圀府寺司(こうでら・つかさ)『もっと知りたい ゴッホ 生涯と作品』(07)を購入しました。
先日、斎藤純(盛岡市在住の小説家)のツーリング・エッセイ集『オートバイの旅は、いつもすこし寂しい。』(04)を読んでいたら、ゴッホの「ローヌ川の星月夜」(1888、オルセー美術館)の話が出てきました。ネットで調べると、初めて見る絵でした。ゴッホは好きな画家の一人なのに、彼について何も知らないと実感しました。で、このゴッホ入門書を購入し、彼と彼の作品について勉強しようと思いました。
以下、この本の要点を抜粋し、引用しようと思います。(写真はWikipediaより、あるいはこの本をコピー)
先日、斎藤純(盛岡市在住の小説家)のツーリング・エッセイ集『オートバイの旅は、いつもすこし寂しい。』(04)を読んでいたら、ゴッホの「ローヌ川の星月夜」(1888、オルセー美術館)の話が出てきました。ネットで調べると、初めて見る絵でした。ゴッホは好きな画家の一人なのに、彼について何も知らないと実感しました。で、このゴッホ入門書を購入し、彼と彼の作品について勉強しようと思いました。
以下、この本の要点を抜粋し、引用しようと思います。(写真はWikipediaより、あるいはこの本をコピー)
●牧師の息子として誕生
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは1853年、オランダ南部の村フロート・ズンデルトで生まれた。父はプロテスタントの牧師、祖父フィンセントも高名な牧師で、伯父フィンセントは画商グーピル商会ハーグ支店を経営していた。母方の叔父には、アムステルダムの高名な説教師ストリッケルがいる。死産だった兄を除けば、長男ファン・ゴッホには2人の弟と3人の妹がおり、4歳年下のテオとは生涯にわたって親交を持ち続けることになる。
少年時代のファン・ゴッホは「扱いにくい」子どもだったようだ。詳しい理由はわからないが中学も中退している。家は裕福でこそなかったが、それでも、フィンセント少年は牧師の息子であり、良家のお坊ちゃまにちがいなかった。
中学中退後、16歳でグーピル商会ハーグ支店に勤め、ロンドン店、パリ店でも勤務した。若くして英語、フランス語、ドイツ語で文学を読み、フランス語、英語で手紙を書いた。当初は、グーピル商会での勤務態度もよかったが、やがて画商の仕事に疑問を持ち始めて勤務態度が悪化し、解雇されることになった。
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは1853年、オランダ南部の村フロート・ズンデルトで生まれた。父はプロテスタントの牧師、祖父フィンセントも高名な牧師で、伯父フィンセントは画商グーピル商会ハーグ支店を経営していた。母方の叔父には、アムステルダムの高名な説教師ストリッケルがいる。死産だった兄を除けば、長男ファン・ゴッホには2人の弟と3人の妹がおり、4歳年下のテオとは生涯にわたって親交を持ち続けることになる。
少年時代のファン・ゴッホは「扱いにくい」子どもだったようだ。詳しい理由はわからないが中学も中退している。家は裕福でこそなかったが、それでも、フィンセント少年は牧師の息子であり、良家のお坊ちゃまにちがいなかった。
中学中退後、16歳でグーピル商会ハーグ支店に勤め、ロンドン店、パリ店でも勤務した。若くして英語、フランス語、ドイツ語で文学を読み、フランス語、英語で手紙を書いた。当初は、グーピル商会での勤務態度もよかったが、やがて画商の仕事に疑問を持ち始めて勤務態度が悪化し、解雇されることになった。
●伝道師をめざすが、挫折――
画廊を解雇されたファン・ゴッホは、イギリスに渡ってフランス語やドイツ語を教えたり、宗教活動に加わったり、オランダに戻って書店に勤めたりと、なかなか職が定まらない。やがて自ら「神の言葉を種まく人」になりたいと切望し、24歳の頃アムステルダム大学神学部をめざして勉強を始めた。メンデス・ダ・コスタから古典語を教わるが、「こんなおそろしいもの」(古典語の文法)が自分の仕事に必要だとは思えないと手紙に記している。同じ頃、ファン・ゴッホはアムステルダムの場末、赤線地帯にあったシオン礼拝堂というイギリス国教会の小さなチャペルで、日曜学校の教師もしている。彼には神学よりも伝道の仕事のほうがはるかに大切だったのである。
やがて神学部入学のための勉強を放棄したファン・ゴッホは、ベルギーの炭鉱町ボリナージュで伝道師になるための実習をすることになる。ボリナージュでは炭鉱事故のけが人を看病するなど献身的に仕事をした。しかし、みずからの衣服を貧しい炭鉱夫たちに与え、裸同然で藁の上に寝るなど、奇矯な行動が災いして、伝道師協会からは正式に採用してもらえなかった。聖職につきたいというファン・ゴッホの望みはすべて絶たれることになったのである。
画廊を解雇されたファン・ゴッホは、イギリスに渡ってフランス語やドイツ語を教えたり、宗教活動に加わったり、オランダに戻って書店に勤めたりと、なかなか職が定まらない。やがて自ら「神の言葉を種まく人」になりたいと切望し、24歳の頃アムステルダム大学神学部をめざして勉強を始めた。メンデス・ダ・コスタから古典語を教わるが、「こんなおそろしいもの」(古典語の文法)が自分の仕事に必要だとは思えないと手紙に記している。同じ頃、ファン・ゴッホはアムステルダムの場末、赤線地帯にあったシオン礼拝堂というイギリス国教会の小さなチャペルで、日曜学校の教師もしている。彼には神学よりも伝道の仕事のほうがはるかに大切だったのである。
やがて神学部入学のための勉強を放棄したファン・ゴッホは、ベルギーの炭鉱町ボリナージュで伝道師になるための実習をすることになる。ボリナージュでは炭鉱事故のけが人を看病するなど献身的に仕事をした。しかし、みずからの衣服を貧しい炭鉱夫たちに与え、裸同然で藁の上に寝るなど、奇矯な行動が災いして、伝道師協会からは正式に採用してもらえなかった。聖職につきたいというファン・ゴッホの望みはすべて絶たれることになったのである。
●「農民」に付された宗教的意味
聖職の道を断念し画家になる決心をしたファン・ゴッホは、ほとんど独学でデッサンを描き始める。27歳からの出発である。彼は、その初期から農民や労働者を頻繁に描いた。最初期の作品としてミレー作品の素描模写も知られている。しかし、ファン・ゴッホは農民画家ではない。農民出身のミレー(1814-75、フランス・バルビゾン派の画家)とちがい、牧師館のお坊ちゃまであり、農民とは仕事も、生活も、運命もともにしたことなどなかったのである。
ファン・ゴッホの描く農民は聖書のなかの登場人物であり、「掘る人」は『創世記』で楽園を追放されたアダムと、「種まく人」は「神の言葉を種まく人」と分かちがたく結びついていた。炭鉱で重い石炭袋を背負う女たちも例外ではなく、彼女らも明らかに宗教的意味を担わされていたのである。
聖職の道を断念し画家になる決心をしたファン・ゴッホは、ほとんど独学でデッサンを描き始める。27歳からの出発である。彼は、その初期から農民や労働者を頻繁に描いた。最初期の作品としてミレー作品の素描模写も知られている。しかし、ファン・ゴッホは農民画家ではない。農民出身のミレー(1814-75、フランス・バルビゾン派の画家)とちがい、牧師館のお坊ちゃまであり、農民とは仕事も、生活も、運命もともにしたことなどなかったのである。
ファン・ゴッホの描く農民は聖書のなかの登場人物であり、「掘る人」は『創世記』で楽園を追放されたアダムと、「種まく人」は「神の言葉を種まく人」と分かちがたく結びついていた。炭鉱で重い石炭袋を背負う女たちも例外ではなく、彼女らも明らかに宗教的意味を担わされていたのである。
●牧師社会への愛憎を捨てられずに――
牧師志望から画家志望へ転じた頃から、ファン・ゴッホは一転して教会嫌いになった。教会の白壁も、牧師も、牧師の妻もすべて嫌悪の対象となる。それでもファン・ゴッホは絵のなかに小さな教会を描き続けていた。みずからの心の奥底にある宗教心のやり場を現実世界のどこにも見つけることができず、「宗教」を重く引きずったまま、「芸術」の世界にずるずると入っていたからである。
この間、家族の心労をよそに、ファン・ゴッホは次々と問題を起こして行く。
エッテンの両親の家に住んでいた頃には、訪ねてきていたケーに恋をした。ケーはアムステルダム時代に世話になったストリッケルの娘で、夫に先立たれ、ひとりで幼子を育てていた。ファン・ゴッホは彼女に激しく求愛した。何度断られてもあきらめず、アムステルダムのケーの両親宅にまで押しかけるが、放り出されている。
この頃、ファン・ゴッホは自分のなかで「何かが死ぬのを感じた」という。
牧師志望から画家志望へ転じた頃から、ファン・ゴッホは一転して教会嫌いになった。教会の白壁も、牧師も、牧師の妻もすべて嫌悪の対象となる。それでもファン・ゴッホは絵のなかに小さな教会を描き続けていた。みずからの心の奥底にある宗教心のやり場を現実世界のどこにも見つけることができず、「宗教」を重く引きずったまま、「芸術」の世界にずるずると入っていたからである。
この間、家族の心労をよそに、ファン・ゴッホは次々と問題を起こして行く。
エッテンの両親の家に住んでいた頃には、訪ねてきていたケーに恋をした。ケーはアムステルダム時代に世話になったストリッケルの娘で、夫に先立たれ、ひとりで幼子を育てていた。ファン・ゴッホは彼女に激しく求愛した。何度断られてもあきらめず、アムステルダムのケーの両親宅にまで押しかけるが、放り出されている。
この頃、ファン・ゴッホは自分のなかで「何かが死ぬのを感じた」という。
◆たった一度だけ持った自分の「家族」
娼婦との同棲――家族ごっこ
ボリナージュで教会に拒まれ、牧師に恋を阻まれ、次第に教会や牧師に対する嫌悪感をつのらせていったファン・ゴッホは、次々に家族の、特に父親の顔に泥を塗るような行動に出る。1881年12月にハーグに移り住むと、子連れで身重の娼婦クリスティーヌ(通称シーン)と出会い、同棲し始める。牧師の家族にとってみれば、30歳にもなろうかという長男がいまだにすねかじりで、しかも娼婦と同棲しているというのは大問題だったにちがいない。
しかし、そのような周囲の困惑とは裏腹に、ファン・ゴッホはハーグでどちらかといえば充実した日々を送っていた。ハーグ派の画家たちや従兄の画家アントン・マウフェらと交流を持つようになり、マウフェから水彩画の手ほどきも受けている。もっとも、シーンとの一件でマウフェとの交友関係も途絶えてしまうが、ファン・ゴッホは生涯にたった一度だけ持った「家庭」に夢中になっている。シーンが身ごもっていた子もやがて生まれ、「家族ごっこ」はさらに現実味を帯びていった。
シーンはファン・ゴッホの作品中に何度も描かれている。《悲しみ》はそれらのなかでも最もすぐれたもののひとつである。これらの作品とそこに書き込まれた「悲しみ(Sorrow)」という言葉が示すように、ファン・ゴッホの興味をかきたてたのは「打ち捨てられた女」という主題であり、そのような女に対するキリスト教的憐憫の情であった。
農民と同様、ファン・ゴッホはシーンという売春婦とも運命をともにすることはない。シーンという生身の女性を愛していたのならば「家族ごっこ」は本物の家族になっていたはずだが、そうはならなかった。ファン・ゴッホはやがてシーンとその家族に悩まされるようになり、弟や両親の説得にも応じて、シーンと別れることになる。
娼婦との同棲――家族ごっこ
ボリナージュで教会に拒まれ、牧師に恋を阻まれ、次第に教会や牧師に対する嫌悪感をつのらせていったファン・ゴッホは、次々に家族の、特に父親の顔に泥を塗るような行動に出る。1881年12月にハーグに移り住むと、子連れで身重の娼婦クリスティーヌ(通称シーン)と出会い、同棲し始める。牧師の家族にとってみれば、30歳にもなろうかという長男がいまだにすねかじりで、しかも娼婦と同棲しているというのは大問題だったにちがいない。
しかし、そのような周囲の困惑とは裏腹に、ファン・ゴッホはハーグでどちらかといえば充実した日々を送っていた。ハーグ派の画家たちや従兄の画家アントン・マウフェらと交流を持つようになり、マウフェから水彩画の手ほどきも受けている。もっとも、シーンとの一件でマウフェとの交友関係も途絶えてしまうが、ファン・ゴッホは生涯にたった一度だけ持った「家庭」に夢中になっている。シーンが身ごもっていた子もやがて生まれ、「家族ごっこ」はさらに現実味を帯びていった。
シーンはファン・ゴッホの作品中に何度も描かれている。《悲しみ》はそれらのなかでも最もすぐれたもののひとつである。これらの作品とそこに書き込まれた「悲しみ(Sorrow)」という言葉が示すように、ファン・ゴッホの興味をかきたてたのは「打ち捨てられた女」という主題であり、そのような女に対するキリスト教的憐憫の情であった。
農民と同様、ファン・ゴッホはシーンという売春婦とも運命をともにすることはない。シーンという生身の女性を愛していたのならば「家族ごっこ」は本物の家族になっていたはずだが、そうはならなかった。ファン・ゴッホはやがてシーンとその家族に悩まされるようになり、弟や両親の説得にも応じて、シーンと別れることになる。
《悲しみ》 1882年4月(ハーグ)、鉛筆・黒チョーク・ペン、44.5×27cm
モデルと描線が醸し出す打ち捨てられた者の悲しみ
シーンをモデルに描いたデッサン。石版画も含め、多くのバージョンが確認されている。人体デッサンにとり組んだ成果が出始め、描線の表現力を生かしながら、人体のリアリティを描き出せるようになっている。節くれだった感じの描線が絵の主題にも合っている。
下の余白にはフランスの歴史家ミシュレの『女』からの引用「地上に打ち捨てられた孤独な女がいるというのはどういうことか」が記されている。
シーンをモデルに描いたデッサン。石版画も含め、多くのバージョンが確認されている。人体デッサンにとり組んだ成果が出始め、描線の表現力を生かしながら、人体のリアリティを描き出せるようになっている。節くれだった感じの描線が絵の主題にも合っている。
下の余白にはフランスの歴史家ミシュレの『女』からの引用「地上に打ち捨てられた孤独な女がいるというのはどういうことか」が記されている。
◆「掘る人」――楽園追放のテーマ
生涯つきまとうモチーフ
「掘る人」というなんの変哲もないモチーフも、ファン・ゴッホにとっては宗教的な意味を持っていた。『創世記』で、アダムとイヴが禁断の木の実を食べて楽園を追放になり、その時アダムに課せられた土を耕すという労働である。ファン・ゴッホは「あなたは顔に汗してパンを食べ・・・」(第3章19節)という聖書の言葉を「掘る人」に重ねていた。それは単に個人的な連装ではない。キリスト教社会において、畑を耕すという行為は伝統的にこの一節と結びつけられていたし、ファン・ゴッホの同時代の美術、文学関係の著作でも、しばしば「掘る人」とアダムとイヴの楽園追放の一節とは結びつけられている。
「掘る人」はファン・ゴッホに生涯取りついて離れないモチーフである。それは「ひまわり」などとは比べものにならないほど繰り返し繰り返し描かれ、「種まく人」や「麦を刈る人」などよりもさらに頻繁にあらわれる。
ただ、10年間の画業のうち、1887年から88年にかけての2年間、パリ時代の後半からアルル時代の前半にかけてだけは、このモチーフが作品からも手紙からも見事に姿を消す。実際に眼にする機会がなくてもファン・ゴッホがこのモチーフを描けたことを考えれば、この時期、彼は「楽園追放のモチーフ」を描く必要を感じなかったということになる。
生涯つきまとうモチーフ
「掘る人」というなんの変哲もないモチーフも、ファン・ゴッホにとっては宗教的な意味を持っていた。『創世記』で、アダムとイヴが禁断の木の実を食べて楽園を追放になり、その時アダムに課せられた土を耕すという労働である。ファン・ゴッホは「あなたは顔に汗してパンを食べ・・・」(第3章19節)という聖書の言葉を「掘る人」に重ねていた。それは単に個人的な連装ではない。キリスト教社会において、畑を耕すという行為は伝統的にこの一節と結びつけられていたし、ファン・ゴッホの同時代の美術、文学関係の著作でも、しばしば「掘る人」とアダムとイヴの楽園追放の一節とは結びつけられている。
「掘る人」はファン・ゴッホに生涯取りついて離れないモチーフである。それは「ひまわり」などとは比べものにならないほど繰り返し繰り返し描かれ、「種まく人」や「麦を刈る人」などよりもさらに頻繁にあらわれる。
ただ、10年間の画業のうち、1887年から88年にかけての2年間、パリ時代の後半からアルル時代の前半にかけてだけは、このモチーフが作品からも手紙からも見事に姿を消す。実際に眼にする機会がなくてもファン・ゴッホがこのモチーフを描けたことを考えれば、この時期、彼は「楽園追放のモチーフ」を描く必要を感じなかったということになる。
《泥炭を掘る人びと》 1883年5月(ハーグ)、木炭・黒チョーク・インク、50×100cm
デッサンをもとに描かれた作品
中央の「掘る人」はハーグ時代のデッサンをもとに描かれた。この人物の背景には「教会」が描かれている。ほかの人物も同時期のデッサンにもとづいている。
中央の「掘る人」はハーグ時代のデッサンをもとに描かれた。この人物の背景には「教会」が描かれている。ほかの人物も同時期のデッサンにもとづいている。
◆構成画(タブロー)への挑戦
画家の新しい一歩
シーンとの生活に見切りをつけてハーグをあとにし、一時ドレンテの田舎に引きこもったファン・ゴッホは、孤独な生活のなか、しきりに弟テオにも画家になるよう進めている。説得は成功しない。やがて、孤独な生活に耐えられなくなったのか、1883年12月、ファン・ゴッホはニューネンの両親の家に舞い戻ってくる。
ニューネンの牧師館の一角にアトリエをもらったファン・ゴッホは次々に作品を生み出す。デッサンに励み、水彩や油彩の習作も重ねてきたファン・ゴッホは、画家になってから約5年後、ニューネン時代になって初めて、習作(エチュード)ではなく構成画(タブロー)を油彩で本格的に描くことができるようになる。
画家の新しい一歩
シーンとの生活に見切りをつけてハーグをあとにし、一時ドレンテの田舎に引きこもったファン・ゴッホは、孤独な生活のなか、しきりに弟テオにも画家になるよう進めている。説得は成功しない。やがて、孤独な生活に耐えられなくなったのか、1883年12月、ファン・ゴッホはニューネンの両親の家に舞い戻ってくる。
ニューネンの牧師館の一角にアトリエをもらったファン・ゴッホは次々に作品を生み出す。デッサンに励み、水彩や油彩の習作も重ねてきたファン・ゴッホは、画家になってから約5年後、ニューネン時代になって初めて、習作(エチュード)ではなく構成画(タブロー)を油彩で本格的に描くことができるようになる。
《じゃがいもを食べる人たち》 1885年4月(ニューネン)、油彩・カンヴァス、82×114cm
入魂の構成画
ファン・ゴッホのタブローの最初期のものである。この絵を描くため、彼は周到な準備を重ね、数多くの習作を制作し、最終作を構成していった。ファン・ゴッホは、手紙(書簡404)でこの絵を「織物」にたとえている。
ファン・ゴッホのタブローの最初期のものである。この絵を描くため、彼は周到な準備を重ね、数多くの習作を制作し、最終作を構成していった。ファン・ゴッホは、手紙(書簡404)でこの絵を「織物」にたとえている。
◆父の死、朽ちていく協会
キリスト教との関係を見直す転機
ニューネンでファン・ゴッホは次々と油絵作品を制作するが、両親にとってはまたしても悩みの種になる。近所に住む年上の女性マルホ・ベーへマンとの恋愛事件である。この事件は、自分の両親に反対されたマルホが服毒自殺を図るというスキャンダルにまで発展する。狭い村、しかも自分の教区内で身内のかかわった事件ともなれば、父親の心痛は察して余りある。
1885年5月、度重なる心労のせいか、ファン・ゴッホの父テオドルスは脳卒中で急死する。この時のファン・ゴッホの反応は、この親子関係同様に複雑で微妙なものだった。父はもちろん息子を信じ、ひとり立ちできるように尽力し続けた。しかし一方で、息子を精神病院に入れようと考えた形跡もなくはない。息子のほうは、教会に拒まれて以降、教会や牧師にきわめて反抗的になっていた。
ともあれ、ファン・ゴッホにとって父親の死は、自身を育ててきたキリスト教文化との関係を見直す機会になった。この頃に描かれた作品にはそのような転機にいるファン・ゴッホの心情がよくあらわれている。
キリスト教との関係を見直す転機
ニューネンでファン・ゴッホは次々と油絵作品を制作するが、両親にとってはまたしても悩みの種になる。近所に住む年上の女性マルホ・ベーへマンとの恋愛事件である。この事件は、自分の両親に反対されたマルホが服毒自殺を図るというスキャンダルにまで発展する。狭い村、しかも自分の教区内で身内のかかわった事件ともなれば、父親の心痛は察して余りある。
1885年5月、度重なる心労のせいか、ファン・ゴッホの父テオドルスは脳卒中で急死する。この時のファン・ゴッホの反応は、この親子関係同様に複雑で微妙なものだった。父はもちろん息子を信じ、ひとり立ちできるように尽力し続けた。しかし一方で、息子を精神病院に入れようと考えた形跡もなくはない。息子のほうは、教会に拒まれて以降、教会や牧師にきわめて反抗的になっていた。
ともあれ、ファン・ゴッホにとって父親の死は、自身を育ててきたキリスト教文化との関係を見直す機会になった。この頃に描かれた作品にはそのような転機にいるファン・ゴッホの心情がよくあらわれている。
●転機となったテオとの同居
光の世界への扉は、弟宛の短い走り書きの手紙とともに開かれた。
「突然やって来てしまったのだが、怒らないで欲しい。(中略)正午すぎか、君がよければもっと早くルーヴルに行っている。何時にサル・カレ(方形の間)に来られるか返事して欲しい」。
オランダを発って一時、ベルギー北部のアントウェルペンの美術学校に入り、教師ともめながら絵を学んでいたファン・ゴッホは、突然、パリのテオのアパルトマンに押しかけてきた。パリでは、画廊に勤めていたテオの協力も得て、最新の絵画や多くの画家と出会うことになる。
パリ時代のファン・ゴッホの作品群は、豊かな混沌の世界である。多くの出会いが、彼の作品を劇的に変化させていった。その出会いに、画廊に勤務していた弟テオが大きな役割を果たしたことは言うまでもない。
ただ、私たちにとって残念なのは、この兄弟が同居したために二人の間の文通が途絶えたことである。もし、この時代にファン・ゴッホが手紙を書き続けていたら、私たちはこの2年間にパリの芸術界で起こった出来事について、数多くの貴重な証言を手に入れることができたにちがいない。
だが、歴史はこの時代を、寡黙なまま残すことになる。
光の世界への扉は、弟宛の短い走り書きの手紙とともに開かれた。
「突然やって来てしまったのだが、怒らないで欲しい。(中略)正午すぎか、君がよければもっと早くルーヴルに行っている。何時にサル・カレ(方形の間)に来られるか返事して欲しい」。
オランダを発って一時、ベルギー北部のアントウェルペンの美術学校に入り、教師ともめながら絵を学んでいたファン・ゴッホは、突然、パリのテオのアパルトマンに押しかけてきた。パリでは、画廊に勤めていたテオの協力も得て、最新の絵画や多くの画家と出会うことになる。
パリ時代のファン・ゴッホの作品群は、豊かな混沌の世界である。多くの出会いが、彼の作品を劇的に変化させていった。その出会いに、画廊に勤務していた弟テオが大きな役割を果たしたことは言うまでもない。
ただ、私たちにとって残念なのは、この兄弟が同居したために二人の間の文通が途絶えたことである。もし、この時代にファン・ゴッホが手紙を書き続けていたら、私たちはこの2年間にパリの芸術界で起こった出来事について、数多くの貴重な証言を手に入れることができたにちがいない。
だが、歴史はこの時代を、寡黙なまま残すことになる。
◆印象派に学んだ色彩表現
画風確立の一ステップ
印象派との出会いなしに、今日知られているファン・ゴッホは生まれなかった。オランダ時代、彼はすでにテオから印象派についての知識は得ていたが、その意味を本当に理解したのはパリで実際の作品を眼にしてからである。絵具をパレット上で混ぜず、原色に近い色をカンヴァス上に細かいタッチで並べることで得られる明るい色彩世界は、ファン・ゴッホの画風を一変させた。
しかし、ファン・ゴッホは決して印象派の様式をそのまま真似したわけではない。印象派風に見える多くの作品も、よく見てみると、なんとなく色が濁っていたり、色彩バランスが大胆すぎたり、また、印象派画家が決して描かなかったようなモチーフも描いている。結局、彼は真正の印象派画家になったことは一度もなかった。印象主義はファン・ゴッホが自身の様式を追求するための大きなステップのひとつに過ぎなかったのである。
画風確立の一ステップ
印象派との出会いなしに、今日知られているファン・ゴッホは生まれなかった。オランダ時代、彼はすでにテオから印象派についての知識は得ていたが、その意味を本当に理解したのはパリで実際の作品を眼にしてからである。絵具をパレット上で混ぜず、原色に近い色をカンヴァス上に細かいタッチで並べることで得られる明るい色彩世界は、ファン・ゴッホの画風を一変させた。
しかし、ファン・ゴッホは決して印象派の様式をそのまま真似したわけではない。印象派風に見える多くの作品も、よく見てみると、なんとなく色が濁っていたり、色彩バランスが大胆すぎたり、また、印象派画家が決して描かなかったようなモチーフも描いている。結局、彼は真正の印象派画家になったことは一度もなかった。印象主義はファン・ゴッホが自身の様式を追求するための大きなステップのひとつに過ぎなかったのである。
《アニエールの公園》 1887年6~7月(パリ)、油彩・カンヴァス、75×112.5cm
麦わら帽の男のいる印象派的風景
パリ郊外アニエールの公園を印象派風の細かいタッチで描いた作品。この頃、印象派のモネの作品からはすでに人物が姿を消し始め、人間としての個性を持たない、風景の一部になりつつあった。印象派が光、色彩からなる視覚的印象を描くことをめざした以上、そこから生身の人間が消えていくのは必然的な帰結であった。しかし、ファン・ゴッホは何よりも人間を描きたかった画家、「カテドラルよりは人間の眼を描きたい」と考えていた画家である。この印象派的風景のなかにもファン・ゴッホは人間たちを配した。表情や個性までは読み取れないが、それは風景のなかの視覚的効果として挿入された人物とは違う。そのなかのひとり、黄色い麦わら帽をかぶった青い服の男は、その身なりからファン・ゴッホ自身を思わせる。モネは決してこのような絵は描かない。
パリ郊外アニエールの公園を印象派風の細かいタッチで描いた作品。この頃、印象派のモネの作品からはすでに人物が姿を消し始め、人間としての個性を持たない、風景の一部になりつつあった。印象派が光、色彩からなる視覚的印象を描くことをめざした以上、そこから生身の人間が消えていくのは必然的な帰結であった。しかし、ファン・ゴッホは何よりも人間を描きたかった画家、「カテドラルよりは人間の眼を描きたい」と考えていた画家である。この印象派的風景のなかにもファン・ゴッホは人間たちを配した。表情や個性までは読み取れないが、それは風景のなかの視覚的効果として挿入された人物とは違う。そのなかのひとり、黄色い麦わら帽をかぶった青い服の男は、その身なりからファン・ゴッホ自身を思わせる。モネは決してこのような絵は描かない。
◆浮世絵との出会い
独自の様式を模索
印象派との出会いで色彩に開眼したファン・ゴッホは、次に日本の浮世絵と出会う。折しも、ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰ってパリに店を開いたばかり。ファン・ゴッホはこのビングの店の屋根裏でこれらの浮世絵をみる機会に恵まれた。もちろん、彼がそれまで浮世絵を知らなかったわけではない。しかし、色彩表現に目ざめ、多くの浮世絵の秀作を目にしたことは、ファン・ゴッホに決定的な影響を与える。
浮世絵の油彩模写は3点知られている。しかし、どの模写も忠実な模写ではない。漢字の描かれた装飾的な縁を描き加えたり、複数の浮世絵からモチーフを借りてきて構成したりする。色調も原画よりも鮮やかである。どうやら彼は模写をしながら彼なりの「日本」イメージを紡ぎだすと同時に、まったく新しい様式への実験と模索をしていたようだ。
独自の様式を模索
印象派との出会いで色彩に開眼したファン・ゴッホは、次に日本の浮世絵と出会う。折しも、ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰ってパリに店を開いたばかり。ファン・ゴッホはこのビングの店の屋根裏でこれらの浮世絵をみる機会に恵まれた。もちろん、彼がそれまで浮世絵を知らなかったわけではない。しかし、色彩表現に目ざめ、多くの浮世絵の秀作を目にしたことは、ファン・ゴッホに決定的な影響を与える。
浮世絵の油彩模写は3点知られている。しかし、どの模写も忠実な模写ではない。漢字の描かれた装飾的な縁を描き加えたり、複数の浮世絵からモチーフを借りてきて構成したりする。色調も原画よりも鮮やかである。どうやら彼は模写をしながら彼なりの「日本」イメージを紡ぎだすと同時に、まったく新しい様式への実験と模索をしていたようだ。
《タンギー爺さん》 1887年秋(パリ)、油彩・カンヴァス、92×75cm
ユートピアの住人として描かれた絵具商
ジュリアン・タンギーはパリの絵具商で、ポール・セザンヌ(1839-1906)やゴーガン(1848-1903)といった売れない画家たちを支援していたことで知られている。私利私欲に走らないタンギーの生き方に共感したファン・ゴッホは、ともに「社会主義的」なユートピアを夢見るようになったらしい。ファン・ゴッホはこの絵を描いた頃には「日本」をある種のユートピアとして見ていたようだ。タンギーの背景に浮世絵を配すことで、この絵具商を自分たちのユートピアの住人として描いたのであろう。
ジュリアン・タンギーはパリの絵具商で、ポール・セザンヌ(1839-1906)やゴーガン(1848-1903)といった売れない画家たちを支援していたことで知られている。私利私欲に走らないタンギーの生き方に共感したファン・ゴッホは、ともに「社会主義的」なユートピアを夢見るようになったらしい。ファン・ゴッホはこの絵を描いた頃には「日本」をある種のユートピアとして見ていたようだ。タンギーの背景に浮世絵を配すことで、この絵具商を自分たちのユートピアの住人として描いたのであろう。
◆太陽の花、「ひまわり」の登場
南仏への憧れを象徴するかのように
「ひまわり」はファン・ゴッホの代名詞にもなっているが、実は彼はそんなにたくさんひまわりの絵を描いたわけではない。描いていた時期も非常に限られていて、画中に小さく描かれているものを含めても、パリ時代後半の1年とアルル時代前半の1年弱、つまり1887年春頃から89年の1月までの2年間に、ほとんどすべてのひまわりは描かれている。パリ時代にこのモチーフが描かれ始めたのはファン・ゴッホが南仏の太陽に憧れ始めた時期と重なっている。
南仏への憧れを象徴するかのように
「ひまわり」はファン・ゴッホの代名詞にもなっているが、実は彼はそんなにたくさんひまわりの絵を描いたわけではない。描いていた時期も非常に限られていて、画中に小さく描かれているものを含めても、パリ時代後半の1年とアルル時代前半の1年弱、つまり1887年春頃から89年の1月までの2年間に、ほとんどすべてのひまわりは描かれている。パリ時代にこのモチーフが描かれ始めたのはファン・ゴッホが南仏の太陽に憧れ始めた時期と重なっている。
●人生で最も幸福な時期
1888年2月、ファン・ゴッホは念願の南フランスへと向かった。アルルに着いたのはまだ2月で、明るい陽光どころか雪が積もっていた。それでもファン・ゴッホはその雪景色を見て日本のようだと書き記している。季節が巡り、春の兆しとともにアルルの風景は輝きを増して行った。それとともに、彼のカンヴァスも眩いほどの輝きを放ち始める。
1887、88年はファン・ゴッホにとって特別な、そしておそらく最も幸福な時期であった。私はパリ時代の後半からアルル時代の前半にわたるこの2年間を「ユートピア時代」と呼んでいる。この時期、彼は「日本」と「日本人」をモデルに芸術家のユートピアを夢想し、芸術家の共同体を実現しようとする。それは他人の目には子どもじみた夢以外の何ものでもなかった。この共同体に加わったのはゴーガンひとり。しかも、共同生活は悲惨な結末とともに崩壊することになる。しかし、それでも、「夢」は画家の心を支え、画家におそろしいほどの霊感と力を授けた。
1888年2月、ファン・ゴッホは念願の南フランスへと向かった。アルルに着いたのはまだ2月で、明るい陽光どころか雪が積もっていた。それでもファン・ゴッホはその雪景色を見て日本のようだと書き記している。季節が巡り、春の兆しとともにアルルの風景は輝きを増して行った。それとともに、彼のカンヴァスも眩いほどの輝きを放ち始める。
1887、88年はファン・ゴッホにとって特別な、そしておそらく最も幸福な時期であった。私はパリ時代の後半からアルル時代の前半にわたるこの2年間を「ユートピア時代」と呼んでいる。この時期、彼は「日本」と「日本人」をモデルに芸術家のユートピアを夢想し、芸術家の共同体を実現しようとする。それは他人の目には子どもじみた夢以外の何ものでもなかった。この共同体に加わったのはゴーガンひとり。しかも、共同生活は悲惨な結末とともに崩壊することになる。しかし、それでも、「夢」は画家の心を支え、画家におそろしいほどの霊感と力を授けた。
◆光あふれる、地上の楽園
「掘る人」が消えた
色彩の輝きを増しただけではなく、他の時期には見られない一群のモチーフが作品上に踊る。太陽、ひまわり、夾竹桃、日本的モチーフ・・・。ファン・ゴッホにとりついて離れなかった楽園追放のモチーフ、「掘る人」は見事に姿を消す。ファン・ゴッホはあの教会の白壁も、父親たちの世界も忘れたかのように白昼夢に陥って行く。あたかも楽園をとり戻したかのように。
「掘る人」が消えた
色彩の輝きを増しただけではなく、他の時期には見られない一群のモチーフが作品上に踊る。太陽、ひまわり、夾竹桃、日本的モチーフ・・・。ファン・ゴッホにとりついて離れなかった楽園追放のモチーフ、「掘る人」は見事に姿を消す。ファン・ゴッホはあの教会の白壁も、父親たちの世界も忘れたかのように白昼夢に陥って行く。あたかも楽園をとり戻したかのように。
《ラングロワの橋(アルルの跳ね橋)》 1888年3月(アルル)、油彩・カンヴァス、54×65cm
澄み切った、みずみずしい色彩世界
南仏の春の陽光に満ちたみずみずしい川辺の風景。描かれているのはアルル南西の町外れの運河に架かっていた通称「ラングロワの橋」。洗濯女たちのつくり出す水面の波紋と、橋を渡る馬車の動きが緩やかにすれ違う。
ファン・ゴッホが橋というモチーフを頻繁に描いた時期が2度ある。2度目はこのアルル、1度目は1883年のわずか2カ月間のドレンテ時代で、2つの時期の共通点は仲間を自分のもとに呼び寄せていたこと。アルルからはゴーガンら画家仲間を南仏に来るよう誘い、ドレンテからは弟テオに画家になるよう進めていた。
南仏の春の陽光に満ちたみずみずしい川辺の風景。描かれているのはアルル南西の町外れの運河に架かっていた通称「ラングロワの橋」。洗濯女たちのつくり出す水面の波紋と、橋を渡る馬車の動きが緩やかにすれ違う。
ファン・ゴッホが橋というモチーフを頻繁に描いた時期が2度ある。2度目はこのアルル、1度目は1883年のわずか2カ月間のドレンテ時代で、2つの時期の共通点は仲間を自分のもとに呼び寄せていたこと。アルルからはゴーガンら画家仲間を南仏に来るよう誘い、ドレンテからは弟テオに画家になるよう進めていた。
《夜のカフェテラス》 1888年9月(アルル)、油彩・カンヴァス、81×65.5cm
アルルは夜も美しい
色彩豊かな南仏の夜にファン・ゴッホは魅せられる。アルルの中心部にある広場のカフェテラスを描いた作品。暗い青、紫系の色と黄色の対比が美しい。
色彩豊かな南仏の夜にファン・ゴッホは魅せられる。アルルの中心部にある広場のカフェテラスを描いた作品。暗い青、紫系の色と黄色の対比が美しい。
《夜のカフェ》 1888年9月、油彩・カンヴァス、70×89cm
「居酒屋の闇の力」?
テオへ宛てた手紙(画家の言葉、書簡534)でファン・ゴッホは、この絵では「居酒屋の闇の力のようなものを」あらわそうとしたと言う。「居酒屋」はゾラの小説の、「闇の力」はトルストイの戯曲のタイトルである。この2つのタイトルを織り込んだ記述は、読み手のテオにしっかりと文学的な連想を伝えたに違いない。赤と緑という補色の強烈な対比、誇張された遠近法に合わせるように床を走る筆触、ランプの周囲の筆触。すべてが「人間の恐ろしい情念」の表現につながる。
テオへ宛てた手紙(画家の言葉、書簡534)でファン・ゴッホは、この絵では「居酒屋の闇の力のようなものを」あらわそうとしたと言う。「居酒屋」はゾラの小説の、「闇の力」はトルストイの戯曲のタイトルである。この2つのタイトルを織り込んだ記述は、読み手のテオにしっかりと文学的な連想を伝えたに違いない。赤と緑という補色の強烈な対比、誇張された遠近法に合わせるように床を走る筆触、ランプの周囲の筆触。すべてが「人間の恐ろしい情念」の表現につながる。
◆芸術家の共同体をつくる夢
修道院をモデルにした擬似宗教的な共同体
アルルでファン・ゴッホはある夢を実現しようとする。「日本人」のように、芸術家が兄弟愛に満ちた共同生活をする家をつくりあげるという夢である。
南仏の太陽を信仰する画家たちが集まる家の室内を、ひまわりなどの絵で飾り、入り口には手紙で「愛を語る」花と記述した夾竹桃を植え、画家仲間をアルルに誘った。
この共同体のモデルとしてファン・ゴッホが想定していたのは修道僧たちの修道院生活である。弟テオも誘っており、「もし君も来ることになれば、君は歴史上最初の〈画商・使徒〉になる」とまで書いている。この共同体はあきらかに「擬似宗教的共同体」として構想されていたのである。
修道院をモデルにした擬似宗教的な共同体
アルルでファン・ゴッホはある夢を実現しようとする。「日本人」のように、芸術家が兄弟愛に満ちた共同生活をする家をつくりあげるという夢である。
南仏の太陽を信仰する画家たちが集まる家の室内を、ひまわりなどの絵で飾り、入り口には手紙で「愛を語る」花と記述した夾竹桃を植え、画家仲間をアルルに誘った。
この共同体のモデルとしてファン・ゴッホが想定していたのは修道僧たちの修道院生活である。弟テオも誘っており、「もし君も来ることになれば、君は歴史上最初の〈画商・使徒〉になる」とまで書いている。この共同体はあきらかに「擬似宗教的共同体」として構想されていたのである。
《フィンセントの寝室》 1888年10月(アルル)、油彩・カンヴァス、72×90cm
絶対の休息
ファン・ゴッホが「絶対の休息」を表現しようとしたという寝室の絵。しかし、画面からはそのような感じは必ずしも伝わってこない。部屋自体がきれいな長方形ではないうえに、広角レンズで見たような誇張された透視図法で描かれていて、《夜のカフェ》にも似ている。消失点に向かう線に沿って並べられた床の筆触、ベッドの赤なども「休息」の表現には合わない。椅子が2脚に、枕が2個。何か意味があるのだろうか。
ファン・ゴッホが「絶対の休息」を表現しようとしたという寝室の絵。しかし、画面からはそのような感じは必ずしも伝わってこない。部屋自体がきれいな長方形ではないうえに、広角レンズで見たような誇張された透視図法で描かれていて、《夜のカフェ》にも似ている。消失点に向かう線に沿って並べられた床の筆触、ベッドの赤なども「休息」の表現には合わない。椅子が2脚に、枕が2個。何か意味があるのだろうか。
◆「教会」が消え、「太陽」が出現
芸術家たちの新しい「神」
前景に農耕のモチーフや人物、自然の風景をはさんで遠景に教会――ファン・ゴッホの画業初期の構成画(タブロー)の基本パターンのひとつである。それはファン・デル・マーテンの《麦畑のなかの葬列》の構成法でもあった。
しかし、ユートピア時代の作品をよく見てみると、初期作品で教会が描かれていた場所に、しばしば太陽が描かれていることがわかる。教会を太陽で置き換えているのである。ファン・ゴッホにとって南仏の太陽はただの太陽ではない。それは信仰されるべきもの、それを求めて芸術家たちが集まってくる、いわば「神」の代替物であった。
芸術家たちの新しい「神」
前景に農耕のモチーフや人物、自然の風景をはさんで遠景に教会――ファン・ゴッホの画業初期の構成画(タブロー)の基本パターンのひとつである。それはファン・デル・マーテンの《麦畑のなかの葬列》の構成法でもあった。
しかし、ユートピア時代の作品をよく見てみると、初期作品で教会が描かれていた場所に、しばしば太陽が描かれていることがわかる。教会を太陽で置き換えているのである。ファン・ゴッホにとって南仏の太陽はただの太陽ではない。それは信仰されるべきもの、それを求めて芸術家たちが集まってくる、いわば「神」の代替物であった。
《太陽と種まく人》 1888年6月(アルル)、油彩・カンヴァス、64×80.5cm
背景中央に描かれる太陽
主題はミレー風の〈種まく人〉だが、太陽を大きく中央に描き、大胆な構図と色彩で描かれた作品である。テオへの手紙(画家の言葉、書簡501)を書いたあと、画家は種まく人のポーズを変え、青い上着と白いズボン姿を全身紫に変え、空には黄緑、地面にはオレンジのタッチを大胆に描き込んだ。この絵はミレーの〈種まく人〉を「ドラクロワのアポロンの天井画のように黄と紫の対照で描けるか」という実験であった。
主題はミレー風の〈種まく人〉だが、太陽を大きく中央に描き、大胆な構図と色彩で描かれた作品である。テオへの手紙(画家の言葉、書簡501)を書いたあと、画家は種まく人のポーズを変え、青い上着と白いズボン姿を全身紫に変え、空には黄緑、地面にはオレンジのタッチを大胆に描き込んだ。この絵はミレーの〈種まく人〉を「ドラクロワのアポロンの天井画のように黄と紫の対照で描けるか」という実験であった。
◆太陽とひまわりに重ねた理想
信仰心や愛を象徴
ファン・ゴッホに「ひまわりの画家」という名がふさわしいとすれば、それは単に彼がひまわりをしばしば描いたからでも、これらが彼の全作品中、最もすばらしいからでもない。
ひまわりは西洋の図像伝統のなかで明確な象徴的意味を担っていた花である。実際のひまわりは太陽に顔を向け続けるわけではないが、人はこの花に向日性があるとみなし、太陽を神やキリストにたとえ、ひまわりを「信仰心」や「愛」の象徴としてきたのである。
南仏の太陽を崇める画家たちが集まり、兄妹愛に満ちた生活を送る共同体の実現を夢見ていたファン・ゴッホにとって、ひまわりが持つ象徴的意味はまちがいなくこの共同体に最もふさわしかった。牧師の息子だったファン・ゴッホがその豊かな伝統的意味を知らずに、この花を描き、「黄色い家」の装飾に選んだとは考えられない。
信仰心や愛を象徴
ファン・ゴッホに「ひまわりの画家」という名がふさわしいとすれば、それは単に彼がひまわりをしばしば描いたからでも、これらが彼の全作品中、最もすばらしいからでもない。
ひまわりは西洋の図像伝統のなかで明確な象徴的意味を担っていた花である。実際のひまわりは太陽に顔を向け続けるわけではないが、人はこの花に向日性があるとみなし、太陽を神やキリストにたとえ、ひまわりを「信仰心」や「愛」の象徴としてきたのである。
南仏の太陽を崇める画家たちが集まり、兄妹愛に満ちた生活を送る共同体の実現を夢見ていたファン・ゴッホにとって、ひまわりが持つ象徴的意味はまちがいなくこの共同体に最もふさわしかった。牧師の息子だったファン・ゴッホがその豊かな伝統的意味を知らずに、この花を描き、「黄色い家」の装飾に選んだとは考えられない。
《ひまわり》 1889年1月頃(アルル)、油彩・カンヴァス、100.5×76.5cm、ロンドン・ナショナルギャラリー
「黄色い家」にふさわしい花
パリ時代の《ひまわり》のところで述べたように、「ひまわり」は決して多く描かれたモチーフではなく、描かれた時期も限られている。それは芸術家共同体の象徴として最もふさわしい花だったからこそ「黄色い家」の装飾画で重要な位置を占めた。のちに起こるゴーガンとの「耳切り事件」でこの共同体が崩壊した直後には、何点かの何点かのレプリカが制作されるが、その後にはひまわりを主要モチーフとして描いた作品はまったく知られていない。
パリ時代の《ひまわり》のところで述べたように、「ひまわり」は決して多く描かれたモチーフではなく、描かれた時期も限られている。それは芸術家共同体の象徴として最もふさわしい花だったからこそ「黄色い家」の装飾画で重要な位置を占めた。のちに起こるゴーガンとの「耳切り事件」でこの共同体が崩壊した直後には、何点かの何点かのレプリカが制作されるが、その後にはひまわりを主要モチーフとして描いた作品はまったく知られていない。
◆「日本人」の顔を持つ肖像
理想化された「日本人」
アルルでファン・ゴッホはピエール・ロチの異国趣味小説『お菊さん』を読んだ。ロチが海軍将校として日本に滞在した体験をもとに書いたこの小説は、当時大いに人気を博した。ファン・ゴッホもこの小説に心を躍らせたひとりである。読み終えて間もなく、アルルの少女を日本人のムスメの風貌で、そして自分自身を日本の僧侶の風貌で描いている。
アルル時代の手紙でファン・ゴッホは頻繁に「日本」や「日本人」観を述べている(画家の言葉、書簡542参照)。日本人は自然科学者でも社会科学者でもなく、自分自身が花であるかのように自然のなかに没入して生きる哲学者であり、素朴な労働者、空想的社会主義者であり、兄弟愛に満ちて生き、真の宗教を持つ自然人なのだという。
この「日本人」はファン・ゴッホの理想にほかならない。ファン・ゴッホは未知の「日本人」という核の周りに、自らの理想のすべてを結晶させて行った。そして、そのなかでも「真の宗教を持つ自然人」こそ、おそらく彼が最も切望した理想であった。
現実世界のどこにも居場所を見つけられなかった彼の宗教的情熱は、理想上の「日本」のなかに、そして、フランスの「日本」にあたるアルルと、そこにある黄色い家に、ついにその居場所を獲得するかに思われた。
理想化された「日本人」
アルルでファン・ゴッホはピエール・ロチの異国趣味小説『お菊さん』を読んだ。ロチが海軍将校として日本に滞在した体験をもとに書いたこの小説は、当時大いに人気を博した。ファン・ゴッホもこの小説に心を躍らせたひとりである。読み終えて間もなく、アルルの少女を日本人のムスメの風貌で、そして自分自身を日本の僧侶の風貌で描いている。
アルル時代の手紙でファン・ゴッホは頻繁に「日本」や「日本人」観を述べている(画家の言葉、書簡542参照)。日本人は自然科学者でも社会科学者でもなく、自分自身が花であるかのように自然のなかに没入して生きる哲学者であり、素朴な労働者、空想的社会主義者であり、兄弟愛に満ちて生き、真の宗教を持つ自然人なのだという。
この「日本人」はファン・ゴッホの理想にほかならない。ファン・ゴッホは未知の「日本人」という核の周りに、自らの理想のすべてを結晶させて行った。そして、そのなかでも「真の宗教を持つ自然人」こそ、おそらく彼が最も切望した理想であった。
現実世界のどこにも居場所を見つけられなかった彼の宗教的情熱は、理想上の「日本」のなかに、そして、フランスの「日本」にあたるアルルと、そこにある黄色い家に、ついにその居場所を獲得するかに思われた。
《ムスメの肖像》 1888年7月(アルル)、油彩・カンヴァス、74×60cm
口もとをとがらせた少女
ロチは『お菊さん』で、「ムスメ」という日本語を次のように説明している。「ムスメとは少女またはとても若い女を指す言葉である。それは日本語のなかでもっとも綺麗な言葉のひとつで、この言葉にはmoue(ム)(彼女らがするような、おどけたような可愛い、小さなmoue[口をとがらせること])や、それから特にfrimousse(フリムス)(彼女らの顔のような愛嬌のある顔つき)といった含みがあるように思われる」。
なぜ日本のムスメにこのような特徴があるとされたのかは不明だが、『お菊さん』を読んだファン・ゴッホは、早速、アルルの少女の風貌を日本の「ムスメ」に変えて描いている。ロチの説明を鵜呑みにしたせいか、口もとがらせている。
ロチは『お菊さん』で、「ムスメ」という日本語を次のように説明している。「ムスメとは少女またはとても若い女を指す言葉である。それは日本語のなかでもっとも綺麗な言葉のひとつで、この言葉にはmoue(ム)(彼女らがするような、おどけたような可愛い、小さなmoue[口をとがらせること])や、それから特にfrimousse(フリムス)(彼女らの顔のような愛嬌のある顔つき)といった含みがあるように思われる」。
なぜ日本のムスメにこのような特徴があるとされたのかは不明だが、『お菊さん』を読んだファン・ゴッホは、早速、アルルの少女の風貌を日本の「ムスメ」に変えて描いている。ロチの説明を鵜呑みにしたせいか、口もとがらせている。
《坊主(ボンズ)としての自画像》 1888年9月(アルル)、油彩・カンヴァス、62×52cm
「真の宗教人」を描く
ゴーガンから自画像を受け取ったファン・ゴッホは、「印象主義者たち」の象徴として描いたという自画像に感銘を受け、返礼として描く自らの自画像にも何かを象徴させようとする。そして、自身を日本人の僧侶として描いた。目は「日本人風につり上げ」、頭も丸めて描き、その背景の緑には円光のようにタッチを並べた。ロチの『お菊さん』の挿絵をモデルにしたのだろうが、この小説において、僧侶はさほど重要人物ではない。画家ムッシュ・シュークルやほかの重要な登場人物ではなく、なぜ僧侶を選びだしたのか。
ファン・ゴッホは自身を日本人として描くことで、自分の理想的肖像を描いたのである。そして、彼が「日本」の周りに結晶化したあらゆる理想のなかで、特に重要視していたのが「真の宗教」を実践することだった。ここに描かれた奇妙な顔の人物は、ファン・ゴッホでも、日本の僧侶でもない。ファン・ゴッホがこうありたいと切望した理想の人物、「自然のなかに生きる真の宗教人」にほかならない。
ゴーガンから自画像を受け取ったファン・ゴッホは、「印象主義者たち」の象徴として描いたという自画像に感銘を受け、返礼として描く自らの自画像にも何かを象徴させようとする。そして、自身を日本人の僧侶として描いた。目は「日本人風につり上げ」、頭も丸めて描き、その背景の緑には円光のようにタッチを並べた。ロチの『お菊さん』の挿絵をモデルにしたのだろうが、この小説において、僧侶はさほど重要人物ではない。画家ムッシュ・シュークルやほかの重要な登場人物ではなく、なぜ僧侶を選びだしたのか。
ファン・ゴッホは自身を日本人として描くことで、自分の理想的肖像を描いたのである。そして、彼が「日本」の周りに結晶化したあらゆる理想のなかで、特に重要視していたのが「真の宗教」を実践することだった。ここに描かれた奇妙な顔の人物は、ファン・ゴッホでも、日本の僧侶でもない。ファン・ゴッホがこうありたいと切望した理想の人物、「自然のなかに生きる真の宗教人」にほかならない。
◆ユートピアの崩壊
「耳切り事件」とゴーガンとの別れ
1888年10月、ゴーガンがアルルにやって来た。しかし、個性の強い二人の芸術家の生活は長くは続かない。12月、精神病の発作を起こしたらしいファン・ゴッホはゴーガンを剃刀(かみそり)で襲おうとする。睨み返されて引き下がり、自身の耳の一部を切り取ってなじみの娼婦に届けたという。
ファン・ゴッホは入院を余儀なくされ、ゴーガンはアルルをあとにした。ファン・ゴッホの日本の夢、ユートピアはあっさりと瓦解する。
「耳切り事件」以後、ファン・ゴッホはアルルに芸術家の共同体を作る計画を諦めたわけではない。ゴーガンの手紙からは、ファン・ゴッホがまだやり直そうとしていたことがうかがえるし、自分がゴーガンのいるブルターニュ地方に出向いていく提案もしていたらしい。しかし、夢は実現しなかった。
南仏に芸術家のアトリエを築くこと。「日本」に住み「日本人」のようになること。それは、ファン・ゴッホが生涯に見た最も大きな、そして最も子どもじみた夢であった。なぜこんなに途方もない夢を描くことになったのかは、よくわからない。たしかに南仏には、北から来た者に現実を忘れさせ、白昼夢を見させてしまう魔力がある。また、当時の日本はヨーロッパにとってはまだ未知の、理想化できる遠い国ではあった。それにしても南仏の「ユートピア」構想は理想というよりは、妄想に近かった。
ただ、確かなことは、この子どもじみた夢が、ファン・ゴッホという画家の最も幸福で、最も多産な時代をつくり出したということである。
「耳切り事件」とゴーガンとの別れ
1888年10月、ゴーガンがアルルにやって来た。しかし、個性の強い二人の芸術家の生活は長くは続かない。12月、精神病の発作を起こしたらしいファン・ゴッホはゴーガンを剃刀(かみそり)で襲おうとする。睨み返されて引き下がり、自身の耳の一部を切り取ってなじみの娼婦に届けたという。
ファン・ゴッホは入院を余儀なくされ、ゴーガンはアルルをあとにした。ファン・ゴッホの日本の夢、ユートピアはあっさりと瓦解する。
「耳切り事件」以後、ファン・ゴッホはアルルに芸術家の共同体を作る計画を諦めたわけではない。ゴーガンの手紙からは、ファン・ゴッホがまだやり直そうとしていたことがうかがえるし、自分がゴーガンのいるブルターニュ地方に出向いていく提案もしていたらしい。しかし、夢は実現しなかった。
南仏に芸術家のアトリエを築くこと。「日本」に住み「日本人」のようになること。それは、ファン・ゴッホが生涯に見た最も大きな、そして最も子どもじみた夢であった。なぜこんなに途方もない夢を描くことになったのかは、よくわからない。たしかに南仏には、北から来た者に現実を忘れさせ、白昼夢を見させてしまう魔力がある。また、当時の日本はヨーロッパにとってはまだ未知の、理想化できる遠い国ではあった。それにしても南仏の「ユートピア」構想は理想というよりは、妄想に近かった。
ただ、確かなことは、この子どもじみた夢が、ファン・ゴッホという画家の最も幸福で、最も多産な時代をつくり出したということである。
《包帯をした自画像》 1889年1月(アルル)、油彩・カンヴァス、60×49cm
夢破れたあとの自画像
「耳切り事件」のあと、病院で治療を受け、精神病の発作もおさまった頃に描かれた自画像。ファン・ゴッホは耳に包帯をし、帽子を被り、厚いコートを着込んでいる。あたかも崩れそうな自己をつなぎとめるべく完全武装しているかのようにも見える。顔の左側には白っぽいカンヴァス、右側には浮世絵が描かれている。背景の浮世絵はファン・ゴッホがアルルで実現できなかった世界を暗示しているのだろうか。来歴の不確かさに、筆触に力強さがないことも手伝って、長年専門家の間では贋作説がささやかれてきたが、現在のところほぼ真作視されている。
「耳切り事件」のあと、病院で治療を受け、精神病の発作もおさまった頃に描かれた自画像。ファン・ゴッホは耳に包帯をし、帽子を被り、厚いコートを着込んでいる。あたかも崩れそうな自己をつなぎとめるべく完全武装しているかのようにも見える。顔の左側には白っぽいカンヴァス、右側には浮世絵が描かれている。背景の浮世絵はファン・ゴッホがアルルで実現できなかった世界を暗示しているのだろうか。来歴の不確かさに、筆触に力強さがないことも手伝って、長年専門家の間では贋作説がささやかれてきたが、現在のところほぼ真作視されている。