今日、村上春樹のエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』(07)を読み終えました。(再)
この作品について、「前書き 選択事項(オプショナル)としての苦しみ」及び「後書き 世界中の路上で」から抜粋して引用します。(太字は引用者)
この作品について、「前書き 選択事項(オプショナル)としての苦しみ」及び「後書き 世界中の路上で」から抜粋して引用します。(太字は引用者)
走ることについて本を1冊書いてみようと思いたったのは、かれこれ10年以上前のことだが、それからああでもない、こうでもないと思い悩みつつ、執筆に手をつけることなく歳月をやり過ごしてきた。「走ること」とひと口に言っても、あまりにもテーマが漠然としていて、いったい何をどのように書けばいいのか、考えがなかなかまとまらなかったのだ。
でもある時ふと「自分の感じていること、考えていることを、頭からそのまま素直に、僕なりの文章にしてみよう。とにかくそこから始めるしかあるまい」と思い立ち、2005年の夏から書き下ろしのかたちでぼちぼちと書き始め、2006年の秋に書き終えた。一部に過去に書いた文章を引用しているが、ほとんど僕の「今の気持ち」をそのまま書き記した。走ることについて正直に書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことでもあった。途中からそれに気がついた。だからこの本を、ランニングという行為を軸にした一種の「メモワール」として読んでいただいてもさしつかえないと思う。(「前書き」より)
僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかりを小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。小説家がどこまで小説そのものに固執し、どれくらいの肉声を公にするべきかという基準は、個人によって違ってくるだろうし、一概には決めつけられない。僕としては、できることならこの本を書くことを通して、僕自身にとってのその基準のようなものを見いだすことができればという希望があった。そのあたりがうまくいったかどうか、僕にもまだあまり自信はない。でも書き終えた時点で、長く背負っていたものをすっと下に降ろすことができた、というささやかな感触のようなものがあった。たぶんこういうものを書くには、ちょうど良い人生の頃合いだったのだろう。(「後書き」より)
※この本のタイトルは、著者が敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーの短編集のタイトル『What We Talk About When We Talk About Love(愛について語るときに我々の語ること)』を原型として使用しています。でもある時ふと「自分の感じていること、考えていることを、頭からそのまま素直に、僕なりの文章にしてみよう。とにかくそこから始めるしかあるまい」と思い立ち、2005年の夏から書き下ろしのかたちでぼちぼちと書き始め、2006年の秋に書き終えた。一部に過去に書いた文章を引用しているが、ほとんど僕の「今の気持ち」をそのまま書き記した。走ることについて正直に書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことでもあった。途中からそれに気がついた。だからこの本を、ランニングという行為を軸にした一種の「メモワール」として読んでいただいてもさしつかえないと思う。(「前書き」より)
僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかりを小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。小説家がどこまで小説そのものに固執し、どれくらいの肉声を公にするべきかという基準は、個人によって違ってくるだろうし、一概には決めつけられない。僕としては、できることならこの本を書くことを通して、僕自身にとってのその基準のようなものを見いだすことができればという希望があった。そのあたりがうまくいったかどうか、僕にもまだあまり自信はない。でも書き終えた時点で、長く背負っていたものをすっと下に降ろすことができた、というささやかな感触のようなものがあった。たぶんこういうものを書くには、ちょうど良い人生の頃合いだったのだろう。(「後書き」より)
【感想等】
以下、気になった文章を引用し、簡単な感想を添えようと思います。(太字は引用者)
以下、気になった文章を引用し、簡単な感想を添えようと思います。(太字は引用者)
第1章 2005年8月5日 ハワイ州カウアイ島 誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?
我慢強く距離を積み上げていく時期なので、今のところタイムはさほど問題にはならない。ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。アーネスト・ヘミングウェイもたしか似たようなことを書いていた。継続すること――リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。(P17-18)
※現在、体力向上と健康維持のために週3回泳いでますが、「継続」について言及した太字部分は私の大きな支えになっています。第2章 2005年8月14日 ハワイ州カウアイ島 人はどのようにして走る小説家になるのか
個人的なことを言わせていただければ、僕は「今日は走りたくないなあ」と思ったときには、常に自分にこう問いかけるようにしている。おまえはいちおう小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、退屈な会議に出る必要もない。それは幸運なことだと思わないか?(思う)。それに比べたら、近所を一時間走るくらい、なんでもないことじゃないか。満員電車と会議の光景を思い浮かべると、僕はもう一度自らの意思を鼓舞し、ランニング・シューズの紐を結び直し、比較的すんなりと走り出すことができる。「そうだな、これくらいはやらなくちゃバチがあたるよな」と思って。もちろん一日に平均一時間走るよりは、混んだ通勤電車に乗って会議に出た方がまだましだよ、という人が数多くおられることは承知の上で申し上げているわけだが。(P73-74)
※この文章を読んで、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』の一節を思い出しました。以下、第5巻の一部を引用します。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、ローマ帝国の五賢帝の一人(在位161-180)で、ストア哲学者としても知られています。 一 明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果すために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない。」それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。
結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったらば君はきっと自己の(内なる)自然とその意志を愛したであろう。ほかの人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫(ひだぼり)師が彫金を、舞踊家が舞踊を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。右にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗(はかど)らせようとする。しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれよりも価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか。(マルクス・アウレーリウス『自省録』〈神谷美恵子訳・岩波文庫〉より)
※大学時代、ギリシア語の授業で教わった一節です。以来、自分自身を叱咤激励する言葉として、常に念頭においてきました。しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果すために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない。」それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。
結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったらば君はきっと自己の(内なる)自然とその意志を愛したであろう。ほかの人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫(ひだぼり)師が彫金を、舞踊家が舞踊を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。右にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗(はかど)らせようとする。しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれよりも価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか。(マルクス・アウレーリウス『自省録』〈神谷美恵子訳・岩波文庫〉より)
第3章 2005年9月1日 ハワイ州カウアイ島 真夏のアテネで最初の42キロを走る
8月がそのように手を振りながら去って(手を振っているように見えた)9月に入ると、練習のスタイルが一変する。これまでの3カ月は「とにかく距離を積み上げていこう」ということで、むずかしいことは考えず、徐々にペースを上げながら日々ひたすらに走ってきた。総合的な体力の土台造りをしてきたわけだ。スタミナをつけ、各部の筋力をアップし、肉体的にも心理的にもはずみをつけ、志気を高めていく。そこでの重要なタスクは、「これくらい走るのが当たり前のことなんだよ」と身体に申し渡すことだ。「申し渡す」というのはもちろん比喩的表現であって、いくら言葉で言いつけたところで、身体は簡単に言うこと聞いてくれない。身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する。その結果、与えられた運動量を進んで(とは言えないかもしれないが)受容するようになる。そのあとで我々は、運動量の上限を少しずつ上げていく。少しずつ、少しずつ。身体がパンクしない程度に。(P79)
※「これくらい走るのが当たり前のことなんだよ」と身体に申し渡す。この考え方、とても参考になります。第4章 2005年9月19日 東京 僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた
たとえ絶対的な練習量は落としても、休みは2日続けないというのが、走り込み期間における基本的ルールだ。筋肉は覚えの良い使役動物に似ている。注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。もちろん時間はかかる。無理にこきつかえば故障してしまう。しかし時間さえかけてやれば、そして段階的にものごとを進めていけば、文句も言わず(ときどきむずかしい顔はするが)、我慢強く、それなりに従順に強度を高めていく。「これだけの作業をこなさなくちゃいけないんだ」という記憶が、反復によって筋肉にインプットされていくわけだ。我々の筋肉はずいぶん律義なパーソナリティーの持ち主なのだ。こちらが正しい手順さえ踏めば、文句は言わない。
しかし負荷が何日か続けてかからないでいると、「あれ、もうあそこまでがんばる必要はなくなったんだな。あーよかった」と自動的に筋肉は判断して、限界値を落としていく。筋肉だって生身の動物と同じで、できれば楽をして暮らしたいと思っているから、負荷が与えられなくなれば、安心して記憶を解除していく。そしていったん解除された記憶をインプットしなおすには、もう一度同じ行程を頭から繰り返さなくてはならない。もちろん息抜きは必要だ。しかしレースを目前に控えたこの重要な時期には、筋肉に対してしっかりと引導を渡しておく必要がある。「これは生半可なことじゃないんだからな」という曇りのないメッセージを相手に伝えておかなくてはならない。パンクしない程度に、しかし容赦のない緊張関係を維持しておかなくてはならない。このへんの駆け引きは、経験を積んだランナーならみんな自然に心得ている。(P108-109)
※「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。第3章で引用した文章と同じ趣旨ですが、「意識」が「肉体」をコントロールする、ということだと思います。難しいことだとは思いますが、そういうことを目標にして水泳を続けようと思います。しかし負荷が何日か続けてかからないでいると、「あれ、もうあそこまでがんばる必要はなくなったんだな。あーよかった」と自動的に筋肉は判断して、限界値を落としていく。筋肉だって生身の動物と同じで、できれば楽をして暮らしたいと思っているから、負荷が与えられなくなれば、安心して記憶を解除していく。そしていったん解除された記憶をインプットしなおすには、もう一度同じ行程を頭から繰り返さなくてはならない。もちろん息抜きは必要だ。しかしレースを目前に控えたこの重要な時期には、筋肉に対してしっかりと引導を渡しておく必要がある。「これは生半可なことじゃないんだからな」という曇りのないメッセージを相手に伝えておかなくてはならない。パンクしない程度に、しかし容赦のない緊張関係を維持しておかなくてはならない。このへんの駆け引きは、経験を積んだランナーならみんな自然に心得ている。(P108-109)
これだけのものごとを、わずかな期間に順序よく処理する。そしてなおかつ、ニューヨークのレースのための走り込みを続けなくてはならない。追加人格まで駆り出したいくらいのものだ。しかし何はともあれ走り続ける。日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら。間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。(P110-111)
※走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはある。やらないための理由をあげつらうより、やる理由をとことん追求する。この考え方、好きです。 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか? どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか? どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか? どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか? どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか? もし僕が小説家になったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか? そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。
(中略)
世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ10年でも、ぼんやりと生きる10年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる10年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。(P122-123)
※「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。体力向上と健康維持について、自分はもうこれでいいと思った時点で、それらは後退してしまうように思います。(中略)
世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ10年でも、ぼんやりと生きる10年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる10年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。(P122-123)
東京の事務所の近所にあるジムに行って、筋肉ストレッチをしてもらう。これは他力ストレッチというか、自分一人では有効にやれない部分のストレッチを、トレーナーの助けを借りてやるわけだ。長くきついトレーニングのおかげで、身体じゅうの筋肉がぱんぱんに張っているので、これをたまにやっておかないと、レースの前に身体がパンクしてしまうかもしれない。身体を限界まで追いつめるのは大事だが、限界を超えると元も子もなくしてしまうことになる。
ストレッチをしてくれるトレーナーは若い女性だが力は強い。つまり彼女の与えてくれる「他力」はかなりの――というか強烈な――痛みを伴うということだ。半時間のストレッチが終わると、下着まで汗でぐしょぐしょになってしまうくらいだ。「よくもまあ、ここまで筋肉をこちこちに張らせましたねえ。痙攣寸前ですよ」と彼女はいつも感心してくれる。「普通の人ならずっと前にどうにかなってますね。まったくこんな状態で、よく普通の生活が送れるもんだなあ」(P124)
※筋肉ストレッチをしてもらう若い女性トレーナー → 『1Q84』(2009-10)の主人公・青豆雅美ストレッチをしてくれるトレーナーは若い女性だが力は強い。つまり彼女の与えてくれる「他力」はかなりの――というか強烈な――痛みを伴うということだ。半時間のストレッチが終わると、下着まで汗でぐしょぐしょになってしまうくらいだ。「よくもまあ、ここまで筋肉をこちこちに張らせましたねえ。痙攣寸前ですよ」と彼女はいつも感心してくれる。「普通の人ならずっと前にどうにかなってますね。まったくこんな状態で、よく普通の生活が送れるもんだなあ」(P124)
第6章 1996年6月23日 北海道サロマ湖 もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった
フル・マラソンを走っていると最後のころには、一刻も早くゴールインして、とにかくこのレースを走り終えてしまいたいという気持ちで頭がいっぱいになる。ほかのことは何も考えられなくなる。でもそのときには、そんなことはちらりとも思わなかった。終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ。そういう気がした。かなり哲学的だ。でもそのときにはそれが哲学的だなんてちっとも思わなかった。言葉ではなく、ただ身体を通した実感として、いわば包括的にそう感じただけだ。(P171)
※レースにゴールはあっても、人生にゴールはない。だから、私たちはずっと走り続けなければならない? 途中歩いたり、休憩するのも大事だと思います。第7章 2005年10月30日 マサチューセッツ州ケンブリッジ ニューヨークの秋
もうひとつ、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の翻訳も順調に進んでいる。第一稿は既に仕上がり、それに細かく手を加えて第二稿を作っているところだ。一行一行丁寧に見直して、手を加えていくと、翻訳がだんだん滑らかになり、フィッツジェラルドの文章の本来の持ち味が、より自然に日本語に置き換えられていくのがわかる。今更あらためて僕がこんなことを言うのも気が引けるのだが、これは本当に見事な小説だ。何度読み直しても、読み飽きることがない。文学としての深い滋養にあふれている。読むたびに何かしらの新しい発見があり、新たに強く感じ入るところがある。弱冠29歳の作家に、どうしてここまで鋭く、公正に、そして心温かく世界の実相を読みとることができたのだろう? どうしてそんなことが可能だったのだろう。考えれば考えるほど、読み込めば読み込むほど、それが不思議でならない。(P193)
※著者は『グレート・ギャツビー』を絶賛していますが、以前読んだ時には共感することができませんでした。近いうちに再読しようと思います。第9章 2006年10月1日 新潟県村上市 少なくとも最後まで歩かなかった
個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な――どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な――教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。
もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949 - 20**
少なくとも最後まで歩かなかった
今のところ、それが僕の望んでいることだ。(P 253-254)
※レース中、歩くのはダメなんだ。途中歩いても、休憩しても、ゴールできればいいように思いますが。もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949 - 20**
少なくとも最後まで歩かなかった
今のところ、それが僕の望んでいることだ。(P 253-254)