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『もっと知りたい ゴッホ 生涯と作品』を購入しました。(2)

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4 神か自然か――壮絶な葛藤の軌跡 サン・レミ(1889年5月~1890年5月)【36~37歳】


●不安をはらんだ荒々しいタッチ
 南仏のユートピアが崩壊したのち、ファン・ゴッホの内面で「宗教」と「自然」の壮絶な闘いが始まる。
 アルルで精神病の大きな発作を起こして以来、ファン・ゴッホは発作を繰り返すようになり、南仏のサン・レミにある精神病院に入院して治療することになった。病名はわからないが、絵具を食べようとしたり、宗教的な幻覚、幻聴も経験したという。発作の危険から、屋外で制作ができない時期もあった。自然を前に描くことを望んだファン・ゴッホも、模写をしたり、想像で描いたりすることが増え、作品の様相は一変する。様式もアルル時代の原色に近い平坦な色面表現から、力強く、荒々しいタッチによる表現に変わる。

イメージ 1
《星月夜と糸杉のある道》 1890年5月(サン・レミ)、油彩・カンヴァス、92×73cm

糸杉、星と月、うねるような筆触
 ファン・ゴッホのサン・レミ時代を代表し、彼の南仏滞在の最後を飾る作品のひとつである。糸杉をはさむように配された星と月、二人連れの男と彼らを乗せた馬車、これらのモチーフはいったい何をあらわそうとしているのだろうか。この問いを解く鍵はファン・ゴッホの手紙には見られない。絵は謎に包まれたまま一切の説明を拒み続けている。

「楽園追放」ふたたび
 戻ってきたモチーフ「掘る人」
 ひまわり、日本的モチーフなど、ユートピア時代の作品にあふれていたモチーフ群は一気に姿を消し、代わりに、しばらく描かれなかった楽園追放のモチーフ「掘る人」が再び登場する。
 それはまず、「耳切り事件」でユートピアが崩壊した直後、《掘る人のいるアルルの果樹園》に奇妙な形であらわれた。ファン・ゴッホが実際に掘る人を眼にしたかどうか、昔描いた「掘る人」の習作デッサンを持っていたかどうかなどの詮索は、ここでは意味がない。アルルという地上の楽園を追放されたファン・ゴッホの運命を象徴するかのように、この不吉なモチーフは次第に数を増しながら作品に戻ってくる。

イメージ 2
《掘る人(ミレーによる)》 1889年10月(サン・レミ)、油彩・カンヴァス、72×92cm

描くことを宿命づけられたモチーフ
 画業の最初期に素描で模写したミレーの「掘る人」をサン・レミでは油彩模写している。ファン・ゴッホにまとわりついて離れない宿命のモチーフ「掘る人」は、アルルの「楽園」から追放された画家の運命を定めるかのように描かれていった。ファン・ゴッホは現実に見かけた「掘る人」を描くのではない。描くよう宿命づけられたこのモチーフを、現実と絵画のなかから探し出して描くのだ。

「宗教」と「自然」の間(はざま)で苦悩する魂
 「神」に代わるよりどころを求めて
 19世紀は、科学と産業革命の時代である。同時に人びとの教会離れが始まった「世俗化」の時代でもあった。教会と聖職者たちの努力にもかかわらず、教会離れはおさまらない。一方で、教会を離れ、作家や芸術家になった多くの若者も、自身のなかに培われてきた信仰を容易には捨てきれない。新たな時代の到来を感じながらも、人びとは偉大な神の存在を感じ続けずに生きていくには、自身があまりに弱すぎることを痛感するようになる。世界の激変に人びとの心はついていけなかった。
 そうした心の不安、緊張感を取り除くため、人は「自然」にすがりついた。教会、神学、聖職者の位階といった制度的なものを取り除き、従来のキリスト教のにおいを感じさせない信仰の対象、神の代替物、それがロマン主義のつくりあげた「自然」概念であった。フランス、イギリス、ドイツなどでは、ファン・ゴッホが画家に「改宗」する数十年前に、世俗化にともなう「自然」崇拝が誕生していたのである。
 やや遅れて世俗化の波はオランダにも一気に訪れ、ファン・ゴッホ自身も「教会離れ」をする。牧師の子としてキリスト教社会の只中にいたファン・ゴッホにとって、この急激な変化がもたらした緊張感はとりわけ大きかったに違いない。彼もまた、ロマン主義の芸術家たちと同様、「自然」に、「太陽」に、そして「星空」に「星空」に神の代替物を求めてすがりつく。
 ファン・ゴッホは宗教から最も遠いところにいたように見えるアルル時代でも、手紙で、神や星空について語っている。(画家の言葉、書簡531、543)

イメージ 3
《星月夜》 1889年6月(サン・レミ)、油彩・カンヴァス、73×92cm

内なる葛藤そのものがテーマ
 サン・レミの精神病院でファン・ゴッホにあてがわれた寝室には、東向きの窓があった。本作は、窓から眺めた明け方の東の空の風景を描いたものとされている。山並みはたしかに病院の東に見える山々に似ている。また、プラネタリウムによる当時の星の再現によれば、月の位置や、ひときわ明るい金星(明けの明星)の位置が現実の星空に一致していたこともわかっている。ただ、月の形は三日月のようなものではなく、半月と満月の間であったし、画中で虚空(こくう)に浮かんでいる渦巻状の形態の正体もわからない。山の手前に見えるような町、尖塔のあるオランダ風の教会は実際の風景にはない。左前景に見える糸杉も実際に見えたものかどうか疑わしい。そもそも、ファン・ゴッホは東向きの寝室を与えられていたものの、絵の制作は別方向に向いた部屋で行なっていた。
 これらの事実を総合すると、この絵はある明け方の東の空の記憶をもとに描かれた虚構の世界らしいのである。
 《星月夜》は多様な解釈を生み出してきた作品のひとつである。宗教的な幻覚の光景、聖書の一場面といった宗教的・聖書的解釈、絵の描かれた時期と方角の星空を再現し、絵の写実性を強調する解釈、普仏戦争後のフランスの社会状況を反映しているという解釈などである。諸説を概観すると、絵をめぐる解釈は、宗教的な解釈と世俗的、自然主義的な解釈との間を揺らぎ続けてきたことになる。しかし、「宗教」か「自然」かという問いには、結局決着がついていない。おそらく《星月夜》は「宗教」と「自然」の二者択一で理解できるような絵ではなく、両者の内なる葛藤そのものを根源的な主題にした絵だと考えられる。

イメージ 4
《糸杉》 1889年6月(サン・レミ)、油彩・カンヴァス、93.3×74cm

燃え上がるような鮮烈なタッチの謎
 「糸杉のことがずっと頭にあるが、何とかひまわりの絵のような作品にしたいものだ。というのも、ぼくに見えているように描いた人がいないのが不思議に思えるから。線といい比例といい美しく、まるでエジプトのオベリスクのようだ」(1889年6月、書簡596)
 ――糸杉はひまわり以上に南仏で印象に残る植物である。しかし、ファン・ゴッホはアルルではこの木をあまり描いていない。中心的モチーフとして描き出すのはサン・レミに移ってからで、厚塗りの強烈なタッチで燃え上がるように描いている。しばしば月とともに描いているが、その理由はまだわからない。糸杉はしばしば墓地に見られること、その黒いシルエットなどから「死」の象徴と解釈されたりするが、そのような短絡的な読みは絵の豊かさ、深さを消してしまいかねない。
 「ぼくに見えているように描いた人がいない」と書いているとおり、ほかの画家が描いた糸杉も、実際の糸杉も、ファン・ゴッホが描くようには見えない。なぜアルルではなくサン・レミで、このような鮮烈な厚塗りのタッチで、三日月とともに描いたのだろうか。

創作としての「模写」
 色彩への「翻訳」
 サン・レミの病院に入ってからも病気の状態が思わしくなく、外出が許されないことも多かったファン・ゴッホは、テオに版画や複製を送ってもらい、さかんに油彩で模写している。模写と言っても、モノクロからカラーへと変えているので単なる模写にとどまらない。画家自身はこれらを色彩への「翻訳」と理解していたようだ。
 振り返ってみれば、パリ時代の浮世絵模写も決して忠実な模写ではなかった。《ラザロの復活》のように構図自体を大きく変えてしまうこともある。どの画家の、どの主題の作品を、どんな構図と色で「翻訳」するか。それはほとんどファン・ゴッホ自身の「創作」だと言ってもよい。《ラザロの復活》同様、《監獄の中庭》の中央にいる囚人も赤髭で描かれていて、ファン・ゴッホ自身を描いたものではないかと推測されている。

愛しい人びとに贈るメッセージ
 レプリカに託した幸福な日々の記憶
 「耳切り事件」以後、ファン・ゴッホは自作のレプリカをさかんに描くようになる。それまでにも同じ主題を似たような構図で2点ほど描くことはしていたが、自作のコピーといえるような作品を3点以上描くようになるのはやはり「耳切り事件」以後のことである。《ひまわり》も《フィンセントの寝室》も、《ルーラン夫人》《ジヌー夫人》もそのようにして多数描かれた。
 幸福だったアルルの日々の記憶を反芻するかのようにレプリカは描かれ、愛する人びとのもとに贈られた。それは、すでに「死」を身近に感じ始めていた画家が、幸福な日々の自分を愛しい人びとの記憶にとどめてもらうためだったのだろうか。

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《花咲くアーモンドの枝》 1890年2月(サン・レミ)、油彩・カンヴァス、73.5×92cm

甥の誕生プレゼントに
 弟夫婦が子どもを授かったことは、ファン・ゴッホにとっても大きな出来事だった。赤ん坊には伯父の名、つまりファン・ゴッホと同じフィンセント・ウィレムの名が授けられた。ファン・ゴッホはその赤ん坊のために、「花咲くアーモンドの枝」というみずみずしい主題の絵を、空を見上げるような構図で描き、贈っている。
 弟テオの結婚と甥の誕生は、ファン・ゴッホにとって大きな喜びだったが、同時に不安の材料にもなった。つまり、これまで惜しげもなく自分の絵に投資してくれていた忠実なパトロンが家庭を持ち、これまでのように投資を続けてくれるかどうか、わからなくなったのである。


5 オーヴェール・シュル・オワーズから終わらない終章へ(1890年5月~7月)【37歳】


●人生最後の場所へ
 1890年5月、ファン・ゴッホは2年余り住んだ南仏をあとにし、パリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズに転居した。オーヴェールは小さな町だが、かつてはバルビゾン派の画家ドービニー(1817-78)も住み、セザンヌが制作した場所としても知られている。ファン・ゴッホの主治医となる精神科医ガシェ博士は、絵画コレクターであり、みずから絵を描くアマチュア画家でもあった。
 ファン・ゴッホは人生最後の2カ月余りをここオーヴェールで過ごすことになる。7月の末、みずからの腹に銃弾を打ち込み、37年の短い生涯と10年間の短い画業を絶つことになった。画家の作品は残された人びとの手を借りてひとり歩きを始める。

イメージ 6
《オーヴェールの教会》 1890年6月(オーヴェール・シュル・オワーズ)、油彩・カンヴァス、94×74cm

5年ぶりに描いたモニュメンタルな教会
 オーヴェール・シュル・オワーズには小さいながらも教会がある。ファン・ゴッホが教会をこれほどモニュメンタルに描いたのは何年ぶりだろうか。パリでもアルルでも教会をこのような描き方をしたことはないので、ニューネンの教会の廃墟でそのはかなさを描いて以来5年ぶりということになる。ファン・ゴッホの晩年の作品に特徴的なうねるようなタッチが、空、教会、地面と、いたるところにあらわれていて、これまでにない存在感で教会が描かれている。

自殺、そしてつくられた絶筆神話
 死を予感させる「熟れた麦畑」
 《鴉の群れ飛ぶ麦畑》は、今日このタイトルで一般的に知られ、しばしば絶筆として語られてきた作品である。しかし、画家本人がこの絵にタイトルをつけた形跡はないし、絶筆だという確実な根拠が示されたことも一度もない。にもかかわらず、この作品はなぜか「絶筆」扱いされてきた。画家の死後、20年ほど経ってから展覧会や出版物などで「鴉の群れ飛ぶ麦畑」や「絶筆」という記述が次第に広がり始め、伝記小説や映画を通じて世界中に絶筆神話は定着する。絵が描かれてから半世紀もあとのことである。
 この神話形成の根底にあったのは聖書のなかにしばしばあらわれる麦のたとえ話であり、種まきは人の誕生、麦刈りは人の死を象徴する。《鴉の群れ飛ぶ麦畑》に描かれた「熟れた麦畑」は、キリスト教社会では「刈入れ時が近づいた」こと、つまり「死期が近づいたこと」を容易に人びとに感じさせる。不吉な黒い鳥、熟れた麦畑、荒れ模様の空、これらの組み合わせが人の死にふさわしいゆえに、確かな根拠がなくてもこの絵は「絶筆」と信じられたのである。
 キリスト教社会が画家ファン・ゴッホの伝記を物語るにあたり、その物語の「結び」にはこの絵が最も適していた。物語に「真実らしさ」を与えるため、事実は無視され、曲げられたのである。

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《鴉の群れ飛ぶ麦畑》 1890年7月(オーヴェール・シュル・オワーズ)、油彩・カンヴァス、50.5×103cm

死後24年で出そろった「鴉」と「絶筆」
 1890年7月初めの手紙にこの絵についての記述らしいものがあるため、制作時期は自殺の3週間ほど前と推測できる。画家の死後間もなく開かれた展覧会では「黒い鳥のいる麦畑」というタイトルがつけられていた。ところが1908年にドイツの画廊を巡回した展覧会のカタログではなぜか「《雷雨》巨匠最後の作品」と記述され、その後1914年にアントウェルペン(ベルギー)の展覧会に出展されたときのカタログで「《鴉のいる麦畑》画家最後の作品」と記述されている。この絵を大きく特徴づけてきた2つの言葉、「鴉」と「絶筆」は、画家の死後24年も経ってから出そろったことになる。
 3つに割れた道、不穏なタッチの並ぶ空と麦畑、飛ぶ鴉、その劇的な表現ゆえに絶筆神話が絡みつくことになった。

流転する絵画
 残された絵画の運命
 絵も旅をする。画家の死後、遺族や理解ある近しい人びとに大切に守られ、美術館に終の棲家(ついのすみか)を見出す幸福な絵もあれば、早々と画家のもとを離れ、さまざまな人の手に渡りながら流浪する絵もある。
 ファン・ゴッホの作品は生前にはほとんど売れず、画家の死後は大部分を弟のテオとその妻ヨハンナが譲り受けた。これらの一部は売られたり、譲られたりしたものの、大部分は子孫に受け継がれ、今日、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館に所蔵されている。その意味では、ファン・ゴッホ没後の作品の運命は、概ね幸福なほうだったと言えるだろう。
 しかし、ファン・ゴッホが娼婦や市井の人たちにあげたとされる作品のなかには、二束三文で売られ、ごみとして捨てられたものもあったかもしれない。金儲けの手段として売り飛ばされ、傷つけられ、打ち捨てられたまま、今も世界の片隅にだれの眼にふれることもなく生き延びているもの、こよなく愛してくれる個人の居室に、ほとんど他人に知られることなくひっそり掛かっているものもきっとあることだろう。世界の主要美術館に安住の地を見つけるまでに苦難の旅を経てきた絵、今日なお流転の運命に押し流されている絵も決して少なくない。

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《ドービニーの庭》 1890年7月(オーヴェール・シュル・オワーズ)、油彩・カンヴァス、56×101.5cm、バーゼル美術館

死後加筆された、最晩年の作品
 ファン・ゴッホ最晩年の作品のひとつ。現在バーゼル美術館にあるものが第1作、ひろしま美術館にあるものが第2作と考えられている。2点とも加筆の跡があり、絵の上下で色合いの変わっている箇所はのちにカンヴァスを広げて加筆した部分であろう。第1作に描かれていた黒猫も第2作には見当たらないが、1900年のオークションカタログに掲載された写真には黒猫がはっきり見えているので、これ以降、塗りつぶされたことになる。ゴーガンの友人で他の画家の絵にも加筆したことがわかっているシュフネッケルが加筆した可能性が高い。
 ひろしま美術館所蔵の作品はかつてベルリンのナショナルギャラリーに所蔵されていた。1937年、ヒトラーの退廃芸術政策で没収され、ナチスの空軍元帥ヘルマン・ゲーリングのコレクションに入った後、何人かの手を経てアムステルダムの銀行家ジークフリート・クラマルスキーのコレクションに入った。ユダヤ人だったクラマルスキーも絵もナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命し、その後絵はオークションにかけられて広島銀行が購入し美術館に入った。
 この2点はどちらも美術館に入っているとはいえ、まだ完全な公的所有物ではない。将来、また流転の運命に巻き込まれないとも限らない。

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