。でも二人は席を立とうとは思わなかった。(P167)

ビタミン
 主婦であることにあきたらずビタミン剤の家庭訪問販売に打ち込む妻と、病院の雑用係をやりながら酒ばかり飲んでいる夫(カーヴァーは一時期実際に病院の雑用係をやっていたようである)。ビタミン・ビジネスは初めのうちは順調なのだが、そのうちにだんだん下り坂になってくる。どういうわけか急にビタミン剤が売れなくなったのだ。主人公の夫はそれに呼応するように軋み始める夫婦関係にとくに危機感を抱くでもなく、妻の仕事仲間の女性に手を出して気晴らしをしようとする。一夜の気晴らし、それが彼らの求めたものだった。しかしジャズ・バーで偶然同席したヴェトナム帰りの黒人にその偽善性を暴力的に告発され、結局、何もかもが壊れてしまう。
 failure(失敗者)はカーヴァーが好んで描く題材だが、この短篇に登場する人物はひとり残らず見事にフェイリャである。とくに貧乏というのでもない。人生の敗残者というのでもない。ただ彼らには未来に希望というものが持てないのだ。彼らは自分たちがかつて思い描いていた人生とはまったく違った人生の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができないのだ。それがフェイリャである。全員が町を出てどこか別のところに行って、別の人生を試してみたいと思っている。どこに何があるというわけでもない。でもだからといってそこにじっと留まっていたところで、やはりどんな希望もないのだ。いつも空にどんよりと雲が垂れこめているような不思議なモノトーンの雰囲気がこの作品には満ちている。(訳者「解題」より)
 カーヴァーが描くfailure(失敗者)の物語は、ブルース・スプリングスティーンの作品にも通じると思います。これは訳者の受け売りですが、以下、村上春樹の音楽エッセイ集『意味がなければスイングはない』について書いた記事を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/46917879.html

注意深く
 妻と別居した(あるいはさせられた)夫が下宿で一人暮らしをしながら、何をするともなく酒びたりの無為な毎日を送っている――といういかにもカーヴァレスクなシチュエーション。ところがある朝目が覚めると突然彼の耳が聞こえなくなってしまっている。そこにまえぶれなしに妻が訪ねてくる。場面は小さな下宿の部屋の中だけ、登場人物は二人きり、芝居でいえば奇妙な味の一幕物という感じの小品である。どうして耳が聞こえなくなったかというと、要するに耳垢が塊になって詰まってしまったのである。そこで妻と彼とは手をつくして耳垢取り作業を進める。妻はどうやら離婚話か何かを持ってきたらしいのだが、耳詰まり事件のせいで(それに何を言ってもうまく聞こえないので)、それは話されぬままに終わってしまう。(訳者「解題」より)
 アルコール中毒の夫と妻が別居から離婚へと至る過程で起こった耳詰まり事件が描かれています。「アルコール中毒」とか「離婚」といった設定がなければ笑い話になるのに、二人の耳垢取り作業を読んでも笑えません。
 長男が小学校の低学年だった頃、耳に大きな耳垢の塊を詰まらせたことを思い出しました。僕がその耳垢の塊を取ろうとして奥に詰まらせてしまったのです。結局、近くの耳鼻科で取ってもらいましたが、長男には痛い思いをさせてしまいました。
 
ぼくが電話をかけている場所
 この短篇集の白眉ともいうべき見事な作品である。ヘミングウェイやフィッツジェラルドのいくつかの短篇が時代を超えた古典として長く読みつがれているのと同じように、これから読みつがれていく作品のひとつになるだろうと思う。アルコール中毒治療所の静かな日々。主人公の「僕」と、同じ療養仲間のJP、このJPがポーチで訥々と語る話が素晴らしい。少年時代に野井戸に落ちて、そこでひとりぼっちでずっと空を見ていたこと、そしてある日煙突掃除の娘に恋をして、それと同時に煙突掃除という職業にも恋をしてしまうこと(どうしてだろう? 丸く切り取られた空への憧憬だろうか? それはある種のオブセッションなのだろうか?)、でもあるとき、ほとんど理不尽に酒に取りつかれてしまうこと、そしてそれまで曇りひとつなかった人生が突如暗い穴の中へずるずる引きずりこまれていくこと・・・この語り口は実に見事である。そして主人公の「僕」はじっとそれに耳を傾けている。「僕」にも同じような暗い過去がある。でもJPの話す奇妙に純粋な愛のかたちが「僕」の心を打つ。この療養所はまさに魂の暗い辺境である。そこでは愛はただ語られるしかない。記憶として、あるいは失われた楽園として。しかしそれでもなお愛は力を持っている。「僕」は最後にもう一度やりなおすためにガールフレンドに電話をかけようとする。ここには――それがうまく機能するにせよしないにせよ――回復の予感がある。まさに暗雲が裂けて光がこぼれ落ちようとするかのような。
 「彼女が出たら言おう。『僕だよ』」という最後のシンプルな一行が見事に印象的である。(訳者「解題」より)
 訳者にここまで書かれたら、この作品について僕が言うことは何もありません。ただ、この作品中にジャック・ロンドンの短編小説「焚火」が登場するので、この「焚火」に関係する記事を以下に示します。
*「火を熾(おこ)す」(「焚火」を改題)を収録する短編集『火を熾す』(柴田元幸編訳)
 https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56628627.html
*「焚火」が登場する村上春樹の短編小説「アイロンのある風景」(短編集『神の子どもたちはみな踊る』収録)
 https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56616896.html

列車
 ここには三人の人物が登場するわけだが、彼らについての説明は一切ない。彼らがどういう人間で、どこで何をしてきたのか、誰にもわからない。ミス・デントという若い女性はピストルで男を殺そうとした。おしゃれな格好をした老紳士はどこかから一目散に逃げてきたらしく、靴をはいていない。その連れのイタリア系の女は「船長」と呼ばれる男に対してかんかんに腹を立てている。その三人が駅の待合室で列車を待っている。読者はきれぎれな彼らの言葉の断片からそれまでに「あったらしいこと」を想像するしかないのだが、この断片の配置のしかたがシュールレアリスティックでなかなか面白い。ある意味では実験的なスケッチだが、それでもちゃんと小説として成立しているところがさすがである。この待合室もやはり辺境である。スタル氏の言葉を借りれば「ホープレスビル、USA(アメリカ合衆国、絶望町)」のひとつの情景である。(訳者「解題」より)
 どう読んだらいいのか、わけがわからず不安でしたが、「解題」を読んで納得しました。僕なりに想像力を働かせて読めばいいんですね。


 妻が同僚と駆け落ちしてしまった高校教師。これもいかにもカーヴァー的な設定である。主人公は二人の幼い子供の世話をしなくてはならないし、学校の勤めもある。しかしどうしてもベビーシッターが見つからない。もうすぐ新学期も始まる。にっちもさっちもいかなくなってきたときに、突然天の助けのようにウェブスターさんというスーパー家政婦がやってくる。この人はなにしろ仕事もできるし、人柄もいい。子供もすっかりなついてしまう。そして彼女のおかげですべては良い方向に向かったように見えるのだが・・・。
 カーヴァーの小説には珍しく、ここにはある種のホームドラマ的な趣さえある。もちろん主人公のカーライルは奥さんに逃げられているわけだし、うだつのあがらないただの美術教師である。しかし彼は正確にはfailure(失敗者)ではない。彼なりに仕事をきちんとこなしているし、人生に絶望してもいないし、酒に溺れているわけでもない。男手ひとつで一生懸命子供の面倒を見ていこうとするところなんか、実に健全かつ健気である。いささか女々しく自己憐憫的な傾向はあるけれど、基本的にはまともな良い人である。話を読んでいると、だんだんこの人が可哀そうになってくる。悪い人じゃないんだから、もう少しましな目にあってもいいんじゃないかという気がしてくる。そこにウェブスターさんが現れる。(訳者「解題」より)
 ウェブスターさんの登場により、主人公の家庭は秩序を回復し、主人公も妻への未練を断ち切り、別離を受け入れようとします。しかし、ウェブスターさんもやがて去っていきます。さて、主人公一家はどうなっていくのか? 主人公はウェブスターさんがくる前のようにはならないでしょう。彼なりになんとかやっていくと思います。

轡(くつわ)
 ホリッツ一家はミネソタで農業を営んでいた。しかしあるとき主人のホリッツが駄馬を競走馬に仕立てようとして金を注ぎ込んで、あげくの果てに一文なしになってしまったのである。そして銀行が彼の農地を抵当で取ってしまった。彼らは根を持たぬ人々としてアメリカをさまよわなくてはならない。そしてよりによって、農業なんて成り立つわけのないアリゾナにまで流れてくるのだ。どうして彼らがアリゾナにやってきたのかは誰にもわからない。あるいは彼らは故郷からもっとも離れた場所に行くことを求めていたのかもしれない。
 彼らはここで危なっかしいなりにも、もう一度生活を立て直したかのように見える。妻はレストランのウェイトレスの仕事をする。子供たちは学校に通う。しかしここはもちろん彼らの安住の地ではない。彼らは結局のところ落ちていくしかない人々なのだ。ある夜に主人のホリッツが酒を飲んでつまらない事故を起こして、それが原因となって彼らはまたこのモーテルを出ていくことになる。あとには使いこまれた馬勒(引用者注:手綱・轡・おもがいという馬具一式の総称)だけが残されている。それが彼らの人生を破壊してしまったのだ。
 私がこの小説を好きな点は、語り手の女性のホリッツ一家に対する温かい視線である。そしてホリッツの一家が落ちていきながらも四人で肩を寄せあって生きている、その奇妙な寡黙さである。彼らも、彼女も、そしてこのモーテルに住む大方の人々も、みんな多かれ少なかれ、アメリカという幻想の共同体からのfailure(失敗者)なのだ。(訳者「解題」より)
 冒頭部分に「七月で、気温は三十八度を越している。」とあったので、どこかなと思ったら、アリゾナでした。1995年3月、僕は仕事でアリゾナ州フェニックスに3週間滞在しました。3月なのに気温が30℃くらいまで上がるので、現地の方に夏のことを聞いたら、とても暑くて外にはいられない、みんな家の中にいると言われました。物語とは関係なく、当時出会った人々や訪ねた場所を懐かしく思い出しました。

大聖堂(カセドラル)
 昔の知り合いの盲人とつきあっている妻、それをなんとなく面白くなく思っている夫、二人はアメリカのどこにでもいるロワー・ミドルクラスの夫婦である。盲人が家に遊びに来る。妻は歓待し、夫はちょっとしらけている。しかし夫と盲人は二人で酒を飲み、マリファナを吸って、テレビを見ているうちに、少しずつ心を通じあわせることができるようになってくる。目が見えないというのがどういうことなのか。その痛みと、その痛みを越えた心のありようを、夫は我が身のこととして実感することになる。その実感は理性的なレベルで盲人に同情的な妻には理解することのできない、まさにフィジカルな痛みであり実感である。夫と盲人が二人で手を重ねてボールペンで大聖堂の絵を描きあげていくラストシーンは見事に感動的である。カーヴァーの筆はあくまで即物的であり押しつけがましくない。そして彼の思い入れのない簡潔な言葉は人の心の核心に、ぴたりと正確に達している。現代における優れた短篇小説の書き方を示した名篇というべきだろう。(訳者「解題」より)
 訳者の言う通り、ラストシーンがいいです。以下に引用します。 
 我々はつづきをやった。私の指の上には彼の指がのっていた。私の手はざらざらとした紙の上を動きまわった。それは生まれてこのかた味わったことのない気持ちだった。
 ちょっとあとで、彼は言った。「もういいだろう。できたじゃないか」と彼は言った。「目をあけて見てごらん。どう?」
 しかし私はずっと目を閉じていた。もう少し目を閉じていようと私は思った。そうしなくてはいけないように思えたのだ。
「どうしたの?」と彼は言った。「ちゃんと見てる?」
 私の目はまだ閉じたままだ。私は自分の家にいるわけだし、頭ではそれはわかっていた。しかし自分が何かの内側にいるという感覚がまるでなかった。
「たしかにこれはすごいや」と私は言った。(P408-409) 

 この作品を読んで、以下のような内容の物語だったか、詩だったかを思い出しました。小学生の僕は田舎に行って祖父と一緒に風呂に入ります。しばらくすると、祖父は「あずまし」「なんぼ、あずましばなー」などと言います。僕には祖父の言っている言葉の意味がわかりませんでしたが、やがて、僕も祖父と一緒に「あずまし。あずまし」と言います。(あずまし:青森の方言で「心地よい」「快適」)



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