単行本はかなり年季が入っているので、今回文庫本を買って読みました。なお、単行本にあった数葉の写真が文庫本ではカットされていました。
今日、村上春樹の旅行記『遠い太鼓』(1990)を読み終えました。(再)
この作品について、「文庫本のためのあとがき」から抜粋して引用します。(一部改編)
この作品について、「文庫本のためのあとがき」から抜粋して引用します。(一部改編)
この『遠い太鼓』という本は、僕が1986年から1989年までの約3年間ヨーロッパに住んだときの記録です。日本を出て長期的に外国に住んだのはこれが初めてだったし、いま読みなおしてみるとそういう興奮のようなものが文章ぜんたいに滲み出ているように感じられます。気負いみたいなものも少しはあるかもしれません。
もしこの本を読んで、長い旅行に出てみたい、この筆者がその目でいろんなものを見たように、自分は自分の目でいろんなものを見てみたいと思われた方がおられたとしたら、それは著者にとっては大きな喜びです。旅行というのはだいたいにおいて疲れるものです。でも疲れることによって初めて身につく知識もあるのです。くたびれることによって初めて得ることのできる喜びもあるのです。これが僕が旅行を続けることによって得た真実です。
※この旅行中、著者は2冊の長編小説を書き上げています。『ノルウェイの森』(87)と、『ダンス・ダンス・ダンス』(88)です。もしこの本を読んで、長い旅行に出てみたい、この筆者がその目でいろんなものを見たように、自分は自分の目でいろんなものを見てみたいと思われた方がおられたとしたら、それは著者にとっては大きな喜びです。旅行というのはだいたいにおいて疲れるものです。でも疲れることによって初めて身につく知識もあるのです。くたびれることによって初めて得ることのできる喜びもあるのです。これが僕が旅行を続けることによって得た真実です。
【感想等】
以下、気になった文章を引用し、簡単な感想を添えようと思います。(一部改編、太字は引用者)
以下、気になった文章を引用し、簡単な感想を添えようと思います。(一部改編、太字は引用者)
遠い太鼓――はじめに
でも僕はこう思っていた。40歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。試してはみたけれどやはり気に入らないので、もう一度以前の状態に復帰します、ということはできない。それは前にしか進まない歯車なのだ。僕は漠然とそう感じていた。(P16)
※人生のある時点において、私たちは残された時間の有限性を意識せざるを得なくなります。その時、これからの自分にとって何が可能か、あるいは何が必要かということを見極めなければなりません。それがその後の人生をいかに善く生きるか、ということに繋がるのだと思います。 自分の目で見たものを、自分の目で見たように書く――それが基本的な姿勢である。自分の感じたことをなるべくそのままに書くことである。安易な感動や、一般論化(ジェネラライゼーション)を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルにものを書くこと。様々に移り変わっていく情景の中で自分をなんとか相対化しつづけること。(P22)
※私も自分が見たもの、感じたものをそのままに書けるようになりたいと思います。写真+紀行文、をこのブログで始められたらなと思っています。ローマ
アテネ
スペッツェス島
ミコノス
シシリーからローマに
(引用者注:1987年1月、シシリー島パレルモ)そんな街に一ヵ月住んだ。そしてそのあいだずっと『ノルウェイの森』を書いていた。その小説のだいたい六合目くらいまではここで書いた。ミコノスとは違って、日が暮れてもちょっと外に散歩に出るということができなくて、それが辛いといえば辛かった。さて気分転換をと思っても、それができない。そこで二回ばかりパレルモを離れて小旅行に出た。一度はタオルミナに、もう一度はマルタ島に行った。そしてパレルモに帰ってくると、また部屋にこもって仕事をした。
毎日小説を書き続けるのは辛かった。ときどき自分の骨を削り、筋肉を食いつぶしているような気さえした(それほど大層な小説ではないじゃないかとおっしゃるかもしれない。でも書く方にしてみればそれが実感なのだ)。それでも書かないでいるのはもっと辛かった。文章を書くことは難しい。でも、文章の方は書かれることを求めている。そういうときにいちばん大事なものは集中力である。その世界に自分を放り込むための集中力、そしてその集中力をできるだけ長く持続させる力である。そうすれば、ある時点でその辛さはふっと克服できる。それから自分を信じること。自分にはこれをきちんと完成させる力があるんだと信じること。
毎日毎日、頭が慢性的にぼんやりとしていた。ふと気がつくとときどき頭に血がのぼったようになっていて、意識がふらふらした。脳味噌がスチームをかけられたみたいにふやけていた。それは小説を書くことに頭が集中していたせいもあった。あまり集中しすぎると、頭が酸欠みたいな感じになることがある。でもそれだけではない。パレルモの冬はいささか温かすぎた。一月だというのに、パレルモの街はもわっと生温かかった。昼間外に出るときは半袖でもいいくらいだった。半袖とはいかない日でも、セーターを着るということはあまりなかった。あたりには美しいアーモンドの花が咲き、公園の椰子の木の葉はアフリカから吹いてくる生温かい南風に揺れていた。道ばたの屋台の花売りはネコヤナギの枝を売っていた。寒風吹きすさぶミコノスから来ると、まるで楽園のような気候である。でも残念ながら僕の仕事にとってはこれは理想的な気候とはいえない。ときどき頭がぼおっとしてしまう。春が温かいのはかまわない。夏が暑いのもかまわない。秋が涼しいのもかまわない。そういう気候にはそういう気候なりの必然性があるし、余程のことがないかぎり僕はどの季節にもきちんと仕事ができる。だけれどパレルモの冬の温かさだけはもう勘弁してほしいと思う。あれはなんだか自動車のエアコンが故障して見当違いな温風がびゅうびゅうと吹き出していて、どうすればそれを止められるのかわからないでいるときのような、ちょっと困った温かさだ。温かさを求めてここに来たようなものなのだから、文句をつける筋合いはないのだが、冬は寒いものなんだから寒くていいのだ。と僕はそのときつくづく思った。(P209-211)
※『ノルウェイの森』執筆中の著者の苦労や苦悩が伝わってきます。毎日小説を書き続けるのは辛かった。ときどき自分の骨を削り、筋肉を食いつぶしているような気さえした(それほど大層な小説ではないじゃないかとおっしゃるかもしれない。でも書く方にしてみればそれが実感なのだ)。それでも書かないでいるのはもっと辛かった。文章を書くことは難しい。でも、文章の方は書かれることを求めている。そういうときにいちばん大事なものは集中力である。その世界に自分を放り込むための集中力、そしてその集中力をできるだけ長く持続させる力である。そうすれば、ある時点でその辛さはふっと克服できる。それから自分を信じること。自分にはこれをきちんと完成させる力があるんだと信じること。
毎日毎日、頭が慢性的にぼんやりとしていた。ふと気がつくとときどき頭に血がのぼったようになっていて、意識がふらふらした。脳味噌がスチームをかけられたみたいにふやけていた。それは小説を書くことに頭が集中していたせいもあった。あまり集中しすぎると、頭が酸欠みたいな感じになることがある。でもそれだけではない。パレルモの冬はいささか温かすぎた。一月だというのに、パレルモの街はもわっと生温かかった。昼間外に出るときは半袖でもいいくらいだった。半袖とはいかない日でも、セーターを着るということはあまりなかった。あたりには美しいアーモンドの花が咲き、公園の椰子の木の葉はアフリカから吹いてくる生温かい南風に揺れていた。道ばたの屋台の花売りはネコヤナギの枝を売っていた。寒風吹きすさぶミコノスから来ると、まるで楽園のような気候である。でも残念ながら僕の仕事にとってはこれは理想的な気候とはいえない。ときどき頭がぼおっとしてしまう。春が温かいのはかまわない。夏が暑いのもかまわない。秋が涼しいのもかまわない。そういう気候にはそういう気候なりの必然性があるし、余程のことがないかぎり僕はどの季節にもきちんと仕事ができる。だけれどパレルモの冬の温かさだけはもう勘弁してほしいと思う。あれはなんだか自動車のエアコンが故障して見当違いな温風がびゅうびゅうと吹き出していて、どうすればそれを止められるのかわからないでいるときのような、ちょっと困った温かさだ。温かさを求めてここに来たようなものなのだから、文句をつける筋合いはないのだが、冬は寒いものなんだから寒くていいのだ。と僕はそのときつくづく思った。(P209-211)
ローマ
(引用者注:1987年)小説の第一稿は3月7日に完成した。3月7日は冷え込んだ土曜日だった。ローマ人は3月のことを気遣いの月と言う。天候の変化や温度の変化がでたらめで急激なのである。前日はぽかぽかと春のようだったのに、一晩でまた真冬に逆戻りというところだ。この日は朝の5時半に起きて、庭を軽く走り、それから休みなしに17時間書き続けた。真夜中前に小説は完成した。日記を見るとさすがに疲れていたようで、ひとこと「すごく良い」と書いてあるだけだ。
講談社の出版部の木下陽子さんに電話をかけて、小説がいちおう完成したことを連絡すると、4月の初めにボローニャで絵本の見本市があって、講談社の国際室の人が行くので、そこで原稿を直接手渡してもらえるとありがたいのだがということであった。なかなか面白い小説になったと思うよ、と僕が言うと、「えー、900枚もあるの? 本当に面白いんですか?」と疑わしそうに言う。けっこう猜疑心の強い人なのである。
すぐに翌日から第二稿にとりかかる。ノートやらレターペーパーに書いた原稿を、あたまから全部あらためて書きなおしていくのだ。400字詰めにして900枚分の原稿をボールペンですっかり書きなおすというのは、自慢するわけではないけれど、体力がないととてのできない作業だ。第二稿が完成したのが3月26日だった。ボローニャのブックフェアまでに仕上げなくてはと思ってものすごく急いでやったので、最後の頃には右腕が痺れてほとんど動かなくなってしまった。僕はありがたいことに肩がこらない体質だから、肩の方は大丈夫なのだけれど、腕がやられた。だから暇があると床でせっせと腕立て伏せをやっていた。長編小説を書くというのは、世間一般の人が思っているよりはずっと激しい肉体労働なのである。今ではワードプロセッサー導入のおかげでずいぶん楽になったけれど。
それからまた休む暇もなくその第二稿にもう一度細かい赤を入れる作業に移る。結局すっかり完成して、『ノルウェイの森』というタイトルがついたのは、ボローニャに行く2日前のことだった。(P239-240)
※これも『ノルウェイの森』執筆に関する著者の苦労が描かれています。作家がいかに苦労して創作しているか、心して読まないといけませんね。講談社の出版部の木下陽子さんに電話をかけて、小説がいちおう完成したことを連絡すると、4月の初めにボローニャで絵本の見本市があって、講談社の国際室の人が行くので、そこで原稿を直接手渡してもらえるとありがたいのだがということであった。なかなか面白い小説になったと思うよ、と僕が言うと、「えー、900枚もあるの? 本当に面白いんですか?」と疑わしそうに言う。けっこう猜疑心の強い人なのである。
すぐに翌日から第二稿にとりかかる。ノートやらレターペーパーに書いた原稿を、あたまから全部あらためて書きなおしていくのだ。400字詰めにして900枚分の原稿をボールペンですっかり書きなおすというのは、自慢するわけではないけれど、体力がないととてのできない作業だ。第二稿が完成したのが3月26日だった。ボローニャのブックフェアまでに仕上げなくてはと思ってものすごく急いでやったので、最後の頃には右腕が痺れてほとんど動かなくなってしまった。僕はありがたいことに肩がこらない体質だから、肩の方は大丈夫なのだけれど、腕がやられた。だから暇があると床でせっせと腕立て伏せをやっていた。長編小説を書くというのは、世間一般の人が思っているよりはずっと激しい肉体労働なのである。今ではワードプロセッサー導入のおかげでずいぶん楽になったけれど。
それからまた休む暇もなくその第二稿にもう一度細かい赤を入れる作業に移る。結局すっかり完成して、『ノルウェイの森』というタイトルがついたのは、ボローニャに行く2日前のことだった。(P239-240)
春のギリシャへ
1987年、夏から秋
ローマの冬
(引用者注:1987年)年も押し迫った12月17日から『ダンス・ダンス・ダンス』という長編小説を書き始める。長編小説を書くときはいつも同じパターンである。「書きたいな」というぼんやりとした気持ちが自分の中で少しずつ高まってきて、そしてある日「さあ、今日から書こう」ときっぱりと思う。僕の場合、細かい構成とか筋書きよりは、この臨界点の見極めを大事にする。
『ノルウェイの森』とは違って、『ダンス・ダンス・ダンス』の場合は書き始める前にまずはタイトルが決まった。このタイトルはビーチボーイズの曲から取ったと思われているようだが、本当の出所は(どちらでもいいようなものだけれど)ザ・デルズという黒人バンドの古い曲である。日本を出発する前に、家にある古いレコードをひっかき集めて自家製オールディーズ・テープを作っていったのだが、その中にこの曲がたまたま入っていた。いかにも昔風リズム・アンド・ブルースというタイプの曲である。のんびりとしていて、ざらっとした雑な感じで、その辺が不思議に黒っぽい。その曲をローマで毎日聴くともなくぼんやり聴いているうちに、タイトルにふとインスパイアされて書き始めたのだ。もちろんビーチボーイズにも同じ題の曲があることは知っていたけれど(高校生のときによく聴いた)、直接的な始まりはこのデルズの曲の方である。
この小説は始めから終わりまでだいたいすんなりと気持ち良く書けたと思う。『ノルウェイの森』は僕としてもそれまでに書いたことのないタイプの作品だったし、「この小説はいったいどういう風に受け入れられるんだろう」とあれこれ考えながら書いたのだけれど、この『ダンス・ダンス・ダンス』に関しては、そんなことはまったく考えずに、自分の書きたいようにのびのびと好きに書いた。隅から隅まで僕自身のスタイルの文章だし、登場してくる人物も『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と共通している。だから久しぶりに自分の庭に戻ってきたみたいで、凄く楽しかった。というか、書くという行為をこれほど素直に楽しんだことは、僕としても稀である。
でもそのあいだに、ローマの冬は急速に深まっていった。この年のローマの冬は、なんだか寒い日が多かった。家の中も冷えびえとしていた。備え付けの暖房機だけでは足りずに、石油ヒーターを買ってきたのだが、温かくなるのは器具の正面だけで、部屋全体は終始ひやっとしていた。湿気のこもったじめっとした嫌な寒さである。洗濯ものなんて二日干しても全然乾いてくれない。おまけにマウリツィオ・ポリーニのコンサートのチケットを買うために実に4時間も寒風の中を行列して、それで二人ともすっかり体調を崩してしまった。体が芯まで冷えきってしまったのだ。ローマのコンサートのチケットの売り方というのは、実に複雑怪奇かつ理不尽である。
(中略)
僕はあまりに寒いのでオーバーコートを着て机に向かい、ぱたぱたとワードプロセッサーのキイを叩きつづけた。シシリーで『ノルウェイの森』を書いたときとは正反対である。あのときは暖かくて暖かくて、机に向かいながら、頭がぼうっとしていた。今回は寒くて、ワードプロセッサーのキイを打ちそこねるくらいである。
もちろん暖かいよりは寒い方が、頭を使う作業には適している。しかしこの家でのローマの冬はいささか寒すぎた。夜は体を温めるためにブランディーをちびちびと飲んだ。そして寒さしのぎに毎日女房と温泉やらハワイやらの話をしていた。日本に帰ったらゆっくり温泉に行って、毎日朝から晩まで風呂につかって、それから1カ月くらいハワイに行く、と女房は宣言した。素敵だ。考えるだけで胸が踊る。でもそれはいいけれど、僕はまず小説をしあげなくてはならない。小説を一度書き始めたら、何があってもきちっと仕上げるまでは日本には帰れない。日本に帰ったら、またペースが乱されてしまう。なんとかここに踏みとどまって、仕事を済ませてしまわなくてはならないのだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』の中にハワイのシーンが出てくるのはそのせいである。僕は小説を書きながら、ハワイに行きたくて行きたくてしようがなかったのだ。だから一生懸命ハワイのことを想像しながら書いた。こんなだっけなあ、こういう感じだったよなあ、と思い出し思い出し、書いたのだ。そしてそういう風にハワイのシーンを書いていると、ほんの少しだけ暖かくなれたような気がした。熱帯の太陽の下に寝ころんでピナ・コラーダを飲んでいるような気持ちになれた。文章にもそういう具体的な効用があるのだ。まあ、ほんの一瞬のことではあるのだけれど。
日記によると、この時期にはドルが123円まで下落した。僕らは現金のほとんどをドルで持ってきていたので、これは正直なところかなりのショックだった。
それからあの大韓航空の爆破事件があった。(引用者注:1988年)2月にはまたふたり揃ってひどい風邪をひいた。咳と鼻水が何週間も止まらず、頭がぼうっとして、微熱がいつまでもとれなかった。でも不思議に仕事だけは順調に捗った。我々にとっては最初から最後まで本当にひどい冬だった。僕らの約3年間にわたるヨーロッパ滞在の中でも、この冬が最悪の時期だった。この年の冬に起こった良い事は、小説が完成したことだけだった。だから僕は『ダンス・ダンス・ダンス』という小説のことを思うたびに、ローマのあのマローネさんの寒い家のことを思い出す。そして、そうだそうだ家の中でオーバーコートを着てこの小説を書いたんだなあと思う。猫のジンと犬のマドーとポンテ・ミルヴィオの市場とポリーニのコンサートを思い出す。(P381-385)
※『ダンス・ダンス・ダンス』執筆中の著者の苦労が描かれています。この作品にはハワイのシーンが登場しますが、それは執筆中のローマの冬があまりにも寒かったので、この作品が完成したらハワイに行きたいという思いからだったそうです。『ノルウェイの森』とは違って、『ダンス・ダンス・ダンス』の場合は書き始める前にまずはタイトルが決まった。このタイトルはビーチボーイズの曲から取ったと思われているようだが、本当の出所は(どちらでもいいようなものだけれど)ザ・デルズという黒人バンドの古い曲である。日本を出発する前に、家にある古いレコードをひっかき集めて自家製オールディーズ・テープを作っていったのだが、その中にこの曲がたまたま入っていた。いかにも昔風リズム・アンド・ブルースというタイプの曲である。のんびりとしていて、ざらっとした雑な感じで、その辺が不思議に黒っぽい。その曲をローマで毎日聴くともなくぼんやり聴いているうちに、タイトルにふとインスパイアされて書き始めたのだ。もちろんビーチボーイズにも同じ題の曲があることは知っていたけれど(高校生のときによく聴いた)、直接的な始まりはこのデルズの曲の方である。
この小説は始めから終わりまでだいたいすんなりと気持ち良く書けたと思う。『ノルウェイの森』は僕としてもそれまでに書いたことのないタイプの作品だったし、「この小説はいったいどういう風に受け入れられるんだろう」とあれこれ考えながら書いたのだけれど、この『ダンス・ダンス・ダンス』に関しては、そんなことはまったく考えずに、自分の書きたいようにのびのびと好きに書いた。隅から隅まで僕自身のスタイルの文章だし、登場してくる人物も『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と共通している。だから久しぶりに自分の庭に戻ってきたみたいで、凄く楽しかった。というか、書くという行為をこれほど素直に楽しんだことは、僕としても稀である。
でもそのあいだに、ローマの冬は急速に深まっていった。この年のローマの冬は、なんだか寒い日が多かった。家の中も冷えびえとしていた。備え付けの暖房機だけでは足りずに、石油ヒーターを買ってきたのだが、温かくなるのは器具の正面だけで、部屋全体は終始ひやっとしていた。湿気のこもったじめっとした嫌な寒さである。洗濯ものなんて二日干しても全然乾いてくれない。おまけにマウリツィオ・ポリーニのコンサートのチケットを買うために実に4時間も寒風の中を行列して、それで二人ともすっかり体調を崩してしまった。体が芯まで冷えきってしまったのだ。ローマのコンサートのチケットの売り方というのは、実に複雑怪奇かつ理不尽である。
(中略)
僕はあまりに寒いのでオーバーコートを着て机に向かい、ぱたぱたとワードプロセッサーのキイを叩きつづけた。シシリーで『ノルウェイの森』を書いたときとは正反対である。あのときは暖かくて暖かくて、机に向かいながら、頭がぼうっとしていた。今回は寒くて、ワードプロセッサーのキイを打ちそこねるくらいである。
もちろん暖かいよりは寒い方が、頭を使う作業には適している。しかしこの家でのローマの冬はいささか寒すぎた。夜は体を温めるためにブランディーをちびちびと飲んだ。そして寒さしのぎに毎日女房と温泉やらハワイやらの話をしていた。日本に帰ったらゆっくり温泉に行って、毎日朝から晩まで風呂につかって、それから1カ月くらいハワイに行く、と女房は宣言した。素敵だ。考えるだけで胸が踊る。でもそれはいいけれど、僕はまず小説をしあげなくてはならない。小説を一度書き始めたら、何があってもきちっと仕上げるまでは日本には帰れない。日本に帰ったら、またペースが乱されてしまう。なんとかここに踏みとどまって、仕事を済ませてしまわなくてはならないのだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』の中にハワイのシーンが出てくるのはそのせいである。僕は小説を書きながら、ハワイに行きたくて行きたくてしようがなかったのだ。だから一生懸命ハワイのことを想像しながら書いた。こんなだっけなあ、こういう感じだったよなあ、と思い出し思い出し、書いたのだ。そしてそういう風にハワイのシーンを書いていると、ほんの少しだけ暖かくなれたような気がした。熱帯の太陽の下に寝ころんでピナ・コラーダを飲んでいるような気持ちになれた。文章にもそういう具体的な効用があるのだ。まあ、ほんの一瞬のことではあるのだけれど。
日記によると、この時期にはドルが123円まで下落した。僕らは現金のほとんどをドルで持ってきていたので、これは正直なところかなりのショックだった。
それからあの大韓航空の爆破事件があった。(引用者注:1988年)2月にはまたふたり揃ってひどい風邪をひいた。咳と鼻水が何週間も止まらず、頭がぼうっとして、微熱がいつまでもとれなかった。でも不思議に仕事だけは順調に捗った。我々にとっては最初から最後まで本当にひどい冬だった。僕らの約3年間にわたるヨーロッパ滞在の中でも、この冬が最悪の時期だった。この年の冬に起こった良い事は、小説が完成したことだけだった。だから僕は『ダンス・ダンス・ダンス』という小説のことを思うたびに、ローマのあのマローネさんの寒い家のことを思い出す。そして、そうだそうだ家の中でオーバーコートを着てこの小説を書いたんだなあと思う。猫のジンと犬のマドーとポンテ・ミルヴィオの市場とポリーニのコンサートを思い出す。(P381-385)
ロンドンに行ったのはいわば成り行きのようなものだった。ちょっとした事情があって女房がロンドン経由で日本にしばらく帰ることになったので、それを見送りがてら行ってみたのだ。ここには(引用者注:1988年)3月の初めから終わりまで、約1カ月間滞在したわけだが、僕はそのあいだほとんど誰とも話をせずに、ずっと部屋に籠もって仕事をしていた。長編小説を書いている時はだいたいいつもそうだけれど、誰かと話したいという気もとくには起きなかった。だから僕にとってのロンドンとは、あくまで孤独で寡黙な都市である。そういう印象が骨までしみついている。
(中略)
部屋は不動産屋をまわって探した。いくつか紹介してもらった部屋を回って、3つ目に見たのに決めた。(中略)3つ目はセント・ジョンズ・ウッドにあるステュディオ・タイプの部屋。狭いし、ベッドは折り畳んで壁に仕舞いこむタイプのものだが、場所がいいし、明るい。地下鉄の駅にも、リージェント公園にも近い。どうせ一人暮らしなんだから狭くてもいいやと思って、ここに決める。4階の65号室で、窓の外は例のアビーロードだ。
僕はこの部屋で『ダンス・ダンス・ダンス』という長編小説を書きあげた。ラジオ・カセットで音楽を聞き、窓の外のアビーロードを眺めながら、来る日も来る日もワープロのキイをぱたぱたと叩きつづけた。ここはすごく暖房のよくきいたアパートで、外ではみんなコートを着ているというのに、中ではTシャツとショート・パンツという格好でも、まだ汗ばむくらいであった。ときどき窓を開けて、アビーロードの上空に頭を突き出して冷やさなくてはならなかった。仕事に疲れると近所の書店で買ってきたジャック・ロンドンの『マーティン・イーデン』を読んだ。残酷なほど力強い本だ。パワフルな絶望。前向きな自滅。天気はだいたいいつも悪かった。3日に2日は曇っていたし、しょっちゅうぱらぱらと小雨が降っていた。悪い世界の到来を予告するような冷たい気の滅入る雨だった。いつ降り出したのかもわからないし、いつ降りやんだのかもわからない。いや、外を歩いていても、今雨が本当に降っているのかどうかさえ定かにはわからないのだ。ロンドンの雨だ。(P386-389)
※ここには、ロンドンでの『ダンス・ダンス・ダンス』執筆中の様子が描かれています。(中略)
部屋は不動産屋をまわって探した。いくつか紹介してもらった部屋を回って、3つ目に見たのに決めた。(中略)3つ目はセント・ジョンズ・ウッドにあるステュディオ・タイプの部屋。狭いし、ベッドは折り畳んで壁に仕舞いこむタイプのものだが、場所がいいし、明るい。地下鉄の駅にも、リージェント公園にも近い。どうせ一人暮らしなんだから狭くてもいいやと思って、ここに決める。4階の65号室で、窓の外は例のアビーロードだ。
僕はこの部屋で『ダンス・ダンス・ダンス』という長編小説を書きあげた。ラジオ・カセットで音楽を聞き、窓の外のアビーロードを眺めながら、来る日も来る日もワープロのキイをぱたぱたと叩きつづけた。ここはすごく暖房のよくきいたアパートで、外ではみんなコートを着ているというのに、中ではTシャツとショート・パンツという格好でも、まだ汗ばむくらいであった。ときどき窓を開けて、アビーロードの上空に頭を突き出して冷やさなくてはならなかった。仕事に疲れると近所の書店で買ってきたジャック・ロンドンの『マーティン・イーデン』を読んだ。残酷なほど力強い本だ。パワフルな絶望。前向きな自滅。天気はだいたいいつも悪かった。3日に2日は曇っていたし、しょっちゅうぱらぱらと小雨が降っていた。悪い世界の到来を予告するような冷たい気の滅入る雨だった。いつ降り出したのかもわからないし、いつ降りやんだのかもわからない。いや、外を歩いていても、今雨が本当に降っているのかどうかさえ定かにはわからないのだ。ロンドンの雨だ。(P386-389)
1988年、空白の年
すごく不思議なのだけれど、小説が10万部売れているときには、僕は多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも『ノルウェイの森』を百何十万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。そして自分が多くの人々に憎まれ嫌われているように感じた。どうしてだろう。表面的には何もかもがうまく行っているように見えたが、実際にはそれは僕にとっては精神的にいちばんきつい時期だった。いくつか嫌なこと、つまらないこともあったし、それでずいぶん気持ちも冷え込んでしまった。今になってふりかえってみればわかるのだけれど、結局のところ僕はそういう立場に立つことに向いていなかったのだろう。そういう性格でもないし、おそらくそういう器でもなかった。
その時期、僕は疲労し混乱し、女房は体を壊していた。文章を書こうという気持ちが湧いてこなかった。ハワイから帰って、夏のあいだずっと翻訳をやっていた。自分の文章が書けないときでも、翻訳はできる。他人の小説をこつこつと翻訳することは、僕にとっては一種の治癒行為であると言ってもいい。それが僕が翻訳する理由のひとつである。(P402)
※『ノルウェイの森』の成功とは裏腹に、著者は相当苦しんでいたのです。そんな時、アメリカ文学の翻訳が彼を救ったし、それが彼の優れた業績にもなりました。その時期、僕は疲労し混乱し、女房は体を壊していた。文章を書こうという気持ちが湧いてこなかった。ハワイから帰って、夏のあいだずっと翻訳をやっていた。自分の文章が書けないときでも、翻訳はできる。他人の小説をこつこつと翻訳することは、僕にとっては一種の治癒行為であると言ってもいい。それが僕が翻訳する理由のひとつである。(P402)
1989年、回復の年
暇にまかせてけっこう島の隅々まで回った。僕が気に入ったのはエプタ・ピゲス(七つの滝)というレストランである。この店はリンドスに行く道路を途中で右に曲がった山の中にある。これは実に不思議なレストランで、美しい渓流に沿ってテーブルが並んでいる。ウェイターは料理を持って岩から岩へとひょいひょいと飛び移って給仕する。グリル料理が売りもので、調理場の煙突からは肉や魚を焼く煙が元気よくたちのぼっている。なかなか良い匂いもする。それからここには孔雀がいっぱいいる。どうしてこんなところに孔雀が存在するのかはよくわからないけれど、とにかく1ダースくらいの数の孔雀の群れがしっかりと林に住み着いているのである。レイモンド・カーヴァーの短編小説に「羽根」というのがあって、そこに半分野生化した孔雀の話が出てくるのだけれど、ここに来て僕にもその話の雰囲気がよく理解できた。孔雀たちが枝にとまって、テーブルの客を見下ろしながら、その小説のままに「メイオー、メイオー!」とわめく。そういえばカーヴァー氏もロードスに来たことがある。彼はずいぶんこの島が気に入ったらしく、ロードスを題材にしていくつか詩も書いている。あるいは彼もこのエプタ・ピゲスに来て孔雀を見て、あの話を思いついたのかもしれない。ふとそんなことを考えてしまった。そんなこんなで料理の味がどうだったかはすっかり忘れてしまった。まあ悪くはなかったと思うけれど。(P439-440)
※レイモンド・カーヴァーの短編小説「羽根」は、彼の3冊目の短編集『大聖堂』(1983)に収録されています。「羽根」について、以下を参照してください。https://blogs.yahoo.co.jp/kazukazu560506i/folder/1602724.html
イタリアの幾つかの顔
オーストリア紀行
雨でずっとホテルに閉じ込められていたせいで、オーストリアではなんだか本ばかり読んでいた。持参した岩波文庫の『モンテ・クリスト伯』全7巻を全部読んでしまったので、シュラドミンクという小さな町の小さな本屋でハメットの『マルタの鷹』を買って(この本屋には、僕が読んでもいいという気になれる英語の本はこれくらいしかなかった)実に久し振りに再読した。それを読み終えてからはトム・ウルフの『ボンファイア・オブ・ザ・バニティー(虚栄のかがり火)』を読んだ(これはミュンヘンの本屋で買った)。アルプスを越えて、村の旅館に泊まって、ビールを飲んで、シュニッツェルを食べて、窓の外に降りしきる雨を眺め、牛の首についた鈴がちりんちりんと鳴るのを聞きながら、そのトム・ウルフの面白くはあるけれどいささか大仰な小説を読む(なんでこんなに大仰に感じてしまうのかよくわからないが、でもまあ面白い)という繰り返しの毎日であった。(P532-533)
※著者は、アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』やダシール・ハメット『マルタの鷹』、トム・ウルフ『虚栄のかがり火』をかなりの速さで読んでいます。しかも、『マルタの鷹』と『虚栄のかがり火』は英語版で。相当の集中力と速読術の持ち主なんだなあと感心しました。 旅行にトラブルはつきものである。考えてみればろくに事情もわからず、知り合いもいず、言葉も満足に通じない見ず知らずの土地をうろうろ移動しているのだから、トラブルがない方がおかしい。それが嫌なら旅行なんか行かずに家でじっとして貸しビデオでも見ていればいいのだ――これは理屈である。理屈であり正論である。でも実際に自分の身にトラブルが起こってみると、そう簡単には開き直れないものである。理屈とか正論というのはあっという間にどこかに飛び去って、遠い背後の風景と化してしまう。そんなものはもうなんの役にも立たない。あとには不条理な現実に脅かされ、不確実な未来に直面している傷つきやすい自我がただぽつんと残されているのみである。
(中略)
トラブルが発生したのは8月6日の日曜日の午前10時前だった。我々はドイツの南端にあるオーバアメルガウという町を朝の9時に出て、森の中の小さな国境を越え(警備員がひとりいて、車の書類をチェックするだけ)、オーストリアに入った。オーストリアに入ると、例によって雲ゆきがおかしくなってきた。いつ雨が振りだしてもおかしくないような空模様だった。オーバアメルガウからロイッテというオーストリアの町までは全長35キロほどのとても綺麗な山道である。別名チロル街道という。車も少ないし、静かで空気も綺麗なところだ。牛の群れがいたるところにいて、湖がときどき姿を見せる。ごみひとつ浮いていない美しい湖だ。道路沿いには看板ひとつ見えない。ハウス・ククレカレーの広告も見なければ、サントリー純生の広告も見えない。パチンコ店の新装開店の立て看板もない。「注意一秒・怪我一生」という標語の看板もない。どの村にも先がきゅっと尖った塔のついた立派なたまねぎ型の教会がある。日曜日の朝なので、チロル服に身をつつんだおじさんたちがそんな村の教会に集まってくる。旅行者たちは登山の格好をして、山へと向かう。この人たちは雨が降ろうが何が降ろうが、全然関係ないみたいでしっかりとハードな休日を楽しんでいる。分厚い雲がアルプスの尾根から尾根へと移動し、そこらの山あいに雨を降らせていた。そこにはトラブルの影さえなかった。曇ってはいるけれど、静かで穏やかな日曜日の朝だった。ポール・サイモンの歌の文句ではないけれど、そこではどのようなネガティヴな言葉も交わされてはいなかった。
でも僕が最後の山を越え、ロイッテの町を眼下に見ながらギヤ・チェンジしたところで、突然エンジンがとまった。あれ、ギヤが入らなかったかなと思って入れなおし、改めてアクセルを踏みこんでもまったく手応えがない。フオン、という頼りない音がするだけなのだ。何が起こったのか見当もつかない。しかしとにかくいつもの不吉な予感だけはたっぷり漂っている。下り坂の途中だったし、いちおうブレーキはきくし、坂だけは下りてしまおうと思って、ゆっくりと坂を下り、人家が見えたあたりで車を脇に寄せてとめた。そしてもう一度ゆっくりキイを回してみた。セルモーターは動く。でもエンジンに点火しない。エンジンを切って、5分くらい間を置いてキイをもう一度回してみる。でも駄目だ。何度やっても点火しない。(P535-537)
※25年以上前の話です。自家用車のハイラックス・サーフで九州をまわり、その日は広島をめざして中国自動車道を走っていました。突然、クラッチ板が壊れてしまい、いくらアクセルを踏んでも前に進まなくなってしまいました。JAFに連絡し、最寄りの小郡インターチェンジの事務所駐車場まで運んでもらいました。修理できないか、何か所か電話しましたが、正月の2日で修理工場はどこも休み。結局、その事務所に車とキーを預け、タクシーで小郡駅まで行き、その後の旅行を続けました。(中略)
トラブルが発生したのは8月6日の日曜日の午前10時前だった。我々はドイツの南端にあるオーバアメルガウという町を朝の9時に出て、森の中の小さな国境を越え(警備員がひとりいて、車の書類をチェックするだけ)、オーストリアに入った。オーストリアに入ると、例によって雲ゆきがおかしくなってきた。いつ雨が振りだしてもおかしくないような空模様だった。オーバアメルガウからロイッテというオーストリアの町までは全長35キロほどのとても綺麗な山道である。別名チロル街道という。車も少ないし、静かで空気も綺麗なところだ。牛の群れがいたるところにいて、湖がときどき姿を見せる。ごみひとつ浮いていない美しい湖だ。道路沿いには看板ひとつ見えない。ハウス・ククレカレーの広告も見なければ、サントリー純生の広告も見えない。パチンコ店の新装開店の立て看板もない。「注意一秒・怪我一生」という標語の看板もない。どの村にも先がきゅっと尖った塔のついた立派なたまねぎ型の教会がある。日曜日の朝なので、チロル服に身をつつんだおじさんたちがそんな村の教会に集まってくる。旅行者たちは登山の格好をして、山へと向かう。この人たちは雨が降ろうが何が降ろうが、全然関係ないみたいでしっかりとハードな休日を楽しんでいる。分厚い雲がアルプスの尾根から尾根へと移動し、そこらの山あいに雨を降らせていた。そこにはトラブルの影さえなかった。曇ってはいるけれど、静かで穏やかな日曜日の朝だった。ポール・サイモンの歌の文句ではないけれど、そこではどのようなネガティヴな言葉も交わされてはいなかった。
でも僕が最後の山を越え、ロイッテの町を眼下に見ながらギヤ・チェンジしたところで、突然エンジンがとまった。あれ、ギヤが入らなかったかなと思って入れなおし、改めてアクセルを踏みこんでもまったく手応えがない。フオン、という頼りない音がするだけなのだ。何が起こったのか見当もつかない。しかしとにかくいつもの不吉な予感だけはたっぷり漂っている。下り坂の途中だったし、いちおうブレーキはきくし、坂だけは下りてしまおうと思って、ゆっくりと坂を下り、人家が見えたあたりで車を脇に寄せてとめた。そしてもう一度ゆっくりキイを回してみた。セルモーターは動く。でもエンジンに点火しない。エンジンを切って、5分くらい間を置いてキイをもう一度回してみる。でも駄目だ。何度やっても点火しない。(P535-537)
帰宅後、営業の始まる6日か7日に、山口トヨタ小郡営業所に連絡し、車を修理してもらいました。その後、職場近くの運送会社に依頼し、陸送システムで小郡から茨城まで車を運んでもらいました。日本って、すごいなあ! がその時の率直な感想でした。
最後に――旅の終わり
この3年間の意味はいったい何だったんだろうと僕は思う。何やかやあってもとの出発点に戻ってきただけじゃないのだろうかと思うこともないではない。僕はいわば失われたままの状態でこの国を出ていった。そして40歳になって戻ってきた今もやはりその時と同じように失われているように見える。無力感は無力感として疲弊は疲弊として残っている。蜂のジョルジョとカルロは今もどこかに身をひそめている。彼らが予言したように、ただ単に歳を取っただけで、何ひとつ解決されてはいないのだ。
でもこうも思う。もう一度ふりだしに戻れただけでもまだいいじゃないか、もっとひどいことになる可能性だってあったんだ、と。
そう、僕はどちらかというと楽観的な人間なのだ。(P562-563)
※この3年間、著者は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げています。とても素晴らしいことだと思います。でもこうも思う。もう一度ふりだしに戻れただけでもまだいいじゃないか、もっとひどいことになる可能性だってあったんだ、と。
そう、僕はどちらかというと楽観的な人間なのだ。(P562-563)
僕はいわば自分の重力を落ち着かせるためにこの本を作っていった。これまで書いたスケッチを手に入れ、新しく文章を書き加え、1冊の本にした。完成するまでに予想していたよりずっと長く時間がかかったし、予定していたよりずっと長い本になってしまった。
文章を書くというのはとてもいいことだ。少なくとも僕にとってはとてもいいことだ。最初にあった自分の考え方から何かを「削除」し、そこに何かを「挿入」し、「複写」し、「移動」し、「更新して保存する」ことができる。そういうことを何度も続けていくと、自分という人間の思考やあるいは存在そのものがいかに一時的なものであり、過渡的なものであるかということがよくわかる。そしてこのようにして出来上がった書物でさえやはり過渡的で一時的なものなのだ。不完全という意味ではない。もちろん不完全かもしれないけれど、僕が過渡的で一時的であるというのはそういうことを意味しているわけではない。
僕には今でもときどき遠い太鼓の音が聞こえる。静かな午後に耳を澄ませると、その響きを耳の奥に感じることがある。無性にまた旅に出たくなることもある。でも僕はふとこういう風にも思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。(P563-564)
※人生はよく旅に例えられますが、人生そのものが旅なんだなあって、最近思います。文章を書くというのはとてもいいことだ。少なくとも僕にとってはとてもいいことだ。最初にあった自分の考え方から何かを「削除」し、そこに何かを「挿入」し、「複写」し、「移動」し、「更新して保存する」ことができる。そういうことを何度も続けていくと、自分という人間の思考やあるいは存在そのものがいかに一時的なものであり、過渡的なものであるかということがよくわかる。そしてこのようにして出来上がった書物でさえやはり過渡的で一時的なものなのだ。不完全という意味ではない。もちろん不完全かもしれないけれど、僕が過渡的で一時的であるというのはそういうことを意味しているわけではない。
僕には今でもときどき遠い太鼓の音が聞こえる。静かな午後に耳を澄ませると、その響きを耳の奥に感じることがある。無性にまた旅に出たくなることもある。でも僕はふとこういう風にも思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。(P563-564)
【参考】ギリシャ・イタリア地図(文庫本より)
![イメージ 2]()