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久保芳美歌集『金襴緞子』を読みました。(再)

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 今日、久保芳美の第一歌集『金襴緞子(きんらんどんす)』(2011)を読み終えました。(再)
 2012年5月以来6年ぶりでしたが、初めて読んだとき以上に「いいなぁ」って思いました。Ryoojingによる、カバー・本文イラストも素敵だと思います。近い将来、第二歌集が出版されることを期待します。
 以下、一読して気になった歌を引用します。


食パンにルサンチマンを挟み込みかぶりついたら意外にいける
よかったね根も葉も何もないはずがこっそり蕾をつけているわよ
厚化粧そんな風には言わないでオンナにだって鎧は必要
よそよそしく自分と対面してみたらなんだ割かしいい子じゃないか
たそがれ目(もく)のんべえ科ですクボヨシミ飼育方法お好きになさって

調和という掟の中で穏やかな仮死状態を維持してきたさ
ジャイアンにこころの友がいるのならあたしにだっていてもいいはず
あたくしの品質改良くわだててベビーリーフのサラダわしゃわしゃ
人間がいちばん切なくなる気温今夜心音♭(フラット)かかる
つんつんと尖った順にいいますとつらら三日月あんたのお目目

よござんしょ奇奇怪怪なあなたには天網恢恢仕掛けてあげます
平熱は割と高めでありますが温度の低いヒトでありたい
支点をずらしてバランスゆうらゆらあたしらしくあたらしくする
頑丈な紐をこっちに持ってこいバラバラばらける腹を括るぞ
割り切れない想いはさっさと余り出し計算終了それそれ撤収

がっつりと組んず解れつ愛し合うジョーネツなしに生きてられるか
藪からでも草むらからでもいいのです折れない棒で突きを一本
ハードルを越えずに全て蹴り倒し一位でゴールする夢を見た
ぐるぐると有刺鉄線巻きつけて崩れる想いを補強するのだ
確固たる自分を確立したいから括弧の中に入らずにいる

どうせなら中途半端をセンスよく極めてしまう道もあるかと
あの人の堕落はなにやら凛として努力のあともちらほら見える
よかろうよ許してやろうじゃないですかホントはあたしを許してほしい
若い時分買い忘れたご苦労を今ごろせっせと買ってどうする
ベン図の交わる部分がなくなって楕円がだらりならんでおるよ

換気扇が今日はカレーだカレーだとぶんぶんお知らせしているイヤね
純粋な肉体としてのオンナでも悪かあないと僕は思うよ
神経や癪にお触りする前にそれとなくでもあたしに触って
秋風が踝ぺろり舐める夜は経血みたいな紅をさすのよ ※踝=くるぶし
善悪の判断どころか左右さえ区別できなくなってしまった

すききらいすきすきすきよきすもすき葉っぱも全部むしってあげる
玉ねぎの皮をぴりぴり脱がしてくどこまでいっても君に遇えない
正統な海を眺めて座ってりゃキスのひとつもしたくもなるさ
つるんつるん掴みどころのない人ね軍手でむんずとっ捕まえるよ
あなたに朝顔みたいに絡みつき何を奪うか思案している

啖呵切りカラダを張って守るのはケシの実みたいな愛なのでした
ファッションで愛するフリをするならば金襴緞子でずっしりどっしり
あの人と夜明けの晩に逢瀬して後ろの正面探していたの
愛し方に不備があったと新聞にリコールの知らせが今朝載っていた
悪趣味なお靴を履いたあの人は一度のキスでさよならしたの

はっけよいのこったのこった想いはねそなたの失脚願う愛情
艶っぽい「はめ殺し」って窓ふたつあなたのウチにありましたよね
噛んでどうにもこうにも動かないファスナーよりはましだね君は
邪なお前が着ていたTシャツは面目躍如シマシマだった
そこの君もはや死語ではあるけれどギャフンと言う日がいつかくるかも

お母さんと呼ばれる違和はお母さんと呼び足りなかったわたしの飢餓感
子育てに飽きてしまった夕暮れは表情を消しひたすら眠る
おかあさんねえおかあさんおかあさん朝から輪唱なになになあに
出会ったら別れなければなりませぬ小学生にも教えてやるか
憎まれたグリンピースはほじくられチキンライスは冷めていったの

思慮なんて深けりゃ深いで溺れちゃう波打ち際でつまさきぴちゃぴちゃ
悲しみは割と下品にドカドカと歩幅大きくやってくるのね
波の押しの強さと引き際を九十九里で学習しました
さもしいとしるしたはずがさみしいとよみちがえられなぐさめられて
自分に甘いと指摘されたけどひどく厳しくした時期もある

その日にはその日の天使が舞い降りてギリギリ助けてくれるものだよ
面倒な自分本体なのですが嫌いでないのもこれまた面倒
目的地あるかないかはさておいて脚は交互に動くもんだな
寝たふりで幸せさんの訪問を薄目チラチラ待っているのよ
臍のやつあたしに内緒で移動して腰の辺りでぶつぶつ言ってる

密林(Amazon)で詩集を三冊購入し部屋の湿度を上げてみました
ド演歌でコブシきかせて生きるのよ力んで息んで何か産まれる
オシマイと定規でぴちり線を引き次のページをめくったら ない
ココロが諸肌脱いでバウンドし今だ!詠え!と騒いでおるよ



【参考】
◆金襴緞子「栞」より、抜粋して引用
佐藤弓生「人間的な、あるいは妖怪的な」
 久保さんの歌とはじめて出会ったのは「かばん」2009年6月号誌上で、〈さて皆さん物欲しそうな顔をしたろくろっ首がここにおります〉〈心臓にわっさわっさと毛が生えた三つ編みをして君に見せよう〉など8首と、「茨城県在住のパート主婦もどきです」との自己紹介が掲載されていた。
 もどき、というのはどうにも妖怪めいている。身元の明らかな人間みたいに在住地を明記しているところが逆に怪しい。
 伝承やフィクションにおいて、妖怪・幽霊・宇宙人といった存在は、人格をもちながら人間とは身体構造がどこか違うことになっている。つまり発想は人間的であっても、ものごとの知覚のしかたはどこかズレているはずである。
  鮮魚の内蔵よりも精肉の一点の血が眉間をぐぐっと。
  臍のやつあたしに内緒で移動して腰の辺りでぶつぶつ言っている
  目的地あるかないかはさておいて脚は交互に動くもんだな
  ぴろぴろの薄いレンズを眼にいれるああ人々は輪郭をもつ
 1、2首目のありえない感知は「ちょっとおかしな人」のものだろうか? しかし、たとえば子どものころ、自分の手の動きをじっと眺めているうちに、それが自分のものではない異生物に見えてきたという経験はないだろうか。筆者はある。そして久保さんは、そのたぐいのズレをいまも感じやすいのではないかと想像する。
 3、4首目では認識の力がはたらき、人間らしい感慨が引きだされている。前の2首よりは万人好みだろう。にしても〈ぴろぴろの薄いレンズ〉と書かれると、コンタクトレンズのありがたさよりも奇妙さが表立ってくる。人間はかくもおかしな補正器具を発明したものだ、とでもいうような。世界は、補正しうるものだろうか。ほんとうに?

依田仁美「メッツォこわもてなデリカシー」
 久保芳美さんの文化的努力の結晶『金襴緞子』を眺めていると、開いた窓からの風が久保さんの日常をひらひら運んでくる。そう、たがいの家はそんなに遠くない。
 数年前「日本一住みたい町ナンバーワン」であった新興住宅地に、颯爽と住み、アコースティックギターをかき鳴らし、筋トレにはげみ、本業は主婦でもある上にサイドワークもこなすという多彩な毎日。スタミナもさることながら、根っこに「きっちり屋さん」が居座っていてあれこれ差配しているのだろう。
     *
  すごいんだ!魚焼き焼きお洗濯化粧しながら歌を詠んでる
  食パンにルサンチマンを挟み込みかぶりついたら意外にいける
 日常と歌がすんなり溶け合うときが多いようだ。ポエティックな生活を送るひとなのだろう。集を開いて、早々に出逢う作品にも、クレイジーソルトはもちろん、もろもろ工夫のスパイスが投入されている。力戦奮闘の調理法は味をゆたかに歪曲する。素材選びから切り方、焼き加減にこの作家の《多彩な持ち前》があることが早くも予見される。
     *
  あたくしの品質改良くわだててベビーリーフのサラダわしゃわしゃ
  トーストは私の隙をうかがって見事炭化に成功しました
 《ネオくりや歌》。これで見る限り「家事に従事」はしていない。そこに立ち働くのは「動く女性」であり「考える女性」であり「感じる女性」であり「つぶやく女性」である。
 食事の準備に身も心も打ち込むという家事ではなく、自己の生活の一部としてくりやに立つ。すでに多くのいわゆる主婦がそういうスタンスでいるには相違ないが、久保さんの場合、かなりこのスタンスに意識的であるように見える。

◆あとがき「なぜだろう、なぜかしら」(全文、一部改編)
 なぜ詠うのだろう。なぜ歌集を作ろうと決心したのだろう。
 ああ、このカタチが好きなのだ。三十一文字が。ミソヒトモジ。コンパクトに見えて実は奥行無限の五重塔。
 そこから眺める景色が気に入ってしまったのだ。気持ちいい。心地いい。てっぺんの屋根からの景色なんざあ、もう格別だ。キミにも見せてあげたいよ。

 大学時代はこそこそこそり、短編小説を書いていた。私小説的な語り口調の作品ばかり。自分としては楽しんで履いた。まあ、自慰行為のような発展しようのない窮屈な世界だったかとは思う。細く長く切れ切れに続けてはいたが、十年前に書くのをやめた。きっぱりやめた。
 代わりにカラダを鍛えたり、絵を描く、ギター掻き鳴らすなどなど・・・様々な分野に足を突っ込み、引き抜いて、また踏みこんでの繰り返しだった。自他共に認める器用貧乏、実際にビンボー。

 そして偶然短歌にであった。恋みたく、衝撃的でなく、八百屋のおっさんに挨拶するみたいな自然な流れで。「やあ、コンニチハ」って。

 言葉にどんなに裏切られても、意地悪されても、探す。選ぶ。拾う。棄てる。慰める。褒める。並べ替える。頬ずりする。時折平手打ちも、パチン。
 私を自由に(自由は不自由でもあるが)三十一文字でいじり、表現する。表現というよりは発表に近い。発信か。

 素の自分をちらり、
 ウソの自分もたっぷり、
 猫の皮やら虎の皮かぶった変身モードも。

 根底にあるのは負けてたまるか、という意地。誰に負けるんだろう? 世間に、歌に、キミに、自分に? どれでも構いやしない。折れちゃあいけない、と。

 「この歌の良さがいつかきっと君にも わかってもらえるさ いつかそんな日になる ぼくら何もまちがってないもうすぐなんだ 気の合う友達ってたくさんいるのさ 今は気付かないだけ 街ですれちがっただけで わかるようになるよ」

 2009年5月に亡くなった忌野清志郎さんの歌の一節。タイトルは「わかってもらえるさ」

 そうなんだ、そうそう。私はわかってもらいたい。わかってくれる人にわかってもらいたい。わからない人は知らない。仕方ない、しゃあない。
 短歌を通して、ホンモノの私を見つけてほしいと思っているのだ。この歌集の中にカクレンボしている「クボヨシミ」本体を。

 ファイティン愚ポーズとりながら、待っていることだろう、ここだぞ、と。
 見つけた人は教えてください、そして闘ってください。
 私も私を探して・・・長い。

★歌集の中に、私を匿う? カモフラージュする? イラストたちがぽつぽつ登場します。これはイラストレーターのRyoojingさんの作品です。ヒゲもじゃRyoojingさん、ご協力ありがとうございました。

 2011年8月
                           久保芳美


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