今日、東京・丸の内の三菱一号館美術館に「フィリップス・コレクション展」(2018年10月17日~2019年2月11日)を見に行ってきました。(再)
会期末だったので、予想通り、けっこう混んでいました。でも、もう一度見たかった絵を見られたので、混雑はそれほど気になりませんでした。ただし、今後の教訓として、会期末と開場直後の入場は避けようと思います。
この展覧会の見どころ等については、前回記事を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56908373.html
会期末だったので、予想通り、けっこう混んでいました。でも、もう一度見たかった絵を見られたので、混雑はそれほど気になりませんでした。ただし、今後の教訓として、会期末と開場直後の入場は避けようと思います。
この展覧会の見どころ等については、前回記事を参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/56908373.html
以下、印象に残った絵をいくつか紹介します(図録「カタログ」順)。写真は展覧会特設サイトより、あるいは図録をコピー。解説は図録「作品解説」より(一部改編)
◆ジャン・シメオン・シャルダン「プラムを盛った鉢と桃、水差し」(1728頃、44.5×56.2cm)
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シャルダンは果物を盛った鉢と中国清朝の康熙帝の治世に作られた磁器の水差しを、絵具の薄い層によって「ぼかされた」飾り気のない空間にシンプルに配置した。シャルダンにとって色彩とは、個々の静物を描くだけでなく、物と物との間の空間までをも生き生きと描き出すものであった。シャルダンは次のように説明する。「自然界に存在するあらゆる物の形態は、それを取り巻くすべての色調・・・・(すなわち)それが置かれた空間やそれを照らす光と相関関係にある色彩を正確にあらわすことで、その輪郭を明確にすることができる」。
本作《プラムを盛った鉢と桃、水差し》はダンカン・フィリップスが特に気に入っていた絵画のひとつで、彼はシャルダンを近代静物画の父とみなしていた。彼はシャルダンの静物に対するアプローチを、ポール・セザンヌやジョルジュ・といった創造的な芸術家の眼を先取りするものと考え、しばしば本作を近代絵画と並べて展示した。
※本作《プラムを盛った鉢と桃、水差し》はダンカン・フィリップスが特に気に入っていた絵画のひとつで、彼はシャルダンを近代静物画の父とみなしていた。彼はシャルダンの静物に対するアプローチを、ポール・セザンヌやジョルジュ・といった創造的な芸術家の眼を先取りするものと考え、しばしば本作を近代絵画と並べて展示した。
◆クロード・モネ「ヴェトゥイユへの道」(1879、59.4×72.7cm)
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1878年、作品の売れ行き不振と増え続ける借金に打ちのめされたモネは、家族とともにパリ北西80キロの農村ヴェトゥイユに移住した。画家はこの地で技法の洗練に3年を費やし、同じ景観を異なる季節や同じ日の異なる時間帯に描いた連作を制作した。
関連する5点の絵画のうち最後に描かれた作品である本作《ヴェトゥイユへの道》は、村のはずれ、モネの旧居へ通じる舗装されていない平坦な道へと観る者をいざなう。ダンカン・フィリップスは本作を、1918年から19年にかけて購入した作品のベスト15に含めている。
※関連する5点の絵画のうち最後に描かれた作品である本作《ヴェトゥイユへの道》は、村のはずれ、モネの旧居へ通じる舗装されていない平坦な道へと観る者をいざなう。ダンカン・フィリップスは本作を、1918年から19年にかけて購入した作品のベスト15に含めている。
◆クロード・モネ「ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)」(1897、64.8×100cm)
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ル・アーヴルで幼少期を過ごしたモネは、しばしばフランスの北岸で絵画制作をおこなった。画家は1896年から97年にかけてヴァランジュヴィル、プールヴィル、ディエップで三種類のシリーズを手がけ、岩壁の景観を描いた作品を50点以上残している。
本作《ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)》はそのうちの1点。モネは1日に2、3点の作品を仕上げながら、自然を主題としたいくつかの絵画群の制作に着手し、天候や光が風景に与える効果を描き出した。本作においてモネは北方の朝の光に照らされた岩壁、海、空、そして微かに見える海岸線を描き出している。
ダンカン・フィリップスにとって、本作はモネの典型的作例であった。彼はこのような作品を長年にわたって探し求めており、その過程で1920年代と30年代に3点のモネ作品を売却している。フィリップスは、ニューヨークのワールド・ハウス画廊から購入した本作を「これまで見たなかでもっとも美しいモネ作品のひとつ」とみなした。
※本作《ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)》はそのうちの1点。モネは1日に2、3点の作品を仕上げながら、自然を主題としたいくつかの絵画群の制作に着手し、天候や光が風景に与える効果を描き出した。本作においてモネは北方の朝の光に照らされた岩壁、海、空、そして微かに見える海岸線を描き出している。
ダンカン・フィリップスにとって、本作はモネの典型的作例であった。彼はこのような作品を長年にわたって探し求めており、その過程で1920年代と30年代に3点のモネ作品を売却している。フィリップスは、ニューヨークのワールド・ハウス画廊から購入した本作を「これまで見たなかでもっとも美しいモネ作品のひとつ」とみなした。
◆フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの公園の入り口」(1888、72.4×90.8cm)
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ファン・ゴッホは2年間をパリで過ごして印象派の画家たちと交流したのち、1888年の2月、アルルに向けて出発した。彼はより平穏な生活を求めながら、ポール・ゴーガンを指導者として彼のもとに集う芸術家たちの共同体を結成することを夢見てもいた。アルルで数ヶ月が過ぎた頃、ファン・ゴッホはこの新たな共同体の拠点として、ラマルティーヌ広場に小さな黄色い家を借りる。
本作《アルルの公園の入り口》は1888年の8月から10月のあいだに描かれたが、この頃ファン・ゴッホはゴーガンとの創作活動を開始すべく、彼の到着を心待ちにしていた。ファン・ゴッホはその拠点となる家を飾るために複数の絵画を制作し、それゆえこの時期は彼にとって非常に活動的な時期となった。本作は彼の家の向かいにあった公園の入り口を描いたものである。麦わら帽子をかぶった人物はこの時期に制作された多数の絵画に繰り返し登場しており、画家自身の自画像なのかもしれない。
ダンカン・フィリップスは1926年に「欲しい作品一覧(ウィッシュ・リスト)」を公開したが、そこには「ファン・ゴッホの独創的才能を示す作例」が含まれていた。1920年代末までに、彼はファン・ゴッホ作品を2度購入している。1930年9月、彼はニューヨークのウィルデンシュタイン画廊から、気に入らなければ返品可能という条件で本作を受け取り、ただちに購入へと踏み切った。フィリップスは本作を「魂の叫び」と表現している。
※本作《アルルの公園の入り口》は1888年の8月から10月のあいだに描かれたが、この頃ファン・ゴッホはゴーガンとの創作活動を開始すべく、彼の到着を心待ちにしていた。ファン・ゴッホはその拠点となる家を飾るために複数の絵画を制作し、それゆえこの時期は彼にとって非常に活動的な時期となった。本作は彼の家の向かいにあった公園の入り口を描いたものである。麦わら帽子をかぶった人物はこの時期に制作された多数の絵画に繰り返し登場しており、画家自身の自画像なのかもしれない。
ダンカン・フィリップスは1926年に「欲しい作品一覧(ウィッシュ・リスト)」を公開したが、そこには「ファン・ゴッホの独創的才能を示す作例」が含まれていた。1920年代末までに、彼はファン・ゴッホ作品を2度購入している。1930年9月、彼はニューヨークのウィルデンシュタイン画廊から、気に入らなければ返品可能という条件で本作を受け取り、ただちに購入へと踏み切った。フィリップスは本作を「魂の叫び」と表現している。
◆ポール・ゴーガン「ハム」(1889、50.2×57.8cm)
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ゴーガンによるもっとも偉大な芸術的革新は、彼の表現力に富んだ色彩の使用法である。彼はフランスのブルターニュ地方にある小さな村ル・プルデュで本作を制作した。ここは彼が綜合主義、大胆で力強い形態と線的なリズムを特徴とする抽象とレアリスムとの総合を修得した場所でもある。彼は静物画を数点しか制作しておらず、本作はおそらく彼が1881年に絵画制作をともにしたマネもしくはセザンヌの芸術から着想を得たものと考えられる。
ダンカン・フィリップスは、ニューヨークのポール・ローザンベール画廊を通じて本作《ハム》を購入した際、本作が「コレクションの作品群と類似性を持っており」、「後続する絵画の源泉として」の役割を担っていると述べている。フィリップスはゴーガンをロマン主義的理想主義者として称賛していたが、彼のプリミティヴィズムに関しては評価を保留しており、彼の描いたタヒチの風景画1点を手放してさえいる。この静物画はコレクションが持つ唯一のゴーガンによる絵画である。
※ダンカン・フィリップスは、ニューヨークのポール・ローザンベール画廊を通じて本作《ハム》を購入した際、本作が「コレクションの作品群と類似性を持っており」、「後続する絵画の源泉として」の役割を担っていると述べている。フィリップスはゴーガンをロマン主義的理想主義者として称賛していたが、彼のプリミティヴィズムに関しては評価を保留しており、彼の描いたタヒチの風景画1点を手放してさえいる。この静物画はコレクションが持つ唯一のゴーガンによる絵画である。
◆アドルフ・モンティセリ「花束」(1875頃、69.2×49.2cm)
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非常に独創的な肖像・静物・風景画家であるモンティセリは、パリでアカデミックな画家たちとともに絵画を学び、ルーヴル美術館でジョルジョーネやレンブラント、ヴェロネーゼらの作品を模写しながら、ドラクロワと交友を結んで色彩に対する強い情熱を共有した。
モンティセリの絵画の特徴である粗く自由な筆づかいと質感に富んだ表面は、セザンヌやゴッホ、野獣(フォーヴ)といった近代の芸術家たちに非常に大きな影響を与えた。実際、ゴッホはモンティセリの様式を模倣し、6点の作品を購入した。
ダンカン・フィリップスは1953年に本作をポール・ローザンベール画廊の展覧会ではじめて目にし、その6年後、モンティセリの歴史的役割を再発見して購入するに至った。フィリップスはモンティセリを「ドラクロワのロマン主義とファン・ゴッホ以後現代に至るまでの全ての表現主義とを結びつける存在」とみなしている。
※モンティセリの絵画の特徴である粗く自由な筆づかいと質感に富んだ表面は、セザンヌやゴッホ、野獣(フォーヴ)といった近代の芸術家たちに非常に大きな影響を与えた。実際、ゴッホはモンティセリの様式を模倣し、6点の作品を購入した。
ダンカン・フィリップスは1953年に本作をポール・ローザンベール画廊の展覧会ではじめて目にし、その6年後、モンティセリの歴史的役割を再発見して購入するに至った。フィリップスはモンティセリを「ドラクロワのロマン主義とファン・ゴッホ以後現代に至るまでの全ての表現主義とを結びつける存在」とみなしている。
◆ポール・セザンヌ「ザクロと洋梨のあるショウガ壺」(1893、46.4×55.6cm)
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セザンヌは日常的な物体に重みと量感を与える方法を求めて、40年の間におよそ200点以上の静物画を生み出した。彼は1870年代後半までに、シンプルな家庭内の品々に焦点をあて、複数の果物を、器や折りたたまれた布の襞と対話するように設置することで構図に奥行を持たせている。平行する短い筆致で描かれたこれらの作品は、色彩や光に対するセザンヌの認識や円熟期へと至る画家個人の様式の変遷を記録している。
1920年代中頃、ダンカン・フィリップスはセザンヌによる静物画を探し求めていた。1929年のニューヨーク近代美術館開館記念展で本作を目にし、さらに1939年2月にニューヨークのウィルデンシュタイン・ギャラリーで再度目にしたのち、フィリップスは展覧会のために本作を借用する。フィリップスにとって、本作に描き出された形態と形式の堅固さは、シャルダンによる威厳ある静物画を想起させるものであった。フィリップスの甥であるギフォードが、1939年に本作を美術館へ寄贈した。本作はかつて、セザンヌ本人によってモネに贈られ、彼の所蔵品であったという来歴を持つ。
※1920年代中頃、ダンカン・フィリップスはセザンヌによる静物画を探し求めていた。1929年のニューヨーク近代美術館開館記念展で本作を目にし、さらに1939年2月にニューヨークのウィルデンシュタイン・ギャラリーで再度目にしたのち、フィリップスは展覧会のために本作を借用する。フィリップスにとって、本作に描き出された形態と形式の堅固さは、シャルダンによる威厳ある静物画を想起させるものであった。フィリップスの甥であるギフォードが、1939年に本作を美術館へ寄贈した。本作はかつて、セザンヌ本人によってモネに贈られ、彼の所蔵品であったという来歴を持つ。
◆エドガー・ドガ「稽古する踊り子」(1880年代はじめ-1900年頃、130.2×97.8cm)
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ドガは晩年、線の使い方がより表現的になり鮮やかな色彩をもちいるようになっていった。ここでは彼が頻繁に素描したル・ペルティエ通りのスタジオでの踊り子たちの舞台裏が捉えられている。本作は練習用のバーに片脚を乗せた踊り子を描いたドガの最後の作品群のうちのひとつ。フィリップスは本作を「アラベスクとバレエ・ダンサー特有の身体を讃える彼の装飾的作品のなかでも、特異な記念碑的存在」と断言している。
ドガはふたりの踊り子を組み合わせて描いた原寸大の習作だけでなく、それぞれの踊り子を別々に着衣とヌードで描いた習作も制作していたことが、近年の調査によって判明した。これによって彼の制作方法に関する理解が深まるとともに、自身の作品を調整するという彼の終生変わらぬ傾向が明らかになった。彼は無数の修正とさまざまな技法や指も含めた道具によって、運動の感覚を見事に捉えた考え抜かれた構図を実現していったのである。彼が試したパステルやリトグラフ、モノタイプ、彫刻といったさまざまな技法はすべて、彼の制作方法に影響を与えている。絵を近くからよく見てみると、練習用のバーとふたりの踊り子の伸ばした脚が下方へと移動させられていることがわかる。また身体を支えている脚と両腕にも幾度か位置を修正した跡がうかがえる。ふたりの踊り子の茶色い髪は、オレンジの絵具の薄塗りの層によって覆われている。当初、踊り子はそれぞれ、カンヴァスのより下方とより左側に描かれていたのである。スカートも1度は今より短く書かれていた。ドガはそうした修正をほとんど隠そうとはせず、観者にわかるように残した。
※ドガはふたりの踊り子を組み合わせて描いた原寸大の習作だけでなく、それぞれの踊り子を別々に着衣とヌードで描いた習作も制作していたことが、近年の調査によって判明した。これによって彼の制作方法に関する理解が深まるとともに、自身の作品を調整するという彼の終生変わらぬ傾向が明らかになった。彼は無数の修正とさまざまな技法や指も含めた道具によって、運動の感覚を見事に捉えた考え抜かれた構図を実現していったのである。彼が試したパステルやリトグラフ、モノタイプ、彫刻といったさまざまな技法はすべて、彼の制作方法に影響を与えている。絵を近くからよく見てみると、練習用のバーとふたりの踊り子の伸ばした脚が下方へと移動させられていることがわかる。また身体を支えている脚と両腕にも幾度か位置を修正した跡がうかがえる。ふたりの踊り子の茶色い髪は、オレンジの絵具の薄塗りの層によって覆われている。当初、踊り子はそれぞれ、カンヴァスのより下方とより左側に描かれていたのである。スカートも1度は今より短く書かれていた。ドガはそうした修正をほとんど隠そうとはせず、観者にわかるように残した。
◆エドガー・ドガ「リハーサル室での踊りの稽古」(1870-72年頃、40.6×54.6cm)
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ドガは1870年代を通じて、ル・ペルティエ通りにある古いオペラハウスの広いリハーサル室にいる踊り子たちの姿を描いた。陽光の効果を描くという印象派の関心を共有していたドガは、高さのある3つのアーチ窓から差し込む自然光によって部屋全体を満たしている。さらにドガは、生徒たちにステップを実演してみせる指導者の熱のこもった動きを巧みに捉えている。本作はおそらく1877年に開催された第3回印象展に出品されたと考えられる。
近年の調査によって、本作の下に、完成された肖像画が描かれていたことが明らかとなった。この隠された肖像画は白い口髭を蓄えた厚い瞼の男性を描いたものであり、ドガの父親であるオーギュスト・ド・ガスと似た特徴を備えている。
※近年の調査によって、本作の下に、完成された肖像画が描かれていたことが明らかとなった。この隠された肖像画は白い口髭を蓄えた厚い瞼の男性を描いたものであり、ドガの父親であるオーギュスト・ド・ガスと似た特徴を備えている。
◆ピエール・ボナール「犬を抱く女」(1922、69.2×39cm)
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1925年のカーネギー国際美術展で、ボナールの描いた本作を目にしたダンカン・フィリップスは、たちまちこれに魅了された。描かれているのは愛犬を抱くボナールのパートナー、マルト・ド・メリニーであり、フィリップスによれば、「家庭の喜びと親密さ」が表現されているという。本作を見出して以降、フィリップスはこの画家の熱心な崇拝者となり、彼をルノワールの後継者とみなした。
本作《犬を抱く女》は、アメリカの美術館に収蔵された最初のボナールの絵画である。フィリップスはその後、アメリカの美術館における最初のボナールの展覧会を1930年に開催、後にアメリカ国内でもっとも大規模かつ多様性に富んだボナール作品コレクションのひとつを築くこととなった。彼はボナールをお気に入りの芸術家と公言し、まぎれもない色彩の天才と呼んでいる。1926年、ボナールはフィリップス・コレクションを訪れ、フィリップスとその妻マージョリーと面会した。それからおおよそ20年後、ボナールはフィリップスに、「私はしばしば、ワシントンであなたと過ごしたあの喜ばしい時間を思い出します」と書き送っている。
※本作《犬を抱く女》は、アメリカの美術館に収蔵された最初のボナールの絵画である。フィリップスはその後、アメリカの美術館における最初のボナールの展覧会を1930年に開催、後にアメリカ国内でもっとも大規模かつ多様性に富んだボナール作品コレクションのひとつを築くこととなった。彼はボナールをお気に入りの芸術家と公言し、まぎれもない色彩の天才と呼んでいる。1926年、ボナールはフィリップス・コレクションを訪れ、フィリップスとその妻マージョリーと面会した。それからおおよそ20年後、ボナールはフィリップスに、「私はしばしば、ワシントンであなたと過ごしたあの喜ばしい時間を思い出します」と書き送っている。
◆ラウル・デュフィ「画家のアトリエ」(1935、119.4×149.5cm)
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1877年、ル・アーヴルに生まれたデュフィは、素描家としての訓練を積んだのち、エコール・デ・バザールへの奨学金を勝ち取る。1920年代に地中海を訪れモロッコを旅した経験が、彼の色づかいに新たな光をもたらした。1930年代、デュフィは芸術家のアトリエを題材としたいくつかの絵画を製作。
本作はモンマルトルのゲルマ袋小路に位置するデュフィのアトリエを描いた作品であり、彼は1911年から亡くなるまでここを仕事場とした。左の壁には彼がビアンシーニ・フェリエのためにデザインした花柄のテキスタイルが確認でき、アトリエ全体には彼自身の絵画が散りばめられ、それらは同定することができる。こうした描写によって本作は、装飾家・デザイナー・画家としての彼の活動を深く理解するのに役立つ。カリグラフィを思わせる線描と大胆な色彩は、彼が仕事場で感じる喜びの反映であり、彼が屋内と外光と窓から見える空間との相互作用に関心をもっていたことを示している。このような無理のない自然さの感覚は、フィリップスが芸術においてもっとも愛した要素であった。本作が描かれた2年後、フィリップス家はデュフィを自宅へと招待している。マージョリー・フィリップスは、ユーモアに溢れた魅力的なデュフィの姿を回想している。
※本作はモンマルトルのゲルマ袋小路に位置するデュフィのアトリエを描いた作品であり、彼は1911年から亡くなるまでここを仕事場とした。左の壁には彼がビアンシーニ・フェリエのためにデザインした花柄のテキスタイルが確認でき、アトリエ全体には彼自身の絵画が散りばめられ、それらは同定することができる。こうした描写によって本作は、装飾家・デザイナー・画家としての彼の活動を深く理解するのに役立つ。カリグラフィを思わせる線描と大胆な色彩は、彼が仕事場で感じる喜びの反映であり、彼が屋内と外光と窓から見える空間との相互作用に関心をもっていたことを示している。このような無理のない自然さの感覚は、フィリップスが芸術においてもっとも愛した要素であった。本作が描かれた2年後、フィリップス家はデュフィを自宅へと招待している。マージョリー・フィリップスは、ユーモアに溢れた魅力的なデュフィの姿を回想している。
◆フアン・グリス「新聞のある静物」(1916、73.7×60.3cm)
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エンジニアとしての訓練を2年間積んだのち、グリスは1906年にスペインを離れパリに定住する。当初はグラフィック・アーティストやイラストレーターとして活動しながら、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックと親交を結び、ふたりによるキュビスムの展開の目撃者となった。クリスは1911年までに、この芸術運動におけるもっとも名高い画家のひとりとしての地位を確立。分析的キュビスムにはじまり、コラージュを経て、綜合的キュビスムへと至るこの芸術様式の発展とともに歩んだ。
建築的な外観をもつ本作は、コラージュを模倣するためにトロンプ・ルイユ(だまし絵)も効果をもちいている。暗色の色相豊かな画面を一筋の白が劇的に通り抜ける構成は、過去の美術史やスペインのバロック美術の遺産にグリスが傾倒していたことを思い起こさせる。
自身の作品を過去の伝統を受け継ぐものにしたいと考えていたグリスは次のように説明する。「私の技法はかつてオールド・マスターがもちいたものである」。マルセル・デュシャンは1950年に「ソシエテ・アノニム」のための資金調達をおこなった際、本作の購入を希望していたダンカン・フィリップスにこれを持ちかけた。「我々(のコレクション)には初期キュビスムの重要な作例が欠けているが、本作はその欠落を実に完璧に埋める作品である」。
※建築的な外観をもつ本作は、コラージュを模倣するためにトロンプ・ルイユ(だまし絵)も効果をもちいている。暗色の色相豊かな画面を一筋の白が劇的に通り抜ける構成は、過去の美術史やスペインのバロック美術の遺産にグリスが傾倒していたことを思い起こさせる。
自身の作品を過去の伝統を受け継ぐものにしたいと考えていたグリスは次のように説明する。「私の技法はかつてオールド・マスターがもちいたものである」。マルセル・デュシャンは1950年に「ソシエテ・アノニム」のための資金調達をおこなった際、本作の購入を希望していたダンカン・フィリップスにこれを持ちかけた。「我々(のコレクション)には初期キュビスムの重要な作例が欠けているが、本作はその欠落を実に完璧に埋める作品である」。
◆ハインリヒ・カンペンドンク「村の大通り」(1919頃、50.2×67.9cm)
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ゴッホやセザンヌの芸術に見られる線と色彩の力は、カンペンドンクの初期絵画作品の着想源であった。カンペンドンクは芸術家グループ「青騎士」の一員として「青騎士年鑑」の出版に関わり、1911年に開催されたこのグループの最初の展覧会に参加している。
彼は本作《村の大通り》において、表現主義的な色彩と単純化した形態をもちいることで、優しい動物たちと古風で風変わりな建物による個人的世界を描き出した。本作はフランツ・マルクやカンディンスキーによる作品、キュビスムや未来派、ロシアやバイエルン地方の民衆芸術から彼が受けた影響を示している。また田舎暮らしへの郷愁や図と地の関係性の軽視といった特徴は、マルク・シャガールからの影響である。
本作の前の所有者であるキャサリン・ドライヤーは本作について、「曖昧で自由な空間に関する新たな考え方、色彩そして生命の表現にかけて唯一無二」の作品と言及している。カンペンドンクの熱心な支持者であったドライヤーは、彼の作品を展示し、彼を「ソシエテ・アノニム」、ドライヤーが1920年にマルセル・デュシャンやマン・レイとともに立ち上げた実験的前衛芸術団体の一員に加えている。フィリップスは1953年にドライヤーの遺作から本作を選んだ。
※彼は本作《村の大通り》において、表現主義的な色彩と単純化した形態をもちいることで、優しい動物たちと古風で風変わりな建物による個人的世界を描き出した。本作はフランツ・マルクやカンディンスキーによる作品、キュビスムや未来派、ロシアやバイエルン地方の民衆芸術から彼が受けた影響を示している。また田舎暮らしへの郷愁や図と地の関係性の軽視といった特徴は、マルク・シャガールからの影響である。
本作の前の所有者であるキャサリン・ドライヤーは本作について、「曖昧で自由な空間に関する新たな考え方、色彩そして生命の表現にかけて唯一無二」の作品と言及している。カンペンドンクの熱心な支持者であったドライヤーは、彼の作品を展示し、彼を「ソシエテ・アノニム」、ドライヤーが1920年にマルセル・デュシャンやマン・レイとともに立ち上げた実験的前衛芸術団体の一員に加えている。フィリップスは1953年にドライヤーの遺作から本作を選んだ。
◆オスカー・ココシュカ「ロッテ・フランツォスの肖像」(1909、114.9×79.4cm)
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オーストリアの画家兼版画家で文筆家でもあったココシュカは、モデルの心理の内なる本質を呼び起こすような肖像画を制作した。著名な法律家の妻であったロッテ・フランツォスは、ココシュカに本作の制作を依頼したが、ココシュカは彼女に強い憧れを抱いており、おそらくは愛していた。優美で儚くいくらか不穏にも見える身振り、線、色彩の巧みな表現によって、この肖像画は彼女を押し潰そうとする苛立ちの苛烈さをあらわしている。
ココシュカは彼女に宛てて次のように書いている。「あなたの肖像は衝撃的だったのではないかと思います。人間が与える効果は首のところまでだと思われますか? 髪、手、服、動作、それらすべてが少なくとも等しく重要なのです」。彼女の頭部や肩、指先から放射される色と光は、彼女にこの世のものならぬ霊的な性質を与えている。ココシュカは後に次のように述懐している。「私はロウソクの炎のように彼女を描いた。内側には黄色と透き通ったライトブルー、そしてその周囲に鮮やかなダークブルーのオーラを・・・あらゆる優しさ、愛すべき親切さ、そして理解、それが彼女だったのです」。フィリップスとココシュカは連絡を取り続け、1949年にワシントンでココシュカが美術館を訪れた際に会っている。
※ココシュカは彼女に宛てて次のように書いている。「あなたの肖像は衝撃的だったのではないかと思います。人間が与える効果は首のところまでだと思われますか? 髪、手、服、動作、それらすべてが少なくとも等しく重要なのです」。彼女の頭部や肩、指先から放射される色と光は、彼女にこの世のものならぬ霊的な性質を与えている。ココシュカは後に次のように述懐している。「私はロウソクの炎のように彼女を描いた。内側には黄色と透き通ったライトブルー、そしてその周囲に鮮やかなダークブルーのオーラを・・・あらゆる優しさ、愛すべき親切さ、そして理解、それが彼女だったのです」。フィリップスとココシュカは連絡を取り続け、1949年にワシントンでココシュカが美術館を訪れた際に会っている。
◆パブロ・ピカソ「横たわる人」(1934、46.4×65.4cm)
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横たわる裸婦は美術史の長い伝統から引き出されたモティーフであるが、本作の裸婦が表現するのはそれとは異なるもの、すなわち古典的なものとシュルレアリスム的なものとの衝突である。ピカソは表現力に富んだわずかな筆づかいによって、彼のモデルでありミューズでもあったマリー=テレーズ・ウォルターが装飾的な衝立の前に置かれた長椅子の上で四肢を伸ばして横たわる官能的な姿を描き出している。彼女は自分の世界に没頭しており、観者の視線に気づいていないように見える。豪勢な室内に肉感的でエロティックな人物像を描くこうしたタイプの作品は、1932年から34年にかけてのピカソの作品の多勢を占めていた。
※◆ジョルジュ・ブラック「驟雨」(1952、34.9×54.6cm)
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フォーヴのオリジナル・メンバーのひとりであったブラックは、色彩に溢れた風景画でそのキャリアを始めたが、その後それを放棄し、キュビスムという、より観念的な目標を追究するようになる。ブラックは1950年代に、おそらくは友人で芸術家仲間のニコラ・ド・スタールの影響を受けて、風景画に触覚的な質感を与えるという可能性を見出した。ブラックの粗い筆づかいやさまざまな厚みの筆致は、この場面に物質性を与えている。本作で4本の平坦な色の帯として表現されているノルマンディーの野は、彼にとって思い出深い場所であった。ブラックは青年時代、故郷のル・アーヴル近郊を自転車で駆け回っており、その趣味はヴァランジュヴィルでも続いた。
※◆ジョルジュ・ブラック「フィロデンドロン」(1952、130.2×74cm)
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ダンカン・フィリップスは、アメリカにおけるブラック芸術の普及促進に重要な役割をはたした人物である。彼は、多くのアメリカ人の観衆にヨーロッパのモダニズムを紹介した美術館館長、蒐集家、画商によって構成されるネットワークの一員であった。フィリップスは、伝統と結びつきながらも自律したブラックの精神に親近感を抱いていた。自身が館長を務めた45年の間に、彼は11点のブラックによる絵画を入手している。
ブラックは第二次大戦後、複数の物体を視覚空間の中に配置するための難解で複雑な方法をますます探求するようになる。本作《フィロデンドロン》は、植物や描きかけのカンヴァス、自宅から持ち寄った品々で埋め尽くされた自身のアトリエを、暗く謎めいた雰囲気で描いた一連の作品のひとつである。本作には、ガーデンチェアと金属製のテーブル、その上に水差しと大きなリンゴが描かれている。物体は平坦に描かれ、まるで切り抜かれて表面に貼り付けられたかのようである。絵具の塗られていない剥き出しのカンヴァスが室内に光の効果を生んでおり、後景のハイライトと共鳴している。この椅子は1952年までにはブラックの作品に頻出するモティーフとなっていた。これはノルマンディー沿岸の実家から持ってきたもので、故郷への彼の愛着を象徴している。
※ブラックは第二次大戦後、複数の物体を視覚空間の中に配置するための難解で複雑な方法をますます探求するようになる。本作《フィロデンドロン》は、植物や描きかけのカンヴァス、自宅から持ち寄った品々で埋め尽くされた自身のアトリエを、暗く謎めいた雰囲気で描いた一連の作品のひとつである。本作には、ガーデンチェアと金属製のテーブル、その上に水差しと大きなリンゴが描かれている。物体は平坦に描かれ、まるで切り抜かれて表面に貼り付けられたかのようである。絵具の塗られていない剥き出しのカンヴァスが室内に光の効果を生んでおり、後景のハイライトと共鳴している。この椅子は1952年までにはブラックの作品に頻出するモティーフとなっていた。これはノルマンディー沿岸の実家から持ってきたもので、故郷への彼の愛着を象徴している。
美術館の一角。ピエール・ボナールの「開かれた窓」(レプリカ)が飾ってありました。
◆グッズ・土産
・絵ハガキ
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